羽住英一郎 - 映画ペディア
英一郎(はすみ えいいちろう、1967年3月29日 - )は、ROBOT映画部所属の演出家、映画監督。千葉県出身。5年D組を経てROBOT入社。「踊る大捜査線」シリーズのチーフ助監督を連続ドラマから劇場版第1作まで務め、劇場版第2作ではセカンドユニット監督を担当した。目次1 主
英一郎(はすみ えいいちろう、1967年3月29日 - )は、ROBOT映画部所属の演出家、映画監督。千葉県出身。5年D組を経てROBOT入社。「踊る大捜査線」シリーズのチーフ助監督を連続ドラマから劇場版第1作まで務め、劇場版第2作ではセカンドユニット監督を担当した。目次1 主
ずゆき、1961年-)は、日本の映画監督。岐阜県岐阜市出身。来歴[]1961年岐阜県岐阜市に生まれる。静岡大学理学部物理学科を卒業後、学研に入社。1986年に退社し、塾の講師となる。同時にシナリオの執筆活動を始め、1992年に「薄れゆく記憶のなかで」で初めて監督・脚本を務める。現
25日 - 旧名:福富 博(読み同じ))は日本のアニメーション監督。高知県出身。東京デザイナー学院中退後Aプロダクション(現・シンエイ動画)入社。1982年、「怪物くん」のスタッフである真田芳房、本多敏行、森脇真琴を中心にアニメ制作会社あにまる屋(現・エクラアニマル)を設立。現在
福田 純(ふくだ じゅん、1923年2月17日 - 2000年12月3日)は日本の映画監督。満州出身。日本大学芸術学部卒業。1946年に東宝入社。稲垣浩、山本嘉次郎らの助監督を経て、1959年、『恐るべき火遊び』で監督に昇進。以降、東宝において映画黄金期から斜陽期にかけ、若大将シ
は、日本のアニメーション監督、演出家。かつては福田満夫及び、ふくだみつお名義で活動していた。栃木県出身。高校卒業後、1979年にサンライズに入社。『銀河漂流バイファム』、『超力ロボ ガラット』、『機甲戦記ドラグナー』などの監督を務めた神田武幸の弟子を自認する。OVA作品『新世紀G
。その後、東京に戻り、父と一緒に舞台に立っていたが、1922年、父の旧友で日活向島撮影所の幹部俳優だった山本嘉一に招かれて、俳優として日活に入社する。村田実監督の教えを受け、伊藤大輔と知り合う。俳優として行き詰まり、監督を目指して衣笠貞之助の「衣笠映画連盟」に参加し、1928年衣
しや)はアニメーション監督。目次1 職歴2 主な参加作品2.1 テレビアニメ2.2 映画作品職歴[]1983年にトムス・エンタテインメントに入社。当初は製作担当として、東京ムービー内で仕事を行っていたが、後に演出に変わり、出崎統監督の下、『エースをねらえ(OVA)』や、『ルパン三
田中 登(たなか のぼる、1937年8月15日 - 2006年10月4日)は、日本の映画監督。長野県出身。明治大学文学部卒業後、日活に入社。日活がロマンポルノ路線に転向するとその一翼を担い、1972年『花弁のしずく』で監督デビュー。その後も意欲的なポルノ作品を次々と発表し高い評価
のテレビドラマの演出家。慶應義塾大学卒。目次1 来歴・人物2 手掛けたテレビドラマ3 監督を務めた映画4 関連項目来歴・人物[]1972年に入社。テレビドラマのAD・演出補などを経て、1978年にドラマ『夫婦ようそろ』で初演出。その他、『3年B組金八先生』や『男女7人夏物語』のヒ
田市)出身、秋田市立秋田商業高等学校、日本大学藝術学部放送学科卒業。テレパックのテレビドラマのAD・演出補などを経て、1986年に共同テレビ入社。共同テレビ演出陣では唯一の役員待遇で、これまで数々の歴代名作ドラマを手掛けてきたドラマディレクター。男優ではかつては古尾谷雅人、石橋凌
1 来歴・人物2 監督作品3 助監督作品4 外部リンク来歴・人物[]1955年12月、富山県高岡市生まれ。1974年、獅子プロに助監督として入社。1981年、『痴漢女教師』で監督デビュー。成人映画を監督として話題作を連発し、注目された。1985年、一般映画『コミック雑誌なんかいら
県松本市出身のアニメーション演出家、アニメーション監督である。東京造形大学卒。大学卒業後、東京アニメーションフィルム(現:アニメフィルム)に入社。同社に撮影スタッフとして勤務した後、シンエイ動画に移籍し演出助手に転向した。その後日本サンライズ(現:サンライズ)に活動の拠点を移し、
(さわい しんいちろう、1938年8月16日 - )は、静岡県浜松市出身の日本の映画監督。1961年、東京外国語大学ドイツ科卒業。同年、東映入社。入社後は、マキノ雅裕に師事。鈴木則文らにつき助監督の経験を20年余り積む、その間に脚本・助監督を務めた「トラック野郎」が東映の看板シリ
サー。長崎県長崎市出身。早稲田大学商学部卒業。俳優の赤木優は実娘。TBSでのアシスタントディレクターを経て、1964年に円谷プロダクションに入社。初監督作品は『ウルトラQ』第21話「宇宙指令M774」。『ウルトラマン』など円谷プロの作品群の監督、プロデュースを数多く手がける。ウル
品2.1 映画2.2 テレビドラマ2.3 その他3 関連項目プロフィール[]岡山県出身。1984年に立命館大学産業社会学部を卒業後にホリプロ入社。入社後はCM制作に携わり、後にテレビプロデューサー、ディレクターに転身し、ジャンルを問わず幅広く活躍した。「同窓会へようこそ」(200
した俳優の星ひかるという演劇一家に育った。京都に移り、京都府立鴨沂高等学校、法政大学法学部法律学科を卒業。1957年、大映東京撮影所監督室に入社。衣笠貞之助、島耕二、井上梅次、川島雄三などについた後、1964年、歌謡青春映画『幸せなら手をたたこう』で監督デビューする。翌1965年
澤田幸弘(さわだ ゆきひろ、1933年1月15日 - )とは、日本の映画監督である。1956年、中央大学経済学部卒業。神奈川県出身日活入社後鈴木清順、斎藤武市に師事し、1970年、映画「斬り込み」でデビュー。長谷部安春・小澤啓一とともに「日活ニュー・アクション路線」の旗手となった
ンエイ動画所属。名前から女性と思われがちだが、男性。代々木アニメーション学院中退[1]後、作画スタジオを1つ経て、1986年にスタジオメイツ入社。テレビシリーズ『ドラえもん』で動画デビューし、1988年にはシンエイ動画に移籍。それからは映画『ドラえもん』で原画・作画監督を務め、テ
に入学するが、胸を病み療養生活を送る。回復後、松竹蒲田撮影所に出入りし、牛原虚彦監督の見習い助手を務める。1930年、松竹に助監督として正式入社。成瀬巳喜男、五所平之助両監督につく。1937年、小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』の助監督を務めた後、『奥様に知らすべからず』で監
早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成し、左翼運動家として活躍。卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るが、部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見る。仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩之に紹介されるチャンスがあ
湖山 禎崇(こやま よしたか)とは、日本のアニメーション監督。土田プロダクション倒産後にスタジオコメットに入社。現在はエクラアニマル所属。監督代表作は、『ケロケロちゃいむ』など。目次1 主な作品1.1 TVアニメ1.2 OVA1.3 劇場アニメ2 関連項目主な作品[]TVアニメ[
4日 - )は、東京都出身のアニメーション演出家である。血液型はB型。学生時代は漫画家を目指していた。東洋大学卒業後、竜の子プロダクションに入社。2年ほど制作進行スタッフを務めた後演出家に転向し、『ゴールドライタン』『未来警察ウラシマン』『よろしくメカドック』『炎のアルペンローゼ
督としては、他に井坂聡がいる)。卒業後は映画プロデューサーを目指し、当時ハリウッドのプロデューサー・システムを取り入れていた新東宝の製作部に入社するが、次第に演出に興味を持つようになり、1950年には同社の助監督部に異動して、阿部豊、松林宗恵、中川信夫などに師事した。新東宝が大蔵
猪崎宣昭(いざき のぶあき、1948年8月5日-)とは、日本の映画監督である。愛媛県出身。日本大学藝術学部卒業。三船プロダクションに入社し斎藤光正に師事する。テレビドラマにおいてあらゆるジャンルの膨大な数の作品を手がけている。主要作品[]大江戸捜査網女検事・霞夕子太閤記〜天下を獲
ろうとするが、途中京都で出会った白井信太郎から映画の脚本家になることを強く勧められ、1924年(大正13年)1月、松竹下加茂撮影所の脚本部に入社。賀古残夢や野村芳亭などの監督作品の他、衣笠貞之助が監督した前衛映画の名作『狂った一頁』(1926年(大正15年))の脚本なども手掛けた
それは正しくは1899年(明治32年)の監督・撮影駒田好洋・柴田常吉、出演横山運平による『ピストル強盗清水定吉』である。横山はのちにマキノに入社している。1909年(明治42年)、岡山の金光教で見つけた旅役者尾上松之助を主演に『碁盤忠信・源氏礎』を撮る。派手な立ち回りの得意な松之
ルム)、1983年『夏がいっぱい物語』(8mmフィルム)などのフィルムによる作品を手がけた。大学卒業後は朝日プロモーション(現ADKアーツ)入社。CMディレクターとして数多くのTVCMの企画・演出を手掛け、ACC賞、IBA、ニューヨークフィルムフェスティバルなど受賞多数。CM演出
2月7日)は昭和期の映画監督。熊本市に映画監督、牛原虚彦の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部卒業後、1947年大映東京撮影所助監督部へ入社する。島耕二、木村恵吾監督らにつくが、1954年日活に移る。田坂具隆監督らについた後、1958年、『野郎と黄金』で監督デビューする。以後
月29日-)は日本の映画監督。東映の映画監督。東京都港区麻布で育つ。東京都立九段高等学校を経て慶應義塾大学文学部を卒業後、1960年に東映に入社。以来、京都に在住し、東映京都で山下耕作・中島貞夫作品の助監督を経て、1975年に『玉割り人ゆき』で監督デビュー。1977年の『らしゃめ
大正・昭和期の映画監督。熊本県熊本市に生まれ、1920年、東京帝国大学(現・東京大学)文学部英文学科を卒業。小山内薫の紹介で松竹蒲田撮影所に入社。新派劇出身の賀古残夢監督の助手を務めた後、1920年、小山内が松竹キネマ研究所を創立すると、そこへ移り、第1回作品『路上の霊魂』の脚本
理学部へ入学。大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで、卒業後は独立プロの助監督へ。さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。1962年に明子夫人と結婚。196
。東京都出身。目次1 来歴2 作風3 エピソード4 フィルモグラフィー来歴[]1975年-早稲田大学政経学部を卒業し、日本映像記録センターに入社。ディレクターとして日本テレビ系列での「知られざる世界」などTVドキュメンタリーを手がける。国境を越えて戦争や麻薬などシビアな社会問題に
監督・演出家。フリー。血液型は、O型。京都府立城南高等学校卒。東京デザイナー学院中退後、テレコム・アニメーションフィルムに同社の2期生として入社。『ルパン三世(第2TVシリーズ)』『じゃりン子チエ』などの動画を担当した後テレコムを退社、フリーのアニメーターとなる。その後演出家に転
(かたやま おさむ、1965年8月25日 - )は、テレビ朝日制作2部所属のテレビドラマ演出家、映画監督。山口県出身。1986年に泉放送制作入社。入社以降、ドラマ制作を担当。その後、TBSと泉放送制作の両方に所属となる。2007年頃にテレビ朝日へ移籍し現在に至る。1991年の「先
作画監督2.5 その他作画2.6 プロデューサー2.7 アニメ以外の仕事3 著書4 外部リンク略歴[]高校卒業後、山崎製パンの宣伝部員として入社するもやがて退社。週刊誌でアニメーターの記事を読み、アルバイトのつもりで入社したTCJ動画センター(現エイケン)でアニメーター生活をスタ
てつろう、1976年11月5日 - )は、日本のアニメーション演出家、アニメーション監督。埼玉県狭山市出身。専修大学を卒業後、マッドハウスに入社。初監督作品はOVA版『おとぎ銃士 赤ずきん』(2005年)。「ギャラクシーエンジェル」時代、荒木が演出を担当した回は内外から「暴走して
ce)、フランク・ボーゼージ(Frank Borzage)の両監督からは演出術を学び、映画監督になるべく帰国。1925年に日活大将軍撮影所に入社して『母校の為めに』で監督デビューする。翌1926年にはハリウッドのソフィスティケート・コメディを日本映画に移植した『足にさはった女』を
[]和歌山県御坊市出身。京都大学在学中に戸浦六宏の主催する劇団に参加。1958年(昭和33年)、大学卒業と同時に東映東京撮影所に助監督として入社し、石井輝男・佐伯清らに師事する。1968年(昭和43年)3月、日本プロレスの記録映画である『プロレスWリーグ・血ぬられた王者』で監督デ
所長も務めた。目次1 概要2 主な監督作品3 研究書4 脚注4.1 外部リンク概要[]慶應義塾大学文学部卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。第二次世界大戦後の1946年に復員後、黒澤明の助監督を務め、1952年に『鳩』で監督デビューした。時代劇、メロドラマなど多様な娯楽作品
金澤克次(かなざわ かつじ、1955年5月3日-)は、日本の映画監督である。香川県出身1979年、日本大学商学部卒業後にっかつに入社。助監督を経て1988年、日活ロマンポルノの最終作品「ラブゲームは終わらない」で監督デビューする。デビュー後はにっかつの社員監督としてTVドラマも多
年2月27日)は、日本の映画監督。東京都出身。妻は脚本家の那須真知子。略歴[]東京都立西高等学校、東京大学経済学部卒業後、日活に助監督として入社。1982年に日活ロマンポルノ『ワイセツ家族 母と娘』で監督デビュー。1985年の監督作『ビー・バップ・ハイスクール』のヒットで注目され
7年)に早稲田大学英文科に入学するも、演劇に没頭しまもなく中退した[1]。1923年(大正12年)、創立3周年を迎えた松竹キネマ蒲田撮影所に入社、同撮影所長の野村芳亭に師事、同年9月1日の関東大震災後、蒲田の機能を松竹下加茂撮影所へ移したころに入社した五所平之助が、重宗の下の助監
6年、早稲田大学教育学部に入学、在学中から、映画や「ザ・ガードマン」などのTVドラマの助監督を手掛ける。1970年、早稲田大学卒業後、大映に入社。増村保造や三隅研次らに師事。後にフリーランスの助監督として“名匠”・吉村公三郎監督「襤褸の旗」(1974年)、“中国の黒沢明”・謝普監
映画3.2 テレビドラマ4 脚本作品4.1 映画4.2 テレビドラマ来歴[]1933年- 出生。1956年- 東映京都撮影所に助監督として入社。1959年~1964年- 助監督として加藤泰、内田吐夢両監督に師事する。1963年- 内出好吉監督『続・てなもんや三度笠』にて脚本家デ
略歴2 代表作2.1 ゲーム2.2 テレビ2.3 ビデオ略歴[]1970年、日本大学藝術学部映画学科卒業。卒業後、東映テレビプロダクションに入社する。助監督を経て1980年、「特捜最前線」の一編(第178話「男たちのセプテンバーソング!」)で監督デビュー。1981年、東映を退社し
入り、奥役(舞台監督)兼作家を務める。松竹の京都第二京極にある芝居小屋「大正座」の座付作者だったが、火事のため人気が低下し、松竹蒲田撮影所に入社。同じく、新派劇から参加した岩田祐吉や諸口十九などを主役に撮影所創立当初から監督を務め、松竹キネマの基礎を作った。後に、東亜キネマ、マキ
ちに山本嘉次郎と名乗り、映画監督となった黒澤明の師匠である。「映画芸術協会」が活動を停止した1924年には京都に移り、日活京都撮影所第二部に入社、基本的には俳優として活動しながら、2本の映画を監督した。翌1925年後半にはマキノ・プロダクションに移籍、同社の京都の「マキノ御室撮影
校を卒業して上京。東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学。1968年10月1日、大塚康生に懇願し、Aプロダクション(現シンエイ動画)に入社。『巨人の星』、『ルパン三世』などに参加。1978年6月20日、日本アニメーションに移籍。『未来少年コナン』、『赤毛のアン』などに参加。
たりしていた。その時期の、森安なおやとの奇妙な同居生活が有名。1956年、漫画家の横山隆一率いる「おとぎプロダクション」にアニメーターとして入社。入社試験は『カバの逆立ち』を描く事だったという。おとぎプロ退社後は、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、石ノ森章太郎、つのだ
った。上京して法政大学に入学したが、中退した[1]。1926年(大正15年)前後の25歳ころのときに京都のマキノ・プロダクション御室撮影所に入社、曾根純三監督に師事した[1]。翌1927年(昭和2年)には、同社代表の牧野省三の監督作、月形龍之介主演の『盛綱』や嵐長三郎(のちの嵐寛