八戸藩柏崎村
三戸郡八戸町大字柏崎(1889 4/1~1929 4/30)
八戸市 大字柏崎(1929 5/1~)
八戸市 沼館(丁目地域)、城下へ(1962/5/5~)
鷹田、下鷹田、谷地田、別当谷地、沖中、二間橋下、堀子田、上間谷地、下間谷地、川苗代、鶴寄、二間橋下の全域
宇和田、二間橋沖、下谷地、下谷地沖、下谷地尻の一部が消滅。
八戸市 柏崎一・四・五丁目へ(1978 2/1~)
二間橋沖、下谷地、下谷地沖、下谷地尻、堀下、常海下、明神林の全域が消滅。
八戸市 内丸一丁目へ(1982 2/1~)
宇和田の全域が消滅。
1889年の町村制において八戸城下町と合併し、八戸町としてスタートを切った唯一の大字。
柏崎の地名は岬を示す。八戸城下町から続く台地が細長く現在の塩町交差点まで続く。この尖った台地を柏崎と呼んだ。
現存の小字
なし
旧小字
二間橋沖、二間橋下
恐らく城下一丁目方面にも広がっていたであろうが、資料不足のため分からずじまい。
由来は不明。ただ、二間は約3.6mであり、もしかすると橋が架かっていたのは八戸城の堀なのではなかろうか。
橋の海側で「沖」、ではないか。
推測の域を出ないが、可能性としてはある。
だか、沖の方が城に近く、信憑性は低い。
下谷地
柏崎四丁目の八戸工高運動場近くに下谷地公園として名を残す。
谷地とは、奥羽方言アイヌ語共通で「低湿地」の意。
南側の表通りより低い所に位置する。
下谷地尻、下谷地沖
下組町の北西に位置する。
「尻」がつくのは、下谷地より海側に位置し、八戸中心街から続く小高い丘の終着点北側付近に位置する為か。
それか、「尻」には「底」という意味があり、字下谷地より標高が低い場所に尻を付けて区別したか。
常海下
大字常海町の東側に位置する。
標高的に海側のこの場所を「下」にしたか、もしくは八戸城からみて下だったか。
堀下
この字も二間橋沖と同様に八戸城の堀の下、という意味だと取れる。
明神林
明神とは何処の明神か。
下谷地の域に白栗明神が鎮座するが、大正3年測図の八戸東部の地図には描写されていない。
宇和田
城下が成立した為、15年程八戸駅(現在の本八戸駅)の西側にある唯一の小字として飛地状態になっていた。
「宇」は家の軒下の意味。家は八戸城と考えると、台地の下だからか。「和田」は川の曲流部のやや広い平野を表す。川は根城方面から流れてくる土橋川。
鷹田、下鷹田
隣接する小中野、沼館に「高田」が存在する。沼館部落(現在の沼館二丁目)は砂丘上に成立しており、その砂丘は一丁目まで延びていた。沼館、城下の旧小字分布史料が無いため推測の域を出ないが、一丁目付近の三村が交差する附近に存在し、周囲より土が堆積して標高が高く、そこに存在する田を示した。地名由来を考える時に漢字はあまり重要では無く、「音」が重要なので、他2村の小字と同じと考えて良い。
鶴寄
隣接する小中野にも同様の小字が存在する。江陽中学校の学校便りは「鶴寄」であり、此を踏まえると江陽一丁目や城下一丁目付近にあったか。津軽の鶴田町などには江戸時代に飛来していた記載がある為、鶴が飛来していたというのも一理ある。只、「ツル」は川が細長く流れる場所、所謂湿地帯の意味がある。江陽小からラピアなどは昔「赤沼」という沼だったので、近くの湿地帯であったのではないか。
谷地田
湿地帯にできた田んぼ。場所が不明。この辺は全て湿地帯だったと思われ、宅地化される前は田園地帯だったので言うなれば全て谷地田だ。
別当谷地
これは本当に分からない。別当職なんて付いた人が当時僻地だったこんな場所にくるのか?
沖中
堀子田
上間谷地
下間谷地
川苗代
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