南北朝時代_(日本) - 日本通信百科事典
代 (中世) : 亀山天皇の系統で大覚寺統(南朝)とその兄である後深草天皇の系統である持明院統(北朝)が対立して、分かれた時代である。南朝の後醍醐天皇の代を経て、後亀山天皇の代に北朝の後小松天皇に神器を譲渡して、終焉した(『明徳の和約』)。しかし、これに不満を持った後小松天皇の皇
代 (中世) : 亀山天皇の系統で大覚寺統(南朝)とその兄である後深草天皇の系統である持明院統(北朝)が対立して、分かれた時代である。南朝の後醍醐天皇の代を経て、後亀山天皇の代に北朝の後小松天皇に神器を譲渡して、終焉した(『明徳の和約』)。しかし、これに不満を持った後小松天皇の皇
A. 洞院公賢は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿で、後醍醐天皇の側近として仕え、建武の新政にも参画しました。また、公賢は歌人としても有名で、後醍醐天皇の命により「新葉和歌集」を撰集しました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B
践は、范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした春秋五覇の一人に数えられる。『太平記』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、後醍醐天皇が隠岐に流される途上、臣下の児島高徳が美作・杉坂の宿の庭に立つ桜の樹に「天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という
A. 千早城の戦いは、1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E5%9F%8E%
だけど、大高坂山城は、南朝方の御城だったみたい。高知平野の中心にある、大高坂山に建てられてたんだよ。1338年、城主の大高坂松王丸って人が、後醍醐天皇の子の満良親王(みつよししんのう)を御城に迎えたっていう記録が残ってるよ。だけど北朝方に攻められて大高坂城は落城。松王丸は討ち死に
蛇性の婬」)がひとつであるところは、まったく庭鐘の読本作品と同じである。体裁で違うところといえば、題名のつけかたで、庭鐘が『英草子』第一篇「後醍醐帝三たび藤房の諫を折くこと話」とか『繁野話』第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」とか長くつけるのに対し、『雨月物語』の方は第一篇「
士たちの多くは、もう一人の立役者・足利尊氏のもとへなびいた。そして結局、尊氏とは敵同士になっちまったんだ。それでも義貞は南朝に忠誠を尽くし、後醍醐天皇のもと戦い続けたが、不遇続きでよ。味方だったはずの楠木正成から、義貞の首を手土産に、尊氏と和睦してはどうかという進言がなされた……
北朝時代になると、義俊の6世の孫にあたる義胤は、惣領家の新田義貞に従って、『鎌倉攻め』に義貞の左腕として活躍して、北条得宗家を滅ぼした功で、後醍醐天皇から伊賀守に、さらに越後国守護にも任命された。1338年に義貞が越前国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、義胤は同族の足利尊氏(高氏)
・小原満俊兄弟(基義の子)の曾祖父、家基・満行・堀内満氏・家成兄弟(家兼の子)の高祖父、家氏(家基の子)の6世の祖。惣領家の新田義貞に従い、後醍醐天皇によって伊賀守に任じられ、同時に越後国の守護代となった。田中義胤 : 上野田中氏の祖の田中義清の玄孫、重政の曾孫、重経の孫、経氏[
ほど存在する。諏訪頼重 (南北朝時代) : 初名は盛継/盛高、法名は照雲入道。諏訪盛重あるいは、宗経(直性入道)の子、時継の父。南北朝時代に後醍醐天皇の『建武の新政』によって信濃国守護となった小笠原貞宗(信濃源氏)と対決して、滅びた北条氏の当主である北条時行(高時の子)を擁立した
時代にも戦の舞台になったッス。今度は新田義貞と足利方の戦いッス。南朝方の新田義貞は、京に進軍した足利尊氏によって北陸に追われたッス。その時、後醍醐天皇の子の恒良親王、尊良親王を奉じて金ヶ崎城に入城したものの、すぐに包囲されてしまうんスよ。義貞はいったん城を脱出して、軍勢を整えてか
て北条得宗家と戦って大敗した。鎌倉時代末期に種の孫で、貞の子の衛(衡)[3]の代に、杣山城を築城した。南北朝時代に衛の子の保は、南朝方として後醍醐天皇に呼応して、弟の義鑑房/道鑑房(僧侶)・林/源琳(僧侶)・重・照とともに、遠縁筋の新田義貞に従い、おなじく遠縁筋の足利氏(下野源氏
頼基・頼兼・頼明・徳山貞信[8]室の兄、頼康・明智頼兼[9]・頼雄[10]・久々利康定(康貞)[11]・直氏(ただうじ)[12]・頼忠の父。後醍醐天皇によって、伊予国守護に任じられた。若槻頼清 : 信濃森氏(信濃源氏)の系統の頼隆流若槻氏一門の下総若槻氏の当主の若槻頼胤[13]の
)に従って、京の六波羅にある北条得宗家を攻め滅ぼした。しかし、福原氏は石川郷を間接的に支配したことで、鎌倉幕府との結びつきが強いことを理由に後醍醐天皇を中心とする新政府に冷遇されて、かえって厚遇された、おなじく遠縁筋の村上源氏流の北畠家(伊勢源氏)の当主の北畠顕家(親房の子)を派
に還暦を過ぎていたが、族子でもある新田氏惣領家の義貞(政氏の曾孫)に子の房清とともに従い、朝廷から右馬助に任じられた。1336年に恒良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁立し、越前国にむかった義貞に同伴し、翌1337年に一条行実(藤原北家長良流の一条行房の子)らとともに、同国黒丸城に立て
がついたら、大宝寺合戦のあったあたりまで馬を飛ばしてたからびっくりしたで。せっかくだはんで、今日は大宝寺合戦について説明するね。1334年、後醍醐天皇による建武の新政が始まった後、南部師行さんは奥州に下向した北畠顕家さまに従って北条氏の残党と戦ったんだ。南部師行さんは調略(ちょう
』↑ 『尊卑分脈』↑ 栗田寺別当大法師範覚の娘。↑ 義隆の又従妹にあたる。↑ 寿命寺が所蔵する「佐竹系図」より。↑ 読みは「ともあき」。↑ 後醍醐天皇の庶長子。関連項目[]木曾氏木曾義仲源義高源義重源義光この記事は 『源義隆』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共
8面紙本著色絵因果経彫刻木造薬師如来及両脇侍像(旧上醍醐薬師堂安置)書跡・典籍、古文書大日経開題弘法大師筆後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(三通)後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋)狸毛筆奉献表伝弘法大師筆理源大師筆処分状重要文化財[]建造物清滝宮本殿如意輪堂(上醍醐)開山堂(上醍醐)三宝院
たとされる。文治4年(1188年)火災により堂塔を焼失した。この時に本尊は奥之院の玉厨子山に自ら飛んで焼失を逃れたという伝説がある。その後、後醍醐天皇により堂塔が再建された。本尊が新たに彫られたが、元の本尊もこの時に飛んで帰り後ろ向きに厨子に入り自ら厨子を閉じたとされ「後向き薬師
1 第四天魔王の娘で会ったり、天女であったり…と様々な説がある*2 なお、日本史上では「≒仏敵」な相手に付ける異名や別称であり、信長以外にも後醍醐天皇や足利義教などもそう呼ばれたことがある
た桓武天皇(782年~805年)によって七堂伽藍が建てられ金色院前神寺として開かれたと伝えられる。文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られる。後に空海(弘法大師)も巡錫している。このとき空海は2度石鎚山を登ったといわれる
和2年(986年)来山して圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに大講堂を建立したという。花山法皇以外にも、後白河天皇・後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立がおこなわれている。花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教え
、なるべくホルモン分泌を活発化させやすい要因を与えないよう注意する。歴史上の例[編集]平安時代末期の近衛天皇中宮の藤原呈子や、鎌倉時代末期の後醍醐天皇中宮の西園寺禧子には、妊娠の兆候が現れて安産祈祷まで行われたにも関わらず、予定日を数か月から数年も過ぎても出産に至らず、懐妊が誤り
地面を突いたところそこから塩水が湧出したとの伝説があり、相当古い時代からこの塩水が利用されてきたことがわかる。南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地に入り、南朝方の拠点とできたのも、塩があったからだといわれている。1875年、旧徳島藩士・黒部銑次郎が岩塩を求めて
4 上位役5 複合の制限6 採用状況7 参照8 外部リンク9 脚注牌例[]解説[]色Aで1の雀頭と3の刻子(1333年)、色Bで5の大明槓(後醍醐天皇)、色Cで6の刻子(建武)、中刻子。下位役[]上位役[]複合の制限[]採用状況[]参照[]外部リンク[]脚注[]特に記載のない限り
として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。室町時代には大内氏の庇護を得、
上野江田氏の当主の江田満氏(光氏)の孫、氏義の子、経氏[1]・行氏(又次郎)の弟。惣領家の新田義貞に従い、族子の大館氏明(宗氏の子)とともに後醍醐天皇の『建武の新政』で「武者所三番頭人」をつとめる。『湊川の戦い』や丹波国の高山寺城で、同族の足利尊氏(高氏)の軍勢と激戦した。脚注[
名ほど存在する。村上義光(むらかみ よしてる) : 別名は義日(よしあき)。鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。頼清流信濃村上氏一門。護良親王(後醍醐天皇の庶長子)の家臣で、信泰の子、国信・信貞[4]の兄、朝光(朝日)・義隆の父。次男の義隆とともに北条得宗家の軍勢と戦って自害した。新
不足で幕府から借金する事態も起き、上記の財政難の一端となってしまっている。 一方、朱舜水からのアドバイスもあり、ここで纏められた歴史の中では後醍醐天皇が築いた「南朝」が正当な天皇家の血筋であり、 室町幕府初代将軍・足利尊氏側の「北朝」は逆賊とされている。 これを含めた『大日本史』
し、おなじく同族の河内源氏嫡流の源家(鎌倉氏)の棟梁の源頼朝が伊豆国で蜂起すると、一族の宇野氏・福原氏とともにこれに応じた。南北朝時代には、後醍醐天皇を中心とする南朝方に属して、遠縁筋である新田氏(上野源氏)の惣領家の新田義貞とともにおなじく遠縁筋の足利氏(下野源氏)の惣領家の足
父祖代々の念願であった領土を北条得宗家から取り戻して安堵させた。しかし、姻戚関係にある常陸伊佐氏一門の伊達氏の当主の伊達行朝の介入で、経長は後醍醐天皇とおなじく同族である新田義貞に帰順して、遠縁筋の北畠家(伊勢源氏)とともに尊氏と戦うことになった。経長は尊氏の命を受けたおなじく遠
加茂重秀の子、重朝の弟、重氏の兄。加茂貞親 : 別称は重成、通称は六郎次郎。加茂重頼の子、重治・重範・重春の父。1324年の『正中の変』で、後醍醐天皇と日野資朝・俊基らの倒幕に、遠縁筋の土岐頼定(頼貞)・頼兼父子とその一族の舟木頼春(頼玄/頼員)・多治見国長とともに加担したが、頼
ぶのないし)小侍従(こじじゅう)後白河天皇(ごしらかわてんのう)後崇光院(ごすこういん)巨曽倍対馬(こそべ の つしま)小大君(こおおきみ)後醍醐天皇(ごだいごてんのう)後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)後鳥羽天皇(ごとばてんのう)後鳥羽院下野(ごとばのいんのしもつけ)軍王(こ
った。着いた先の「タイムマシン」の出口は、珍しくのび太の背丈くらいの高さで、しかも空中に、四角の窓の形をして開いていた。「延元」とは、南朝、後醍醐・後村上天皇朝の年号であり、延元三年は西暦1338年である。特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの
のしたに ありながら 曇る心の くまをもためや*2 (伏見天皇)003.みな人の こゝろもみがけ 千はやふる 神の鏡の くもる時無く*3 (後醍醐天皇)004.男やも むなしかるべき 万代に 語りつぐべき 名はたてずして*4 (山上臣憶良)005.ますら雄は 名をしたつべし 後の
・長山頼基・頼兼・頼明・徳山貞信[2]室の兄、頼康・明智頼兼[3]・頼雄[4]・久々利康定(康貞)[5]・直氏(ただうじ)[6]・頼忠の父。後醍醐天皇によって、伊予国守護に任じられた。土岐頼宗 (土岐頼芸の子) : 土岐政房(頼継)の孫、頼芸の子、一色頼栄(頼秀)[7]・頼次[8
原師輔 084 小野宮年中行事 おののみやねんじゅうぎょうじ 藤原実資 085 建武年中行事 けんむねんじゅうぎょうじ 後醍醐天皇 086 年中行事秘抄 ねんじゅうぎょうじひしょう 087 年中行事歌合 ねんじゅうぎょうじうたあわせ 二条
・他*5 004 神宮雑例集 じんぐうぞうれいしゅう 鎌倉期 005 二所太神宮例文 にしょだいじんぐうれいぶん 花園・後醍醐・後村上 006 内宮長暦送官符 ないくうちょうりゃくそうかんぷ 長暦 006 外宮嘉禄三年山口祭記 げくうかろくさん
154 続門葉和歌集 しょくもんようわかしゅう 憲淳, 吠若麿, 嘉宝麿 155 続現葉和歌集 しょくげんようわかしゅう 後醍醐天皇 156 臨永和歌集 りんえいわかしゅう 157 藤葉和歌集 とうようわかしゅう 158 玄々集 げんげ
.千代能 (ちよのう) = 安達千代野050.菊地寂阿妻 (きくちじゃくあがつま) → 菊池武時051.左衛門局 (さえもんのつぼね) → 後醍醐天皇052.末葉 (すえは)053.探題英時妻 (たんだいひでときのつま) → 北条英時054.佐介貞俊妻 (さすけさだとしのつま)
乾頼里(道謙/周済)[1]・舟木頼衡・墨俣頼連(周崔)・頼清(頼宗)・頼遠・頼仲・長山頼基の弟、頼明・徳山貞信[2]室の兄。『正中の変』で、後醍醐天皇と日野資朝・俊基を中心とした倒幕に加わったが、従兄の舟木頼春(頼玄/頼員)[3]が、そのことを妻に漏らしたために、六波羅探題に露見
頼宗)・頼遠・頼仲・長山頼基・頼兼・頼明・徳山貞信[5]室の兄。1336年に遠縁筋の足利尊氏(高氏)が九州から京に攻め入ったとき、父とともに後醍醐天皇が討伐を命じた四条隆資(藤原北家魚名流四条家一門)の軍勢を撃退した。脚注[]↑ 国経の父。↑ 祖父の土岐光行の子。↑ 輝景(道光入
条天皇の皇子の邦良親王が木寺家と称して、後二条源氏の嫡流となる。花園源氏 : 花園天皇の皇子の直仁親王が萩原家と称したが、1代限りであった。後醍醐源氏 : 宗良親王(むねながしんのう)の後裔は武家貴族として、尾張国の尾張大橋氏の祖となり、戦国時代の重長の代に織田信秀の娘で信長の姉
駿河守。武田信政の玄孫、石和政綱(信綱)の曾孫、宗信(信家)の孫、貞信の子、貞政の兄、福寿丸の父。南北朝時代にはじめは北条得宗家に従う。後に後醍醐天皇と遠縁筋の新田義貞に加担して、おなじく遠縁筋の足利尊氏(高氏)に加担した族兄の武田信武と甲斐国守護の座を巡って、家督争いをした挙句
を転戦した。延元元年(1336年)に、播磨国の白旗城攻めに参戦した。同年に、義貞は北朝方と戦う拠点を越前国を中心とする政権を樹立するために、後醍醐天皇の皇太子の恒良親王とその異母兄の尊良親王を奉じて、越前国の金ヶ崎城に入城するも、北朝方で足利氏(下野源氏)一門の斯波氏(奥州源氏)
乱後の配置変換に関係があると考えられている。しかし、元弘元年(1331年)の『元弘の乱』に際しては、隣接する楠正成とともに大塔宮・護良親王(後醍醐天皇の皇子)のもとに馳せ参じて、今までの恩顧を受けた北条得宗家に対して反旗を翻したのである。野長瀬氏は、上記にある大塔宮・護良親王が高
進すると、これに呼応して参戦した。しかし、顕家に対抗意識を持っていた父・義貞の不興を買い、以降から疎まれるようになった。その後、大和国吉野で後醍醐天皇に謁見して、元服した。父の戦死後に、一族の大井田氏を中心とする越後源氏に護衛されながら郷里に潜伏したが、『観応の擾乱』が起こると北
朝廷より左衛門尉に任命され、義貞の庶長子の義顕から、偏諱を与えられて「顕友」と改称したという。『建武の新政』以降の建武3年(1336年)に、後醍醐天皇の皇太子の恒良親王や、その異母兄の尊良親王を奉じて、越前国へ向かった義貞に従った。越前国の金ヶ崎城を包囲する北朝方の軍勢に対して、
満の兄、政季(修理亮)・政満(蔵人/万徳丸)・新田義宗室の父。同族の桃井宗綱(足利氏(下野源氏)一門)とともに、宗良親王(むねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)の子の尹良王(ゆきながおう)を上野国寺尾中城で迎える。1385年に信濃国下伊那郡浪合村[4]で、子の政季と族兄の世良田有親
と弟の経世とともに、惣領家の新田義貞に従った。氏経は一族とともに鎌倉の化粧坂に攻めよせて、北条得宗家を攻め滅ぼした(『元弘の乱』)。やがて、後醍醐天皇によって建武政権が成立すると、氏経は式部大夫に任じられ、ついで弾正少弼に転じている。その後、『中世代の乱』が始まると、氏経は『箱根