さだまさし

ページ名:さだまさし

テンプレート:出典の明記テンプレート:Infobox Musicianテンプレート:文学さだ まさし(本名・佐田雅志、1952年4月10日 - )は長崎県長崎市出身のシンガーソングライター、小説家。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。

二人組のフォークデュオ、グレープでデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロになってからも「雨やどり」、「関白宣言」、「北の国から」など数々のヒット曲・有名曲を生み出してきた。その叙情的で文学的な歌詩の世界は独自のものとして定評がある。2008年3月現在、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手であり、その回数は3500回を越えている。

またトークの軽妙さはテレビ、ラジオでも、またコンサートのMCにおいてもさだの大きな魅力となっている。近年では小説家としても活動している。

國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。血液型はA型。趣味はゴルフ。

弟はさだ企画社長で、元サッカー選手でもある佐田繁理。妹は、歌手の佐田玲子。息子は、2007年現在桐朋学園大学在学中のヴァイオリニスト佐田大陸。

目次

経歴[]

生い立ち[]

長崎市で佐田家の長男として生まれる。佐田家は元々島根県那賀郡三隅町(現浜田市)の大地主の家系である。その次男坊だった祖父・繁治は中国大陸で諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主であり、その繁治と結婚した祖母エンもまたソ連(現ロシア)のウラジオストックで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。父・雅人は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚し、雅志・繁理・玲子の三人の子をもうけている。雅志の幼少時は、父・雅人は材木商を営み、自宅は庭に小山があるような豪邸だったという。

3歳よりヴァイオリンを習い始め、毎日学生音楽コンクール西部地区大会で入賞するなどの上達ぶりを見せる。一方、父の事業が失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる。

小学校卒業後、ヴァイオリン修行のため単身上京。以後、葛飾区や千葉県市川市で一人暮らしを続けることになる。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。その一方東京藝術大学付属高校(途中で東京都立駒場高等学校(現東京都立芸術高等学校の芸術科)に志望校を変更)の受験に失敗し、失意の中國學院高等学校に入学。以来ヴァイオリンへの熱意を失う。ただし創造性とでも言うべきユニークな才能は高等学校在学中にもいかんなく発揮され、数多くの武勇伝や逸話を残している。

グレープでデビュー[]

國學院大學中退(法学部へ入学も、殆ど大学には行かなかった)後、数々のアルバイトをしながらの生活を送るも、やがて肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷。1972年、高校時代からの友人吉田政美とバンド、「グレープ」を結成し音楽活動を開始。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年には「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。

1974年、「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであった為か、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、名古屋にある東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサーの蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって放送エリアの名古屋地区のみならず、全国的なヒットとなり、この年の日本レコード大賞作詩賞受賞することとなった。

1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット。

ソロ歌手への転向[]

1976年4月、自分たちのやりたい音楽と世間が望むイメージとのギャップを感じたことと、さだが体調を崩したこともあり、「グレープ」を解散。同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。

1977年にシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。

1978年10月、個人レーベル「フリーフライト」設立。

1979年1月、同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリース。

同年7月にリリースした「関白宣言」が150万枚を超える大ヒットとなる。他にも「案山子」、「天までとどけ」、「親父の一番長い日」、「道化師のソネット」、「防人の詩」、「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、翌1981年にかけ、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画『長江』(主題歌は「生生流転」)を制作(1981年11月公開)。映画自体は120館上映というヒットであったものの、それ以上に制作費を掛け過ぎてしまったため、約30億円もの負債が残った[1]。また、この頃から大ヒットの反動から「暗い(ネクラ)」「右翼」「左翼」「軟弱」「女性蔑視」など様々なバッシングを受けることになる。

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当。歌詩の無い主題歌だが大変有名な曲となる。

1985年、ソロ・コンサート通算1000回(東京厚生年金会館)を達成。

1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけはなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。

1993年、ソロ・コンサート通算2000回(大阪フェスティバルホール)を達成。

1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞。

2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて君が代を独唱。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う。

2001年9月、小説『精霊流し』を発表。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊。2002年にひろすけ童話賞を受賞する。

2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9~12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選日本対イラン」の試合にて君が代を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。

2006年、1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。好評を博したため、5月・8月に続編が放送、翌2007年1月1日未明にも『2007年新春生放送 年の初めはさだまさし』が放送され、3月にも続編が放送されている。

2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。

2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、日本レコード大賞・特別賞を受賞する。

2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。

シンガーソングライターとして[]

歌詞の傾向[]

シリアスな曲が多い一方で、「恋愛症候群」「雨やどり」「関白失脚」(「関白宣言」のアンサーソング)のように半ばコミックソング的な要素のある曲も多く、両者が矛盾せずに、むしろ互いが互いを引き立てる「光と影」のような、いずれが欠けてもさだの世界ではなくなる存在感で定位している。これらの曲はライブで初披露され、ライブ録音された客の笑い声が入った音源となっている。この手法は、さだのお気に入りであるようである。また、仏教的なテーマ(「修二会」など)や日本の古典作品をモチーフとした作品(「飛梅」「まほろば」など)も多い。更に、世間のイメージとは裏腹にロック調の楽曲やラップに挑戦した「がんばらんば」など、幅広い作風の楽曲を生んでいる。

実に多彩なテーマで曲を作り続けているさだであるが、ある程度の傾向、類似テーマ・形式・スタンス・題材のものが存在する。それが決してマンネリズムではなく、時代と共に少しずつ変化しているなど、新鮮な響きを以って受け止めることができるのが、さだの特筆すべき独自性でもある。この辺りは、さだが落語に造詣が深いことと無関係ではないと言われている。「親父の一番長い日」、「風に立つライオン」などポール・サイモンから影響を受けた歌詞の言葉数が多い曲がある一方で、朗々と歌い上げるタイプの曲もある。

さだ自身が故郷長崎を幼少時代に離れたことから、望郷の歌、ふるさとと都会の距離感を歌う曲は数多い。また、楽曲の主人公(語り部、一人称)が男女を問わず、また幅広い年齢層にわたることが、実際に多くの年齢層のファンに共感を得られることが人気の秘密であり、そのことがさだの作詩家としての才能を良く表している。例えば「婚礼」というテーマにおいても、「花嫁から母親へ(秋桜)」、「母親から花嫁へ(秋の虹)」、「花婿から花嫁へ(関白宣言)」、「兄から父親・花嫁へ(親父の一番長い日)」と立場を変え、さまざまな視点から楽曲に取り上げていることがわかる。

メロディーの傾向[]

西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった[2]。自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。

声の変化[]

テンプレート:出典の明記他の歌手に比べ、さだまさしはデビュー時から今日まで、声の変化が著しい。

美声グレープとしてデビューした1973年(21歳)から1981年(29歳)までの歌声は、いわゆる「美声」というものである。楽譜通り歌い、言葉をあまり短くしない。年を重ねるに従い次第に声に磨きがかかり、歌い手としての全盛期を迎える。今日一般に言われているさだの名曲のほとんども、この時期に発表されたものである(精霊流し、案山子、関白宣言、主人公など)。恐怖の声枯れ事件1982年(30歳)の年始に、さだはのどをいためる(「恐怖の声枯れ事件」と呼ばれる、原因はのどに出来たポリープ)。これ以降さだは歌い方を大きく変える。微妙に言葉言葉の音をわざとはずしたり、かなり力を込めて歌ったり、鼻声にしてみたり。だがこれからの何年かが一番声に伸びがあり、また高・低音の幅がとても広い。とくに1985年発表のシングル「恋愛症候群」の最後のところや、翌86年に発表したセルフカヴァーベストアルバム『帰郷』などを聴くとそれを実感する。シングル「風に立つライオン」もこの頃(1987年)。氷河期1989年(37歳)の夏にさだは再びのどの調子を悪くし、いわゆる「氷河期」を迎える。高音が苦しくなり、いわゆる「ガラガラ声」が目立ち始める。しかしこの時期においても、そのガラガラを「渋さ」に変えて、シングル「奇跡」(1991年発表)などの名曲を生み出す。2006年発売のアルバム『美しき日本の面影』でセルフカヴァーされた「天然色の化石」もこの頃発表された(1990年)。鼻濁音デビュー20周年を迎えた1993年もしくは翌94年から、さだは鼻濁音を使い始める。デビュー時とは違う人のような個性的な歌声になり、ときどき高音が鼻にかかった弱い音になるのが特徴。だがこれにより声が再びよく伸びるようになり、渋さと声の幅、伸びが両立された。「修二会」「落日」などはこの頃に発表された。しかし、長年のどを酷使したせいもあり、しだいに高音が細く細くなっていく。オペラ(?)2001年(49歳)声が伸びなくなって、さだは歌手として声の面でおそらく最大の危機を迎える。そこで編み出したのが「オペラ調高音」。とにかく太く太く歌う。大きな声を出すと高い音が出やすく、またのどそのものは堅牢になっているので、とにかくオペラ歌手のように声がよく伸びるという、ひたすら穏やかな歌声を勝ち取った。50歳を越えてから再び追い風にのったようで、小田和正司会の『クリスマスの約束』(2007年12月25日 TBSテレビ)では、声の高い小田の「woh woh」を原キーで歌いこなしている。

活発なコンサート活動[]

さだのコンサート回数は2007年には3500回(オリコン調べによる、3000回を超えている邦人のプロ歌手はさだまさしのみ)を超え、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことがひとつのきっかけだった。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行なうようになった。

前述のように仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの社寺仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか、東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行なっている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。

1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2007年現在、さだのみである。

影響を受けたアーティスト[]

中学1年の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている[3]。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある。

その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先のお兄さんから借りたギターを使って全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという[3]

同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、 加山雄三やサイモン&ガーファンクルの影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である。

「噺家」として[]

さだまさしは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた[4]ためもありその話術には定評がある。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。

コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋り[5]、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり[6]、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。

観客もトークを楽しみにしており、『のちのおもひに』収録の20周年記念ライブ第1夜の挨拶で「今日はあまり喋りません」と言ったら客席から「えーっ!」という声が挙がったこともある。まるで落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向にオールリクエストコンサートを行った際には、歌は勿論どのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手では有り得ないようなことまで行われた。

このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという[7]。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている[7]

また、その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが番組内で歌われた歌はたった3曲で殆どの時間をトークですすめ、裏番組の番組名を読み上げたり、紅白歌合戦を暗に批判するなどして、ファン以外にも多くの支持を受けた。また同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送! 大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「ふるさと」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関してはさだまさし生放送シリーズを参照。

内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで多額の借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などど話す。NHKの『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』へゲスト出演した、スキマスイッチの常田真太郎(アフロヘアーがトレードマーク)が「そろそろ(アフロを)やめたい」と漏らした際にも「やれる時にやっておけ。いつまでもあると思うな親と髪!」と話した。

2005年6月9日にフジテレビで放送された『北野タレント名鑑』にて、「絶対に出ないだろう」という司会のビートたけしの声に反して、ノーギャラで嬉々として出演を了承するが、オヤジギャグを連発した上、最後まで顔が映らないまま番組が終了してしまう。だが、この事で、逆にさだのトークの面白さを再認識させる事となった。宇多田ヒカルはこの番組を見てさだに興味を持ち、それが元でさだは喋りだけで音楽番組『HEY!HEY!HEY!』(フジテレビ系)へ出演している。

小説家として[]

2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、処女作である自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーに。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。

『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し~あなたを忘れない~』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。

2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝製作で、犬童一心監督により映画化された。

なお、さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に、新潮文庫から『自分症候群』として出版)。

また、童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。

さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。

ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。

人物[]

詩へのこだわり[]

アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている。こうしたところにもさだの文学的志向をうかがうことができる。

さだの詩へのこだわりは、保有している長崎県長崎市(旧琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向により詩島(うたじま)と改名されたことにも表れている。島には、「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。詩島のマスコットとして、さだ自身のデザインによる「詩之介」なるラブラドールのキャラクターが存在している。[8]

歌に託したメッセージ[]

さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さ、凄惨さを痛感している故の平和を求める気持ちが強く、平和祈念コンサートなども行なっている。これは戦争に対するイデオロギー的賛否とは一線を画したもので、故に反戦主義者ではあるがイデオロギー色の強い反戦運動、反戦思想にも懐疑的態度を取っている。また、祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)。

その一方で、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向がある。このためプロ野球の開幕戦やサッカーの国際試合で「君が代」を歌ったり、あるいは靖国神社への参拝を行う(自著に記載)など、一般的な日本の右翼・左翼の観念には当てはまらない言動を行うので、双方からの批判を受けることも多い。しかしそれに動じることなく、紅白歌合戦でも敢えて平和を問う曲目を取り上げ、人々にメッセージを放ち続けている。

スポーツの応援[]

長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまでは読売ジャイアンツのファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズのファンで、優勝時にスワローズのナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともある。元選手兼任監督の古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという[1]。また、神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがある。その他、福岡ソフトバンクホークスについては九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」という表現を何度かしていたり、また北海道日本ハムファイターズのファンが試合中に北の国からを大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたと発言している。

浦和レッドダイヤモンズのファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成し、浦和レッズ発行のハンドブックにはオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されている。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。実は出身地の長崎市が三菱重工などの企業城下町で有った為に浦和の前身である三菱重工業サッカー部以来のファンであったことを、自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で公言している。また、まさしの弟の佐田繁理がサッカー選手として香港で1年間活動していたこともあり、以前からサッカーに興味を持っていたのである。

また競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものである[9]

飲食店の経営[]

1980年代の前半に、東京メトロ・赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。

  • 店先(地上)にはケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースのパロディで、さだまさし自身の立像が据えられていた。
  • 地下に降りて行くとドアがあるが、そこはダミーのドアで、まごついていると横のところが開くようになっていた。
  • 壁には音響装置があり、ヘッドフォンでさだまさしの曲を聴くことができた。
  • トイレの壁には「便訓」という張り紙が貼ってあった。
  • メニューには「あみんセット」(パンプキンパイ・シナモンティー・バラの形の角砂糖)や、アルバム『うつろひ』収録の「分岐点」にちなんだ「分岐点セット」(ミートパイとソーダ水)があった。

この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同所有していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。また、現在でも五反田にバー「MONPETQUOI'S BAR」と「モンペトクワ ごはん屋」が、故郷長崎市に「自由飛行館」がある。

その他[]

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • かつて上の前歯が3本しかなかったが、2007年11月17日に「さだまさしケータイ☆ファンサイト」会員向けメッセージの中で、「35年ぶりに前歯の治療をし、人並みの歯(4本)になった」と報告した。
    • 3本になった経緯をNHK特番『松山から生放送! 大型連休もさだまさし』でさだは、「乳歯が抜け落ちないまま永久歯が生えてしまい、やむを得ず生えてきた永久歯を抜いたところ歯並びが悪くなってしまった。そのため、担当した歯医者が悩みに悩んで考えた苦肉の策として前歯を3本に減らした。」と語っていた。
  • コーヒーカップを左手で持つと小指が立ってしまうので、「決して左手でコーヒーを飲まない」とさだは語っている。ヴァイオリンを弾いている時も小指が立つそうだ。
  • 弟の方が体が大きかったため、服はお下がりではなく『お上がり』だった。(『名古屋から生放送! 秋の夜長もさだまさし』より)
  • 私生活では眼鏡をかけておらず、眼鏡をかけることを「ひらがなになる」(佐田雅志→さだまさし)、これをさだは「『さだまさし』になる」と呼んでいる。
  • コンサートでは、最前列や舞台に近い客席なのにも関わらず双眼鏡やオペラグラスで舞台を見ている客がいると、「最前列(または三列目)での双眼鏡、やめてください(笑)」とさだに注意される。中には注意されたくて故意にオペラグラス等を使用するファンも居り、さだのコンサートでは、お約束とも言える風景である。コンサートが盛り上がった時など、稀に「二列目での双眼鏡、今日はOKです」の日もある。
  • 「大金を持っているのが怖い」らしく、「精霊流し」の印税で自分の墓を建てている。その後も大金が入る度に大きな出費をしており、「『無縁坂』の印税でさだ企画を作り、『雨やどり』の印税で島を買い、『関白宣言』と『夢供養』の印税で映画を撮ったら…足りなかった…」とトークのネタにしている。
  • 1987年の流行語になり、現在は広辞苑にも掲載されている「目が点になる」という言葉は、もともとさだのバックメンバーでギタリストの福田幾太郎(1983年に交通事故で急死)が使い始め、さだのバックメンバーやスタッフに定着したものである。これを、前述のようにさだと親交の深い笑福亭鶴瓶が使うようになったことから、全国へ広がったのだという。
  • 「雨やどり」「秋桜(コスモス)」「親父の一番長い日」など、妹の佐田玲子が近い将来結婚するのを念頭に置いた曲を作っているが、自身が「関白宣言」のヒットが原因で小舅イビリに遭うのを誰もが恐れたからか実際の妹は独身のまま。そのため最近コンサートのトークで「玲子が独身のままなのは俺にとって心もとない話だ。誰か妹を貰う勇気のあるヤツはいないのか? 何故なんだ? 結婚するともれなく『さだまさし』がついてきますのが嫌なのか? 安心しろ。俺は婿イビリはしないぞ」と述べてそれが久しく芸能ニュースのネタとして取り上げられていたほど。
    • また、さだまさしのセイ!ヤングで妹が未だ独身である事を気にかけ「結婚してほしい。できればお金持ちな男性と結婚してほしい」と発言したら、たまたま聞いていた妹から「聞いたぞ!バカタレーッ!」と生放送していた文化放送のスタジオへ電話をかけられて叱責されるという親切心がアダになったというエピソードがある。
  • 吉田政美を招いたコンサートをするときは、吉田に有給休暇を取らせている。本人も「私の有給はあんたのためにあるんだ」と発言したことがある。
  • 三波春夫が『夏・長崎から』に出たがっている、とさだに紹介したのは永六輔である。
    • 『夏・長崎から』での永六輔と三波春夫の出演は1998年に実現している。
  • ラジオ大阪、ラジオ日本のラジオ番組『福井裕佳梨の福袋』では、ほぼ毎回さだもしくはグレープの曲がほとんどフルで流れている。

人気・評価[]

ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できない。

2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはこれが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ~紅白みんなでアンケート~)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になり、今なおその人気が高いことを証明した。

交友関係[]

ミュージシャン[]

谷村新司さだ曰く「フォーク界御三毛(ごさんけ)」の長兄。日本武道館でジョイント・コンサートを行ったこともある。南こうせつミュージックフェアなどで共演する機会も多い先輩。イベントなどで共演する度に「神田川」の前奏・間奏のヴァイオリン演奏を依頼され、その度にさだが「精霊流し」のイントロをわざと間違えて弾く、というギャグをかましている。小田和正グレープ時代、北海道でオフコース(小田・鈴木二人体制時代)とのジョイント・コンサートを行ったこともあるほか「佐世保」では小田がバックコーラスを務めている。また、2007年12月には小田が毎年出演している特番『クリスマスの約束』にさだが出演し、二人で共同制作した楽曲を披露した。松山千春「フォーク界御三毛(ごさんけ)」のもう一人。コンサートなどではお互いに悪口を言い合っている。過去さだが松山の実家に遊びに行ったこともある仲だったが現在は疎遠になっている。「夜のヒットスタジオ」の最終回ではそれぞれコンサート先の地域のネット局から中継で顔を出し、例の如く罵倒合戦を展開し、司会の古舘伊知郎から「往年の(『笑点』における)小円遊と歌丸のようです」と揶揄された。中島みゆき「あの人に似ている」を共作。この曲は男の歌(さだ担当)・女の歌(中島担当)がそれぞれ同じコード進行の別メロディーで進行し、サビで一緒になるという複雑な構成になっている。これは、当初さだ・中島で作詞・作曲のどちらかをそれぞれ分担するというオファーになっていたものを、さだが「せっかく中島みゆきとやるのだから」と中島に提案し、あえて複雑にしたものである。その後、中島の要請で二人でのセルフ・カヴァーが実現し、中島のアルバム『おとぎばなし-Fairy Ring-』に収録されている。この時のインタビューではお互いに「ファンだ」と言い合っていた。また、妹の玲子のデビュー曲「くらやみ乙女」は中島が提供している。森山良子岡村孝子さだに憧れてシンガーソングライターとなる。自身のユニットあみんの名称も、『夢供養』収録の「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店の名前から採っている。2005年にはNHKの音楽番組『夢・音楽館』で共演したほか、さだが岡村の「銀色の少女」では、詩を提供している。小林幸子さだのことを「お兄ちゃん」と呼んで慕っている。さだは『約束』を提供している。加山雄三中学時代、初めて歌を作るきっかけを作った人物(後述)。さだの憧れの人物の一人である。『夏・長崎から』で共演したことがある。平原綾香父親の平原まことが何度かさだのバックメンバーとしてコンサートやレコーディングに参加していることから、親子ともども親交があり、綾香自身もさだのファンであることを公言している。平原も「秋桜」をカヴァーしているほか、2006年正月のNHK『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』や最後の『夏・長崎から』にもゲスト出演している。福山雅治同郷の後輩で、さだに対して敬意を払っており、福山が言及するときはほぼ必ず「偉大なる」と付けている。「秋桜」をカバーしているほか、自身のラジオ番組で「雨やどり」をかけ、「好きでよく歌うのだが、歌うと泣いてしまう」と語っていた。他にも「関白宣言」「精霊流し」などをラジオのBGMとして使用している。

アレンジャー・バックメンバーなど[]

  • 佐田玲子(妹)
  • 佐田大陸(息子)2007年のアルバム『Mist』で初共演。
  • 吉田政美(元グレープ)
  • 石川鷹彦
  • 倉田信雄
  • 松原正樹
  • 坂元昭二
  • 宅間久善
  • 渡辺俊幸
  • 服部克久
  • 服部隆之
  • 福田郁次郎
  • 山本直純
  • チキンガーリックステーキ
  • 紺野紗衣
  • 平原まこと
  • ジミー・ハスケル

その他[]

倉本聰公私共に仲が良く、お互い「先生」「まさし」と呼び合う仲である。さだは倉本が脚本を手がけた人気ドラマ『北の国から』の主題歌「北の国から〜遥かなる大地より〜」を作曲している。また、倉本が骨折した際、さだはライブツアー中で見舞いにも行けず、倉本と再会できたのはギプスも外れてほぼ完治に近い状態であった。しかし、ギプスが装着されていた部分の体毛が以前より濃くなっていたことに気がつき、「まさし、おまえ頭を骨折しろ!」と叫んだとのこと。これも、さだが得意とするステージトークでの自虐ネタとして使用していると共に二人の仲の良さを証明しているものである。笑福亭鶴瓶現在は名番組として鶴瓶の代表作となっている「鶴瓶の家族に乾杯」は、NHKからさだまさしに持ち込まれた企画であった。初回はさだがホストで鶴瓶はパートナーであったが、コンサートによる多忙のため、番組の続編を鶴瓶に任せて、現在の形態となっている。このとき、さだは「鶴瓶ちゃんなら」ということで彼に司会をバトンタッチした程、お互いに信頼しあっている。なお、主題歌はさだが担当している。鶴瓶自体は『名古屋から生放送』に電話出演した際に、『鶴瓶の家族に乾杯』について「あれ、アンタの番組やないか」と言っており、本来はさだの番組であるべきだと思っているらしい。おすぎまだ映画評論家としての地位を確立していなかった頃、おすぎの映画評論に感銘を受けたさだが自らのラジオ番組におすぎの映画評論コーナーをレギュラーで持たせていたことがあり、おすぎとさだの親交も厚い。原田泰治原田が書いた『さだおばさん』[10]をたまたま書店で目にしたことから交流が始まり、ついにはさだが原田の故郷である諏訪に引っ越し、原田の家の近くに自宅を建ててしまった程の仲である。的場均1990年代初頭の『さだまさしのセイ!ヤング』では競馬予想を展開する度に「的場(が来る)!」と断言していた(ちょうど当時の的場はライスシャワーに騎乗し、数々の重賞レースを制している時期だった)。的場が通算一千勝を達成した際にはさだが作った「ひとりぽっちのダービー」を的場が歌ったCDが作られ、関係者に配布された。蟹江篤子「精霊流し」ヒットの立役者であり、さだは「蟹江おねぇさん」と呼んで慕っている。名古屋からのさだの生放送番組の際には、スタジオ観覧に来ていた蟹江をさだが発見し、ハガキを読ませてしまうと言う異例の事態になった。
  • 芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学生の時の同級生や高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。とコンサートで話している。さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。
  • 長崎県出身で「財界官房長官」と呼ばれた財界の実力者今里広記・日本製鋼所元会長と知己となり、彼の紹介で谷川徹三、山本健吉、梅原龍三郎といった芸術家・文化人とも交流を持った。特に山本健吉には多大な影響を受けている。

さだまさし研究会(さだ研)[]

さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色のひとつとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会(略称:さだ研)」なるものが数多く結成されていることが挙げられる。かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られるなど、一時期はブームにすらなった感もあった。

一口に「さだ研」と言ってもその中身は他種雑多で、さだまさしの私設ファンクラブのような集まりから、文化祭やサークル独自の演奏会がメインの音楽サークル、さだを肴に議論する酒飲みサークルなどまであり、唯一の共通項が「たまたま、さだまさしがきっかけで知り合った」だけの場合が多い。

学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『セイ!ヤング』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。『セイ!ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。

「さだ研」が『セイ!ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。結果は東大さだ研が圧勝。この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。

最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ!ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB会」のような活動になっている。全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ!ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。

社会人系サークルも『セイ!ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改変を果たしてしまった団体も僅かながらある。社会人系サークルの場合は団体名が「さだまさし研究会」では公共施設の会議室等を借りることもままならず、仕方なく文芸サークルやクイズサークル等のダミーのサークル名を使って活動していたサークルもあり、現在は「さだ」よりもむしろその代替手段といて行っていた活動の方をメインにして「さだ研」の頃よりも多角的に活動し盛況となっている団体もある。

また逆に『セイ!ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。京都大学さだ研の場合は毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト[11]上でPDFファイルで公開しており、ネットの恩恵を受けてむしろ過去の「さだ研」よりもアクティブに活動している感もある。

1990年リリースのアルバム『夢回帰線II』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:南カリフォルニア大学さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。

ディスコグラフィ[]

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主な著作[]

  • ステージトーク集『噺歌集』全5巻(文藝春秋)
  • ステージトーク集『さだまさし 話のアルバム』(新潮CD文庫)
  • 『僕の愛読詩集』(新潮社カセット文庫)井伏鱒二との対談付
  • さだまさしのセイ!ヤング(赤本・青本)(音楽之友社)
  • エッセイ『本 人の縁とは不思議なもので…』(八曜社)
  • エッセイ『時のほとりで』(新潮文庫)
  • エッセイ『さまざまな季節に』(文藝春秋)
  • エッセイ『ゆめいくみはっぴい(夢行身発飛)』全3巻(新書館)
  • エッセイ『風待煙草』(CBSソニー出版)
  • エッセイ『せとぎわの魔術師』(講談社)
  • エッセイ『日本が聞こえる』(毎日新聞社)
  • エッセイ『まほろばの国で』(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第二弾)
  • エッセイ『いつも君の味方』(講談社)
  • エッセイ『本気で言いたいことがある』(新潮社)
  • エッセイ『美しき日本の面影』(新潮社)
  • エッセイ『もう愛の唄なんて詠えない』(ダイヤモンド社)
  • エッセイ『まほろばの国で 終章』(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第三弾)
  • アルバムライナーノート集『自分症候群』(新潮社)
  • 小説『精霊流し』(幻冬舎)
  • 小説『解夏』(幻冬舎)
  • 小説『眉山』(幻冬舎)
  • 小説『茨の木』(幻冬舎)
  • 童話『ふうせんのはか』(くもん出版)
  • 童話『おばあちゃんのおにぎり』(くもん出版)
  • 童話『23時間57分のひとり旅』(くもん出版)
  • 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『秋桜』(サンマーク出版)
  • 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『償い』(サンマーク出版)
  • 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『親父の一番長い日』(サンマーク出版)
  • 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『案山子』(サンマーク出版)
  • 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『奇跡』(サンマーク出版)
  • ピクチャーブック『遙かなるクリスマス』(講談社)
  • 『落談まさし版三国志英雄伝』(自由書館(絶版)、文藝春秋)

また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。

主な映像作品など[]

  • 映画『翔べイカロスの翼』(主演・音楽、1980年)
  • 映画『関白宣言』(原作・出演・主題歌、1980年) - 主演・佐田繁理
  • 映画『長江』(監督・主演、1981年)
  • 映画『さだおばさん』(原田泰治原作 監督・音楽、1994年) - 「欽ちゃんのシネマジャック」の1本として(アニメ作品)
  • 映画『精霊流し』(原作・主題歌、2003年)
  • 映画『解夏』(原作・主題歌、2004年)
  • 映画『眉山-びざん-』(原作、2007年)

主なラジオ番組出演[]

  • 文化放送『セイ!ヤング』(グレープ時代)
  • 同『さだまさしの全力投球』(1979年9月-1980年3月)
  • 同『さだまさしのセイ!ヤング』(1981年10月-1994年3月)
  • 同『さだまさしのラジオまっぴるま』(1985年10月7日~1987年4月3日)
  • 同『有限会社さだまさし 大世界社』(1994年-1998年)
  • 同『さだまさしのゆく世紀くる世紀(笑)」』(1999年-2001年・不定期)
  • 同『さだまさしのセイ!ヤング21』(2001・2002年度 月曜担当)
  • 同『セイ!ヤング ネクステージ』(2007年4月2日)
  • 『さだまさしのトークシアター』(地方局向け番組。1990年代前半に放送)
  • JFN『さだまさし 夢回帰線』(1990年代)
  • 毎日放送『さだまさしの気まぐれ夜汽車』
  • ニッポン放送『さだまさしのサンデーパーク』
  • FM NACK5『さだまさし WEEKLY ~Mist~』(2007年10月7日~12月30日 )

主なテレビ出演[]

  • NHK教育『さだまさし音楽工房』(作詞・作曲講座。1992年 共演:佐田玲子・服部隆之)
  • NHK総合『愉快にオンステージ』(1990年代初頭 ホスト役の一人)
  • 毎日放送『植木等デラックス』(1991年)
  • 日曜劇場『末っ子長男姉三人』(TBS)最終回に本人役で出演。
  • ドラマ『フードファイト』(日本テレビ)
  • 鶴瓶の家族に乾杯(NHK総合テレビ、不定期にてゲスト出演)
  • 徹子の部屋(テレビ朝日、数年に一度の割合で出演)(※ 2007年2月2日放送分にてさだが希望していた「黒柳徹子をゲストに呼び自身が司会」という形式が番組の31周年記念番組として実現した。タイトルは「まさしの部屋」。)また、30周年記念コンサートで紹介された十津川村でのエピソードを盛り込んだ公開放送も、徹子の部屋では初めてのこと。更にはこの放送2日連続放映というのも徹子の部屋初のこと。
  • メントレG(フジテレビ 2005年1月14日)
  • 北野タレント名鑑(フジテレビ 2005年6月9日)
  • たけしの誰でもピカソ(テレビ東京 2005年11月18日)
  • スタジオパークからこんにちは(NHK総合テレビ 2006年5月11日)
  • さんまのまんまスペシャル(関西テレビ 2006年10月4日)
  • N響アワー(NHK教育テレビ 2007年4月22日)
  • さだまさし生放送シリーズ(NHK総合テレビ 2006年-)
    1. 新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」(NHK総合テレビ 2006年1月1日)
    2. 横浜から突然生放送! 大型連休もさだまさし(NHK総合テレビ 2006年5月7日)
    3. 長崎から突然生放送! 真夏の夜もさだまさし(NHK総合テレビ 2006年8月5日)
    4. 2007年新春生放送 年の初めはさだまさし(NHK総合テレビ 2007年1月1日)
    5. 真夜中なのに生放送 卒業式にもさだまさし(NHK総合テレビ 2007年3月18日)
    6. 松山から生放送! 大型連休もさだまさし(NHK総合テレビ 2007年4月29日)
    7. 広島から生放送! 真夏の夜もさだまさし(NHK総合テレビ 2007年8月8日)
    8. 名古屋から生放送! 秋の夜長もさだまさし(NHK総合テレビ、NHK-FM、地上デジタルラジオ 2007年10月28日)
    9. 2008年新春生放送 年の初めはさだまさし(NHK総合テレビ、2008年1月1日)
    10. 真夜中なのに生放送 桜咲いてもさだまさし(NHK総合テレビ、2008年3月30日)
    11. 真夜中なのに生放送! 連休明けもさだまさし(NHK総合テレビ、2008年5月11日)
    12. 徳島から生放送! 真夏の夜もさだまさし(NHK総合テレビ、2008年7月27日予定)
  • クリスマスの約束(TBSテレビ 2007年12月25日放送)
  • 元日テレビ~今年は見せますNHK~(NHK総合テレビ、2008年1月1日)
  • 元日テレビ~お便りだけが頼りです~(NHK総合テレビ、2008年1月1日)-『年の初めはさだまさし』とは別番組。タカアンドトシと共演
  • 正月テレビ!~これこそわが町元気魂!~(NHK総合テレビ、2008年1月2日)
  • まさしとタカトシのハッピー・モーニング・ショー(NHK総合テレビ、2008年1月3日)
  • まさしとタカトシのハッピー・ニューイヤー・ショー(NHK総合テレビ、2008年1月3日)
  • SONGS(NHK総合テレビ、2008年3月5日)

この他、ミュージックフェア(フジテレビ系)[12]にも度々出演しているほか、『NHK紅白歌合戦』にも1990年以降ほぼ毎年出演する常連である。

CM[]

  • ダスキン(完了)ダスキンのCMにはかなり長期間出演しており、3分間のコント仕立てのCM「ダスキン100番100番劇場」などにも主演している。ダスキンのキャラクターとして定着し、子供達からは一時期『ダスキンのおじさん』と呼ばれるほどだった。
  • 常盤薬品工業「パスビタンD」(1992年)(『セイ!ヤング』で募ったファンのエキストラをホールに入れて「あなた三昧」を歌うコンサート風のバージョンと、マネージャー廣田泰永とさだとの楽屋での掛け合いの2バージョンがオンエア。
  • 長崎俵物(2005年-)ナレーションと音楽(案山子)
  • 西日本新聞(2005年-)音楽(愛)

受賞[]

  • 日本レコード大賞 作詩賞(1973年)、西条八十賞(1978年)、特別賞(2006年)
  • 長崎市政協力表彰(1989年)
  • 長崎県民栄誉賞(1996年・第2号。ちなみに第1号はサッカー指導者の小嶺忠敏)
  • 長崎市栄誉市民(2004年4月、「長崎の魅力を全国に発信し、イメージアップを図ったことへの貢献」が認められる)

役職[]

  • 長崎ブリックホール名誉館長
  • 諏訪市原田泰治美術館名誉館長
  • カボス大使
  • 平城遷都1300年記念事業協会評議員。

関連項目[]

  • グレープ
  • クラフト
  • 佐田繁理(実弟)さだ企画社長、元サッカー選手
  • 佐田玲子(実妹)歌手
  • 佐田大陸(実子)ヴァイオリニスト(関連:「千の風」・塩谷靖子)
  • チキンガーリックステーキ
  • ユーキャン
  • 宮崎康平
  • 川崎医療福祉大学
  • 夏!まだまだ長崎から

脚注[]

  1. この借金については自身31作目のシングル「建具屋カトーの決心~儂がジジイになった頃」の中の歌詩にも盛り込まれている。本人は「ガビ山からゴビ砂漠に向かってションベンして、借金して、島の王様で、昔は歌手、と言っても『嘘つけ、このハゲ!』なんか言われてしまうだろう」と述べている。
  2. 2007年4月22日放送『N響アワー』ゲスト出演時のトーク
  3. 3.03.1 2006年5月11日放送『スタジオパークからこんにちは』出演時のトーク
  4. 落研当時の高座名は「飛行亭つい楽」。
  5. 2008年1月1日放送『年の初めはさだまさし』での本人談
  6. ソロデビューした頃にはタモリが「歌よりトークが長い」と発言をしたことがあり、これが元で一時タモリとの関係が悪化しタモリの所属事務所田辺エージェンシーにカミソリ入りの脅迫状が来たほどである。
  7. 7.07.1 CD『さだまさし ステージ・トーク・ライブ 噺歌集ライブ3』(朝日ソノラマ 1994年12月) ISBN 978-4257090045
  8. この島はもともと無人島であったが、彼が電話加入を申請したためNTT西日本は莫大な経費を使い回線を敷設した。当然のことながら彼が支払ったのは電話加入権と月々の使用料のみであり、ユニバーサルサービスを提供する心意気としてNTT社内では語り継がれている。また、海洋を汚染しないよう廃水処理設備にこだわっていて、最終処理した水は飲めるようになっている。
  9. さだまさし氏作曲のファンファーレを採用
  10. なお、元々は『さだおばさん』自体はさだまさしとは全く関係なく、森林鉄道の駅長になった行商の「さだ」さんと、村の人々のふれあいを描いた絵本である(「さだ」さんは雪の中での線路点検作業中に雪崩に巻き込まれて亡くなってしまう)。「映像作品」の項目にあるように、後にさだが監督となって映画化されている。
  11. 京都大学さだまさし研究会
  12. 2008年6月14日で69回目の出演。この日は『さだまさしデビュー35周年特別企画』として下記の楽曲を演奏した
    1. 雨やどり(さだまさし・森山直太朗・平原綾香・松浦亜弥)
    2. 19才(さだ・松浦)
    3. 道化師のソネット(さだ・森山)
    4. つゆのあとさき(さだ・平原)
    5. 秋桜(さだ・佐田大陸・佐田詠夢/さだ父子のテレビ初共演)
    指揮編曲 - 渡辺俊幸アコースティック・ギター - 石川鷹彦ベース - 岡沢章パーカッション - 木村誠編曲・ピアノ - 倉田信雄ドラム - 島村英二マリンバ - 宅間久善エレキ・ギター - 松原正樹

外部リンク[]

  • さだまさしオフィシャルサイト
  • ユーキャン・エンタテインメント
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