盛岡藩→八戸藩類家村
三戸郡長者村大字類家(1889 4/1~1901 6/30)
三戸郡八戸町大字類家(1901 7/1~1929 4/30)
八戸市 大字類家(1929 7/1~)
八戸市 青葉一~三丁目/類家一~五丁目/諏訪一~三丁目(1976 9/1~)
八戸市 小中野一~三・六丁目/柏崎二・三・五・六丁目(1978 2/1~)
八戸市 吹上一・三丁目(1986 2/17~)
八戸市 南類家一~四丁目(1997 3/18~)
類家という地名は、源義経公が八戸に来た際にこのとき構えた館に似ていた家屋を『義経様が住んでいた家屋と似ている家屋』つまり「類家」と呼んのだのが由来。
または、類家は累家で、親戚、親族の意味で、中世に北陸方面から来た人々の部落、の意味。
若しくは、「ウルイケ」で潤うから。
現存の小字
堤端・堤田
八戸城下町の為に作られた類家堤(勘太郎堤)、現在の旧柏崎小付近の端と、田んぼを意味する。
縄手下
縄手とは縄のように細い道で、その細道の下に位置する為か。細道とは長者山参道ではないかと推測できる。
旧小字
前田・後田
対になった字。前は小中野方面、後は類家方面。
稲荷小路
稲荷とは藤ヶ森稲荷神社の事。因みに、藤ヶ森稲荷神社には義経公にまつわる伝説が残されている。
陸奥国の稲荷があるところには○多がいると言われるが、ここは当にそうであった。今は見る影もなし。
大和田・中和田
「和田」は、川の曲流部のやや広い平野を表す。類家平野は新井田川の氾濫原であったので、田向から柏崎へ抜けていた時期の名残か?「大」や「中」は尊称。
上明戸・中明戸・下明戸
明戸は「悪戸」。川沿いの平地の意。現在の類家五丁目や諏訪三丁目付近。
久保田
明戸の北側にある。川沿いであり、少し窪んでいた場所の田んぼか。
申角下
読みは「サルカクシタ」。「サルケシタ」から転訛したとすれば、「サルケ」が泥炭層の土地を示し、それが舘越山附近にあるので、その下という意味か。それか、「サル」が崖地の崩壊地名なので、崖の下という意味か。そうなると「カク」の語源が分からなくなる。
神明林
神明が何を示すかは分からないが、諏訪ではないか。諏訪の林で神明林。
諏訪ノ後・諏訪後
諏訪神社の後ろ側より。諏訪神社は小中野字諏訪に鎮座、諏訪や諏訪河原、諏訪道などの小字が小中野にはある。
館花・館花下
朝市で有名な館鼻漁港がある湊町字館鼻と同じ由来でアイヌ語から「平地にのぞんだ丘陵の端、丘陵部分の平坦地」。類家部落があった台地の先端。先端の下の場所。
中河原
現在の塩入橋西詰は新井田字新川向、塩入下であった。その更に西側にも流路があったと思われる。本流と支流の間の中の河原の意味。
中条前
小中野字中条の南側、中条の前側という意味。
蟇平・蟇平尻
「ガマタイ」と呼び、バス停にも存在する。蟇はガマガエルの意味。ガマガエルの多い平地?小中野には字蟇館も存在する。
古川端・古川頭
新井田川の氾濫原であったので、今の流路では無くもっと昔の流路を古川と呼び、その端と頭(始まりや終わり)。今の南類家1~3丁目付近。
古玄中寺
現在の類家一丁目付近。現在の玄中寺は1861年建立、廃寺を再建。その廃寺があった場所。
玄中寺下
玄中寺の所在地は下組町で、その南側を位置する。
帽子屋敷
義経北行伝説の根拠となる小字の一つ。藤ヶ森稲荷に参拝するときに烏帽子や狩衣を掛ける場所が無く、杭を立ててそこに掛けた事より。現在、帽子屋敷は芭蕉堂公園となっている。
村中
類家部落の中心部。
谷地
谷地とは、奥羽方言アイヌ語共通で「低湿地」の意。舘越山付近の湧水によって地下水が滞留しているため。
新丁下
柏崎新町の下側(南側)に位置する。
新寺前
新寺とは曹洞宗松峯山心月院の事。明治時代に宿寺制度廃止により本寺である新井田対泉院から独立したため、新寺となった。
外中居
中居林村の外側の意味、隣接している。
向田屋
田屋とは耕作時期になると一定時期住む仮屋の事であり、湊高台周辺の田屋地名はそうである。ただ八戸から類家は近いのでここでは当てはまらない。よってここでの田屋の由来は田畑を管理する人の番所がある場所、の意味を持つ。吹上の寺町通を抜けると昔は田が広がっていた為、そのような番所が必要であったのであろう。その番所の向かい側、の意味。
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