嬉野雅道

ページ名:嬉野雅道

嬉野 雅道(うれしの まさみち、1959年7月7日 - )は、日本のテレビディレクター、カメラマン、脚本家。エイチ・テー・ビー映像所属。愛称はうれしー。血液型A型。

東京でフリーの映像ディレクターとして活動後、1996年からエイチ・テー・ビー映像(miruca)に所属。北海道テレビ放送(HTB)で制作されたテレビドラマや舞台の脚本も執筆したことがある。全国で放送されているHTBの人気番組「水曜どうでしょう」の映像・デジタルビデオカメラ撮影担当ディレクターとして有名。また趣味のカメラ(スチルカメラ)が高じて「水曜どうでしょう写真集」をロケ中に自ら撮影・発売した、写真家と撮影技師の両方の肩書きを持つカメラマンでもある。

目次

略歴[]

  • 佐賀県佐賀市出身。実家は佐賀市内の寺で、他界した父は元住職。
  • 若い頃から黒澤明に傾倒し、東京の大学卒業後、東京でフリーの映像ディレクターとなり、企業のプロモーションビデオ監督や独立映画プロダクションの映画の助監督を手がける。
  • 1996年、北海道好きの妻に連れられ、北海道に渡る。札幌で北海道テレビ放送の関連会社、エイチ・テー・ビー映像のディレクターの職に就き、「水曜どうでしょう」の前身番組「モザイクな夜V3」を演出。これが彼にとって初のTV作品。
  • その後、HTBの社員ディレクターでもある藤村忠寿と組み、1996年秋に「水曜どうでしょう」を立ち上げ、彼は番組をデジカムで撮るカメラ担当のディレクターとなる。

人物[]

どうでしょう班の最年長。出演者・鈴井貴之の3歳上、藤村忠寿ディレクターの6歳上、出演者・大泉洋の14歳上である。嬉野ディレクター(以下、嬉野D)のことを便宜的に「カメラマン」と表現することがあるが、厳密に言うと彼は「カメラ担当のディレクター」である。

結婚前に彼の妻がオートバイで日本一周したことがあるという話を聞き、新婚旅行を「オートバイで日本一周」にしてしまった。しかし、彼自身は自動二輪の免許を持っていないためタンデム(二人乗り)での日本一周であった。(その旅の情景はツーリングGOGOというバイク雑誌に奥様が投稿し数ヶ月連載された)

北海道に来る前は東京でフリーの映像ディレクターとして活躍しており、その時に習得したと思われる編集技術はどうでしょうの魅力を引き立てている。

「水曜どうでしょう」のディレクターとして[]

水曜どうでしょうの企画・サイコロの旅1で「カメラクルーを連れて行くにも金がかかる」と悩んでいた藤村Dに「大学時代自主制作映画を作ったことがあり、デジカメを回すことなら自信があるから任せろ」とカメラ役を買って出たのがきっかけで、最初の水曜どうでしょうの撮影時、移動中の車中で家庭用ビデオカメラの説明書を熟読していたという話(ベトナム縦断で大泉洋が明かした秘話)からも、カメラマンが本職でないということが伺える。(一説には任せろと言った「カメラ」は写真を撮影する「カメラ」のことだったとの話もある。)そのため番組公式BBSでも、「私は素人」とか「(YOSAKOIのような)鬼気迫る映像は撮れない」との発言をしている。

レギュラー放送後半になると出演者を撮影せずに風景ばっかり撮影することも多くなった。このことについて、カメラを回したまま寝てしまい出演陣の会話をBGMにただただ車窓からの風景が撮れていた事があり、それが良かったから使い始めたのが最初という主旨の発言をしている。これは音声と映像を平気で切り貼りしたり、流れている映像では無い時の音声を載せることを当たり前のように行う、水曜どうでしょう向けの映像であることも大きい。

最近は公式ウェブサイトに掲載される日記が風情満点と、奥様方に大人気である。一方で仕事への情熱は凄まじく、番組グッズとして彼がロケ中に撮影した写真を収めた写真集を2冊刊行したが、採算度外視で、特に第2弾では写真データを一枚一枚ネガから取り込んだり、印刷用紙に当時絶版となっていた「ミルトGA」(日清紡)を使うよう要望したりした。これを受けて、当時プロデューサーだった四宮康雅は実際にメーカーにかけあって「ミルトGA」を生産させている(これを契機に「ミルトGA」が日清紡の製品ラインアップに復活している)。

前述のとおり写真が趣味であり、自身がカメラを回さない前枠・後枠(オープニング・エンディング)の撮影時には扮装している出演陣をカメラに収めている。これが写真集2の素材となっているが、逆に言えばそこまで撮りつづけていたために、写真集2のボリュームがとんでもないことになった(写真の枚数で言えば4,500枚からまず1,500枚を選び、そこから更に600枚に絞り込んだ)。

評価すべきは、カメラワークよりもむしろその編集スタイルにある。ただ単純に映像をバンバン切ってつなぎ、間にテロップを挟むだけ。テレビの編集を知らなかったからできた方法であるが、これこそが水曜どうでしょうの面白さを作り出している。

番組内では一番カメラから近いということであまり声が乗ることはないが、実はどうでしょう班の中でも1、2を争うほどのおしゃべり好きである。海外ロケなどではできるだけ大泉に企画がばれぬように、企画担当・鈴井とチーフディレクター・藤村は同じ部屋に泊まる。そのため大泉は嬉野Dと部屋を共にすることが多く、その際に大泉は「嬉野Dと遅くまでおしゃべりすることが旅の楽しみである」と話したこともある。番組上では長らく「唯一の裏方」として活躍したが、水曜どうでしょうレギュラー放送終了後からのラジオ出演、DVDでの副音声解説などで見せるトークが人気を呼んでいる。レギュラー放送であった6年間はカメラ担当であるためにしゃべることが少なく、クリームパンに対する想いや出演陣にいじられてキレた時等の数少ない発言でのみでしか彼を伺い知ることが出来なかったが、DVDの副音声収録を経て復活してからのどうでしょうでは、藤村Dとの掛け合いのシーン等が見られ、しゃべるシーンが増えている。

前述した妻とのツーリングを通じて、嬉野Dは多くのツーリングテクニックを学んだ。その際に覚えた「ニーグリップ(二人乗りの際に後者が前者を膝ではさんで固定すること)」をベトナム縦断でミスターのカブの後ろに乗った際に駆使し、見事な「アクションカメラマン」ぶりを披露している。どうでしょう本2では奥様のことを数ページに渡り記述している。そんな奥様はバイク雑誌の投稿ページに自らのバイクの写真を投稿し、嬉野Dとの思い出が一言ではあるが掲載された(ちなみにバイクには、でかでかと番組のロゴのカッティングシートが貼られている)。

嬉野Dは車酔いには強いが、船酔いに弱い。サイコロの旅でフェリーの目を当てることはご法度である。また車中ではよく居眠りをして、その度に画面が大きく傾く。

嬉野Dの写真以外の趣味である歴史は歴史研究家の域に達しており、特に戦史などを好み、水曜どうでしょうの企画会議でも戦史を例にした策略などを用いることがある。

さらに甘いマスクと飄々とした語り口で、女性ファンが多く、『どうでしょうの癒し系』と呼ばれる。

2007年には監督の高坂希太郎がどうでしょうファンであることと大泉が主演していることが縁でOVA「茄子 スーツケースの渡り鳥」に藤村とともに声優として出演した。

担当番組[]

  • モザイクな夜V3
  • 水曜どうでしょう
  • ドラバラ鈴井の巣「なんてったってアイドル!」(最終話、2004年12月16日放送)北海道厚生年金会館からのステージ生放送中継ディレクター
  • テレビドラマ「なまらキッズ」(このドラマの撮影のため、嬉野氏は水曜どうでしょうの企画「サイコロ3」のロケに同行していない)
  • 気合一番!YOSAKOIソーラン祭り 審査会場独占生中継!

脚本[]

  • テレビドラマ「四国R-14」(2000年、HTB) 脚本
  • 舞台「水曜天幕團旗揚げ公演『蟹頭十郎太』」(2003年)脚本

映画[]

助監督

地球っ子 いのちと愛のメッセージ(1993年、パオ)

関連本・参考文献[]

  • 水曜どうでしょう写真集(2003年、HTB刊)
  • どうでしょう本 創刊号(2004年、HTB刊)
  • どうでしょう本 第2号(2005年、HTB刊)

外部リンク[]

  • HTB
  • HTB映像
  • 水曜どうでしょう(HTB)
  • 水曜天幕團 蟹頭十郎太

関連項目[]

  • 藤村忠寿

テンプレート:水曜どうでしょうテンプレート:北海道テレビ放送

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