酒乱剣石割り

ページ名:酒乱剣石割り

登録日:2015/12/08 (火) 01:53:13
更新日:2024/01/16 Tue 13:16:56NEW!
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剣豪小説 武士 短編 藤沢周平 酒乱 兄妹 秘剣 酒乱剣石割り






藤沢周平の短編剣豪小説。
世に語るべからざる「秘剣」を身につけた武士と、その周辺の人々を主人公に据えた短編小説のシリーズである”隠し剣”シリーズの内の一編。


初出は文芸誌「オール読物」の1978年7月号。
現在は”隠し剣”シリーズを纏めた短編集「隠し剣秋風抄」(文春文庫)に収録されている。


またその他、藤沢氏の全作品を収録した「藤沢周平全集」の第16巻に収録されているが、全集だけあってこっちは生粋のファンでもなければ手を出しにくいであろう。



■概要
秘剣を題材とした短編剣豪小説”隠し剣”シリーズの第九作目。前作は「宿命剣鬼走り」、次作は「汚名剣双燕」。
シリーズではあるものの、基本的に各話間に繋がりは無く、これ一話で完結する。


ある悪癖を持つ男の、因縁と当の悪癖に関する話。
切迫した斬り合いの描写も見事であるが、一度は関係のズレた兄妹間の、然し変わらず兄妹である事を認める兄の心情を現したシーンがとても美しい。


ただその分、結末は読者の想像に委ねられおり、ハッピーエンドの想像もバッドエンドの想像も容易につくところがなかなかに怖い。



【物語】
雨貝道場で一二を争う剣才の持ち主である弓削甚六にはある悪癖があった。
彼は酒毒に犯された人物――要するに度を越した飲兵衛だったのである。


しかもその酒乱の気は相当に凄まじく、酔いが回れば相手構わず手を上げ、さめた頃にはその間の記憶がさっぱり抜けているという最も質の悪い類の飲んだくれであった。


幸いにも彼自身は三十石という小禄で、しかも城勤めの武士であったため、年中赤ら顔でい続けるような真似は出来なかったが、それでも彼のその悪癖は門下のみならず(その剣腕もあって)城下の剣士達の間に広まる程には有名であった。


そんな甚六はある日、次席家老の会津志摩に呼び出される。
次席家老と言えば、小禄の武士である甚六から見れば文字通り雲上人のような存在である。
当然ながら甚六にそんな人物から呼び出されるような謂れは無い。
甚六は疑念を抱きながらも志摩の屋敷を訪れ、そこで松宮左十郎という武士を成敗せよとの下命を受けるのであった。


松宮左十郎の噂は甚六も耳にしていた。
左十郎は父親の久内と共に君側の奸と噂される人物であった。甚六は志摩の口から更に詳しい話を聞かされる。


それに拠ると久内と左十郎は、西国屋と呼ばれる回船問屋*1と共謀し西国屋の持つ別荘で行われる、正しく酒池肉林とでも言うような遊興に藩主康紀を招く事で骨抜きにしているというのだ。
そして西国屋は、藩主からもてなしの見返りとして藩内での様々な特権を得ていた。
それ故西国屋のは当然ながら多くの儲けを出し、松宮の父子もまたそんな西国屋の手助けをする事で儲けの一部を自らの懐に入れているらしい。
そうやって得た悪銭で松宮親子は目をそむけるほどの贅沢な暮らしをしているという。


そして西国屋の――あるいは松宮親子の――欲はそこで留まらず、今度は米の回船に手を出そうとしているらしい。


現状ですら城下最大の回船問屋が米の扱いを始めれば更なる富の一極集中を招くこととなる。
それは、少なくない割合を商人からの借金によって支えられている藩財政を一つの問屋に頼らねば維持出来ないという事である。
そうなれば藩は西国屋に牛耳られてしまう。


そのような事態を避けるためには、西国屋が藩主康紀から「米の何割取り扱いを認める」旨の書きつけを手に入れる前に、西国屋と(当然ながら今回も西国屋に手を貸そうと画策する)松宮親子をどうにかせねばならない。
そんな経緯から今回、松宮親子を誅殺する旨が執政会議により定められたのだ。


しかし久内は兎も角としても、息子左十郎は城下に知られた忠也派一刀流の遣い手である。
当然、並の剣客では歯が立たない。
そこで天貝道場随一の剣士であり、石割りの秘剣を受け継ぐ甚六に白羽の矢が立たったのだ。


だが、志摩は甚六に対し一つの懸念を持っていた。それは言わずもがな甚六の悪癖の事である。
というよりも志摩は、実は左十郎の討手を探すために天貝道場で行われた甚六と、甚六と技倆伯仲する程の剣腕の持ち主である中根籐三郎との仕合を見ており、其処で事情を告げられた二人の師である天貝新五左衛門から「それならば」と甚六を進められたのだ。
無論、天貝より甚六の悪癖の事も含められての事である。


故に志摩は、甚六に対し左十郎との果し合いに万全を以て臨ませるべくある事を命じる。


「使命が終わるまで、禁酒を命じるぞ」


斯くて甚六は、左十郎を討つその日までの酒断ちを命じられるのであるが……。



【人物】

  • 弓削甚六

三十石取りの武士。城においては作事組に勤める。
安江という妻女を持ち、ふた月程前まで他家に奉公に出ていた妹の喜乃と同居している。
両親は既に亡い。年齢は明言されていないものの、妹喜乃との年齢差を考えると30前後。
背は五尺(約150cm)程と小柄ながら、がっしりした肩幅を持つ色黒の男。


丹石流と呼ばれる剣術の遣い手で、城下に名を轟かせる程の剣士。
その技倆は高く、およそ百人の門下生を抱える城下最大級の道場である天貝道場において第二位を付けられるほど。
第一位である中根籐三郎との技倆差も微々たるもので、作中では籐三郎とは「技倆伯仲」と評されている。
どころか、師新五左衛門の見立てに拠るとその技倆は「ここ一番という、かりに絶体絶命の試合にのぞんだ時、弓削甚六の剣は、中根を上回ること必定」との事。
それを端的に表す事由が、丹石流の秘剣”石割り”の伝授の際の出来事にある。


石割りとは、丹石流が剣技の一つである捨留に対し新五左衛門自身が工夫を加え完成させた、流派の極意たる剣である。
剣は新五左衛門自身構えれば破り、仕かければ撃つ必殺の剣と言って憚らないものであり、習得にはやはり尋常ならざる剣の天稟とされている。


かつて新五左衛門は、甚六と籐三郎の二人に対しこれを伝授させようとしていた。
双方の剣才を認め「石割りの秘剣をどちら伝えてもよい」と考えていたのである。


ところが、いざ伝授の段に及んでみると甚六は石割りの最後の気息まで難なく掴んだが、籐三郎はその最後の気息がどうしても掴めなかった。
天賦の才に僅かながら差があったのだ。


このように剣に多分の天稟を持つ甚六であるが、前述したように酒癖の悪さでもまた有名な人物で度々近くの人間に迷惑を与えている。
作中においては、某の頭を叩いただの上役の男を投げ飛ばしただのと言われ(無論、本人は覚えていないが)、
安江の言に拠れば、酔って帰ってきた日など安江も縁側から投げ飛ばされた事があるらしい。


とはいえ元来が小禄な上、妻女の安江が財布の紐が固い質なため、なかなか自由には飲めないのが現状。
そのため、酒を飲む際、同門のおごり目当てに一緒に飲もうとする事が主であるが、
酒癖が酒癖なだけあって一緒に飲んでくれる人間を徐々に失いつつある。
本人としては(金主を失うという意味で)これを由々しき事態と捉えている様子。


これまでの説明で解る通りあまり気の良い人物とは言えず藩内の政治情勢にも疎いため、
何の因果もない左十郎を討つことに当初はあまり乗り気ではなかったが、そんな折、甚六と左十郎を因縁付けるとある事件が起きる事となる。


  • 喜乃

甚六の妹。18歳。
小柄なところだけが甚六に似た、細身で色白な見目麗しい女性。


二年前、16の頃に六百石を取る稲垣家へ奉公に出たが、今年の正月に突然暇を出され弓削の家へと戻される。
その際、なんと誰かの子を身籠った状態で帰されており、弓削家は大騒ぎになったのは想像に難くない。


無論、甚六は喜乃の腹にいる子の父親を明確にすべく稲垣家を訪れたものの、幾度訪れても相手が誰かは有耶無耶のまま帰され、その内に喜乃は流産。
――腹にいた子の父親が稲垣の総領八之丞らしいとの噂を耳にしたのは、その後の事であった。


そんな経緯もあり一時は鬱いでいた喜乃であったが、現在では陽気もそれなりに快復している。
ただ、その頃から夜に家を空けるようになり、それが夫妻の目下の悩みの種でもあった。
安江の弁では外出の原因は八之丞との逢瀬にあるらしいが、さりとてたかだか三十石の家の娘を六百石の総領が娶る筈もなく、
安江は甚六に対しそんな現状を解決するように求めるが……。


  • 松宮左十郎

近習組勤めの武士。父親に藩主の側用人を務める松宮久内を持つ。
前述したように回船問屋西国屋と蜜月の関係にある松宮親子の息子。
西国屋の藩主に対する懐柔に手を貸しており、結果的に西国屋からは小金を得、西国屋のもてなしに骨抜きにされた藩主からは寵愛を受けている。


父親とは違い忠也派一刀流を学ぶ剣の達人。
その為左十郎を疎んじた執政会議の面々からは、誅殺にあたり甚六を差し向けられる事となる。
甚六とは道場間での面識以上の関係はなかったようだが、左十郎の側は甚六の名を聞き及んでいたらしく彼の酒癖についても知っていた。


後日、とある事件から甚六とある種の因縁を持つ事となる。


  • 稲垣八之丞

六百石を喰む稲垣家の総領。稲垣の家は時に家老も出す名家である。
喜乃の流産した子の父親であるという噂が流れているが……。


登場事態は少ないものの、作中の行動からかなり性根の悪い人物である様子。




以下ネタバレ注意

























石にも筋目がある、そこを衝けば石とて割れざるをえない


剣気を表に出さず、一見無造作に刀を使うように見えながら、中味は最も攻撃的な刀法が石割りだった


志摩から左十郎誅殺の命を受けたものの、甚六はあまり乗り気では無かった。
なにせ左十郎については噂以上の事を知らぬし、何より甚六はその為、飲酒を禁じられたのである。
それに志摩の語る藩政の云々については、甚六には半分も理解できぬ事柄で、藩の財政状況にも実感が湧かなかったのだ。


だがそんな甚六を、左十郎と宿命付ける事件が起きる。その事件の中心は甚六の妹、喜乃である。


ある日の夜半、甚六の元へと菊水という料理茶屋の番頭が訪れる。
彼は客として訪れた八之丞が、数人の仲間ととある謀を話していた事を聞いてしまい、その凶事を甚六へと伝えに来たのだ。
その凶事の内容とは八之丞を慕う喜乃に対し、数人がかりでひどい目に合わせようというものであった。


喜乃は八之丞に対し懸想していた。
どちらが誘ったのかは定かではないが、喜乃の腹にいた子が八之丞の落胤だという噂は的を射ていたのだ。
そして喜乃の八之丞に対する想いは稲垣の家を出た後も変わらず、喜乃は八之丞と逢瀬を重ねていた。


だが、いつの頃からか――あるいは初めから遊びのつもりだったのか――八之丞は喜乃からの恋慕を疎んじ、
それでも慕ってくる喜乃を仲間の慰みものとする事で関係を断とうと考えたのだ。


甚六は番頭から話を聞いた後、急いで喜乃のいる菊水の離れへと向かったものの、
その頃には時遅く喜乃は八之丞の仲間たちの慰みものとされていた。そしてその数人の中には、松宮左十郎も混ざっていた。


怒った甚六は彼らに対するも剣の達人たる左十郎を含めた多勢には流石に勝てず左十郎の手刀を受け昏倒、彼らに袋叩きにされてしまう。
そして甚六が目覚めた時、左十郎らは最早おらず、後に残されたのは彼らに思う様陵辱を受けた喜乃だけであった。


後日。甚六は、百間廊下と呼ばれる城内の廊下で左十郎を待っていた。無論、志摩から受けた左十郎誅殺の命を果たすため。


甚六は、志摩から左十郎を討つよう命じられた時から、石割りを遣うしかないと考えていた。
そして師に曰く、石割りの秘剣を使うに必要なものは、湖面のように平静な心と、目遣いである。


だが現在の甚六の心境は、湖面のような心とは程遠かった。当然であろう。
相手は一刀流の遣い手松宮左十郎。陵辱を受けた喜乃は身体こそ快復したものの未だ心の傷は癒えず気付くと部屋の隅で泣いているような状態。
そして妻女の安江には、事々に喜乃に付けた医者の代金が高かったと小言を言われる始末。
このような状態で平静の心を持てというのが無茶である。


これでは勝てぬと見た甚六は、百間廊下を抜け、予め知っていた賄所へ飛び込んだ。その狙いは無論、酒である。
甚六は賄所にいた料理人頭に酒を所望する。
尋常ではない甚六の様子を見た料理人頭は、怯えながらも甚六に対し酒を差し出す。それを甚六は百間廊下へと戻りながら飲んでいた。


果たして左十郎が百間廊下へと現れたその時、甚六は既に出来上がっていた。
左十郎は甚六がそこに居たのを意外に思いながらも、百間廊下を通り抜けようとする。
だが甚六は通さない。それに対し疑問した左十郎に対し、甚六は誅殺を告げた。


その瞬間左十郎は抜刀する。だがそれより一瞬早く甚六は抜刀していた。斬り合いが始まったのだ。


酒の効果を得た甚六の剣は狭い廊下でのびのびと動いた、
そんな甚六の剣に対し左十郎は防戦一方だったが攻勢に移るべく構えを青眼から上段へと変える。
だがそれこそが隙だった。そして甚六の眼には、左十郎の隙がありありと見えていた。
石割りの秘剣は見ざるようにしてみる偸眼を遣い、つねに一瞬早く敵の隙を見切って打ち込む攻めの刀法である


勝敗は決した。甚六は一瞬の隙を衝き、左十郎を仕留めてみせたのだ。
甚六の仕事はここまでであったが、酒の回った甚六は止まらない。甚六は心の奥底にある、危険なものが頭をもたげるのを感じた。



かくいうそれがしは弓削甚六


あなどることは許さん



そうひとりごちると、甚六は廊下の出口へと向かう。その望む先は――稲垣の屋敷である。



追記・修正よろしくお願いします。



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  • ああ……この締め方は凄く怖いな。「その後」もだけど(妹の復讐とはいえ)さらりと殺しに行こうとするところが -- 名無しさん (2015-12-09 00:04:25)
  • 前に立ててくれてた人かな、相変わらず引き込まれるわ -- 名無しさん (2015-12-09 10:25:11)
  • どんな内容か忘れてたから、このwikiを見たのを機にもう一度読み直そうかな -- 名無しさん (2015-12-30 01:22:03)
  • この項目立てた人、もう続き書いてくれないかな。文章巧くて、引き込まれるから隠し剣シリーズ全部書いてほしいんだが -- 名無しさん (2017-06-22 11:48:24)

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*1 船を使って輸送業を営む業者。当時の輸送業は海路が主流であり、自国の特産品を新鮮なまま遠国へ届けるため、回船問屋は不可欠な業種であった

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