「一門」を含むwiki一覧 - 12ページ

源信正 - 日本通信百科事典

邦正・行正の弟。はじめは「信正王」だったが、兄たちとともに臣籍降下をして源姓を賜った(醍醐源氏)。武田信正 : 武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門。約3名ほど存在する。松平信正 : 松平氏(三河源氏、後の徳川氏)一門。約数名ほど存在する[1]。脚注[]↑内藤松平家も含む。藤原北家近

渡辺貞 - 日本通信百科事典

渡辺 貞(わたなべ ただし)とは、日本の人物。約3名ほど存在する。瓜生貞(うりゅう さだし) : 嵯峨源氏流渡辺氏一門の渡辺重の曾孫、学の孫、瓜生種(越前瓜生氏の祖)の子、俊・永・衡(衛)の父、晨・明兄弟(俊の子)と奇・寛兄弟(永の子)と保・義鑑房(道鑑房)・林(源琳)・重・照兄

源久義 - 日本通信百科事典

源 久義(みなもと の ひさよし)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。岡田久義 : 通称は小次郎。信濃岡田氏(信濃源氏)の当主の岡田親義の子、重義の弟。斯波久義 : 足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。この記事は 『源久義』

渋川氏 - 日本通信百科事典

する系統。上野国群馬郡渋川郷(現在の群馬県渋川市)を拠点とした。庶家に陸奥国会津地方の奥州渋川氏(会津渋川家)がいたが、蘆名氏(碓井姓三浦氏一門の佐原氏の庶家)によって、滅ぼされている。渋川氏 (河内国) : 「河内渋川氏」とも呼ばれる。おなじく足利氏一門の畠山氏(武蔵源氏)の当

河内盛宗 - 日本通信百科事典

河内 盛宗(かわち もりむね)とは、陽成源氏(河内源氏)義忠流武蔵河内氏一門の武将。約2名ほど存在する。河内盛宗 (河内盛貞の子) : 河内盛貞(盛員)の子、盛秀[1]の弟、盛康・国貞・盛広の兄。野長瀬盛宗 : 野長瀬氏(野長瀬河内家)一門の野長瀬盛矩の曾孫、盛実の孫、盛恒の子。

源兼氏 - 日本通信百科事典

源 兼氏(みなもと の かねうじ)とは、源氏(醍醐源氏・陽成源氏(河内源氏))一門の人物。約数名ほど存在する。源兼氏 (醍醐源氏) : 法号は蓮目入道。醍醐天皇(敦仁親王/源維城)の12世の孫、盛明親王の11世の孫、源則忠の10世の孫、道成の9世の孫、兼長の8世の孫、清長の7世の

武田信頼 - 日本通信百科事典

武田 信頼(たけだ のぶより)とは、陽成源氏(河内源氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約4名ほど存在する。武田氏信 (光誠入道) : 別称は信頼/直信(ただのぶ)、幼名は徳光丸。武田信武の子、信成の弟、穴山範信(義武)・大井信明・山県公信の兄、信在の父、信守・信繁の祖

武田頼行 - 日本通信百科事典

武田 頼行(たけだ よりゆき)とは、陽成源氏(河内源氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。甘利頼行 : 一条忠頼の玄孫、甘利行忠(甘利氏の祖)の曾孫、行義[1]の孫、頼高の子、宗信の父。一条頼行 : 甲斐一条氏一門の一条義行の子、信方の弟、行貞の兄、隆

武田信隆 - 日本通信百科事典

武田 信隆(たけだ のぶたか)とは、武田氏(甲斐源氏)の一門の武将。約3名ほど存在する。一宮信隆 : 通称は七郎。武田信光の子、黒坂朝信・信忠(高信)・石和信政・一条信長の弟、早川信平・馬淵信基・円井光経の兄、政隆・時隆・信賢(信方)・黒坂貞隆(貞経)[1]・実隆・岩崎某[2]室

毛利氏 - 日本通信百科事典

利氏 (大江氏) : 上記の相模国愛甲郡毛利郷庄を拠点として、後に安芸国高田郡吉田郷(現在の広島県安芸高田市吉田町)を拠点とした土師姓大江氏一門の大江広元の4男・毛利季光を祖とする。この家系は戦国時代の元就の代を経て、江戸時代には長門国の長州藩主として明治時代まで続いた。庶家に因

武田信義 - 日本通信百科事典

武田 信義(たけだ のぶよし)とは、陽成源氏(河内源氏)義光流の武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。武田信義 (逸見冠者) : 幼名は龍光丸/勝千代。武田清光(逸見清光)の子、逸見光長[1]の弟、二宮清隆・河内義長・田井光義・曾禰厳尊(玄尊)・奈胡(奈古)

武蔵源氏 - 日本通信百科事典

武蔵源氏(むさしげんじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流の一門。武蔵国を拠点とした氏族で、約5系統が存在する。吉見氏 : 源姓鎌倉氏(源家)一門の範頼を祖とする。武蔵国横見郡吉見郷(現在の埼玉県比企郡吉見町)を拠点とした。庶家には能登吉見氏(能登源氏)・伊勢吉見氏(伊勢源氏)・石見吉

水戸氏 - 日本通信百科事典

那珂郡水戸郷[1]を拠点とした。約2系統が存在する。水戸氏 (越前国) : 藤姓水戸氏、あるいは越前水戸氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流那珂氏一門の常陸江戸氏の直系。江戸重通の子の水戸宣通[2]を祖とする。江戸時代に越前国の福井松平家[3]の家老として仕えたが、曾孫の朝兼の代で嗣子

河内信綱 - 日本通信百科事典

河内 信綱(かわち のぶつな)とは、中臣姓河内氏一門の武将。約2名ほど存在する。田代信綱 : 法号は浄心入道。河内為綱[1]と狩野茂光[2]の娘との間の子、義綱・清綱・頼綱の父、景綱(義綱の子)・通綱(清綱の子)・隆綱(頼綱の子)の祖父、実綱(景綱の子)・家綱(通綱の子)・総綱(

水野氏_(尾張国) - 日本通信百科事典

野氏 (丹氏) : 丹姓水野氏とも呼ばれる。丹姓平氏良兼流の致兼の子の長田致頼を祖とする長田氏(尾張平氏)流の浦野氏の流れを汲む葦敷氏[1]一門の小河氏(三河小川氏)の庶家である。尾張国山田郡(春日井郡)水野郷[2]を拠点とした。庶家に毛受氏、同族に尾張木田氏・尾張山田氏(庶家に

江田氏 - 日本通信百科事典

・丹波国・安芸国・肥後国などの異流も存在する。江田氏 (上野国) : 源姓江田氏/上野江田氏とも呼ばれる。新田氏(上野源氏)流義季流世良田氏一門で、江田満氏(光氏)を祖とする。上野国新田郡江田郷[1]を拠点とした。英田氏(あがたし) : 信濃江田氏とも呼ばれる[2]。滋野姓。信濃

水野氏 - 日本通信百科事典

)の子の雅経は尾張国の国司となり、尾張国知多郡阿久比郷[4]を統治して、南北朝時代前後の正房の代まで在続したという。正房は土岐氏(美濃源氏)一門の土岐直氏(ただうじ)[5]と戦って、子の信業とともに戦死を遂げた。信業の子の信安は、足利氏(下野源氏)流戸賀崎氏(三河源氏)一門の三河

水沢氏 - 日本通信百科事典

木水沢家とも呼ばれ、はじめは水沢氏と称した。日本化した俘囚(アイヌ)の酋長の家系とされ、『奥州の戦い』で戦功を挙げた源姓佐々木氏(近江源氏)一門の佐々木直綱の玄孫の信綱[2]に嗣子がなく、信綱の娘が水沢某に嫁いで、その間に儲けた子が母方の佐々木氏と改称したという[3]。南北朝時代

源兼忠 - 日本通信百科事典

源 兼忠(みなもと の かねただ)とは、源氏(清和源氏・村上源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。源兼忠 (参議) : 清和天皇の孫、貞元親王の子、兼信の兄、能正(むねまさ/たかまさ)・能遠(むねとお/たかとお)の父、陳時[1]・信成兄弟(能正の子)の祖父、成任(信成の子)の曾祖

源勝頼 - 日本通信百科事典

源 勝頼(みなもと の かつより)とは、陽成源氏(摂津源氏・河内源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。江戸崎勝頼 : 通称は岡見次郎。土岐氏(美濃源氏)一門の江戸崎氏の当主の江戸崎治頼の子、治秀(治英)[1]の弟、天岩(僧侶)の兄。武田勝頼 : 武田氏(甲斐源氏)の当主の武田信玄

武田信正 - 日本通信百科事典

武田 信正(たけだ のぶまさ)とは、陽成源氏(河内源氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。真里谷信正 : 真里谷氏(上総源氏)一門の真里谷清信の曾孫、直信の孫、朝信の子。安房里見氏の武将の正木時茂・時忠兄弟によって、父とともに討ち取られた(『刈谷原の戦

源義助 - 日本通信百科事典

・河内源氏)流の人物。約数名ほど存在する。源義助 (源義盛の子) : 源義時の孫、義盛の子、義久・義遠の弟。足利義助 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。脇屋義助 : 新田氏(上野源氏)の棟梁である新田朝氏の子、大舘宗氏室・義貞の同母弟、義治・世尊寺行俊(藤原北

源義国 - 日本通信百科事典

父。下野国の『野木宮の戦い』で、対決した惣領家の源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主で、従兄弟の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門)と激戦して、大敗した。まもなく父と兄弟とともに同じく従弟の木曾義仲の傘下に入って従軍した。後に義仲が頼朝の異母弟である範頼・義経兄弟と

源義利 - 日本通信百科事典

源 義利(みなもと の よしとし)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約数ほど存在する。逸見義利 : 逸見義重の子、維長・義継・重氏の弟、義直・重継の兄。足利義利 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。徳川義直 : 幼名は千々代/五郎太丸。別称は義知/義利/義俊

源義憲 - 日本通信百科事典

仲・為宗・為成・為朝・為仲・行家(新宮十郎義盛)の兄、義延・義国・頼重の父。上杉義憲 : 後に吉憲(とみのり)と改名する。足利氏(下野源氏)一門の三河吉良氏(三河源氏)の当主の吉良義央(上野介)の孫、上杉綱憲[2]の子、吉良義周・憲孝・勝周・勝延の兄、宗憲・宗房・畠山義紀・重定の

源義仲 - 日本通信百科事典

弟を迎え撃つも、大敗して近江国粟津にて、石田為久[2]に討ち取られた[3](『粟津の戦い』)。享年32。佐竹義仲 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義仲 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。脚注[]↑ 『続群書類従』所収「吉良系図」に

源義季 - 日本通信百科事典

源 義季(みなもと の よしすえ)とは、陽成源氏(大和源氏・河内源氏)の人物。約数名ほど存在する。福原義季 : 大和源氏の頼親流[1]の一門である福原氏の第5代目当主。第4代目当主の福原光義の子、義詮・石河光治(成田冠者)[2]・詮重・石川光経[3]室らの兄、光季(三郎)・基光(

源義春 - 日本通信百科事典

』)、祖父に同伴して、伊勢国羽取山(現在の三重県鈴鹿市服部山付近)で籠城したが、頼朝が派遣した同族の平賀(大内)維義(信濃平賀氏(信濃源氏)一門の信濃大内氏の当主)配下の波多野盛通・大井実春・山内経俊(藤原北家秀郷流首藤氏一門)の軍勢によって祖父と父および、伯父の義延と叔父の頼重

源経忠_(清和源氏) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、清和源氏一門の源経忠について記述しています。武蔵河内氏一門の源経忠については「河内経忠」をご覧ください。清和源氏(源氏)の祖・源経忠源 経忠・経明・経義(みなもと の つねただ/つねあき/つねよし、生没年不詳[1])は、日本の皇族。清和天皇の曾孫、貞純親王

源義範 - 日本通信百科事典

義君(よしただ)・義直の兄。叔父の義光(新羅三郎)の陰謀で、父・兄弟たちとともに非業の死を遂げ、義範は自決した。鎌倉義範 : 鎌倉氏(源家)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義範 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]関連項目[]源義広足利氏新田義重桐生

源義遠 - 日本通信百科事典

正室は坂額御前[1]。一条義遠 : 官職は尾張守。甲斐一条氏の当主の一条信連の孫、貞義の子、光遠の父。山入義遠 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)の一門の山入氏義の孫、義盛の子、義嗣の兄。祖父と父とともに藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の第4代目の当主の佐竹義舜と戦ったが、義舜の謀略によって、一

源義種 - 日本通信百科事典

源 義種(みなもと の よしたね)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。浅利義種 : 甲斐源氏流浅利氏の当主の浅利義国の子、頼種の父。戦国時代の信種は末裔にあたる。足利義種 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。この記事は 『源義種』 のための

源義氏 - 日本通信百科事典

尊(玄尊)・奈胡(奈古)義行・浅利義遠(義成)・八代信清の弟、道光(僧侶)・光賢(僧侶)・遠信(僧侶)の兄。新田義氏 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義氏 : 足利氏(下野源氏)一門の人物。約4名ほど存在する。関連項目[]源氏河内源氏常陸源氏甲斐源氏武田

源義満 - 日本通信百科事典

源 義満(みなもと の よしみつ)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。新田義満 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義満 : 足利氏(下野源氏)の当主で、室町幕府の第3代目将軍。足利義詮の子、尊詮(千寿王丸)・柏庭清祖(僧侶)の弟、満詮

源義亮 - 日本通信百科事典

源 義亮(みなもと の よしあき/よしすけ)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。額田義亮 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の常陸額田氏の最後の当主。佐竹義直(義尚)・政直父子の10世・9世の孫。同族の山入与義(ともよし)・長倉義景・稲木義信とともに藤原北家上杉

源経久 - 日本通信百科事典

源 経久(みなもと の つねひさ)とは、源氏(陽成源氏(河内源氏)・宇多源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。八木岡経久 : 通称は小太郎。下野中村氏(下野源氏)の当主の中村経長[1]の子、定行[2]の兄。尼子経久 : 通称は又四郎。六角氏(近江源氏)流京極氏一門の尼子氏(出雲源

源実義 - 日本通信百科事典

源 実義(みなもと の さねよし)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。源実義 (源祐義の子) : 源義光の孫、祐義(覚義入道)[1]の子、実光の兄。足利実義 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]↑佐竹義業(義成)・武田義清の弟、平賀

源教氏 - 日本通信百科事典

源 教氏(みなもと の のりうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。世良田教氏 : 新田氏(上野源氏)流義季流世良田氏(世良田氏)の当主の世良田頼氏の子、江田満氏(光氏)・義有(有氏)の弟、家時(家持)・得川宗氏の父。鎌倉足利家(足利公方家)一門の足利義久

源昌義 - 日本通信百科事典

源 昌義(みなものと の まさよし)とは、陽成源氏(河内源氏)の義光流一門の武将。約2名ほど存在する。佐竹昌義 : 佐竹氏(常陸源氏)の祖の佐竹義業(義成)の子、義定(山本冠者)[1]・進士行義・義仲(證玄/源尊)の兄、忠義(大掾忠幹)[2]・国分義弘・佐竹隆義(詮義)・袋田義宗

源家時 - 日本通信百科事典

源 家時(みなもと の いえとき)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。世良田家時 : 別称は家持。新田氏(上野源氏)一門の義季流世良田氏(世良田氏)の当主の世良田頼氏(新田頼氏)の孫、教氏[1]の子、得川宗氏[2]の兄、貞国・満氏・満義の父、政義・義秋・義満

源有義 - 日本通信百科事典

たが、弟の信光と共謀した北条得宗家によって鎮圧された。景時は子の景季らとともに誅殺され、有義は失脚して没落した。坂地有義 : 大和源氏福原氏一門の板地氏の当主。子がなかったために、族子の光行を婿養子とした。一色有義 : 足利氏(下野源氏)一門の三河吉良氏(三河源氏)の当主の吉良満

源家光 - 日本通信百科事典

もに従兄の源頼朝と対決したために、頼朝が派遣した北条時定の軍勢によって、和泉国で父と弟と子とともに討ち取られた。福原家光 : 大和源氏福原氏一門の武将。約2名ほど存在する。斯波家光 : 足利氏(下野源氏)一門の斯波氏(奥州源氏)の当主の斯波宗氏の子、高経・大崎家兼の兄、尊詮・義近

源有朝 - 日本通信百科事典

建仁3年6月23日(1203年8月1日))は、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将・僧侶。陽成源氏流河内源氏の嫡流の源姓鎌倉氏(相模源氏/源家)一門の阿野鎌倉家(駿河源氏)の祖。幼名は今若丸。通称は阿野冠者/醍醐禅師[1]。源義朝(義頼)の子、義平・朝長・頼朝・義門・希義・範頼[2]

源朝氏 - 日本通信百科事典

源 朝氏(みなもと の ともうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。若槻朝氏 : 通称は上野冠者。信濃森氏(信濃源氏)一門の若槻氏の当主の若槻頼隆[1]の孫、頼定[2]の子、義泰・定氏(頼仲)・頼泰の弟、泰朝・義定・頼明・信義・義通[3]の兄。大井朝氏 :

源祐義 - 日本通信百科事典

源義光の子、佐竹義業(義成)・武田義清の弟、平賀盛義・岡田親義の兄、実義・実光の父。佐竹祐義 : 上記の佐竹義業を祖とする佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。石橋祐義 : 足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の下野石橋氏の当主の石橋和義の孫、棟義[1]の子、房

源為義 - 日本通信百科事典

源 為義(みなもと の ためよし)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。源為義 (陸奥四郎) : 別称は鎌倉為義、通称は陸奥四郎。八幡太郎義家の孫、義親の子、義信・義俊・義泰の弟、義行・宗清・堀江頼純(塩谷冠者)[1]の兄、義朝(義頼)・義賢・義広(義憲/義範

源盛経 - 日本通信百科事典

源 盛経(みなもと の もりつね)とは、陽成源氏(河内源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。河内盛経 : 通称は稲沢冠者/稲沢小源太。武蔵河内氏の祖である河内経国(義行)の子、蓮俊(円城寺法印)の兄、盛国(盛家)・経家・経忠・稲沢資家室の父。村上盛経 : 信濃村上氏(信濃源氏)の

源満頼 - 日本通信百科事典

源 満頼(みなもと の みつより)とは、陽成源氏(摂津源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。源満頼 (上野掾) : 臣籍降下以前は「兼頼王」。陽成天皇の孫、元平親王の子、源満仲(兼明王/兼名王)・満政(兼正王)・満季・満実・満生(みつなり)・満重(満成)[1]・満快(満扶)(満国

源清房 - 日本通信百科事典

孫、源雅信の曾孫、扶義(すけよし)の孫、経頼[1]の子、尊覚(僧侶)・済延(僧侶)・隆昭(僧侶)・信房の兄。新田清房 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。石橋清房 : 足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)一門の下野石橋氏の当主の石橋房義の子、博義(広義)の父、

武田信経 - 日本通信百科事典

武田 信経(たけだ のぶつね)とは、陽成源氏(河内源氏)流武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の武将。約6名ほど存在する。黒坂信経 : 通称は弥五郎。一宮信隆の孫、黒坂貞隆(貞経)の子。室町時代の信光はその末裔という。一条信経 : 別称は信常。甲斐一条氏の祖の一条信長の子、義長・頼長