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テンプレート:出典の明記テンプレート:Otheruses上を向いて歩こう(うえをむいてあるこう、別名:スキヤキ、SUKIYAKI)は、坂本九の大ヒット曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大[1]、プロデューサーは草野浩二。ビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日に、週間ランキング第1位を獲得。ビルボード誌1963年年間ランキングでは、第10位。後に数多くのアーティストによってカヴァーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。現在でも根強いファンが多い。坂本逝去のメモリアルソングとしてもよく用いられる。
1961年8月にNHKで放送されていたテレビ番組「夢であいましょう」の「今月の歌」として発表され、同年10月にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。当時の日本のレコード売り上げランキング(「ミュージック・ライフ」誌に掲載されていた国内盤ランキング※)では1961年11月~1962年1月まで3ヵ月にわたり1位を独走した。
※「ミュージック・ライフ」誌のランキングは、オリコンが発足する以前の日本において、最も信頼できるレコード売り上げランキングの一つであった。
売り上げだけを見れば相当なものであったが、当時の保守的な日本の歌謡界においては評価は高くなかったため、レコード大賞には選ばれなかった。だが、この評価は世界での大成功により覆された。
1962年、ヨーロッパでこの曲が紹介され、大ヒットした。フランスなどでは原題と同じ意味のタイトルで発売されたが、イギリスでは「SUKIYAKI」、ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」と改題された。
1962年、イギリスのディキシーランド・ジャズのトランペッター、ケニー・ボールが彼のバンドでインスト曲として演奏し、「SUKIYAKI」というタイトルで発売、全英チャートで10位にランクインした。
「SUKIYAKI」という曲名は、ケニー・ボールの所属したイギリスのパイ・レコードの社長ルイス・ベンジャミンが、『原題の「UE O MUITE ARUKOU(上を向いて歩こう)」では英語で発音しにくいだろう』という理由で、社長の好物の日本料理の名前を付けたものだと言われている。しかしケニー・ボールの証言では、「上を向いて歩こう」ではタイトルが長くなってしまい短くわかりやすい日本語の曲名をつけたかったが彼が知っていたものが「SUKIYAKI」と「SAYONARA(さよなら)」ぐらいだったため、「サヨナラ」では暗すぎるし、どうすればいいか考えていた中華料理屋での会食で同席していた友人の女性歌手ペトゥラ・クラーク(当時の彼女は仏ヴォーグ・レーベルに所属していたが、英国でのレコード発売権をパイ・レコードに委託している)に相談したところ「SUKIYAKI」がいいと言われたこともあり、そうしたとのことである。なお原題の英語での直訳は「I LOOK UP WHEN I WALK」である。
実はケニー・ボールはレコーディングの直前に最愛の母を亡くしており、その哀しみをトランペットに込めて演奏(本人の談によれば曲の雰囲気を出すために何とオマルを使ったとのこと)、これもヒットにつながった要因の一つといえる。
ちなみにケニー・ボールは現在でも自分のバンドの演奏レパートリーにこの曲を加えており、2005年にはこの曲が海外でヒットした経緯を辿る番組のために彼のコンサートを訪れた坂本九の次女の大島舞子(舞阪ゆき子)を特別にヴォーカルに迎えて演奏した。
アメリカでは、イギリスでヒットしたケニー・ボール楽団のレコードが発売されたが、チャートの100位以内には入らなかった。しかしワシントン州パスコのラジオDJリッチ・オズボーンが偶然坂本九のレコードを入手し(彼の番組のリスナーの高校生が日本にいるペンフレンドに貰ったものを送ってきたという)、ラジオ番組で「SUKIYAKI」として紹介すると、局に問い合わせが殺到し、1963年、「SUKIYAKA」(発売当初は「SUKIYAKI」が誤植されこのタイトルとなった。後に訂正)の題でキャピトル・レコードから発売され、ビルボード誌で6月15日付から6月29日付まで3週連続、キャッシュボックス誌で6月15日付から7月6日付まで4週連続1位のヒットとなった。ビルボード誌において、英語以外の歌では1958年のドメニコ・モドゥーニョ「ボラーレ」(イタリア語)以来2曲目の1位であり、同年のシングルレコード年間チャート4位にもランクされている。また「全米1位」の影響を受け、日本でも再ヒットした。しかし当時、「SUKIYAKI」の全米1位は日本の洋楽ファンにとっては大変な出来事だったが、日本の東芝レコードの反応は「全米1位ってそんなに凄いの?」という程度だったという。なお、キャピトル側は最初、アメリカで英語以外の歌がヒットした前例がほとんど無いことから九に英語で歌わせようとしたが、米軍時代に駐日経験のあるオズボーンは日本語で売り出した方が受けがいいと主張、日本語のオリジナルバージョンがそのまま発売された。
この大ヒットを受けて同年8月に坂本九はキャピトル・レコードの招きで渡米、テレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」にゲスト出演し、さらに売り上げが上昇した。アメリカ国内の売り上げが100万枚を突破し、翌1964年5月15日には外国人としては初めて全米レコード協会のゴールドディスクを受賞した(当時は100万枚以上がゴールド)。ちなみにこの頃アメリカ国内の音楽雑誌の記事には手書きの「鋤焼(すきやき)」が「鍬焼(くわやき)」となったりレコードジャケットの「坂本九」が「坂木九」となるなどの誤植が見られた。「鍬焼」に関してはNHK「夢であいましょう」内でもヒットの話題を伝える黒柳徹子が触れていた。
このほか世界約70ヵ国で発売され、総売り上げは1500万枚以上に達するという[2]。また1988年までにアメリカのラジオでのオンエア回数は100万回を超えた。
2005年6月から「上を向いて歩こう」がイギリスの携帯ネットワーク会社スリー・モバイルのCMソングに起用され、問い合わせが殺到。同年8月29日にイギリスで坂本九のアルバム「メモリアル・ベスト」が発売された。9月には「上を向いて歩こう」をシングル発売。
アメリカでは渡辺はま子のカバー「支那の夜(China Nights)」(この曲は発売当時は作曲家の専属契約の問題があり、専属契約に対しての縛りが緩和された後には新たに差別表現が問題となり長年日本では発売されず。2004年に発売された坂本九のアルバム「メモリアル・ベスト」で日本発売・初CD化された)も最高58位、アルバム『Sukiyaki and Other Japanese Hits』(有名な「坂木九」の誤植はこのレコードである)も最高14位(いずれもビルボード誌)を記録した。次のシングル「九ちゃんの炭坑節(Tanko Bushi)」(こちらは日本でも発売された)も発売されたが、三井三池炭鉱で起こった爆発事故の影響で歌うことを自粛し、これに伴いアメリカでの活動も事実上終了した。キャピトル・レコードはビートルズのアメリカでのプロモーション以上に宣伝費用をかけたといわれるが、結局、アメリカでは一発屋に終わってしまった。
予定では、本格的に活動拠点を日本国外に移す計画もあったという。尚、坂本九がアメリカでの活動を終えたことで、それ以降ピンク・レディーが37位にランクインするまで日本人歌手がビルボードのHOT 100のランキングに挙がることは出来なかった。
日本盤のオリジナル(東芝音楽工業 JP-5083)、アメリカ盤(Capitol 4945)、イギリス盤(HMV POP-1171)等のB面曲は「あの娘の名前はなんてんかな」(Anoko No Namaewa Nantenkana。ドイツ盤(Electrola E-22477)では「Anoko-No」という表記になっている)。アメリカのジュークボックス用レコードのB面曲は「九ちゃんの炭坑節」(Tanko Bushi)である。
また、日本で1988年にCD化された(東芝EMI XT10-2268)際のカップリング曲は「見上げてごらん夜の星を」である(1994年に発売されたもの(東芝EMI TODT-3208、TODT-3309)はオリジナルと同じく「あの娘の名前はなんてんかな」をカップリングに収録)。
その他フランス語、デンマーク語、ポルトガル語、中国語等のカバーもあり、すき焼を食べる内容の歌詞に変えられたバージョンも存在する。
また、エルヴィス・プレスリーも1964年にカバーする予定だったが、坂本九で1位を取っていることと、良い英語の歌詞が見つからなかったことを理由に断念したという。
1962年に日活より同名の映画が公開されている。
キャスト選抜高等学校野球大会入場行進曲 | ||
前年度 1961年 第33回 アート・ムーニー楽団 山下敬二郎 『バッファロー大隊マーチ』 | 1962年 第34回 坂本九 『上を向いて歩こう』 | 次年度 1963年 第35回 橋幸夫・吉永小百合 『いつでも夢を』 |
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it:Ue o muite arukōid:Sukiyaki (lagu)sv:Sukiyaki (låt)vi:Ue o muite arukou
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