四国八十八箇所

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八十八番霊場御印譜

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納札

四国八十八箇所(しこくはちじゅうはっかしょ)は、四国にある88か所の空海(弘法大師)ゆかりの札所の総称。単に八十八箇所、あるいは四国霊場と言う場合も多い。四国八十八箇所を巡拝することを四国遍路、四国巡礼などとも言う。

目次

概要[]

江戸時代ごろから西国三十三箇所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。これを模して小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場・江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小様々な巡礼地が作られた。「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国遍路隆盛の証左とも言われている。

阿波国の霊場は「発心の道場」、土佐国の霊場は「修行の道場」、伊予国の霊場は「菩提の道場」、讃岐国の霊場は「涅槃の道場」と呼ばれる。

他の巡礼地と異なり、四国八十八箇所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八箇所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1200 - 1400km程である。自動車を利用すると、打戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので、徒歩より距離が増える傾向にある。一般的に、徒歩の場合は40日程度、観光バスや自動車を利用する場合は10日程度を要する。

遍路は順番どおり打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、移動手段や日程行程などさまざまである。1度の旅で八十八ヵ所のすべてを廻ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡ることを「区切り打ち」という。また、順番どおり廻るのを「順打ち」、逆に廻るのを「逆打ち」(さかうち)という。近年は順序を無視して打つことを「乱れ打ち」という人もあるらしいが、伝統的な慣用句ではない。うるう年には逆打ちをする遍路が平年に較べ多いとの印象をもつ人もいるらしいが、これは閏年に逆打ちを行うと倍の御利益があるとも、お大師さん(弘法大師)とすれ違うと云う言い伝えがあるからだろうとも言われている。

遍路(巡礼者)は札所に到着すると、本堂と大師堂に参り、およそ決められた手順(宗派によって多少異なる)に従い般若心経などの読経を行い、その証として納札(おさめふだ、後述)を納める。境内にある納経所(のうきょうじょ)では、持参した納経帳(のうきょうちょう)または掛軸か白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字などを墨書してもらう。この一連の所作を納経とも言う。朱印目当てに急ぎ巡る遍路は、判取り遍路(はんとりへんろ)またはスタンプラリーと揶揄されることもある。

八十八箇所全てを廻りきると「結願」(けちがん、結願成就)となる。その後、高野山(奥の院)に詣でて「満願成就」とする考え方もあるが、これは特に定められたものではない。

歴史[]

修行の地、四国[]

古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海(補陀洛山寺#補陀洛渡海)の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれている。室町時代には僧侶の遍路が盛んになる。

四国遍路の成立[]

江戸時代初期に「四国遍路」という言葉と概念が成立したとされる。この頃には僧侶だけでなく民衆が遍歴しはじめる。17世紀には真念という僧によって『四国遍路道指南』(-みちしるべ)という今日でいうガイドブックが書かれている。手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたと言われる。修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、ハンセン病患者などの、故郷を追われた、もしくは捨てざるをえなかった者たちが四国遍路を終生行った。また、犯罪やそれに類する行為で故郷を追われた者も同様に居たといわれている。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出るといったこともあったとされる。

近代における遍路の「観光化」[]

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弘法大師生誕地 善通寺

昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師のもとへ行けるようにと死装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。

近代以降、四国遍路はさまざまな場面で取り上げられることとなった。以下は、森正人の『四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』創元社に詳しく紹介されているが、1908年には現在の『毎日新聞』の前身である『大阪毎日新聞』で、四国遍路の巡礼競争が企画された。全国紙での企画ではこれが最初のものであるらしい。1930年代には乗り物を用いて、旅館などに宿泊する巡礼者が登場した。彼らは「モダン遍路」と呼ばれた。四国遍路は観光としてみなされたのだった。

観光として四国遍路を捉える人々に対して、伝統的な四国遍路を主張する「遍路同行会」が1929年に東京に誕生した。同書によると、現在のような四国霊場会は存在しなかったが、1910年ごろに小林正盛という人物が組織化を模索した形跡があるとされる。ただし実質的な活動はしておらず、1942年に善通寺を中心とした「四国八十八ヶ所霊場会」が組織されたのが、四国側での活動組織となっている。この霊場会の組織に先立って1937年、高野山電気鉄道を子会社に持つ大阪の南海鉄道によって「四国八十八ヶ所出開帳」というイベントが開かれた。このとき、それまで全寺院が協力して何かを成し遂げることなどなかったが、初めて全寺院が団結して出開帳を成功させた。「この経験が、1942年の霊場会の成立と関わっているのではないか」と、同書は解説している。

現代[]

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第一番 霊山寺

現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者が増えたといわれている。一時期減ったといわれるすべての札所を徒歩で巡礼する歩き遍路も同じころから増えた。また、バックパッカー的な感覚やトレッキングを楽しむ感覚で遍路をする者(斉藤政喜など)も増えたといわれている。今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめなおす機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。

その人数は定かではないが、年間30万人(うち歩き遍路が5000人)ともいわれている。

いろいろな巡礼手段[]

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道しるべ

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巡礼者

徒歩[]

伝統的には、四国遍路は「歩き」(歩き遍路と呼ばれる)で、1日30km歩いても約40日を要する。一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道も廃れ、幹線道路になった遍路道は車の排気ガスが充満するなど歩き遍路にとってはつらい状況になったが、排気ガス規制や、寺院や地元の人たち、へんろみち保存協力会などによって、遍路道の整備や復興、道しるべの設置などが行なわれ一時期よりは歩きやすくなった。国道55号などの遍路道と幹線道路とが一体化している道や旧来の遍路道では、遍路装束の歩き遍路を目にすることができる。歩き遍路向けに歩き遍路のルートを解説した書籍も何点か販売されている。また、全行程ではないが、いくつかの区間においてハイキングも兼ねたウォークガイド本も出ている。

公共交通機関の利用[]

体力や身体的な理由などですべてを徒歩で巡礼するのは無理だが、できる限り歩きつつ公共交通機関を利用する巡礼者もいる。2006年から四国運輸局では、公共交通を利用した四国遍路のためのガイドリーフレットを作成、配布している。ただし、公共交通機関が無い区間や、電車やバスの本数が少なく不便な地域も多い。

バスによる団体巡礼[]

昭和40年代からの四国内の道路事情の改善もあり、大型観光バスによるお四国巡りの団体巡礼が企画催行されている。何泊もしながら1回で回り切る本格的なもの、一国参りといって一つの県内を回るもの、原則日帰りで、1回で10か寺程度ずつお参りし、何回かのツアーに参加して結願となる手軽なものなど、さまざまである。地元の会社が主催する四国発着の団体巡礼もあるが、大手ツアー会社が主催する関西や中国地方からの団体巡礼も多く、近年では関東などからの団体巡礼も増えている。団体巡礼では本堂や大師堂での読経は先達(後述)や僧侶が先導してくれ、納経帳に判を貰うのは添乗員が代行してやってくれる。このようなツアー会社やバス会社主催の団体巡礼以外にも、札所や寺院、各地の参拝団(講)が主催する団体巡礼もある。小規模な団体や大型バスが通行できない札所への参拝は、マイクロバスやジャンボタクシー等も利用される。

自動車・オートバイでの巡礼[]

マイカーやレンタカーなど、自動車やオートバイを利用して巡礼する人も多い。自分の休日を利用して少しずつ計画的に回る人もいる。今では、高速道路を利用すれば、四国の主要都市からほとんどの札所へ日帰りが可能である。

ただし、山道など道路事情が良くない区間や札所も多い。また遍路道の中には車が通行できない区間もある。そのため遍路道から外れて整備された道路へ迂回しなければならないことも多い。

自転車での巡礼[]

自転車を利用する巡礼者もいる。自転車を趣味とする人や、歩きでは時間的、体力的に無理でも、自分の力で巡礼をしたいという人が、自転車を利用している。自転車での巡礼では、ロードバイク・クロスバイク・マウンテンバイク・シクロクロス・ランドナーといった変速ギアのある長距離走行に向いた車種を使用することが多いが、シティサイクル(ママチャリ)や電動アシスト自転車、折りたたみ自転車等も使用されている。自転車を使った巡礼者も増え、関連書籍も発売されている。[1]

霊場一覧[]

テンプレート:座標一覧以下に霊場の一覧を示す。地図で場所を確認したい場合、右のリンクで一覧できる。

No.山号山号の読み寺号(括弧は通称)寺号の読み宗派本尊所在地
1竺和山じくわざん霊山寺りょうぜんじ高野山真言宗釈迦如来徳島県鳴門市
2日照山にっしょうざん極楽寺ごくらくじ高野山真言宗阿弥陀如来徳島県鳴門市
3亀光山きこうざん金泉寺こんせんじ高野山真言宗釈迦如来徳島県板野郡板野町
4黒巖山こくがんざん大日寺だいにちじ東寺真言宗大日如来徳島県板野郡板野町
5無尽山むじんざん地蔵寺じぞうじ真言宗御室派勝軍地蔵菩薩徳島県板野郡板野町
6温泉山おんせんざん安楽寺あんらくじ高野山真言宗薬師如来徳島県板野郡上板町
7光明山こうみょうざん十楽寺じゅうらくじ高野山真言宗阿弥陀如来徳島県阿波市
8普明山ふみょうざん熊谷寺くまだにじ高野山真言宗千手観世音菩薩徳島県阿波市
9正覚山しょうかくざん法輪寺ほうりんじ高野山真言宗涅槃釈迦如来徳島県阿波市
10得度山とくどざん切幡寺きりはたじ高野山真言宗千手観世音菩薩徳島県阿波市
11金剛山こんごうざん藤井寺ふじいでら臨済宗妙心寺派薬師如来徳島県吉野川市
12摩盧山まろざん焼山寺しょうさんじ高野山真言宗虚空蔵菩薩徳島県名西郡神山町
13大栗山おおぐりざん大日寺だいにちじ真言宗大覚寺派十一面観世音菩薩徳島県徳島市
14盛寿山せいじゅざん常楽寺じょうらくじ高野山真言宗弥勒菩薩徳島県徳島市
15薬王山やくおうざん国分寺こくぶんじ曹洞宗薬師如来徳島県徳島市
16光耀山こうようざん観音寺かんおんじ高野山真言宗千手観世音菩薩徳島県徳島市
17瑠璃山るりざん井戸寺いどじ真言宗善通寺派七仏薬師如来徳島県徳島市
18母養山ぼようざん恩山寺おんざんじ高野山真言宗薬師如来徳島県小松島市
19橋池山きょうちざん立江寺たつえじ高野山真言宗延命地蔵菩薩徳島県小松島市
20霊鷲山りょうじゅぜん鶴林寺かくりんじ高野山真言宗地蔵菩薩徳島県勝浦郡勝浦町
21舎心山しゃしんざん太龍寺たいりゅうじ高野山真言宗虚空蔵菩薩徳島県阿南市
22白水山はくすいざん平等寺びょうどうじ高野山真言宗薬師如来徳島県阿南市
23医王山いおうざん薬王寺やくおうじ高野山真言宗薬師如来徳島県海部郡美波町
24室戸山むろとざん最御崎寺(東寺)ほつみさきじ真言宗豊山派虚空蔵菩薩高知県室戸市
25宝珠山ほうしゅざん津照寺(津寺)しんしょうじ真言宗豊山派延命地蔵菩薩高知県室戸市
26竜頭山りゅうずざん金剛頂寺(西寺)こんごうちょうじ真言宗豊山派薬師如来高知県室戸市
27竹林山ちくりんざん神峯寺こうのみねじ真言宗豊山派十一面観世音菩薩高知県安芸郡安田町
28法界山ほうかいさん大日寺だいにちじ真言宗智山派大日如来高知県香南市
29摩尼山まにざん国分寺こくぶんじ真言宗智山派千手観世音菩薩高知県南国市
30百々山どどざん善楽寺ぜんらくじ真言宗豊山派阿弥陀如来高知県高知市
31五台山ごだいさん竹林寺ちくりんじ真言宗智山派文珠菩薩高知県高知市
32八葉山はちようざん禅師峰寺ぜんじぶじ真言宗豊山派十一面観世音菩薩高知県南国市
33高福山こうふくざん雪蹊寺せっけいじ臨済宗妙心寺派薬師如来高知県高知市
34本尾山もとおざん種間寺たねまじ真言宗豊山派薬師如来高知県高知市
35醫王山いおうざん清瀧寺きよたきじ真言宗豊山派薬師如来高知県土佐市
36独鈷山とっこうざん青龍寺しょうりゅうじ真言宗豊山派波切不動明王高知県土佐市
37藤井山ふじいざん岩本寺いわもとじ真言宗智山派阿弥陀如来
観世音菩薩
不動明王
薬師如来
地蔵菩薩
高知県高岡郡四万十町
38蹉跎山さだざん金剛福寺こんごうふくじ真言宗豊山派三面千手観世音菩薩高知県土佐清水市
39赤亀山しゃっきざん延光寺えんこうじ真言宗智山派薬師如来高知県宿毛市
40平城山へいじょうざん観自在寺かんじざいじ真言宗大覚寺派薬師如来愛媛県南宇和郡愛南町
41稲荷山いなりざん龍光寺りゅうこうじ真言宗御室派十一面観世音菩薩愛媛県宇和島市
42一{王果}山いっかざん佛木寺ぶつもくじ真言宗御室派大日如来愛媛県宇和島市
43源光山げんこうざん明石寺めいせきじ天台寺門宗千手観世音菩薩愛媛県西予市
44菅生山すごうざん大寶寺たいほうじ真言宗豊山派十一面観世音菩薩愛媛県上浮穴郡久万高原町
45海岸山かいがんざん岩屋寺いわやじ真言宗豊山派不動明王愛媛県上浮穴郡久万高原町
46医王山いおうざん浄瑠璃寺じょうるりじ真言宗豊山派薬師如来愛媛県松山市
47熊野山くまのざん八坂寺やさかじ真言宗醍醐派阿弥陀如来愛媛県松山市
48清滝山せいりゅうざん西林寺さいりんじ真言宗豊山派十一面観世音菩薩愛媛県松山市
49西林山さいりんざん浄土寺じょうどじ真言宗豊山派釈迦如来愛媛県松山市
50東山ひがしやま繁多寺はんたじ真言宗豊山派薬師如来愛媛県松山市
51熊野山くまのざん石手寺いしてじ真言宗豊山派薬師如来愛媛県松山市
52瀧雲山りゅううんざん太山寺たいさんじ真言宗智山派十一面観世音菩薩愛媛県松山市
53須賀山すがざん圓明寺えんみょうじ真言宗智山派阿弥陀如来愛媛県松山市
54近見山ちかみざん延命寺えんめいじ真言宗豊山派不動明王愛媛県今治市
55別宮山べっくさん南光坊なんこうぼう真言宗醍醐派大通智勝如来愛媛県今治市
56金輪山きんりんざん泰山寺たいさんじ真言宗醍醐派地蔵菩薩愛媛県今治市
57府頭山ふとうざん栄福寺えいふくじ高野山真言宗阿弥陀如来愛媛県今治市
58作礼山されいざん仙遊寺せんゆうじ高野山真言宗千手観世音菩薩愛媛県今治市
59金光山こんこうざん国分寺こくぶんじ真言律宗薬師如来愛媛県今治市
60石鉄山いしづちざん横峰寺よこみねじ真言宗御室派大日如来愛媛県西条市
61栴檀山せんだんざん香園寺こうおんじ真言宗御室派大日如来愛媛県西条市
62天養山てんようざん宝寿寺ほうじゅじ高野山真言宗十一面観世音菩薩愛媛県西条市
63密教山みっきょうざん吉祥寺きちじょうじ真言宗東寺派毘沙門天愛媛県西条市
64石鈇山いしづちざん前神寺まえがみじ真言宗石鈇派阿弥陀如来愛媛県西条市
65由霊山ゆれいざん三角寺さんかくじ高野山真言宗十一面観世音菩薩愛媛県四国中央市
66巨鼇山きょごうざん雲辺寺うんぺんじ真言宗御室派千手観世音菩薩徳島県三好市
67小松尾山こまつおざん大興寺(小松尾寺)だいこうじ真言宗善通寺派薬師如来香川県三豊市
68琴弾山ことひきざん神恵院(琴弾八幡)じんねいん真言宗大覚寺派阿弥陀如来香川県観音寺市
69七宝山しっぽうざん観音寺かんのんじ真言宗大覚寺派聖観世音菩薩香川県観音寺市
70七宝山しっぽうざん本山寺もとやまじ高野山真言宗馬頭観世音菩薩香川県三豊市
71剣五山けんござん弥谷寺いやだにじ真言宗善通寺派千手観世音菩薩香川県三豊市
72我拝師山がはいしざん曼荼羅寺まんだらじ真言宗善通寺派大日如来香川県善通寺市
73我拝師山がはいしざん出釈迦寺しゅっしゃかじ真言宗御室派釈迦如来香川県善通寺市
74医王山いおうざん甲山寺こうやまじ真言宗善通寺派薬師如来香川県善通寺市
75五岳山ごがくざん善通寺ぜんつうじ真言宗善通寺派薬師如来香川県善通寺市
76鶏足山けいそくざん金倉寺こんぞうじ天台寺門宗薬師如来香川県善通寺市
77桑多山そうたざん道隆寺どうりゅうじ真言宗醍醐派薬師如来香川県仲多度郡多度津町
78仏光山ぶっこうざん郷照寺ごうしょうじ時宗阿弥陀如来香川県綾歌郡宇多津町
79金華山きんかざん天皇寺(高照院)てんのうじ真言宗御室派十一面観世音菩薩香川県坂出市
80白牛山はくぎゅうざん國分寺こくぶんじ真言宗御室派十一面千手観世音菩薩香川県高松市
81陵松山りょうしょうざん白峯寺しろみねじ真言宗御室派千手観世音菩薩香川県坂出市
82青峰山あおみねざん根香寺ねごろじ天台宗単立千手観世音菩薩香川県高松市
83神毫山しんごうざん一宮寺いちのみやじ真言宗御室派聖観世音菩薩香川県高松市
84南面山なんめんざん屋島寺やしまじ真言宗御室派十一面千手観世音菩薩香川県高松市
85五剣山ごけんざん八栗寺やくりじ真言宗大覚寺派聖観世音菩薩香川県高松市
86補陀落山ふだらくざん志度寺しどじ真言宗善通寺派十一面観世音菩薩香川県さぬき市
87補陀落山ふだらくざん長尾寺ながおじ天台宗聖観世音菩薩香川県さぬき市
88医王山いおうざん大窪寺おおくぼじ真言宗単立薬師如来香川県さぬき市

四国遍路にちなむ文化[]

衛門三郎伝説衛門三郎は、四国霊場にまつわる伝説上の人物。四國邊路指南(しこくへんろみちしるべ)の刊行ここまで四国遍路が盛んになったのは、貞享4年(1687年)に刊行された『四国遍路指南』という新書版の本の刊行による。この本を著したのは眞念という人であるが、そこには宿泊所情報なども盛り込まれており、遍路をしたい人にとって重要なガイドブックとなった。さらに、この本によって八十八箇所が固定化され、それまで順番などなかった札所の寺に順番が付けられたものと考えられる。同行二人仮に一人で四国八十八箇所をめぐっても、同行二人(どうぎょうににん)と言って常にお大師さん(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。「同行二人」は参拝の道具にも記されている。同行二人の巡礼者ともう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来や菩薩などのことを想っても良いとする教えもある。白衣笈摺(おいずる)とも呼ばれる。巡礼者が着なければならないとされる、白い着衣。四国八十八箇所の寺院や門前の店で購入すると「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的である。袖があるものを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もあるが、はっきりと区別されているわけではない。宝印を受領するためだけの実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ばれる。巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束としてとらえる説もあれば、巡礼といえども修行中なので清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なのでみな白衣を着るとする説もある。金剛杖木製の杖で空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわれるほどで、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわしである。巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたといわれる。市販されているものは「同行二人」「南無大師遍照金剛」や梵字が書かれ、般若心経が書かれているものもあり、杖の上部の細工は塔頭を模している。橋の上ではついてはならない(後述)。逆打ち四国を時計回りに札所の数字を昇順に巡礼するのを順打ちといい、反時計回りに降順に巡礼するのを逆打ちという。第一番札所から巡礼を開始し、逆打ちする場合は第三番札所金泉寺から大坂峠越えで第八十八番札所大窪寺に向かうのが一般的であったといわれている。映画『死国』では禁忌などのようにとらえられているが、順打ちよりも困難な場合が多く、ご利益が順打ちよりも大きく、順打ち3回分のご利益があると言われている。また、逆打ちだと順廻りしているお大師さんと遭遇する確率が高いので、この理由でご利益があるとも言われている。お接待 ファイル:Shikokumura11s3200.jpg

茶堂の例(四国村。北宇和郡より移築)

道中、お遍路さんに対して地元の人々から果物や金品、善根宿など、お接待または接待とよばれ、食べ物や飲み物、手ぬぐいやときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統がある。これに対し、遍路は持っている納札(おさめふだ)を「お接待」してくれた人に渡すことになっている。こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人であってもお参りができたといわれる。今日でも四国西南部ではお接待の場ともなった「茶堂」が残っている。「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師のある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものとか様々である。観光振興や観光従事者の研修等では「もてなしの心」と拡大解釈されることがある。もともと、関西で西国三十三箇所観音霊場の修行者、巡礼者に対して始まったとされるが、 観光化、俗化したために関西では早くに廃れたといわれている。四国以外の地域でも、接待講と呼ばれる講を組み、浄財を集め、四国で遍路にたいして接待をするということも行われた。納札札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経を写経したものを納めるのが正式とされているが、読経したのちに自分の名前を書いた納札を納めても良い。衛門三郎が自分が空海を探しているということを空海に知らせるために(空海が立ち寄ると思われる)寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていた。このことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」とも言う。現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れることになっている。また、接待をしてもらったら、その人にお礼の気持ちも込めて納札を渡すのが決まりである。結願した回数によってお札の色を変えてもよい。1~4回が白、5~7回が緑、8~24回が赤、25回以上で銀、50回以上で金、そして100回以上で錦の札となる。ただし、白より錦の札がより良いとされるわけではない。100回以上回っても白の納札を使う人もいる。善根宿善人宿とも呼ばれる。広義では自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設である。施設を提供するのは個人や企業、地域ぐるみなど様々である。通夜堂本来は寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所においては霊場が巡礼者にたいして用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない(布団も基本的にはない)。かつては通夜堂を持つ霊場が多かったが、旅館などの宿泊施設が増えたことや、利用者のマナーなどの問題により減少し、現在では通夜堂を持つ霊場(小屋やガレージなどを一時的に利用しても良いとする霊場を含む)は2割程度である。十夜ヶ橋(とよがはし)現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたがどの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。このため巡礼者は橋の下には空海がいるかもしれないから橋をわたるときは杖を突いてはならないというならわしがある。すぐそば、国道に面して永徳寺(番外霊場)があり、お参りする人も多い。現在、その橋は「十夜ヶ橋」と呼ばれ国道56号の一部となり、交通量の多いコンクリート橋になっているが、橋の下で空海を偲びつつ野宿することができる。雨期には冠水する場合もあり、夏季は蚊が多いので注意を要す。※詳しくは、永徳寺を参照。地四国・島四国四国八十八箇所のことを略して「お四国参り」あるいは「お四国」「お大師さん」と呼ぶことがあるが、四国には各地に民衆信仰としての地四国あるいは「ミニ四国」「新四国」と呼ばれるものがある。離島では島を四国に見立てて、八十八箇所を再現した島四国も瀬戸内海を中心に存在する。先達四国八十八箇所霊場会では、昭和30年代に「公認先達」という認定制度を発足させた。ツアー会社の団体巡礼に同行する先達はほぼ「公認先達」である。徒歩による巡礼のガイドを引き受けてくれる先達もいる。公認先達は最低4周以上の巡拝経験が必要である。その上で研修を経て補任される。 ファイル:Henromichi 08.JPG

中司茂兵衛が建立した、しるべ石と地蔵の一つ(大興寺門前)

中司茂兵衛(大先達)弘化2年(1845年)周防国(現在の山口県)生まれ。四国八十八箇所巡礼を慶応2年(1866年)から大正11年(1922年)まで歩きで280回巡拝した。また、しるべ石を240基余りを建立した。

世界遺産化をめぐる動き[]

1000年を越える歴史を有する巡礼を基礎とした特異な文化であり、世界遺産への登録をめざす動きが四国にはあり、特に香川県が意欲的であるものの4県の中でも温度差があったが、2006年11月、文化庁に対して「四国八十八箇所霊場と遍路道」の「暫定リスト」への登載を求め、要望書を提出した。

また、民間で遍路道を含めて世界遺産登録に向けた活動を行なっている団体があり、その活動に積極的に関わっている札所もある。ただし、霊場会全体で見解が統一されているわけではない。ちなみに、キリスト教のサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路や日本の紀伊山地の霊場と参詣道は世界遺産登録されている。

結局、2007年1月には採択されなかったが、四県関係者は今回の関係者の認識統一や採択に向けた課題も整理でき一歩前進と受け止めている。

その他[]

  • 青龍寺は、元霊場会会長蓮生善隆により四国零番札所と名づけられた。
  • 東寺は、四国八十八箇所の出発寺とされる[2]
  • 與田寺は四国八十八箇所総奥の院とされる。
  • 現在、第三十番札所は「善楽寺(高知市一宮)」であるが、元来の第三十番札所は土佐一ノ宮高賀茂大明神(土佐神社)で別当の神宮寺が納経を行っていた(当時、高鴨大明神と神宮寺はほぼ一体の存在であった)。しかし、明治初頭の廃仏毀釈によって「神宮寺」は廃寺となり、高賀茂大明神の本地仏である阿弥陀如来も二十九番札所国分寺に移された。1876年(明治9年)、これを安楽寺へと移すこととなり、三十番札所も安楽寺が引き継いだ。善楽寺は神宮寺の塔頭寺院として葬儀などを執り行っていたが、神宮寺と共に廃寺となった。しかし1929年(昭和4年)に地元から葬儀を執り行う寺院の復興が望まれたため、埼玉県さいたま市にあった東明院の寺基を移す形で善楽寺を復興し、国分寺から旧神宮寺の弘法大師像や寺宝を引き継いだ。このころから善楽寺が「善楽寺は弘法大師巡錫地であるから第三十番札所である」というようになった。三十番札所が二ヶ所存在するような事態となった。1942年(昭和17年)には善楽寺を札所とし、安楽寺を奥の院とする取り決めがなされたが履行されず、二ヶ所併存状態が続いたため、遍路たちも戸惑いながら2つともに巡礼する姿が見られた。そのため、安楽寺を弘法大師ゆかりの阿弥陀如来を安置する本尊奉安の霊場、善楽寺を開創霊場として、どちらで納経を行ってもよいということとなった。さらに1993年(平成5年)元日より、「善楽寺」を第三十番札所に、「安楽寺」は第三十番札所奥の院とすることで正式に決着した。
ファイル:Jinnein-kannonji 01.jpg

神恵院と観音寺の境内図

  • 明治維新による神仏分離令によって、それまでの第六十八番札所「琴弾八幡宮」の本地仏(本尊)の阿弥陀如来像をほぼ隣接する第六十九番札所「観音寺」の西金堂に移し、神恵院とした。これ以降、観音寺には一寺院の中に二つの札所が存在する。本堂と大師堂はそれぞれ存在するが、納経所はひとつである。
  • 大相撲第六十八代横綱朝青龍明徳(あさしょうりゅうあきのり)の四股名は、第三十六番札所青龍寺にちなんでつけられた。モンゴルから相撲留学していた明徳義塾高等学校の近くにある青龍寺の石段でよくトレーニングをしていたため、明徳義塾の校長の案で四股名とした。ちなみに「明徳(あきのり)」は、母校の名からつけた。
  • 江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川、浦戸湾、須之内湾、四万十川などにあった。2005年末までは四万十川にも渡し船があったが、現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである。巡礼者が渡し船を使うと多くの場合渡し賃が無料(接待)であったと伝えられている(現在の浦戸湾の渡し船は巡礼者でなくとも無料)。歴史的な経緯から渡し船に乗った以外を徒歩で結願した場合は、全て徒歩で結願したとみなされる。
  • 歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。遍路では主に後者の小屋タイプが使われていた。村によってはいざり車をみかけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。
  • 江戸時代、土佐国(現高知県)では巡礼者の入国、出国は甲浦(現東洋町甲浦地区)と松尾峠(現宿毛市)の関所二ヶ所のみとされた。入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられた。また遍路狩りのようなこともあったと言われている。また、四国でもっとも廃仏毀釈が激しかったのは土佐であり、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることはそうそうなく、気候温暖ですごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきたといわれている。そのため晩秋のころからは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。
  • 国や自治体では、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として各種整備している。旧来の遍路道が「四国のみち」が重なっている場合などは、「四国のみち」として案内版や登山道の整備などがされているが、かならずしも「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではない(札所間のルートで四国遍路とは関係がない史跡が組み込まれて遠回りになる場合がある)ので、遍路道を辿りたい場合には注意が必要である。

関連作品[]

書籍[]

入門書・解説本・ガイド
  • 牛山 泰博『四国遍路はにほへと』(ビコー出版、2010年5月)
  • 本田 亮『ママチャリお遍路1200km―サラリーマン転覆隊』(小学館、2008年7月)
  • 須藤 元気『幸福論』(ネコ・パブリッシング、2005年)
  • 森 正人『四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』(創元社、2005年)
  • 加賀山 耕一『お遍路入門・人生ころもがえの旅』(ちくま新書、2003年)
  • 串間 洋『四国遍路のはじめ方』(明日香出版社、2003年)
  • 永井吐無『四国霊場八十八ヵ寺』(講談社、2001年)
  • 藤岡直樹『愛媛へんろ道ウオーキング7コース』(アトラス出版、アトラス地域文化新書01、2005年)
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人地図編 第8版』(へんろみち保存協力会、2007年) - これから下三冊は書籍流通ルートには乗っていないが、通販もしくは同書を取り扱っている札所・門前店で購入が可能である。
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人地図編 第7版』(へんろみち保存協力会、2006年)
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人解説編 第6版』(へんろみち保存協力会、2004年)
  • 桜井恵武『四国名刹』(明報社、2008年)
研究書
  • 頼富本宏・白木利幸『四国遍路の研究』(国際日本文化研究センター、2001年)
  • 愛媛県生涯学習センター『四国遍路のあゆみ-平成12年度遍路文化の学術整理報告書』(非売品)
  • 愛媛県生涯学習センター『遍路のこころ-平成14年度遍路文化の学術整理報告書』(非売品)
  • 藤沢真理子『風の祈り-四国遍路とボランタリズム』(創風社、風ブックス004、1997年)

テレビ[]

  • 街道てくてく旅 - NHK-BShiとBS2で2008年に放送されている。プロ卓球選手の四元奈生美が春と秋に分け、合計約5カ月かけ徒歩で踏破する。
  • 水曜どうでしょう - 大泉洋らが四国88か所を回る企画「四国八十八ヶ所完全巡拝」がある。
    • 四国R-14(2000年 制作:北海道テレビ 水曜どうでしょうプロジェクト2000) - 上記企画内で起きた事件を基にお遍路にまつわるテレビドラマを制作・放映。出演・TEAM-NACS(森崎博之、安田顕、戸次重幸、大泉洋、音尾琢真)ほか。
  • NHK総合テレビ 土曜ドラマ「ウォーカーズ~迷子の大人たち」 - お遍路を通じて、すべての悩める日本人に贈るメッセージドラマ。出演・江口洋介、三浦友和、戸田菜穂、原田芳雄ほか。
  • NHK総合テレビ 「野のきよら山のきよらに光さす」 - 夫を殺した母と娘2人が四国八十八か所の巡礼に出る。出演・左幸子、吉田日出子、杉田かおる、田村高廣ほか。
  • ザ!世界仰天ニュース - 過去の特番にてあべこ(胡蝶蘭)他、男女各1名のデブキャラ芸人が長期間かけて四国八十八箇所を回るというロケ企画を敢行。その内容を番組内で数回に分けて放映された。

映画[]

  • 『旅の重さ』(1972年 松竹株式会社)素九鬼子原作の同名小説の映画化。母との生活に疲弊した16歳の主人公が、自分自身を見つめ直すために四国遍路へと旅に出、様々な体験をする。高橋洋子のデビュー作でもある(監督:斎藤耕一 出演:高橋洋子、岸田今日子、三国連太郎、高橋悦史、主題歌「今日までそして明日から」はよしだたくろうの作詞作曲)。
  • 『砂の器』(監督野村芳太郎) - ハンセン病患者が故郷を追われお遍路になったことを取り上げた。
  • 『ロード88 出会い路、四国へ』(2004年ギャガ・コミュニケーションズ 監督:中村幻児)
  • 『死国』(1999年 製作:「死国」製作委員会 配給:東宝100分)

演劇[]

  • 夢へんろ 〜どんな時も希望をすてず〜 2007年6月・吉祥寺 前進座劇場、松山市民会館中ホール。主催:みかん一座、NPO法人ニュースタート事務局後援:愛媛県/松山市/読売新聞東京本社/愛媛新聞社/朝日新聞松山総局/日本テレビ/南海放送/愛媛経済同友会ほか - 引きこもり・ニートから再出発を始めた若者たちが、みかん一座のメンバーと共演。主催するNPO法人は、毎年、引きこもりの若者を歩き遍路へと導く企画運営にも携わっている。

関連項目[]

ギャラリー[]

熊谷寺(8番)
金剛頂寺(26番)
大寶寺(44番)

脚注[]

  1. 『ママチャリお遍路1200km―サラリーマン転覆隊』(本田亮、小学館、2008年7月)、『旅好きオヤジの自転車巡礼記―四国八十八ヶ所とスペイン巡礼』(小林建一、えい出版社、2008年12月)
  2. 食堂内 納経所(東寺HP)

外部リンク[]

テンプレート:Commonscat

  • 四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ - 四国八十八ヶ所霊場会による公式ホームページ
  • お遍路のススメ - 遍路のススメ友の講による総合情報サイト
  • 四国八十八箇所 お遍路ポータル - ボランティアによる総合情報サイト
  • 四国88NAVI - 四国運輸局による情報サイト
  • 四国遍路・野宿編 - 四国遍路・野宿編
  • テンプレート:Wikitravel


de:Shikoku-Pilgerwegen:Shikoku Pilgrimageeo:Ŝikoku-pilgrimadofr:Pèlerinage de Shikokuit:Pellegrinaggio di Shikokuzh:四國八十八箇所



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