迷ひ家(まよいが)は、和州諸島北奥地方に出没する魔物の一種。魔族の一種とされるが遭遇例が少なく、研究も進んでいない為、詳細は不明。区分としてはその特徴から領域系の魔物の一種ということになるが、研究者の間ではそもそもこれを魔物の一種として良いものかという議論も存在する。
特徴
山中に場違いな邸宅があり、中は住民は居ないが妙に生活感があり、家財品を一つ持ち出すとその者に富がもたらされるとされる。
いつ頃から人々の間で知られるようになったのかは不明だが、記録上では1220年代には既に北奥地方の人間にはよく知られた存在であったと思われる。
遭遇例はいずれも北奥地方の北奥連峰から背振山脈にかけての山中を歩いていた人間または亜人が遭遇したもの。
学術調査
1780年から1787年にかけて、龍邑大学の邦枝義知教授が北奥地方にて聞き込みと実際に山を探索しての調査を行った。
結果、遭遇した事例はいずれも別の地域から所用で山に入ったものか山麓の住民であり、北奥連峰と背振山脈の山中の町村の住民や猟師等の山に居住している者(例えば北奥連峰山中にある北山中町、谷沢村、背振山脈山中にある扇村での聞き取り調査では、回答者の大半が「全く知らない」か「よく知らない」と答え、精々話を聞いたことがある程度であった)が遭遇した事例は皆無であった。
このことから、邦枝は迷ひ家は「『迷ひ家』という魔種が存在するのではなく、山そのものによる、山の外からの来訪者に対する歓迎のようなものではないか」と考察している。
尚、邦枝の調査チームの一人が調査中に迷ひ家に遭遇し、茶碗を一つ持ち帰っている。
遭遇事例
1220年代の事例
記録上最古の遭遇例。
龍邑地方の烏天狗の日記に、「所用があって北奥地方に赴いた薬師が北奥連峰の山中を歩いていたところ、奇妙な屋敷に遭遇した」という記述がある。
その烏天狗は何か買ってくれないものかと一度中を訪ねてみたものの、生活感がある一方で人の気配が全くない邸宅を気味悪がって何もせずに出て行き、麓の里で人間にそのことを報告すると「それは“マヨイガ”だ。何か家の中のものを持ってくれば良いことがあったものを、勿体ない」と言われたという。
1690年の事例
1690年2月、和州皇国陸軍の天術飛行少尉が北奥連峰麓の、山背森林上空を飛行中に龍にあおられ墜落。墜落した少尉はその年任官された小隊長で、小隊員はただちに状況を中隊本部に報告し、その報告はすぐに師団司令部にも上がった。すぐに捜索隊が編成され、先に捜索を開始していた少尉の小隊と合流し、捜索が開始されたが件の少尉は2日後の昼頃に山麓の根川町に歩いて現れた。
少尉が遭難中につけた日誌には「山中にて邸宅を発見」「住民見当たらず」「生活の痕跡あり」等の記述が見られ、迷ひ家と遭遇したことが窺われる。
1766年の事例
1766年9月、奥邑道庁建設部土木課の職員が道道28号上笠風線の拡張工事の為の調査中に行方不明となった。共に調査していた同僚が居なくなっていることに気付き、夕方頃に警察に通報した。同僚は「目を離した隙に消えた。最初どこかに隠れているのかと思ったがいくら探しても見つからず、呼びかけても返事がなかった」と証言している。行方不明の職員は、2日後の朝に笠風町の農家に現れ、事情を説明して地元警察に保護された。
この職員は「調査中に足を踏み外して数十メートルに渡って滑落した。気を失っていたらしく、目が覚めた時には夕方になっており、何度か元居た道に向かって呼びかけたが応答がなく、幸い怪我は大したことなさそうだったので自力で下山しようと歩き出した。少し歩いていると邸宅に遭遇し、玄関を叩いて電話を貸してもらえないか呼んだが返事がなく、仕方なく入ってみたが生活感はあるのに住民が居らず、ただこれから日が暮れるのに外を歩くのも危険だと思ったので大声で断りだけ入れて一晩そこで過ごした」と証言している。彼は特に何も持ち帰っていない。
1782年の事例
1782年7月、迷ひ家の調査の為に背振山脈に入った龍邑大学の調査チームの一人が、背振山脈骨前山二合目付近で行方不明となった。調査チームはすぐに地元警察と連絡を取り、捜索を行ったが見つからず、結局行方不明となった調査員は3日後の夕方に谷沢村の川辺を歩いていたところを駐在警察官に保護された。
この調査員は「登山道で急に道が分からなくなり、気付いたら山中には不釣り合いな邸宅が目の前に建っており、瞬時に自分が迷ひ家と遭遇したものと考えた。中に入って直前まで人が居たような状態であるのに人の気配がないこと以外は古式ゆかしい和州建築の立派な邸宅で、やはり迷ひ家だと確信した」と証言している。彼は茶碗を一つ持ち出し、その茶碗は現在龍邑大学の邦枝義知教授の研究室に保管されている。
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