八戸藩大久保村、町畑村(枝村)
三戸郡湊村大字大久保(1889 4/1~1924 11/9)
三戸郡湊町大字大久保(1924 11/10~1929 4/30)
八戸市大字大久保(1929 5/1~)
八戸市大字美保野(1960~)
八戸市白銀台(1974~)
八戸市湊高台ニ・三・七・八丁目(1988 9/11~)
八戸市桜ヶ丘一〜四丁目(2005 1/29~)
旧町畑村内の小字
小久保 小久保平 小久保尻
上町畑 下町畑 町畑西ノ平
行人塚 芋野窪(芋ノ窪) 大塚 弥四郎蒔目 重右衛門窪(重エ門窪)
現存の小字
生平
南部地方では珍しく「平」を「ヒラ」と読む。だが語源は不明。
大塚 行人塚 行人坂
大塚、行人塚は隣接しており、字行人塚、字大塚は古くは枝村の町畑村の範囲であった。行人塚とは行者が食事などを断ち、生きながら仏になった場所に建てた塚を意味する。その塚を大塚とも呼ぶ。またはそういう伝承があって、塚のような小高い丘があったので名前を付けたか。行人坂は大久保部落に北西で接する、少し離れた場所に存在するが、行人が歩いた坂なのか。
大山
大きな山があったと解釈してよい。これも大塚と同じ語源である可能性がある。大久保でも美保野に接するほど最奥であるし、合点がいく。
上大久保 下大久保
三島川によってできた窪地を桜ヶ丘の西側にある窪地と比較した時にこちらが大きかった為。
上大久保と下大久保は一つの村であったが、部落としては同一ではなく別々に存在していたことが古地図からわかる。
上面
「かみおもて」と読む。面は平らな物の表面の意味なので、川の上流の平らな土地の意味。
上町畑 下町畑 町畑西ノ平
「マチバタケ」と読む。「マチ」は本来農地の境界を意味するので、町と畑が一緒なのは案外おかしくないのである。
ただ、境界の畑というのもよくわからないのであるが…。
小久保 小久保尻 小久保平
大久保と比較して小さい窪地であったため。この川は岩淵方面へ流れ、新井田の寺沢で新井田川に合流する。川の名前は不明。
小松平
小松は松に親しみを込めて「小」を付けたもの。松が生えている平地の意味。
余談だが、字小松平は飛地が存在し、北高の西側にも存在する。古地図を見ると、北高ができる前はグラウンドを横切るように畔道が存在し、ここが町道との字界となっていたと推測できる。高校ができた際に字界も歪んだのであろう。また、小松平バス停が存在するが、これは字小松平に存在せず、なんと二つ隣の字名の白銀町字姥畑にある。もしかしたらだが、ここいらへんの平地を全般的に「小松平」(白銀平、蒼前平などと同様に)と呼んでいたのかもしれない。
坂ノ上 坂ノ脇
二つの字は隣接している。坂は、三島川が作った渓谷を登る坂の事。
作兵エ穴
作兵エは人名だろう。穴は、穴が存在した、もしくは穴のように周りを山に囲まれて狭い穴状の土地の二通り考えられる。穴状の土地は、三島川の上大久保周辺に存在するが、作兵エ穴にまでは掛かっていないので違う。よってここには穴があったのか。湊高台になってしまった今、確かめる術はない。
サクロツ
由来は不明だが、アイヌ語でsak-ru-us-i、夏の道がある所。という解釈ができる。夏に使う山を越す道があるという意味か。三島川流域でもあり、大久保部落方面へ狩猟へ行く際に使用していた可能性がある。
沢目
三島川、若しくは三島川に流れ込む沢と、窪んだところの意味の「目」が合わさった地名。
三社
「さんしゃ」と読む。俗に宗教地名と呼ばれる部類ではないかと思い調べた所、浜長根との境界付近に神社を見つけた。この神社、国土地理院の地図以外には載っていなく、「高徳神社」と呼ぶらしい。上大久保部落の神社であろうか。(下大久保並びに大久保村は沢目にある大久保天満宮、1505年建立)
下長根
長根は長い尾根の事。大久保や長沢から続く台地の先端に位置し、三島川が作った渓谷に入る手前に位置するため、下を付けた。
重右エ門窪
重右エ門が開発若しくは所有していた窪地。南は階上町蒼前(旧角柄折村)に接し、如何にも大塚から分離してできた地名にような場所である。
袖ノ沢
三島川支流の勘助川と合流する部分。三島川から見て、袖(外)の沢である為。
鷹待場
鷹を待つ場所、鷹狩りを行う場所の意味。新井田(岩淵)にも同様の小字がある。
長沢
そのままで長い沢。三島川分流。現在地図では把握できず。
夏川戸
勘助川と三島川が合流するところなので、「ナツ」が低湿地の泥を表す「ナヅ」、「川戸」が「川処」で低湿地で川があるところの意味か。
西ノ平
大久保村の西に位置する台地上の平原。
野馬小屋
このあたりは三島川へ繋がる沢が多く湧水が豊富である為、昔は馬の放牧が行われていた。その馬を「野馬」と呼んだ。
野馬を管理する小屋があった為。
浜長根
三島川が作った渓谷が少しだけ広くなるところ。川が蛇行し、浜のようになっていたのか。その場所の長い尾根。
町道
町へ続く道ではなく、農地の境界を表す「マチ」の道、即ち境界の道。確かに白銀村や湊村と隣接しており、三村間の境界に位置する。
弥四郎蒔目
弥四郎なる者がが開拓した場所であった。
巻目、蒔目はアイヌ語のマク(山手・奥側・後ろ側)と、窪んだところの意味の「目」が合わさった言葉。町畑西ノ平の南東部に小高い丘があり、その後ろの窪んだ所の意味か。町畑から続く渓谷の最終部分。
旧小字
浅香蒔目
現在の湊高台八丁目にある、東霊園ほぼ全域。浅香は浅いの転訛である。東京の阿佐ヶ谷も浅い谷→浅か谷→阿佐ヶ谷となっているので、「浅い」から「浅か」は転訛しやすいのかもしれない。蒔目は弥四郎蒔目などと同義。北西部には湊町字中沢巻目、中巻目など巻目の付く地名が多く存在する。
芋ノ窪
1960年に戦後開拓のより耕作された美保野に住所変更された。大久保からは大山を抜けて広がる台地である。美保野は「野」が付くため平野だと思いやすいが、思ったより高低差があり、町畑から小久保を抜けて新井田寺沢に出る川の支流による窪地、沢が何個も存在する。芋ノ窪は「鋳物久保」で、大山にある金吹沢にはラジウム鉱泉の温泉があり、金っけのある水が吹き出る沢、の意味を持つ。こちらも「芋ノ」を「鋳物」と解釈すれば、製鉄関連の字名で繋がる。
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