デゼリア内戦は第一次から第三次までの三回に渡ってエハールスタン南部及びデゼリア共和国で行われた戦争。
戦争の背景
元々デゼリア地方は、1100年代にミュルミドーンのナムラ族の王朝が倒れて以降は大陸中部のエハール系の人間国家が占有し、ナムラ族の末裔や人間の遊牧民が暮らしている以外は列強国も大した興味を示さない地域となっていた。
しかしエハール系の人間国家は王朝が変わっても基本的にこの地帯に住む遊牧民やミュルミドーンを蛮族として扱っており、時の政権によって厳しく弾圧を行っていた為、この地域に住む人間は自分達をエハール人ではなくデゼリア人であると主張し、エハール人の支配に対抗する気風があった。
1700年代に入り、デゼリアに莫大な油田が存在することが判明すると列強国は一斉にこの地域に興味を示し、この時デゼリアを支配していたヘルート王国にデゼリアの割譲や租借を求めたが、ヘルート王国は1711年にアルマニア帝国にデゼリアの一部を租借して以来、列強国の求めに応じることはなかった。
アークランド王国による援助と独立運動
1743年、世界大戦争が勃発すると、ヘルート王国はアルマニア帝国との同盟に基づいて北部同盟側として参戦。
ヘルート王国に宣戦布告されたアークランド王国はこの時、デゼリア地方の遊牧民がヘルート王国に対して非常に反発的であることに目を付け、ヘルート王国に侵攻することと同時進行で、砂漠の遊牧民を武器供与や軍事顧問の派遣等で援助した。
アークランドから派遣された将校らはまず遊牧民が部族ごとにバラバラに争いながら対ヘルートの独立活動を行っていることを問題視し、一つの「デゼリア人」として独立することを目指すよう説得し、近代的な軍事訓練を受けた兵士達で「自由デゼリア軍」を編成した。
ヘルート王国軍は、砂漠を自在に移動し破壊工作を繰り返す自由デゼリア軍に手を焼き、対アークランド戦争が徐々に不利になっていくことを鑑み、1747年には協商連合国と単独講和した。アークランド軍は南部植民地に撤退したが、デゼリア地方の遊牧民に対する援助は続けられた。
デゼリア紛争
1748年、世界大戦争が終結した直後に自由デゼリア軍は「デゼリア共和国」の独立を宣言。アークランド王国、ラフラ共和国等が国家承認した一方、ヘルート王国はそれを認めず、駐留していたヘルート王国軍とデゼリア共和国軍が衝突した。
紛争は1750年まで続き、軍に大損害を被ったヘルート王国はデゼリア共和国から撤退。デゼリア共和国の勝利宣言によって紛争は終結した。
第一次デゼリア内戦
デゼリア共和国は晴れて独立国家となったが、国内には問題が山積していた。
特に各部族の長老で構成される「長老会」と、西部式の民主制政治を求める「デゼリア議会」政府の対立は深刻であり、1750年の秋頃からは実質的な政治の権限を握っていた「デゼリア議会」政府に対して「長老会」支持派は反政府軍の編成を始めていた。
1751年、首都ハソナで行われた「長老会」支持者らによるデモを政府軍が武力鎮圧した事件を発端に、反政府軍と政府軍が本格的に衝突。内戦状態に突入した。
アークランドが政府軍を強力に支援し、反政府軍は効率的に制圧され、1754年には反政府軍戦力の不足によって衝突がなくなった為、政府軍は事態の収束を宣言した。
第二次デゼリア内戦
1761年5月、「長老会」支持派の残党によるテロが拡大してきたことを受け、政府は軍に夜間外出禁止令を敷くことを命じたが、政府軍の中でも親アークランド政権に対して疑問を抱く将兵が多く、実際に夜間外出禁止令が実施されたのは都と一部の都市に留まった。
5月19日、首都ハソナで政府軍の一部が現政権に対してクーデターを起こし、首相らを殺害。
混乱に乗じて、地下活動を続けていた「長老会」支持派によって再編成されていた反政府軍が政府軍への攻撃を開始し、再び内戦へと突入した。
内戦は1778年まで続き、最終的に反政府軍の戦力が縮小したことを受けて政府軍が収束を宣言したことによって終わった。
第三次デゼリア内戦
1780年、中央同盟機構から支援を受け、戦力を拡充した反政府軍がいくつかの都市を制圧、占拠した為、再び政府軍との交戦状態へと突入した。
反政府軍の民兵は親政権的と見られる住民の処刑を行った他、極東共栄機構と北洋条約機構の派遣隊に対する攻撃も行った。
これを受けて、極東共栄機構の派遣隊は内戦への介入を決定。一方北洋条約機構は本格的に介入するアークランド、アルマニア、ベルージアと、介入はせず避難民の収容のみを行うとしたノルトラント、グレリア、ラフラと、一切の介入を行わないとしたオーツェリア、リトアラに分かれた(ただし、オーツェリアとリトアラの派遣隊は本国からの命令に反して独断で避難民の保護活動を行った。ノルトラントの派遣隊も避難してきた住民の収容のみを行うとした本国の命令に反し、住民を保護する為にキャンプから出動した)。
極東共栄機構軍と北洋条約機構軍によって反政府軍は制圧され、1783年に内戦は収束した。
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