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松元氏 - 日本通信百科事典

(三河賀茂氏)で、三河国賀茂郡松元郷(現在の愛知県豊田市挙母町松元大字)を本拠地とする。信重・信武父子の代で断絶した。以降は信重の女婿である陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の義光流世良田氏の系統である松平親氏(三河源氏の三河松平氏/徳川氏の祖)がその後を継いだ。同族に

松元信重 - 日本通信百科事典

。松元氏と松平氏の関連性[]江戸時代中期の尾張国の学者・天野源蔵(信景)の『浪合記』および『鎌倉大草紙』によると、1385年(元中2年)に、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の義季流世良田氏の当主世良田政義(左衛門少尉)[8]・政季(修理進)父子は、族兄である義光流世良

松山氏_(源氏) - 日本通信百科事典

避この項目では、源姓松山氏について記述しています。その他の氏族については「松山氏」をご覧ください。松山氏(まつやまし)とは、源氏(宇多源氏・陽成源氏(河内源氏))流の氏族の総称。源姓松山氏とも呼ばれる。約2系統が存在する。松山氏 (石見国) : 石見松山氏/石見河上氏とも呼ばれる

木曾氏_(源氏) - 日本通信百科事典

の信濃木曾氏について記述しています。その他の氏族については「木曾氏」をご覧ください。源姓木曾氏の家紋の隅切り角に笹竜胆木曾氏(きそし)とは、陽成源氏流河内源氏の直系の源姓鎌倉氏(源家/相模源氏)の庶家で、信濃源氏ともよばれる。同族に下野源氏の下野堀江氏(摂津堀江氏)・源姓吉見氏(

松平氏 - 日本通信百科事典

松平氏(まつだいらし/まつだいらうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流で、約2系統がある。高柿氏 : 別称は「常陸松平氏」。源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の山入氏の庶家。常陸国久慈郡松平(高柿)郷(現在の茨城県常陸太田市松平(高柿)大字)を本拠地とした。惣領家の山入氏が滅亡すると、同族の

松平定信 - 日本通信百科事典

松平 定信(まつだいら さだのぶ)とは、陽成源氏(河内源氏)流の人物で、約2名ほど存在する。高柿久高 : 別称は「松平定信」。佐竹氏(常陸源氏)一門の山入氏の庶家である高柿氏(常陸松平氏)の当主。山入与義(ともよし)の曾孫、高柿義郷の孫、義信の子、康信・信横の父、信広(康信の子)

木田氏 - 日本通信百科事典

木田氏(きだし)とは、日本の氏族。約4系統がある。木田氏 (美濃国) : 「美濃木田氏」とも呼ばれる美濃源氏の一門。陽成源氏頼親流八島氏(羽島氏)の庶家で、木田重長を祖とする。美濃国方県郡(稲葉郡)木田郷(現在の岐阜県岐阜市木田大字)を拠点とした。庶家に美濃古田氏(開田氏/改田氏

木曾氏_(信濃国) - 日本通信百科事典

曾氏(きそし)とは、日本の氏族。約2系統が存在する。信濃木曾氏とも呼ばれる。信濃国西筑摩郡木曽福島[1]を拠点とした。木曾氏 (源氏) : 陽成源氏(河内源氏)流の惣領家の源姓鎌倉氏(源家/相模源氏)の庶家。旭(朝日)将軍・木曾義仲(帯刀先生・義賢の次男)を祖とする信濃源氏であっ

新田義高 - 日本通信百科事典

新田 義高(にった よしたか)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。新田義高 (惣領家) : 新田義貞の玄孫、義興の曾孫、義和の孫、義光の子、義明の父。新田氏惣領家の当主。里見義高 : 源姓里見氏一門の武将。約2名ほど存在する。関連項目[]

新田親氏 - 日本通信百科事典

新田 親氏(にった ちかうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。鳥山親氏 : 別称は「義久」。源姓里見氏流鳥山氏一門の鳥山親家(真氏)の子、義顕(親文)・義親(高親)の兄、家氏の父。松平親氏 : 別名は親季/信氏/家氏。義光流世良田氏の

新田重氏 - 日本通信百科事典

新田 重氏(にった しげうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。里見重氏 : 源姓里見氏一門の里見氏義の子、重義・盛氏の兄、重周の父、義高の祖父、重高の曾祖父、重益の高祖父。西谷重氏 : 新田政氏の子、細谷国氏[1]の弟、下細谷知信(智

新田貞氏 - 日本通信百科事典

新田 貞氏(にった さだうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。新田貞氏 (新田政義の子) : 新田政義の子、政氏・大舘家氏・堀口家貞(家員)の弟、谷嶋信氏・経光・助義の兄、貞治の父、貞国の祖父、国経[1]の曾祖父。堀口貞義 : 別名は

新田頼成 - 日本通信百科事典

新田 頼成(にった よりなり)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。里見頼成 : 源姓里見氏一門の武将。約2名ほど存在する。世良田頼成 : 義季流世良田氏(世良田氏)の当主の世良田義季(得川義秀)の末子、得川頼有・世良田頼氏の弟。有氏の父、

朝谷氏 - 日本通信百科事典

朝谷氏の家紋(二つ引き両)朝谷氏(あさやし/あさたにし)は、日本の氏族で、陽成源氏(河内源氏)流の新田氏(上野源氏)の一門である義季流世良田氏(世良田氏)の庶家である。歴代当主の通称は「次郎四郎」(一部を除く)。常陸世良田氏(常陸源氏)とも呼ばれ、同族に得川氏・上野江田氏など。概

明智頼秀 - 日本通信百科事典

明智 頼秀(あけち よりひで)とは、陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。明智頼秀 (明智頼重の子) : 通称は彦六郎。明智頼重(頼助)[1]の子、頼篤・肥田頼寿[2]・頼利・頼衛の弟、頼高の父、光高(頼久)の祖父、頼宣(光重)の曾祖父、政宣の高

新田頼氏 - 日本通信百科事典

新田 頼氏(にった よりうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。世良田頼氏 : 義季流世良田氏(世良田氏)一門の武将。約2名ほど存在する。篠原頼氏 : 源姓里見氏流上野大島氏の庶家の上野篠原氏一門の武将。大島義継の孫、篠原時氏の子、胤氏

新田義実 - 日本通信百科事典

新田 義実(にった よしざね)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。関岡義実 : 大舘氏一門の関岡氏の祖である関岡氏清[1]の玄孫、氏隆の曾孫、氏則[2]の孫、清祐[3]の子、義重・実氏の兄、義元・義末の父。田中義実 : 源姓里見氏流上野田

新田義基 - 日本通信百科事典

新田 義基(にった よしもと)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。里見義基 : 源姓里見氏の第2代目の当主の里見義成の子、大島義継・鳥山時成・豊岡義行・竹林(高林)義直[1]の兄、氏義[2]・義秀・牛沢重基[3]・太田義宗[4]の父。生母

桐生忠利 - 日本通信百科事典

又太郎)父子の郎党をつとめた。1183年3月18日(寿永2年2月23日)に、下野国下都賀郡野木宮[6]で常陸国稲敷郡信太荘[7]を拠点とした陽成源氏(河内源氏)である源義広[8]と組んだ忠綱は、源頼朝傘下の下河辺行平と小山朝政に大敗した。上野国東部にある山上郷竜奥に潜伏した(『野

後閑氏 - 日本通信百科事典

後閑氏の家紋(足利二つ引)後閑氏(ごかんし)は、陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門の岩松氏(上野源氏)の庶家。同族に上野村田氏・上野寺井氏・上野金井氏[1]・田部井氏・薮塚氏・上野田島氏などがあった。目次1 概要2 歴代当主3 脚注4 関連項目概要[]岩松泰家(満親)の

平賀氏_(源氏) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「平賀氏」をご覧ください。平賀氏(ひらがし)とは、陽成源氏(河内源氏)流の氏族。約数系統が存在する。源姓平賀氏とも呼ばれる。平賀氏 (信濃国) : 義光流の信濃源氏。約2系統が存在する。源氏 (平賀流)

徳川秀忠 - 日本通信百科事典

、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・北陸・関東・南東北地方を統治下として完全に押さえ、名実ともに関東地方の政権を打ち立てた。ここに陽成源氏(河内源氏)の棟梁である源頼朝(右大将家)および、新田義貞を崇拝する父・家康の長年の願いが現実のものとなった。そして、翌々年の160

得川頼有 - 日本通信百科事典

、鎌倉時代初期~中期の武将・鎌倉幕府の御家人。通称は下野(江田)太郎四郎[1]。得川氏の家祖である。官職は下野守で、「下野前司」と呼ばれた。陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一門義季流世良田氏(世良田氏)の家祖・世良田義季(得川義秀)の庶長子、頼氏・頼成[2]の異母兄。頼

戸賀崎氏 - 日本通信百科事典

ています。その他の氏族(東賀崎氏・東ヶ崎氏も含む)については「栂崎氏」をご覧ください。戸賀崎氏の家紋(足利二つ引)戸賀崎氏(とがさきし)は、陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門。三河国幡豆郡戸賀崎郷[1]を拠点とした(三河源氏)。庶家に三河荒川氏(義清流)があった。戸ヶ崎

平賀氏 - 日本通信百科事典

平賀氏(ひらがし)とは、日本の氏族。約数系統がある。平鹿氏とも呼ばれる。平賀氏 (源氏) : 陽成源氏(河内源氏)流の氏族。約数系統が存在する。平賀氏 (出羽国) : 藤原氏の末裔と自称する松葉資宗の子の維泰を祖とする。発祥地は出羽国平賀郡(現在の秋田県横手市平鹿町)である。資宗

摂津氏 - 日本通信百科事典

摂津氏(せっつし)とは、日本の氏族。摂津国に拠点を置いた。約2系統がある。摂津氏 (源氏) : 陽成源氏(摂津源氏)頼弘流の系統である。家光・淳国父子を経て、淳国の子の国光[1]が実質的な祖となった。庶家に摂津高山氏(頼重流)があった[2]。摂津氏 (中原氏) : 物部姓十市氏流

摂津国光 - 日本通信百科事典

摂津 国光(せっつ くにみつ)とは、陽成源氏(摂津源氏)の頼弘流源姓摂津氏一門の武将。約2名ほど存在する。摂津国光 (勘解由判官代) : 摂津淳国(勘解由判官)の子、時光・資成の兄、怡国(ゆきくに)の父。摂津知光 : 別称は国光。上記の摂津時光の子、時国[1]・頼氏(頼成)・弘国

平賀氏_(信濃国) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、信濃国の氏族について記述しています。同族の氏族については「平賀氏 (源氏)」をご覧ください。平賀氏(ひらがし)とは、陽成源氏(河内源氏)義光流の氏族。約2系統が存在する。信濃平賀氏とも呼ばれる。信濃国佐久郡平賀郷[1]を拠点とした信濃源氏である。平賀氏 (

平良兼 - 日本通信百科事典

氏・小河氏(庶家に尾張水野氏(庶家に毛受氏))・尾張平野氏と三河平氏の足助氏・大浜氏・三河永井氏などの庶家が出たが、大浜氏・永井氏をのぞいて陽成源氏満政流八島氏(羽島氏)の系統と自称(仮冒)した。関連項目[]平直良平氏特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SA

新田信重 - 日本通信百科事典

新田 信重(にった のぶしげ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。大舘信重 : 大舘満信(氏冬/祐善入道)[1]の曾孫、持房[2]の孫、教氏[3]の子、尚氏(重信/常興入道)[4]の弟。松平信重 : 松平氏(徳川氏)一門の武将。約2名ほど

岡田重義 - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、信濃源氏の信濃岡田氏一門の武将について記述しています。その他の陽成源氏の武将については「源重義」をご覧ください。岡田重義の肖像(右側)岡田 重義(おかだ しげよし、保延5年(1139年)? - 寿永2年(1183年))は、平安時代末期の武将。通称は小太郎。

平将門 - 日本通信百科事典

王の子)の子という(『古代氏族系譜集成』が引用する『皇胤志』(中田憲信)より)。↑ 貞純親王の子、六孫王とも呼ばれ、清和源氏の祖。元平親王(陽成源氏の祖)の従弟にあたる。↑ 現在の東京都足立区・埼玉県川口市/蕨市/上尾市/桶川市/北本市↑ 藤原南家の庶流で中納言・藤原諸葛(もろか

岩手氏 - 日本通信百科事典

岩手氏(いわてし)とは、陽成源氏(摂津源氏・河内源氏)流の氏族。約2系統が存在する。「岩出氏」とも呼ばれる。岩手氏 (美濃国) : 美濃岩手氏とも呼ばれる。土岐氏(美濃源氏)頼基流の満頼(頼行)を祖とする。美濃国不破郡岩手郷[1]を拠点とした。岩手氏 (甲斐国) : 甲斐岩手氏と

平忠常 - 日本通信百科事典

る。↑ 忠常の又従姉妹にあたる。↑ 現在の茨城県下妻市村岡大字↑ 忠常の祖母の兄の良望(国香王)の孫という親族関係による。↑ 『今昔物語』↑陽成源氏(河内源氏)の嫡流の源姓鎌倉氏(源家/相模源氏)の棟梁。平忠常が登場する作品[]『平安流風』(桑山泰雄)関連項目[]平将門坂東八氏(

平致兼 - 日本通信百科事典

・小河氏(庶家に尾張水野氏・(庶家に毛受氏))・尾張平野氏と三河平氏の足助氏・大浜氏・三河永井氏などの庶家が出たが、大浜氏・永井氏をのぞいて陽成源氏満政流八島氏(羽島氏)の系統と自称(仮冒)した。↑ 『刀伊の入寇』で、太宰権帥の藤原隆家(藤原北家)に従った致頼の子の致行と同人物と

平直良 - 日本通信百科事典

石橋氏))・尾張木田氏・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏と三河平氏の足助氏・大浜氏・永井氏などの庶家が出たが、大浜氏・永井氏をのぞいて陽成源氏満政流八島氏(羽島氏)の系統と自称(仮冒)した。関連項目[]高望王(高視王・高見王)平将門 : 孫にあたる。平忠常 : 曾孫にあたる

平氏_(皇別) - 日本通信百科事典

る平忠常(坂東八氏の祖)も反乱を起こしたため、朝廷は貞盛の曾孫である平貞方(直方)を追討使として討伐を命じたがなかなか鎮圧できずに、遠縁筋の陽成源氏(河内源氏)一門の源頼信が代わって追討使となり、貞方は更迭された(『平忠常の乱』)。以降から坂東地方における平氏の勢力は、常陸国に土

新田信氏 - 日本通信百科事典

新田 信氏(にった のぶうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。谷嶋信氏 : 新田政義の子、政氏・大舘家氏・堀口家貞(家員)[1]・貞氏の弟、経光・助義の兄。松平親氏 : 別名は信氏/親季/家氏。義光流世良田氏の当主の世良田有親の子、松

新田宗兼 - 日本通信百科事典

新田 宗兼(にった むねかね)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。新井宗兼 : 新井義基(重兼/覚義禅師)の孫、朝兼の子、義真[1]の弟、宗賢(宗方)の父、直宗の祖父、宗衛(むねもり)の曾祖父、宗安の高祖父、宗数の6世の祖、政宗の7世の祖

新田義和 - 日本通信百科事典

新田 義和(にった よしかず)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将および宮司。約3名ほど存在する。糸井義和 : 源姓里見氏流上野大島氏の庶家の上野糸井氏一門の武将。大島盛義の孫、義貞(義員)[1]の子、義政(義昌)・糸井義賢・糸井経政[2]の弟、良寛(僧侶)の

新田経義 - 日本通信百科事典

新田 経義(にった つねよし)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。合土義澄 : 別名は額戸経義、法名は法義入道、通称は五郎。新田義重の5男、里見義俊・新田義兼・世良田義光・世良田義季(得川義秀)の弟、義佐(義任)・庄田義盛(義益)の兄、義

新田満氏 - 日本通信百科事典

新田 満氏(にった みつうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。新田満氏 (新田基氏の子) : 別名は義政。新田基氏の子、比丘尼妙蓮院(岩松政経(道定入道)室)・朝氏[1]の弟、義量(義円)・今井維義[2]・朝谷義秋室の兄。世良田満氏

新田義佐 - 日本通信百科事典

新田 義佐(にった よしすけ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。新田義任(にったよしとう/よしただ/よしたか)とも呼ばれる。新田義佐 (新田義重の子) : 通称は小四郎または六郎。新田義重の子、里見義俊・新田義兼・世良田義光・世良田義季

新田義久 - 日本通信百科事典

新田 義久(にった よしひさ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。新井義久 : 新井義基(覚義入道)の曾孫、朝兼の孫、義真の子、義次[1]・義元の弟、義備(よしとも)・兼賢(兼方)の兄、宗直の父、重宗の祖父、宗俊の曾祖父、宗孟(むねたけ)

新田義俊 - 日本通信百科事典

新田 義俊(にった よしとし)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門。複数名ほど存在する。里見義俊 : 源姓里見氏一門の武将。約2名ほど存在する。徳川義直 : 幼名は千々代/五郎太丸、別称は義俊/義利/義知。徳川家康の子、内藤信成の甥、徳川信康・松平秀康(結城秀朝)・

新田清成 - 日本通信百科事典

新田 清成(にった きよなり)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の人物。約数名ほど存在する。里見清成 : 源姓里見氏一門の武将。約2名ほど存在する。松平清成 : 別名は忠政・正直、通称は勘六郎。桑谷松平家の祖という。大給松平家の当主の松平乗勝の子、親乗の弟。当時4

新田義兼 - 日本通信百科事典

新田 義兼(にった よしかね)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。新田義兼 (大炊助) : 通称は小新田次郎/新田小太郎。初代棟梁の新田義重(足利義康の兄)の次男、里見義俊の弟、世良田義光・世良田義季(得川義秀)・合土義澄(額戸経義)・義

新田義光 - 日本通信百科事典

新田 義光(にった よしみつ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一門。約3名ほど存在する。世良田義光 : 通称は三郎・新田冠者(『尊卑分脈 』)。新田義重の3男で、里見義俊・新田義兼の弟、世良田義季(得川義秀)・合土義澄(額戸経義)・義佐(義任)・庄田義盛(義益)の

新田清房 - 日本通信百科事典

新田 清房(にった きよふさ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。細谷清房 : 上野細谷氏の祖の細谷国氏の玄孫、秀氏の曾孫、秀国の孫、房清の子、保房の父。松平清房 : 松平長親(忠次/長忠)の曾孫、滝脇松平家(三河源氏)の祖の乗清の孫、麻

新田清勝 - 日本通信百科事典

新田 清勝(にった きよかつ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。大岡清勝 : 越後大岡氏(越後源氏)の当主の大岡助次の子、政成[1]の兄、清政・清治の父。松平清勝 : 竹谷松平家(三河源氏)の当主の松平家清の孫、清正[2]の子、清雄の弟