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『カルメン故郷に帰る』(かるめん こきょうに かえる)は1951年の松竹大船撮影所製作の日本映画。ほぼ全編を浅間山麓でロケ撮影し、国産初の「総天然色映画」として公開されて話題を呼んだ。
都会でストリッパーをしているヒロインを演じる高峰秀子の爽やかな演技が光る。戦後の自由でどことなく軽薄な風潮と、それに対する賛否両論の世論を風刺した軽快な喜劇で、新しい時代の映画の創作意欲が随所に見て取れる作品である。
テンプレート:節stub
テンプレート:ネタバレ上州北軽井沢の浅間山のふもとの村で育った娘・おきんは、家出をして東京に出、リリィ・カルメンという名のストリッパーになっていた。彼女は男性たちを魅了する裸踊りを芸術だと信じて疑わない。とある初秋に、おきんは同僚の踊子・マヤ朱美を連れて故郷へ錦を飾りに帰ってくる。芸術の擁護者を自任する校長先生は、村から芸術家を輩出したと大喜び。村人たちも共に帰郷を歓迎した。ところがふたりを目の当たりにして、村と不釣合いの超ド派手な出で立ちと言動に戸惑ってしまう。おきんの父は彼女が子供の頃に牛に頭を蹴られ、それが原因で少し頭が弱くなったと疑っており、かわいい娘を不憫に思い憂う。学校で運動会が開催されふたりも見学に行くが、大失態を起こして滅茶苦茶にしてしまう。名誉挽回とばかり芸術披露を思いつき、業者のおだてもありストリップ興行を行うことになるが、父や校長先生は恥かしいやら悲しいやらで・・・
左から 高峰秀子、小林トシ子、望月優子
戦後アメリカから輸入されたカラー映画に刺激され、日本でも本格的なカラー映画を製作しようとする機運が高まっていた。日本最初のカラー映画としては1937年の『千人針』があったが、フィルムは国産ではなかった。松竹ではトーキーに続く「日本初」を目指し、富士フイルムと協力してカラー映画を製作することを決定した。
しかしカラー映画には技術やコストの面で問題が多く、松竹と富士写真フイルムは、万一『カルメン故郷に帰る』がカラー映画として満足のゆく出来にはならかった場合は、カラー撮影そのものがなかったことにしてフィルムを破棄し、従前のモノクロ映画として公開することを内約していた。このため『カルメン』はまずカラーで撮影を行い、それが終わってから改めてモノクロの撮影を行うという、二度手間をかけて撮り上げた作品となった[1]。
撮影に使われたのはフィルムはリバーサル・外式発光というものだった。これは撮影フィルム自体が正像を持つ反転式で、発色は現像液に発色剤を添加する外式で行うというもので、当時カラー撮影の主流だったテクニカラーとも、また当時コダックが開発に力を入れていたイーストマンカラーとも異なる独自の技術によるものだった。このリバーサル・外式発光方式は褪色に強いという長所があったが[2]。ネガポジ式ではないため、上映用のフィルムを大量に焼き付けるには非常に手間がかかるという短所があった。
ファイル:Hideko Takamine as Carmen.jpg「総天然色映画」
撮影現場には富士側のスタッフも立会い、断続的に試写用プリントを確認しながら撮影が進められた。またこの方式によるカラー撮影には相当の明るさが必要なため、本作はコスト削減のためそのほぼ全編をロケーションで撮影するという異色作となった[3]。
メイクもまた挑戦だった。モノクロの時とはまったく異なるメイクに戸惑う出演者も多く、笠智衆はどんなメイクを施しても顔が奇妙な発色になるのでスタッフ一同首を傾げるほどだったという。しかし撮影と同時にさまざまなデータも蓄積していった。撮影に使用されたリバーサル・外式発光方式は、基本的に赤と緑の発色に問題があることも分った[4]。結果として映画は必ずしも満足のゆくものではなかったが、満足のゆかないものでもなかった。「総天然色映画」と前面に打ち出して公開された映画の興行収入は6800万円を記録。大成功だった。
なおカラー版と平行して撮影されたモノクロ版は、映画公開後に破棄されたものと長らく思われていたが、木下惠介の死後の遺品の中からオリジナルの16mmモノクロ版が発見された。その一部は松竹ホームビデオの『木下惠介DVD-BOX』に特典として収録されている。
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