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テンプレート:Infobox Single「上を向いて歩こう」(うえをむいてあるこう、別名:スキヤキ、SUKIYAKI)は、坂本九の大ヒット曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大[1]、プロデューサーは草野浩二。ビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日に、週間ランキング第1位を獲得。ビルボード誌1963年年間ランキングでは、第10位。後に数多くのアーティストによってカヴァーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。坂本逝去のメモリアルソングとしてもよく用いられる。
元々は中村八大が1961年7月21日に開催した自身のリサイタルのために制作した楽曲であったが、曲直瀬信子の推薦により、坂本九のシングル曲としてレコーディングされることになった[2][3]。
NHKで放送されていたテレビ番組「夢であいましょう」の、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。当時の日本のレコード売り上げランキング(「ミュージック・ライフ」誌に掲載されていた国内盤ランキング[4])では1961年11月 - 1962年1月まで3ヵ月にわたり1位を独走した。
売り上げだけを見れば相当なものであったが、九の独特な歌い回しが耳に合わない当時の保守的な日本の歌謡界においては評価は高くなかった。レコード大賞にも選ばれていない。だが、この評価は世界での大成功により覆された。
「上を向いて歩こう」は歌いだしが印象的な歌だが、レコーディングの時にその「上を向いて……」の部分を初めて聴いて「ウエヲムーイテ」が「ウヘホムフイテ」に聞こえたという作詞者の永六輔は、「何だその歌い方は!」と九に向かって激怒したと伝えられる[5][6]。この独特の歌い方は、母がやっていた小唄とプレスリーやバディ・ホリーの影響であるとも言われている[5]。永六輔は後に、九の母の話から、九と邦楽の歌い方を結びつけて考えるようになった[6]。
1962年、ヨーロッパでこの曲が紹介され、大ヒットした。フランスなどでは原題と同じ意味のタイトルで発売されたが、イギリスでは「SUKIYAKI」、ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」と意味不明な改題をされた。
1962年、イギリスのディキシーランド・ジャズのトランペッター、ケニー・ボールが彼のバンドでインスト曲として演奏し、「SUKIYAKI」(無論、曲自体に『すき焼き』という単語は出てこない)というタイトルで発売、全英チャートで10位にランクインした。
「SUKIYAKI」という曲名は、ケニー・ボールの所属したイギリスのパイ・レコードの社長ルイス・ベンジャミンが契約の話で来日した際、土産にもらった数枚の日本のシングルレコードをホテルに帰ってから聴いた中にあった「上を向いて歩こう」を大変気に入り、帰国後ジャズでリリースすることに決めた。その際レコードには日本語のタイトルしか印刷されておらず、『原題の「UE O MUITE ARUKOU(上を向いて歩こう)」のタイトルがわからず、日本で契約の際に会食した「スキヤキ」が心に残る食べ物だった』という理由で、日本料理の名前を付けたものだと言われている。しかしケニー・ボールの証言では、「上を向いて歩こう」ではタイトルが長くなってしまい短くわかりやすい日本語の曲名をつけたかったが彼が知っていたものが「SUKIYAKI」と「SAYONARA(さよなら)」ぐらいだったため、「サヨナラ」では暗すぎるし、どうすればいいか考えていた中華料理屋での会食で同席していた友人の女性歌手ペトゥラ・クラーク(当時の彼女は仏ヴォーグ・レーベルに所属していたが、英国でのレコード発売権をパイ・レコードに委託している)に相談したところ「SUKIYAKI」がいいと言われたこともあり、そうしたとのことである。なお原題の英語での直訳は「I LOOK UP WHEN I WALK」で特段長いタイトルではない。
実はケニー・ボールはレコーディングの直前に最愛の母を亡くしており、その哀しみをトランペットに込めて演奏(本人の談によれば曲の雰囲気を出すために何とおまるを使ったとのこと)、これもヒットにつながった要因の一つといえる。
ちなみにケニー・ボールは現在でも自分のバンドの演奏レパートリーにこの曲を加えており、2005年にはこの曲が海外でヒットした経緯を辿る番組のために、彼のコンサートを訪れていた坂本九の次女の大島舞子(舞坂ゆき子)を特別にヴォーカルに迎えて演奏した。
アメリカでは、イギリスでヒットしたケニー・ボール楽団のレコードが発売されたが、チャートの100位以内には入らなかった。しかしワシントン州パスコのラジオDJリッチ・オズボーンが偶然坂本九のレコードを入手し(彼の番組のリスナーの高校生が日本にいるペンフレンドに貰ったものを送ってきたという)、ラジオ番組で「SUKIYAKI」として紹介すると、局に問い合わせが殺到し、1963年、「SUKIYAKA」(発売当初は「SUKIYAKI」が誤植されこのタイトルとなった。後に訂正)の題でキャピトル・レコードから発売され、ビルボード誌で6月15日付から6月29日付まで3週連続、キャッシュボックス誌で6月15日付から7月6日付まで4週連続1位のヒットとなった。ビルボード誌において、英語以外の歌では1958年のドメニコ・モドゥーニョ「ボラーレ」(イタリア語)以来2曲目の1位であり、同年のシングルレコード年間チャート4位にもランクされている。また「全米1位」の影響を受け、日本でも1963年7月に『上を向いて歩こう「スキヤキ」』のタイトルで再プレスされヒットした。しかし当時、「SUKIYAKI」の全米1位は、日本の東芝レコードの反応は「あまりの遠い国での出来事に実感がなかった」という。なお、キャピトル側は最初、アメリカで英語以外の歌がヒットした前例がほとんど無いことから九に英語で歌わせようとしたが、米軍時代に駐日経験のあるオズボーンは日本語で売り出した方が受けがいいと主張、日本語のオリジナルバージョンがそのまま発売された[7]。
この大ヒットを受けて、同年8月に坂本九はキャピトル・レコードの招きで渡米、テレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」にゲスト出演し。(実は「エド・サリバン・ショー」からも出演依頼が来ていたが、スケジュールが合わなく出演は叶わなかった。)、さらに売り上げが上昇したアメリカ国内の売り上げが100万枚を突破し、翌1964年5月15日には外国人としては初めて全米レコード協会のゴールドディスクを受賞した(当時は100万枚以上がゴールド)。ちなみにこの頃、アメリカ国内の音楽雑誌の記事には手書きの「鋤焼(すきやき)」が「鍬焼(くわやき)」となったりレコードジャケットの「坂本九」が「坂木九」となるなどの誤植が見られた。「鍬焼」に関しては、NHK「夢であいましょう」内でもヒットの話題を伝える黒柳徹子が触れていた。
このほか世界約70ヵ国で発売され、総売り上げは1300万枚以上[8]とされる。また1988年までにアメリカのラジオでのオンエア回数は100万回を超えた。
2005年6月から「上を向いて歩こう」がイギリスの携帯ネットワーク会社スリー・モバイルのCMソングに起用され、問い合わせが殺到。同年8月29日にイギリスで坂本九のアルバム「メモリアル・ベスト」が発売された。9月には「上を向いて歩こう」をシングル発売。
アルゼンチンではスペイン語に訳されアルゼンチン・タンゴへと編曲され、1964年に「SUKIYAKI(Naranjos en Flor)」として、南米長期滞在中であった日本のタンゴ歌手・阿保郁夫が歌い、空前の大ヒットとなっている。
アメリカでは渡辺はま子のカバー「支那の夜(China Nights)」(この曲は発売当時は作曲家の専属契約の問題があり、専属契約に対しての縛りが緩和された後には新たに差別表現が問題となり長年日本では発売されず。2004年に発売された坂本九のアルバム「メモリアル・ベスト」で日本発売・初CD化された)も最高58位、アルバム『Sukiyaki and Other Japanese Hits』(有名な「坂木九」の誤植はこのレコードである)も最高14位(いずれもビルボード誌)を記録した。次のシングル「九ちゃんの炭坑節(Tanko Bushi)」(こちらは日本でも発売された)も発売されたが、三井三池炭鉱で起こった爆発事故の影響で歌うことを自粛し、これに伴いアメリカでの活動も事実上終了した。キャピトル・レコードはビートルズのアメリカでのプロモーション以上に宣伝費用をかけたといわれるが、結局、アメリカでは一発屋に終わってしまった。
予定では、本格的に活動拠点を日本国外に移す計画もあったという。なお、坂本九がアメリカでの活動を終えたことで、それ以降ピンク・レディーが37位にランクインするまで、日本人歌手がビルボードのHOT 100のランキングに挙がることはなかった。
尚1975年にはアメリカとの企画でアルバム「ターニング・ポイント」を制作。録音はアメリカワーナーブラザーズスタジオにて行われ、スタッフも全て現地スタッフによる制作。アメリカと日本でシングル、アルバムが同時発売された。
テンプレート:現在進行東芝レコードが東芝EMIに成った後、何回かCDシングル盤がリリースされたが、ここ10年近くは新品の市場流通も途絶え、同時代の歌謡曲を多数収録した大全集系のCD以外では曲が収録されたメディアを入手することが困難な状況であった。
2011年、音源の原盤を保有し続けるEMIミュージック・ジャパンでは同年7月に公開されるアニメ映画『コクリコ坂から』の挿入歌として採用されたことと、やはり同年に起こった東日本大震災後にCMに使われた事(#その他の節参照)、「元気が出る曲」としてリバイバル的人気が高まったことを受け、“ アニバーサリー・シングル ”として7月13日にマキシシングル盤とカセットテープ盤をリリースすることになった。(同時収録は「見上げてごらん夜の星を」・「一人ぼっちの二人」・「ともだち」)
また2011年5月1日から発売されるローソン発売版の『コクリコ坂から』前売券の特典として、「上を向いて歩こう」を収録したCD(収録曲は一曲のみ)が付録される。
日本盤のオリジナル(東芝音楽工業 JP-5083)、アメリカ盤(Capitol 4945)、イギリス盤(HMV POP-1171)等のB面曲は「あの娘の名前はなんてんかな」(Anoko No Namaewa Nantenkana。ドイツ盤(Electrola E-22477)では「Anoko-No」という表記になっている)。アメリカのジュークボックス用レコードのB面曲は「九ちゃんの炭坑節」(Tanko Bushi)である。
また、日本で1988年にCD化された(東芝EMI XT10-2268)際のカップリング曲は「見上げてごらん夜の星を」である(1994年に発売されたもの(東芝EMI TODT-3208、TODT-3309)はオリジナルと同じく「あの娘の名前はなんてんかな」をカップリングに収録)。
その他、フランス語やデンマーク語、ポルトガル語、中国語等のカバーもあり、すき焼を食べる内容の歌詞に変えられたバージョンも存在する。また、エルヴィス・プレスリーも1964年にカバーする予定だったが、坂本九で1位を取っていることと、良い英語の歌詞が見つからなかったことを理由に断念したという。なお、エルヴィスは後年、ラスベガスでのステージを見に坂本九が訪れたことを知ると「もっと早く知っていればステージに上げて紹介したのに」と残念がったという。
1962年に日活より同名の映画が公開された。
少年鑑別所から脱走した主人公の九と良二の更生と趣味に傾斜する行く末を軸に、高度経済成長期に生きる若者達の青春群像を描かれている。そのため、楽曲からイメージしがちな「集団就職で親元を離れた―」という視点は当てはまらない。
テンプレート:現在進行2011年7月2日には先述したアニバーサリー・シングル盤の関連商品として、同年に製作・上映された姉妹編的劇映画『ひとりぼっちの二人だが』と併せ「上を向いて歩こう」DVDスペシャル・コレクション」と題し初DVD化される予定。
キャスト(永自身がラジオで、中村メイコに失恋したときの話だとも語っている。)
テンプレート:選抜高等学校野球大会入場行進曲
テンプレート:先代次代
ar:أوه وو مويته أروكوen:Sukiyaki (song)eo:Sukiyaki (kanto)es:Sukiyaki (canción)fi:Sukiyaki (kappale)he:סוקיאקי (שיר)id:Sukiyaki (lagu)it:Ue o muite arukōnl:Sukiyaki (lied)pt:Sukiyaki (canção)sv:Sukiyaki (sång)th:สุกียากี้ (เพลง)vi:Ue o muite arukou
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