因縁生起 & 賢い生き方、悪人正機について

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「二元(物質)パラダイム」 ➡ 「非二元(霊性)パラダイム」―― 移行の時代 ――

近年は地球文明(物質文明)も隆盛をきわめ、ここ日本もストレス社会となって参りました。
そこで仮想システムを理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 「一切衆生悉有仏性♪」

当サイトは作成者が「 行為者は存在しない 」ことを強制的に確信させられた、一連の不可思議な
体験(10数年前)を原点とし、関連書籍などをもとにして、多くの「 推測 」を交えて書いてます。

<見出し>
◎ 因縁生起について & 賢い生き方
◎「悪人正機」について

※このページで書いてることは、個人的経験と関連書籍などを元にした、「推測」を多く含みます。
ここで書いてる内容を自分が理想的に実行できるか、という点についてはもちろん ムリ です(笑)。

仏教的な「観点」を前提とし、やや極端な表現になっている部分もあります。

因縁生起について & 賢い生き方

◆ここでは「★因縁生起」という原理法則はみとめるが(★これはベースとしては確実に正しい)、
それは仮想システム内の法則であるため、、ある限定的ないみでは、「見かけ上の法則」ともいえよう。

人間を動かしている原初の力は純粋なものだが、根本的誤認によってそれが 存在性への愛 に変質し、
さらに心のシステムで歪められ、その結果としてさまざまな種類の苦しみと恐れ、欲望が生みだされる。
究極超越視点でいえば、本当の意味で私たちが犯してる罪があるとすればそれは「自己を見間違ってる」
という一点だけであり、これがいわば「原罪」である。 そしてこのために私たちは生を受ける。

社会的にも宇宙の原理的にも、もちろん罪を犯した人は罪をつぐない改心すべきだが、究極的にはその人の
「自己存在(私)」はその行為とは無関係であり、これが人生という 謎の仮装ゲーム の要点である。

究極視点では人生とは言わば、服役中に再審請求(=真我探求)できるゲーム であり、無罪放免(=解脱)
を勝ちとればゲームクリア、といえるだろう(※ただし身体は最後まで服役中)。 つまり、
幻想内で人間が犯す罪はあくまで「有罪」で、解脱すれば「私」は幻想の中にはいないことがわかる、と。

つまり 究極的視点でいえば、、すべては ハイリアリティ の仮現であり、すべての物事は「時間・空間」
幻想の中 で全自動の 一切縁起システム(プログラム群)により運命づけられるものであるため、
「原因があったから、結果が生じた」という因縁生起(因果律)は成り立たず、

「(見かけ上の)原因と結果はともに、そこで生起する設定だった」となる。 (★リーラ、阿頼耶識縁起)

そのため「因縁生起」の理解は、自我の催眠下にある私たちが現象を理解し、賢く生きる上で役に立つが、
そうなっている道理を推し量るなら、、「因縁生起」をよく考えて正しく行為に反映させ、
「分離は幻想」と「苦」をなるべく受容していけば、催眠解除の方向にいきますよ(※方向としては一応)、
ということをシステム自体が仄めかしてる、という捉え方もできる。 これはどうみても、人間をというか、
私たちを? 人間から解脱させるための、人間にとっては不条理なシステム設定である。 この世界はまるで、
「分離は幻想!(すべて幻想?)、自我の存在は認めたくない!」 と叫んでいるかのようでもある。。
私たちが幻想プログラムの卒業を考える場合は、いま現在、自発的に動き静止する、仮の自己と仮想世界を
分離不可能な「一つの心」とみて、観照者意識を自覚することが焦点になる(といわれている)。

※「因縁生起」を考慮して未来によい流れをつくる賢さは「表面的・一時的」なもので、ほんとうの賢さは、「自我の催眠(無明)」を解除することのみです。(★現行の集合意識状態では、解脱は例外的だが)

※すべてが根本的幻想、一切縁起による自動プログラム設定、人の世の全脚本が予め定まっているわけで、
―― 人類にその理解が起こるときが運命の転換期だろう) それは「非二元(非分離)」を基礎とし、
あるいみ見かけ上の「二元性(分離・無常のリーラ劇)」を上映している、という感じの仕組みである。
そのような仕組みでは然るべくして、「因縁生起は、あるいみ見かけ上の、大まか法則」ということになる。
このシステムを受け入れることに抵抗するのは「人類の自我」だが、自我はプログラム上の虚構である。。


※「倫理・個人の行為責任」については、こちら:「★パラダイムシフトと倫理・中道(別ページ)」

★by ラメッシ・バルセカール 《「誰がかまうもんか」より》

全創造が幻想です。 それが、あなたがたどり着く究極的な理解です。 それまでは、人生はまさしく現実に
なります。 そして、もし人生が現実であれば、人間も責任を伴ったきわめて現実的なものです。

でも、間違えないでください。 人間は単にプログラムされたコンピュータなのです。 何十億ものユニーク
にプログラムされたコンピュータであり、それを通じて源泉は機能しています。(P174)

★当仮想システムでは「宇宙の法」の基準において、正当(又は必要)なていどに悪事を責めることは、
正当(状況によっては必要)な行為である。(※正当性について、後記

★「宇宙の法」による判定の対象は、因縁生起レベルではなく、もちろん「現象レベル」になる。


◆「善・悪」「徳・罪」 という言葉について、ここではつぎのように定義する。
善・悪の概念は人間社会のなかで機能し、社会集団によって変わる要素もあるが、倫理的・法律的にその
定義がある程度定められる(明文化されなくも人々の常識の中に存在する)。 いっぽう 徳・罪は人知

を超えた力(宇宙の法)の人間への作用を示唆していて、、徳にはやがて甘い果実が実り、罪にはやがて

苦い果実が実る(因縁生起)。 Ⓐそこには、それぞれの人間社会(団体)の特有のルールみたいなもの

も考慮されるが、人間がその原理に直接介入することはできない。つまり、一般的に人間がもつ善悪の
考えと大まかには合致すると思われるが、合致しない部分もあるだろう。たぶん、「自我」の感情表現に
関しては、「宇宙の法」とズレが生じやすいと思う(※私たちは自分の感情を正当化してしまいがち)。


◆「徳・罪」という言葉を使うと「絶対的な善悪」が存在してるように感じるが、どうだろうか?
善悪を判断する 絶対的(普遍的)な「観点」が、あるかどうかということ。

「宇宙の法」は絶対的な感じもするが、仮想システム内の原理なので、仮の絶対性 というべきだろう。

善・悪 という概念そのものは、快・不快 という相対的感覚をもつ人間が考えたものだが、、仮想世界の
中では宇宙の法という仮の絶対性の下で、きわめて複雑で流動的ではあるが、たしかに(人間から見て)
善・悪(徳・罪)の判定が全自動でなされている。 だから、基本的には「ある」。

しかしほんとうは、、仮想世界の中のすべての物事は、予め設定されたとおりに起こるのである。
この世界では、「❶全体性の二元性の水準」でバランスをとりながら、因縁生起をベース的法則として、
個々の動き・全現象が起こってくる。 この究極視点で考えたとき、仮想世界の中のすべての物事には、
ほんとうの(絶対的な)意味は「何もない」、といえよう。 したがって、
宇宙の法を超えた究極超越視点で考えた場合は、「ない」。 たとえるなら、映画の中の悪人も善人も、
ほんとうは映写機からの投影をうけて光ってるスクリーンだ、というようなこと(※あるいみで)。

そしてこの、すがすがしいほどの意味不明さこそが、「リーラ」である。。

しかしながら私たちがこの仮想世界に生を受ける以上は、仮の絶対性である「宇宙の法」を重視し、

なるべくそれに沿って生きるのが賢明だろう。  なお、ここで因縁生起を「ベース的法則」と書くのは、

実際には、集合的カルマの個人分配もけっこうあるらしい ので。(※参考:後記「★ニサルガダッタ」)
分配されたカルマは、膨大な時間の中で貸しが清算される、といわれている。 そしてさらに、、

「人類全般の信念体系」なども、縁起の流れ、「集合的カルマ ‐ 個人的カルマ(総体エネルギー増減)」
―― すなわち「全体性の二元性の水準」に、大きく関わってくる。

※因縁生起は、「❶変動性 ―― 縁起・カルマシステム(★全体性で縁起連繋)」 と考えられ、
総体としては真実に近いが、厳密には把握不可能といわれてる。(※参考:後記「★ニサルガダッタ」)
――「因縁生起はベース的なもの」と考えられる(★時間・縁起の流れ、を考慮するととくに可変的)。

※「総体としては真実に近い」いう表現には、大まかに3つの意味(要素)がふくまれると考えられる。
(※ほかの箇所も交えて、解釈) すなわち、「①集合的カルマ」「②全体性において縁起連繋」
「③非常に壮大なスケールでいえば、(集合意識レベルで)バランサーのような変数要素が存在している」

※以上、参考:「パラダイムシフト(別ページ)」≫「昨今の世相について(❶集合意識システム)」
※「集合的業と自然災害(アレクサンダー・ベルゼン博士)」

◆「集合的カルマ(の個人分配)」について (※概略的、、仏教の業理論・『五決定』なども参考)

たとえば、、今生で「大きな集合的カルマ(負)」を受ければ、それはエネルギー的には「大きな貸し」。
そういう集合的要素をあるていど含有している、と。根拠は、ルドルフ・シュタイナー、ほか多数)
―― 集合的カルマというのは、、たとえば大地震によって命を失うなど、自然災害はほぼそういうところ
だろうけど、、人災や犯罪被害や病気などあらゆる負要素がふくまれる、と考えられる(いわれている)。
戦争は、基本的に集合的要素(or集合的カルマ清算)が原因、といわれる(※周期性に近いものアリ)。

ここで起こる疑問に、「人類がいようがいまいが、地震は起こるのではないか?」というものがある。

もちろん 大地震などの自然災害 が、「人類の集合的カルマ」だけに起因して現象化するとは考えられず、
地球規模や宇宙規模?の、あらゆる複雑な「物理的-縁起的因果律」のなかで現象化されるだろうけど、
(人類の)集合的カルマ」がリードして引き起こされる自然災害というのもある、とはいわれている。

「一切縁起」では、一切万物が原理的に縁起連繋しているわけでもちろん非カルマ的な要素あり)、
自然災害などは「物理的要素」がベースであるが、「集合的カルマ(清算)」は絡む可能性がある、と。
カルマが人間的要素や物理的(自然的)要素などをとおして現れてくる法則を、因縁生起というわけだが、

物理的要素は基本独立性あり、ということ。  ★「五つの自然法則」(by 日本テーラワーダ仏教協会)

※仏教では、「業(共業ふくむ)」や「自然法則」のほかに「心(の法則)」を挙げているが、、
すなわち一切縁起においては、「カルマ(深層データ)」や「物理的(自然的)要素」のほかに、
「心(の法則)」という要素がからむ、と。(※釈迦説、信頼性あり)
当サイトでの「仮自己の深層データ」は、「カルマ + 心(の法則)」の広義(※本当は分ける必要アリ)。
もちろん実際には、「心(の法則)」には、集合的な部分(※集合意識的ないみ)もふくまれるだろう。
ふつうに考えれば、この「心」という要素が、「変動性 ―― 縁起カルマシステム」を成立させる主要因。
瑜伽行(ヨーガ)においては、「カルマ」に関して負データを浄化して正データを貯蔵しつつ、
「心」に関して特定の修練をすることにより、解脱を達成し、余興的には神通力のような能力を獲得す。

この一切縁起はあきらかに、根本部分は、論理的なふつうの考えが通用しない系。

「時間・空間」が幻想であることと、「一切縁起の観念のセカイ(全自動)」が、要点ではあるだろう。
集合的カルマを細分化する見方もあるが、仮にそうだとしても「人類の集合的カルマ」に統一できる、
というかそれが本質的な見方と思う。(※人類の集合意識・単一の統一体、をよくよく考えれば

当サイトでの「集合的要素、集合的カルマの個人分配」は、以上「自然的要素」をふくめた、大まか広義。

時間空間の幻想のなかで、そのようなエネルギーのやりとりや、全自動リアクションが起こる世界である。
このシステムが意味する、あるいは人間に問いかけているのは、「単一の統一体(※一切皆空)」であり、

「負の現象 = 罪の清算」 とみることはできない、むしろそうでない場合も少なくない、ということ。

※(釈迦いわく)  ※「 Wikipedia(業 ‐ 仏教)」」

「人間には、知り尽くすことができない様なことが四つある。 一つは、業である(深遠である)」

一切縁起(因縁生起)には、人間にとって根本的に異なる 2種の要素が存在。▼▼ (⓫が基本ベース

⓫:「個別的・リターンの法則」 ⓬:「⓫と全く異なる、あるいは ⓫に影響を与える、集合的な要素」

この2要素は人間にとって異なるが、そもそも仮想システムとしては根本的には異ならないともいえる。

―― をベースに がからむことにより、因縁生起は厳密には把握できず、深淵なものになっている。

一切縁起システムは、根本に不条理があるが、「個人・人類」の両観点で「神秘的なゲーム性」が存在す。

根本的要点:「全人類相互影響機能・単一の統一体」(※地球上・人類の集合意識、という意味が主)


◆私たちは、徳を積もうとすることよりも、罪を犯さないようにすることを、より重視するべきである。

(些細な罪はのぞく) そうすれば、徳を積む機会は自然な流れのなかで現れるようになるらしい。

「徳を積みたい、ハートを表現したい」などが前面に出てしまうと空回りしやすいので、よくみて
「心がける」という感じがよい。 縁起はいちおう考慮しても、「心の自然なうごき」がキホンとなる。

◆「宇宙の法」の下で人間の行為は、徳・罪・どちらでもない、と綺麗に分かれるわけではない。

それ以上分割できない1つの行為の中に、徳と罪の要素が両方含まれるケースも多々ある。 その場合は、それぞれ別の現象につながるか、苦楽の混在した現象につながるか、あるいは相殺されるか、のどれか。
◆誰かが高徳な行動をしたときにそれに第三者が喜びを示せば、その人も徳を積んだことになる。
逆に高徳な行動をした人を攻撃したり、その最中に妨害したりすると罪になる。
◆誰かが罪を犯したときにそれを第三者が楽しめば、その人も罪を犯したことになる。 逆に罪を犯そう
としてる人を、道理に適った方法でやめさせれば徳を積んだことになる。 仏教では「随喜同業」という
言葉があり、他人が殺生をしてるのを見て楽しむ心があれば、それも殺生罪の一種とされる。

◆誰かが苦しむのを見て楽しむ心があれば罪になる。 例をあげれば、昨今では電車の人身事故のさいに
スマホで撮影するのは、「いやな種類の罪」という感がしなくもない(※憶測、遺体の撮影も罪かと)。
まぁ大きな罪ではないだろうけど、、何かしらの好ましくない経験にはつながっているだろう。


◆「宇宙の法」は完全に状況に応じて、きわめて複雑に流動的に作用するのであり、ある行為における
徳・罪 の判定には、その時点のあらゆる関連要素が関与する。
◆行為のデータ(カルマ、因縁)が深層に貯蔵されてから現象化するまでの時間はさまざま。
深層・運命により大差でる様だが、平均的には、人生の全行為の 1/2 以上は来世にもちこされる模様。

(※因縁生起は、、概ね今世から来世にまたがって消化されると思われるが、より長期的な見方もある。
もちろん因縁の配分はランダム均等ではなく、大小のギャップを作り出すようになっていて、運命次第。
「人間以外にも転生する」という説は当サイトでは考慮せず、ほとんど例外的 or 一時的とみなす)

これは表面的に見れば「真実」がわかりづらく、愛と苦痛の人間ドラマが生じやすいシステム設定である。
たとえば、悪事を重ねまくってる人が表面的にはおいしい思いをしている ケース もみられるが、

このシステムを明確に理解すれば、悪人に対しても慈悲心を感じざるをえない(※嫌味でなく本気で)。
しかし、集合意識の変化により因縁生起のパターンが変化してきてる、とも言われるがこれは事実ぽい。


◆縁起のシステムは、根源プログラムに 「秩序」「遊び心」「混乱」 と関連する原理的要素が存在して
いて、「メタファー(隠喩)」「ジョーク(悪ふざけ込)」「ドラマチック(物語調)」 が好きである。

◆縁起というのは、良縁は良縁で、悪縁は悪縁で、あるていど未来につながってくポテンシャルをもつ。

物事の流れとして、大小さまざまな波を形成することもある。 ≫ ※参考:「★人類の運命(別ページ)」

「特定方向の物事の流れ」が縁起的に発生することは、よくみられる。

長期視点でみれば、何らかの 物語調になる場合が多いだろう(※輪廻の仕組みが アレ なので アレ だが)。
◆当仮想システムでは プログラム設定上、「個人・人類規模」のどちらにおいても、
いずれは、「真実・あるいは真の現実?」に向かうよう仕向けられる(※人間の存在理由において)。
深層的にはあるいみ仕向けるような力もかかっているが、二元パラではほとんど長期ループになる模様。

◆人間が何か新しいことを始めたり、行動するにあたっては、「動機」がわりと重要な要素になる。
純質的な欲はよいが、表面的には、他者の幸福のために行為すべき(※自分の幸福もふくまれてよい)。
動機やその他がよければ、物事が即座にうまくいかなくても後に良縁がつながるようになっている。

そして本質的には、あらゆる行為は行為自身のためになされるべき(※自意識の問題)。 じっさいは、
分離した他者や個人的行為者は存在せず、私の心体の行為は私に対して「起こっている」のだから。

あるいは、至高の神(or私たちの真我)のために行為をなす、でももちろんよいだろう。


◆人間が体験する現象は(大まかには)、「現象ベース(※集合意識依存)」的なものがあって、さらに
「仮自己の深層意識データ(行為データ +α)、★または集合意識から分配されたデータ」、のいずれかが
反映されてくると考えられる。(※仏教の業理論参考)
◆人間関係においては(基本的に)、互いの 心・体 のうごきは、分配ふくむ 両者のデータの二重投影、
と考えられ、各データは概ねパズルのように大まかに合致する形でセッティングされているだろう。
行為者不在ということなら、そうなってるといわざるをえず。(※一切諸法は大まかパズル)
◆人生における体験(脚本設定)は、基本的には、分配ふくめた仮自己の深層データの反映といえるが、
すべては「多種プログラム群の力関係の、影響下」(※個人規模 ―― 人類規模・全体性の水準)。

「心・体のうごき」は(データ投影ではあるが)、「心がけ、(根本的な)考えかた・世界観・価値観」
などに依存して傾向の変動性があり、また行為者の仮感覚があるため、仮想的自由度アリ といえる。

縁起的ないみ(メタファーとか)を過剰に考えたり、深読みしすぎは、デメリットになったりもする。
重要ポイントであれば、自然な流れで、または直感的に分かるようになっているはず。


◆人間社会で大騒ぎされないような行為であっても、そこに意地の悪さがあれば(※程度の問題)、
因果応報も意地の悪いものになると思われる。 たとえば、複数の因縁が集結して苦難をつくり出したり
いくつかの因縁がタイミングを合わせて(連鎖して)現象化して追いこまれたり、など。
ある特定の時期における、一まとめにできるような一連の行為(データ)は、複合される可能性がある。
どのように現象化されるかは、深層意識の状態やほかのデータとの関連もあり、複雑多岐 である。
因縁生起は「複合 & 連鎖」が注意点、といえる。
そして、悪行のデータが現象化するときは、再び悪行をするよう仕向けられる傾向があることにも注意。
まぁ悪行自体もデータ設定なので、悪行にはあるていど再発力がある、といえる(※別のいみの連鎖)。
◆「縁起」関係のはなしには、可能性の要素(ランダム的?)がついてまわるが、
例えば、悪因縁が人間関係である種のネガティブ現象をつくり出したとき、スルーすることができれば、
その縁は切れるだろうけど(※むしろ良因縁になる)、自我の催眠下にある私たちはなかなかそうは
いかない。小さめに反応すれば良いだろうけど、過剰に反応してしまうと、未来のどこかで関連性のある
さらに大きなネガティブ現象が現れてきたりもする。 そういうのが他の因縁とも関連(影響)しあって
(※複合・連鎖、あるいは分散・変質)、つながっていくということ。
大きな因縁(正・負・多種)は、大きな流れをつくり出す潜在力(可能性)を持っている、といえよう。
そして、小さな因縁を積みかさねることが、大きな因縁をつくる機会につながりえる、とも。
もちろん、大小だけでなく、「質(種類)」や「緊密度」も関係するだろう。
「個別のデータ(因縁)」というより、いわば、

「全体性の水準下、あるいは多種プログラム群の力関係の影響下にあって、変動性・変質性を具えつつ、
宇宙の法の基準下での、(主に関係性においての大まかな)エネルギー的?なリターンの法則」

―― のように大まかにとらえたほうが、事実的かも。
◆人間関係を良縁・悪縁のようにとらえたりもするが、、もちろん実際は混在したり変化したりするし、
悪縁からまなばされるケースや、悪縁にうまく対処すると直後によい縁起の流れが発生することもある。
ある時期に集中して、同じようなパターンが繰り返されることもあるだろう。


◆簡略的にいえば、、
人間関係で「ネガティブ的経験(被害 or 被害的に感じられる経験)」が起こったときは、基本的には、
「深層のデータが消去された!」 とみるのが賢明であり、「過剰に」たたかうべきではない。
(※「状況、必要性」次第でもある)
これは 完全スルーすると良データとなる場合も多く、❷宇宙の法が定める ±ゼロのライン があるはず。
通常のコミュニケーションの範疇とみなされるぶつかり合い、というのはある(※種類と程度の問題)。

厳密にいうならば、「±ゼロなら、負データが消去されただけであり実質はプラス」てことになる。

おそらくは、「全体性の二元性の水準(質ふくむ)」と連動して、宇宙の法による「判定のシビアさ」や
さまざまな判定基準が、変化するのだろう。(=宇宙の法は人類の反映でもある、★前記Ⓐもコレ関連)

◆「宇宙の法」の基準での「正当性」とは?(※宇宙の法を基にして正当性を考える、といういみ)
―― 倫理的正当性といういみでは、
「❸法律・道徳(良識)を踏まえた上での、当然的な自我の反応、一般に正当性が認められる類の行動」
※「(上記)」は因縁生起レベル のはなしなので、一応分けて としたが、ほとんど同じようだろう。
倫理的正当性を考えるときは、因縁生起レベル でなく、現象レベル を対象とするのが適理であり当然。

「他者が被害にあってる悪行」は、ほどよく誹るべき or 阻止するべき、なケースも当然ながらある。
(※根底に慈悲心あればなお良い。 過剰は罪になる。 基本、必要以上に感情的になるべきでない。)

そしてそれはふつうに考えれば、、悪行の程度、終了してるか進行中でさらに被害が拡大しそうか、
両者の関係、自分との関係、などその現象をとりまくさまざまな関連要素により、判定は変わってくる。
たとえば、正義感がつよくて必要以上に(道理に反して)悪を叩くことが習慣化して継続してしまうと、
いつか悪人になっていく方向と思われる(※輪廻をまたいだ視点)。
◆以上は、「被害・加害」という観点でのハナシだが、、たとえば指導者(教育者)的な立場の人が
「他者を正しくみちびく」というような状況は、別の観点のハナシになる。

◆もちろん実際の複雑な状況においては、「自分の被害、他者の被害」と明確に分けれるとは限らない。
「自分の利益、他者の利益」も同様というか、組み合わさったり、判別困難なケースも多々あるだろう。
そうなると 価値設定 によって善悪の判断が分かれ易く、複雑な人間ドラマ が生みだされる要因であるが、
複雑であってもそこには「宇宙の法」が作用している、ということを私たちは理解していくべきだろう。


◆「ほんとうは行為者は存在しない」ことを理解して、「縁起」を意識しながら人生に起こる出来事を
冷静に観察すれば、世俗的な自我への執着心が弱まり、心はさまざまな角度(観点)から物事を見た上で
より良いうごきをするようになり、バランス感覚が養われていくはず。 この縁起の世界において
「苦」の原因となる行動は、たいてい、自我の偏った観点や感情(心の癖)にもとづいて起こってくる。

過去の行為データの影響やさまざまな体験によって、物事の感じ方(感情のパターン)が変化 して、
癖がでてくるわけです。 そして私たちは自我の感情を正当化してしまいがちだが、「宇宙の法」
とのズレの程度によっては、縁起によってその癖が増長され、苦境に追いこまれてしまう場合もある。
心の観念構造(★エネルギー経路の歪み)、状況や運命まで完全に考慮するなら、どんな行為もあるいみ
正当性があるわけだが、「宇宙の法」をキホン考慮したほうが、長期的には自分の「苦」が減っていく。

言いかえれば、あらゆる「苦」の根本原因は「自我の催眠(無明)」にある、と見抜き賢く行動すれば、
その方向で良縁がつながっていき、深層意識が直感的な何かを表層に投影するようにもなる。
真実はあるていど保護される設定になっている(※長期的視点、深層レベルの話)。


◆このおふざけ縁起の世界ではいかなる経験が起ころうとも、それがその時点で(あるいみ)必要だった
と言わざるをえない。 ほんとうは誰も行為者ではないが、まぎれもなくそれが 仮想娑婆世界 である。
起こることはすべて自動プログラム設定(運命)、という限定的ないみでの「必要だった」。
一切縁起は、集合的な要素も少なくないといわれ、現行パラダイムでは錯誤的な面もつよい。

これはそういった「仮想的ゲーム」なわけだが、、現時点では人類全般にあまり理解されていない設定。

(※これはこの先、変化していく方向と思われます。 覚者らによる予言のようなものも チラホラ)
もちろん理解してる人はけっこういるが、二元パラダイムを崩すような勢力にはなっていない、てこと。
縁起は、感覚的(直感的)or 経験的に理解してる人もけっこういると思われる(※ていどの差あり)。
このシステム内で物質主義がここまで進行してこれたこと自体が、仮想システムならでは、とは思うが。

◆この縁起の世界で生きるうえで、厳密に少しの罪もおかさない、というのは不可能であり、
ほどよい妥協は必要だろう。 しかし、特定の現象にいつも自我の同じパターンでのみ反応していると、

同じ種類のデータが蓄積されてしまう、という点には気をつけたい。


◆ここで、釈迦の話(実話のようです)。 概略で。
釈迦が弟子たちといるところに一人の男がやってきて、罵倒して唾を吐きかけた。
(釈迦の教えが気に入らなかったか何か) かれは顔にかかった唾を拭き、興奮する弟子たちを制止し、
微笑みながら言った。「御仁、あなたは他に何か言うことがあるだろうか?」 男が困惑していると、
釈迦が続けた。私は過去生であなたを侮辱したことを知っている。 あなたは憶えてないかもしれない
が、私は憶えている。 その罪をいま、清算したことになる。」 男は途方に暮れてしまった。
一つ言えるのは、そこで釈迦がぶちキレていたら今日の仏教の興隆はなかっただろうということ。
「無我」じゃないじゃん! みたいな。 それはそれで、あるいみ面白いけど(笑えないけど)。


◆これも仏教にある話だけど、

解脱してる人に対してなにか悪事をした場合、「光速」で本人に因果応報がくる可能性があるらしい。

そして、高徳な人に悪事をすると罪が重くなると言われている(※定説)。 これはたぶん普通の人でも、
心がダメージをあまり受けず表面的にもスルーすれば、そういう現象が起こることはあると思われる。
まぁ宇宙の法則的に、「その条件下では因縁生起が クイック になりやすい」 てことだろうけど、
釈迦が言ったとされる例え話を書くと(概略)、

「ある人が、悪意ある人に家に招かれて毒入り料理を出されたとする。 それを食べずに帰った場合、
その料理は出した人のものとなる。(※作ってしまったので早めに食べなければならない)」

―― 出された人が食べた場合でも、すべては縁起であるために、毒入り料理を出した人は いつか誰かに
毒入り料理を振る舞われると思われるが、普通けっこう時間差がある場合が多い。 解脱者においては、
出来事を受けとる自分がそこ(仮想世界の中)にいない。 つまり、毒入り料理を食べることはできない。
もちろん解脱しても身体同化はのこるけど、身体レベルの自己感覚は側面的なものであって、

感情は観照によってすみやかに切り離されるので、「出来事を受けとる」という感じにはならない、と。

※参考:「覚者たち(別ページ)」≫「★ラメッシ(解脱するとどうなる?)」


◆私は自分の人生で、さまざまな苦楽の経験(痛い経験が多い)をとおして「縁起」というものを、
時には力づくで思い知らされてきたが、ここでまとめの感想を一言。(ありきたりではあるが)

このシステムは、人を正しい方向に導くこともあれば、わざと正しくない方向に導くこともある。

たとえば、一時的に悪因縁が集中して現象化してそのために心が荒れてしまい、悪の道に進む人もいる
だろうし、そこで助ける良縁や直感がうまく作用し、踏ん張って良い方向にむかう人もいる。
また、世の中が「悪人が得して善人が損してる」ように極端にみえる人は、縁起によってそうなる経験を

させられてるといえる。 まぁ大乗仏教では「末法の世」といわれ、真実が逆にみえがちな一過性の時代
だとは思うけど。 しかし本気でそうみえる人は、芸能人などのいくつもの人生を 正・負 の両面で
「詳細に」調べてみれば、気づくかもしれない。
私はこのサイトを、人びとの幸福(できれば輪廻卒業)のために役立てば、という思いもあって
まじめに作成しているが(※すべては冗談でもあるが)、悪い方向にむかう運命の人はこういう話に
出会わないか、出会っても 宗教・オカルト話 として真に受けないだろう。 あるいは、真に受けたとしても、どうしても逆らい難い流れというのもあるだろう。しかし、粘り強く少しずつでも真実と向き合って
いくなら、必ず流れが変わり出すときがくるはず。 このシステム設定は、仮想世界内に様ざまな種類の

人生ドラマ をつくり出し、最終的に私たちを「輪廻という幻想」から卒業させるためのもの、といえる。


◆そしてもう一つ、私たちは何か人間がらみの問題が起こったときに、「誰が悪いのか? 自分なのか、
相手なのか? 責任者は誰か?」 と考えるのが普通だが、 そしてそのように表面的に判断することは、
社会生活上はたしかに必要なときも多いが、しかし何が起ころうとも、、

「究極視点では、誰も悪くないというより誰も行為者ではない」「『自我の催眠』が『苦』の根本原因」
というのが事実だろう。 そしてそれを理解した上で、表面的判断とバランスをとりつつ生きることが、

自・他にとっての利益ではないだろうか? なお、この仮想世界では細かい衝突を完全にさける
ことはできず、それは解脱しても身体レベルでは起こる。 このシステム設定からして、

「過去・未来」の脳内イメージはなるべく闇に葬って(※必要事項はのぞく)、「私は個人だ」という
脳内嘘イメージも闇に葬りつつ、私たちは「現在の瞬間」にすべてを捧げようと試みるべきだろう。


「堪え忍ぶこと」よりもすぐれた善き利は存在しない。 柳に雪折れなし。


[ 参考 ] ニサルガダッタ・マハラジ(解脱者、最強クラスの賢者

★[問い]あなたの国の人々は「カルマや因果応報」という言葉を使います。
それはただ総体として真実に近いというだけだ。 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり、

互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。(P434)

★カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。 それを歓迎し、その指導に信頼をもってしたがうが
いい。 そうすればあなたは良くなるだろう。 回復すれば患者は病院を去っていく。 選択と行為の
即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。
運命を受け入れ、それを満たすがいい。 これが運命からの自由への近道なのだ。(P508)

★人は自分自身の罪によってのみ苦しまなければならないのだろうか?

私たちは本当に分離しているのだろうか? この広大な生命の大洋のなかで、私たちは他者の罪によって

苦しみ、また私たちの罪によって他者を苦しめる。 もちろん、バランスの法則が最高位のものだ。

そして最後には貸借の決済をすませる。(P401) (※ここでは文脈上、「罪 = 集合的カルマ」)

★私たちは知らずに罪を犯し、理解することなく苦しむのだ。
私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすことだ。
なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。(P434)
★すべての闘争の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。 それらから自由になりなさい。
そうすれば、あなたは闘争から解放されるだろう。(P433)

★マインドと世界はひとつだ。 あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという
ことを理解しなさい。(P521)(※共同仮想現実) 《以上、「I AM THAT 私は在る」より》

★「人生はあらかじめ書かれた脚本に従って厳密に展開するはずである。」(P166、指し示したもの)

★「本来のあなたとしてのアイデンティティがあり、その上に個人が重ねられているのだ。」
(P460、I AM THAT)
★「意識とは、愉快で魅惑的な マハーマーヤー(偉大な幻想)、あらゆるものの中で最も壮大な詐欺である。」
「―― またマハラジはそれを、行き渡っている間は興奮を生む『一時的な病気』と呼んでいます。」
(P341、ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの)

[ 参考 ] 東西占星術研究所

http://tozai-astrology.com/contribution/karma02.html

偉大なヨーギーはプララブダ・カルマによる苦しみを喜んで受け入れるように忠告する。 そして、
唯一自由に行動が出来るクリヤマナの領域では、良い行いをなし、慈善をなすように忠告するのである。
そして、もしその忠告にしたがって、プララブダ・カルマによる苦を喜んで受け入れることができれば、
そのカルマは魂を解脱へと導くアカルマとなる。

※「プララブダ・カルマ」= 今生で経験することを運命付けられたカルマ
「クリヤマナ」= 今生でつくるカルマ(見かけ上の自由意志あり)


「悪人正機」について

◆「悪人正機」という言葉が浄土真宗の教義の中にある。 浄土真宗におけるこの言葉の本来の意味は、
「 阿弥陀仏の救済の対象は衆生であり、『末法の世』に生きるすべての衆生は あるいみで悪人である。

(末法の世に生を受けた、ということにて) だから、自我のよごれと悪を自覚して阿弥陀仏を信仰した

者は救われるのだ。」 のような意味と考えられる。(※バクティ・ヨーガ、帰依の道です)
ここでは、宇宙の法が支配するこの仮想世界において、悪人が苦しみを受けてやがて救われるプロセスと
ともに、この言葉について、本来の意味でなく単に漢字の意味で考えてみたい。


◆まず悪行が起こる原因だが、究極的視点で言ってしまえば「元々そこで悪行が起こる設定だったから」
ということになるが、ここではもう少し表面的に見てみよう。人は内面に「苦」があるから悪を行うものだが(不足の感覚がある)、悪を行えば行うほど因果応報によって後から「苦」を受ける。そして苦しいから悪を行う。という因果の法則の泥沼、負のスパイラルのような状況が起こりうる。 これは軽いもの
から重いものまで、さまざまな程度がある。しかし、不足の感覚の「根本原因」は解脱者を除いて誰もが深層に持っていて、だから輪廻を卒業せずに今生を受けているのである。 なので、誰もがこのパターン
に陥る可能性があり、また輪廻をつづけていけば基本的には誰もが陥るだろう、と推測できる。

◆このような負のスパイラルが存在する一方でこの世の法則は、「下がったものはやがて上がっていく」である。 つまり、下に下がろうとする力が働く一方で、どこかの時点でそれが自然に弱まるか、
または上に上がろうとする力が表面化してくるはず(※現象化のパターンは多様だが)。


◆つまり、悪人(悪徳を積みまくる人)は輪廻の中でいずれ大きな「苦」を受けるのは間違いないが、

そこにいわゆる救いの力が、いずれ働くはずである。 どんな悪人でも人生の中で少しの善行はするもの

だし、大きな功徳を積む悪人もいるだろう。 もっと言うと、悪人にはどこかの時点で1つまたは複数の
功徳を積む機会が(不自然に?)与えられ、そこで直感に ビッ ときてそのとおりにやってしまう、というような現象がよく起こる(=運命)。そのような善行の結果が非常に苦しいときに助けとなって現れる。

もちろん、1つの人生だけで表面的に見ればそうはみえない場合もあるが、輪廻転生を考慮するならば、
そのようになっているはずである。 そして、「宇宙の法」は完全に状況にあわせて作用するのであり、

徳・罪 の判定には、行為者の境遇みたいな要素もいくらか関係してくるはず。


◆個人的な経験から推測すると、大きな悪行はその結果として大きな「苦」を受けることになるのは間違

いないが、因果応報がくる前に大きな善行をしたり小さくも多くの善行をしたりすれば、「苦」を受けるときに何らかの助け(例:霊的ガイド、自分の直感、縁起を通した精神的・物質的な援助)が入ったり、

「苦」が細かく分散されたりして乗り越えやすくなったりする、と推測できる。 そしてそのような、
因果応報、あるいは逆境(苦難)の流れを乗り越える過程で、「仮想システムの性質、宇宙の法」 を

身をもって学ぶ場合もあり(※人生こそが教師だから)、それはその人の人生観を変えてしまうだろう。


「人生こそが教師」と書いたけど、付け加えておきたい。
それは、このおふざけ仮想システム内においてある時期から急に、まるで人生の背後に「教師」がいるかのような因縁生起の流れになることがよくある、という意味であり、それはときと場合によっては、
「自我を処刑する教師」になるということ。 もしその教師に逆いつづければ、大きな苦難も起こりうるだろうけど、そういう流れになるだけマシであって(※それはあるいみでチャンスかも)、じっさいは
前触れなく無慈悲な現象が起こってしまうこともあるだろう(※もちろん本人の因縁生起とは限らず)。
「娑婆世界(サハーセカイ)」というのは、あるいみでは、「神秘的な(?)おふざけ処刑場」といえるよう。


◆以上のようなことから、「悪人正機」は、本来のいみでなく単に漢字のいみで考えた場合には、

「多大な損失があると同時に、膨大な時間の中では、あるいみ真実の一面を表してる(場合もある)」
と言えるかも(※原理的に教師のような力がはたらきやすい、というだけだが)。 しかしながら、
「苦」から法則的なことを学ぶのは、根本的ないみで愚かだろう(※元から理解しておけばよいから)。
つまり実際的には、「悪人正機」というより「悪人誤機」である。(※「正」の意味にもよる)

※二元物質パラダイムにおいては、「苦から学ぶ」のパターンが、全体的に強調されていると思われる。
一言でいうと、、根本的に「非効率・不合理的」(※個人規模・人類規模、の両面で)。

しかし、悪徳を積み重ねる流れを避けれないのなら、その程度と質に気をつけるべきであり、そのなかにあってもできるだけ秩序を保つのが賢明だろう。

逆らい難い流れに逆らおうと試みる心の力は深層に蓄積され、やがて何かしらの好機をつくり出すはず。



★Luv Letter(Wisp X Remix): DJ Okawari

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