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ジャッキー・チェン | ||||||||||||||||||||||
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ファイル:Jackie Chan 2002-portrait edited.jpg 空母キティホークの甲板にて(2002年) | ||||||||||||||||||||||
繁体字 | 成龍 | |||||||||||||||||||||
粤拼 | Sing4 Lung4 | |||||||||||||||||||||
出生名 | 陳港生(家系図上での本名は房仕龍) | |||||||||||||||||||||
祖籍 | 安徽省和県 | |||||||||||||||||||||
出生 | 1954年4月7日(69歳) 香港の旗 香港ヴィクトリア・ピーク | |||||||||||||||||||||
別名 | 陳元龍、元樓 | |||||||||||||||||||||
英語名 | Jackie Chan | |||||||||||||||||||||
職業 | 俳優 | |||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画(俳優・監督・製作)、歌手 | |||||||||||||||||||||
活動期間 | 1962年 - 現在 | |||||||||||||||||||||
配偶者 | ジョアン・リン(1982年 - ) | |||||||||||||||||||||
子供 | ジェイシー・チャン | |||||||||||||||||||||
公式サイト | http://www.jackiechan.com/ | |||||||||||||||||||||
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ジャッキー・チェン(成龍、テンプレート:繁体字、広東語発音:シン・ルン、1954年4月7日 - )は、香港出身の映画俳優。身長174cm血液型はAB型。
京劇や中国武術で鍛えた身体能力を活かして、それまで暗い復讐劇が多かったカンフー・アクション映画の世界に、ハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主演。50歳を越えた現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。
妻は、台湾の元女優ジョアン・リン。息子は同じく俳優のジェイシー・チャン。初主演作『花都大戦/ツインズ・エフェクト2』でジェイシーと親子共演を果たした。
ジャッキー・チェンは、1954年に香港のヴィクトリア・ピークにて「陳港生」として生まれた。父親は陳志平(チャールズ・チャン、家系図上では房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)[1]。陳志平は、国共内戦を避け、中国大陸から香港に逃れた。
7歳から約10年間、中国戯劇学院にて京劇を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた。
彼の生い立ちは、メイベル・チャン監督の『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2002年)に詳しく、ジャッキー本人も知らない兄弟の存在など複雑な家庭環境を持ったことが紹介されている。また、この作品においてジャッキーの本名は陳港生ではなく、房仕龍であると明かされている。
彼の青春時代を描いた、メイベル・チャン製作総指揮・脚本、アレックス・ロー監督、サモ・ハン・キンポー主演の『七小福』(1989年)では、厳しい京劇の学校での生活と、香港映画界へと進むまで姿が描かれている(ただしジャッキー本人は出演していない)。
無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでブルース・リーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではブルース・リーに首を折られるエキストラ役としても出演した。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いたが、1976年にブルース・リー作品の監督であるロー・ウェイの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイ・プロと専属契約し再デビューを果たし、1979年にゴールデン・ハーベスト社に移籍した。
当時の香港映画界は、ブルース・リーの死によって低迷期にあり、ブルース・リーのそっくりさんを使った作品や、クオリティの低い二番煎じ的なカンフー映画が乱発されていた。ジャッキーも、初期作品ではブルースの後継者として期待され、復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが、大成功には至らなかった。そうした反省も踏まえ、ジャッキーは制作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。これが『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)といったヒット作の誕生につながった。また、自ら命懸けのスタントをこなす姿勢も評価され、人気を得ていった。
一時期、批評家からの声に刺激され文芸路線(「奇蹟/ミラクル」など)を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。
元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』、『キャノンボール』、『プロテクター』など米国作品に主演・出演してきたが、評価は高まらなかった。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。
そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築いた。このラッシュアワーシリーズの続編『ラッシュアワー2』は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後『シャンハイ・ヌーン』『タキシード』『シャンハイ・ナイト』『80デイズ』など、立て続けにアメリカ映画作品に主演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。
だが地元香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りで、『タキシード』『シャンハイ・ナイト』『メダリオン』などは、ジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった[2]。
2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなった。また、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。
1970年代、ブルース・リー・ブームにより、千葉真一、志穂美悦子、倉田保昭らによる、映画やTVシリーズが爆発的人気だった。特に東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心で、1979年に『トラック野郎』との2本立てで公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』『クレージーモンキー 笑拳』『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』『龍拳』『蛇鶴八拳』『カンニング・モンキー 天中拳』『成龍拳』『ジャッキー・チェンの醒拳』が公開され話題を集めた。なお当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。
その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した。(1990年代頃までの過去の作品はジャッキーの肉声ではなく、別の役者によって吹替えられている。これはジャッキー作品特有のものではなく、当時の香港映画界では、声優の職場確保のため、また北京語以外は輸入映画扱いとなっていたため、広東語主体の劇映画は撮影時に音声の録音をせず、後からプロの声優によって北京語・広東語・英語音声の音源が作られるというシステムになっていたことによる。最近は、ジャッキーも含め、出演者本人の台詞を録音して使うことが主流となっている)。また過去の作品をアメリカで公開する際はジャッキー自身の英語セリフにより新録音され、音楽もリニューアルされることが多い(「酔拳2」、「レッド・ブロンクス」、「ファイナル・プロジェクト」など)。
1980年代から1990年代にかけて、ファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「不死鳥成龍会」「MIRACLES」「無問題倶楽部」「チャイニーズドラゴン」などが存在し、それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影等)で訪れた際は、喜んで対応してくれていた。
1980年代には、『月刊コロコロコミック』にて、ジャッキーをパロディー化したキャラクター「ジャッキーちゃん」が主人公のギャグ漫画「あほ拳ジャッキー」(作・ぜんきよし)が連載された。ちなみに同作品にはブルース・リーやジェット・リーのパロディーキャラも登場している。またジャッキー・チェンのパロディキャラといえば『ハイスクール!奇面組』にも若気市猿(じゃきいち・えん)という一回性のキャラクターが登場する。
またゲームソフトにも多数登場している。ジャッキー関連の初のゲーム化は1984年にアーケードゲームで登場した『スパルタンX (ゲーム)』であるが、ゲーム自体は映画の内容とは関連性はなかった。しかし1985年に発売された、ファミコン用ソフトの『スパルタンX』のパッケージの絵はジャッキー似のキャラとなっている。
1991年には、PCエンジンとファミコン用ソフトの「ジャッキーチェン」がハドソンから発売された。このゲームの発売当時のゲーム雑誌インタビューでは、ジャッキー自身のアイディアも一部ゲーム中に取り入れられているとコメントしている。
1995年、日本のゲームメーカー、カネコが製作したアーケード用対戦型格闘ゲーム「カンフーマスター ジャッキー・チェン」に出演。このゲームのキャラクターはグラフィック画ではなく、実際の俳優を撮影し、画像を録り込んで使用していることから、ジャッキー本人がゲーム画面のキャプチャ撮影を行った。なおこのゲームにおいてジャッキーはプレイヤーキャラクターではなく、なんと最終ボスとして登場する敵役である。登場する服装は数パターンあり、クンフーの稽古着や『プロジェクトA』内で着装した警察の正装で戦う。ちなみに続編では晴れてプレイヤーキャラとなった。
2005年には、家庭用体感ゲームの事業にも参加している。同年秋にゲーム事業のイベントで訪日した際には、関係者から『スパルタンX』がゲーム化されていることを初めて聞き、無言で手を差し出す(権利料を払え、の意)という行為を行い、場が凍りつくハプニングがあった。直後にジャッキーは満面の笑みでジョークであることをアピールし、事無きを得た。
2006年、西陣よりパチンコ機「CRジャッキー・チェン」、2007年には藤商事により「CRプロジェクトA」が製作された。
訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。近年では、日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたり様々なゲームで対決をしている。
芸能人の中にジャッキーのファンも多く、映画やTVのバラエティ番組で、内村光良、武田鉄矢、山本高広、長井秀和、岡村隆史、陣内智則らにモノマネされたことがある。
内村光良は、2004年の映画「恋人はスナイパー」の中で、「フー・アム・アイ?」のラストのビル屋上での死闘のパロディを中村獅童と演じた。また1990年頃の自身の番組で「ウッチー・チェン」と言うキャラを演じ、ジャッキー映画の名場面を再現し危険なスタントも内村自身が演じ、それを観たジャッキー本人も絶賛していた。また1992年の映画「七人のおたく」でもジャッキーを真似たキャラを演じている。また自身の番組にジャッキーをゲストに招くことも多く、毎回いろんな企画(リング上でのカンフー対決など)をやっている。内村いわく「ジャッキーは俺の番組の年一のレギュラー!!」との事である。
武田鉄矢は、一時期ジャッキーの髪型を真似る程の自他共に認めるジャッキー・ファンとして有名だが、1980年代に映画「刑事物語」シリーズを5本製作しジャッキーとの共演を熱望していたらしいが、ギャラの折り合いがつかず断念したという話がある。「刑事物語3・潮騒の詩」のオープニングのビルからの落下は「プロジェクトA」でジャッキーが時計台から落下する場面のパロディで、またラストのヒットマンとの野原での対決は「ヤングマスター 師弟出馬」のラストの死闘のパロディである。武田いわく「この役はジャッキー・チェンへのオマージュなんです」との事である。
2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC(大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。なお2008年4月に発売された、PS3用ソフト「プロ野球スピリッツ5」において東京ドームでプレイした際、外野後方にあるオロナミンCの看板に、ジャッキーが写っている。
声優の石丸博也はジャッキーのほとんどの作品で吹き替えを担当しているほか、ジャッキー関連のアニメやドキュメンタリーでも声を担当。ジャッキーも石丸に対し「これからも僕の声をよろしくお願いします。今度あなたが香港映画に出る時は僕があなたの声を吹き替えます(笑」と親しみを込め語っている。 2010年11月13日放送の『めざましどようび』には石丸が電話出演し、当日公開のジャッキー最新作『ラスト・ソルジャー』のPRを行った。なお石丸とジャッキーの初対面は、1982年4月放送の『スネーキーモンキー 蛇拳』のアフレコスタジオである(ちょうど新作『ドラゴンロード』のPRで来日しており、ジャッキーが石丸を表敬訪問)。また1984年8月放送の『夜のヒットスタジオ』にジャッキーが歌手として出演した時は、石丸がジャッキーの応援で出演し、当月公開の新作『五福星』の1シーンをジャッキーの前で吹き替えした。
2010年11月15日放送の『SMAP×SMAP』で『芸能界ジャッキー・チェン王決定戦』が行われ、我こそはジャッキー・マニア代表だと豪語する香取慎吾、中川翔子、ドランクドラゴンの塚地武雅、スキマスイッチの大橋卓弥、中川家の礼二、有村昆がジャッキーのサイン入りお宝グッズを巡ってクイズで勝負をした。ジャッキーもVTR出演し、またコーナー・ゲストの木村拓哉、稲垣吾郎もボケ担当として笑いを誘っていた。ただクイズで優勝を競うと言うより、それぞれがお宝グッズを公開したり自慢話をしたり、ジャッキー映画の名場面を観ながら全員で盛り上がるといった内容であった。
2011年は、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれる予定。このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。
俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌はロックレコードの李宗盛から学んだ。
1980年代には彼自身が無名時代からファンで、後に親友の間柄になった西城秀樹と共に東洋の2大スーパースターと称された。1987年の琵琶湖コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」などを一緒に熱唱した。
陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏でよく知られ、今でもデュエット・ソングとして人気がある。
1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。
日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤング・マスター師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。
『ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(チャイナブルー、東京サタデーナイト)を本人が歌った。「東京サタデーナイト」に関してはジャッキーもかなりのお気に入りらしく、最近の公の場でも口ずさむ時がある。
現在、香港政府観光局の観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行っている。
韓国でも大変人気が高く、本人もたびたび韓国を訪れている。そのため韓国語も流暢に話すことができる。
2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。
2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループ(英皇娯楽集団)と提携して、自らの映画制作会社、成龍英皇影業有限公司(JCE Movies Limited)を設立した。
以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、最近の発言でも「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。近年は、事あるごとに引退を示唆する発言をしている。
2011年、ジャッキー・チェン出演作100本目記念作品として「辛亥 革命 1911」を監督主演で製作する事を発表。息子のジェイシー・チャンと共演。中国・香港で10月公開の予定。
日本でも大ヒットした1983年作品『プロジェクトA』でのワンシーン、25mの時計台から地面に落下するアクションはまさに命懸けスタントであった。ちなみに、この時計台落下シーンは喜劇王ハロルド・ロイドの『要心無用』からヒントを得ている。ジャッキーはこのシーンのために3回時計台から落下し、全てのカットを本作で見ることができる(本編に使われたのは2つで、落下の仕方が異なっている。残る1つは落下失敗で、屋根が破れずにNG。これはエンドクレジットのNGシーンで採用。大けがを負ったのは最初のテイクで頭から地面に落ちたこのカットは非常に衝撃的で有名なものとなった)。
ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐しており、その内容を以下に要約する。
1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』や続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットし、ジャッキーとウィリー・チェン(マネージャー)は、ローがレンタル出向前に製作し完成してた『拳精』と『龍拳』を配給会社が警戒して(過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗してた為)買わなくなってた事もあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう(『醒拳』は結果的に、ローが1983年にそっくりさんと『笑拳』のNGフィルムなどを使用し無理やり完成させ、ジャッキー最新作として公開したため、ジャッキーは裁判沙汰にしようと考えるくらい激怒した)。
ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、「三合会」と呼ばれる当時の香港芸能マフィアを利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。三合会はジャッキーを拉致してローの面前へ引き出し、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも三合会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても三合会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な三合会の件は、黒社会との繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは三合会に狙われることはなくなり、ローもまた三合会と手を切ることができた。これにてジャッキーは事無きを得ている。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』『炎の大捜査線』に準主演級で出演しており、これらの作品にノーギャラで出演したことについてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。
この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本においては、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家の日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及しているが、この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」といった内容となっている。また当時、日本の旅行会社がジャッキーに会うためのツアーを企画したが、1979年末に『ヤングマスター師弟出馬』完成後、極秘にゴールデン・ハーベスト社が次回作『バトルクリーク・ブロー』(ジャッキー初のハリウッド作品)の撮影のためにジャッキーをアメリカへ逃がした後だったので会えなかった。
なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会(マフィア)追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と語っていた。
台湾に関する発言[]ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智行政院新聞局局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』(台北市1014万台湾元)、『THE MYTH/神話』(台北市1100万台湾元)『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(台北市900万台湾元))。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。
その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。
その他[]ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。特に三菱・ランサー、三菱・ミラージュ、三菱・パジェロ、三菱・ギャランが多い。
ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。
1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。
大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードやプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。
2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている[14]。
香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。
タイトルは日本語題・原題の順※は監督兼任
1970年代テンプレート:Commons
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