「頼資」を含むwiki一覧 - 1ページ

武備百人一首 - いにしえwiki

忍は 万に渡る 物なれは 心をくたけ もののしなしな (三雲氏之)058.善悪の 二をむねに たたかわせ まくる方をは すてて行なへ (馬場頼資)059.知恵そとも いははいつわり 出ぬへし 誠のままに 云はふんへつ (津田信祐)060.道々の その次第ある 奥義をは ふかく心を

源頼遠 - 日本通信百科事典

、戦死を遂げた。その後を次男の有光が継いだ。宇野頼遠 : 上記の宇野氏の祖の宇野頼房の6世の孫、頼俊の玄孫、頼景の曾孫、維頼の孫、頼明の子、頼資の父、頼基の祖父、頼風の曾祖父。太田頼遠 : 上記の宇野頼房の6世の孫、頼俊の玄孫、源頼景の曾孫、維風の孫、頼明の子、頼資の父、頼基[7

宇野頼基 - 日本通信百科事典

称は七郎。宇野頼房(宇野氏の祖)の玄孫、頼俊の曾孫、頼治の孫、頼弘(親弘)[1]の孫、親治の子、有治・清治・業治・季治の弟。宇野頼基 (宇野頼資の子) : 通称は次郎。宇野頼房の7世の孫、頼俊の6世の孫、頼景(頼風[2]・頼治の弟)の5世の孫、維頼の玄孫、頼明の曾孫、頼遠の孫、頼

宇都宮成綱 - 日本通信百科事典

氏の流れを汲む宇都宮氏一門の武将。約2名ほど存在する。宇都宮成綱 (伊予守) : 前名は業綱、通称は大庭次郎。宇都宮朝綱の子、氏家公頼・那須頼資・秀綱の兄、頼綱・業綱・永綱・塩谷朝業[1]の父。宇都宮成綱 (左馬頭) : 通称は弥四郎、法号は継岩入道/沙弥長胤。武茂正綱の子、宇都

宇野頼風 - 日本通信百科事典

(宇野頼基の子) : 宇野頼房の8世の孫、頼俊の7世の孫、頼景(上記の頼風・頼治の弟)の6世の孫、維頼の5世の孫、頼明の玄孫、頼遠の曾孫、頼資の孫、頼基の子。脚注[]↑ 下記の宇野頼基の5世の祖。↑大和越智氏の祖。関連項目[]源頼風大和源氏宇野氏この記事は 『宇野頼風』 のため

山県政信 - 日本通信百科事典

通称は美濃次郎。源姓多田氏一門の山県国政の子、飛騨瀬国成(飛騨瀬氏[1]の祖)の弟、頼清・国時(福島冠者)[2]・頼兼(清水冠者)の兄、小島頼資(家信、美濃小島氏[3]の祖)・彦坂頼定(経国、彦坂氏[4]の祖)・蜂屋頼経・原頼忠・不破頼胤の父。父の後を継いだ。山県政信 (武田氏)

太田氏_(源氏) - 日本通信百科事典

田庄[6]を本拠地とした。平安時代末期に頼基の系統が断絶し、頼基の次兄の宇野頼房(宇野氏の祖)の系統である頼遠がその後を継いだが、頼遠の子の頼資、頼資の子の頼基[5]・頼康・頼兼兄弟の代を経て、義員(頼康の子)・義資(頼兼の子)の代に嗣子がなく、鎌倉時代初期に大和源氏流太田氏はつ

渋川義長 - 日本通信百科事典

氏一門の武将。約2名ほど存在する。渋川義長 (渋川義行の子) : 当主の渋川義行の子、満頼の弟、満行の兄、義佐(義任)の父。渋川義長 (渋川頼資の子) : 初名は稙直。渋川満行の玄孫、満直の曾孫、教直の孫、頼資(尹繁)の子、義陸(よしたか)[1]の兄、晴繁(晴重)の父。脚注[]↑

太田頼基 - 日本通信百科事典

の父。太田頼基 (太田太郎) : 通称は太郎。上記の宇野頼房の7世の孫、頼俊の6世の孫、源頼景の5世の孫、維風の玄孫、頼明の曾孫、頼遠の孫、頼資の子、頼康[1]・頼兼[2]の兄。上記の太田頼基の系統が嗣子がなく断絶すると、祖父の頼遠がその養子として、後を継いだ。しかし、頼基とその

源光貞 - 日本通信百科事典

なもと の みつさだ)とは、陽成源氏(摂津源氏・大和源氏・河内源氏)流の人物で、約6名ほど存在する。源光貞 (深栖冠者) : 源頼国の玄孫、頼資(溝杭冠者)の曾孫、基国の孫、光重の子、重清・重高・頼重の弟、仲重・保綱の兄。土岐光貞 : 土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在

多田頼忠 - 日本通信百科事典

多田 頼忠(ただ よりただ)とは、陽成源氏(摂津源氏)流多田氏一門の武将。約2名ほど存在する。原頼忠 : 山県政信(頼清)の子、小島頼資(家信、美濃小島氏[1]の祖)・彦坂頼定(経国、彦坂氏[2]の祖)・蜂屋頼経の弟、不破頼胤の兄。馬場頼忠 : 馬場仲政の21世の孫、頼政の20世

多田頼定 - 日本通信百科事典

存在する。多田頼定 (多田経光の子) : 多田明国の孫、経光[1]の子、清綱・頼元の弟。彦坂頼定 : 別称は経国。山県政信(頼清)の子、小島頼資(家信、美濃小島氏[2]の祖)の弟、蜂屋頼経・原頼忠・不破頼胤の兄、重国・国信・国清・陀全(僧侶)の父。彦坂氏[3]の祖となった。能勢頼

多田頼清 - 日本通信百科事典

多田頼綱の曾孫、国直(山県冠者)の孫、山県国政の子、飛騨瀬国成(飛騨瀬氏[1]の祖)の弟、国時(福島冠者)[2]・頼兼(清水冠者)の兄、小島頼資(家信、美濃小島氏[3]の祖)・彦坂頼定(経国、彦坂氏[4]の祖)・蜂屋頼経・原頼忠・不破頼胤の父。父の後を継いだ。飛騨瀬国光 : 別称

多田頼貞 - 日本通信百科事典

多田 頼貞(ただ よりさだ)とは、陽成源氏(摂津源氏)流多田氏一門の武将。約2名ほど存在する。小島頼貞 : 山県頼清の曾孫、小島頼資(家信)の孫、頼保の子、国綱の兄。能勢頼貞 : 能瀬頼貞とも呼ばれる。能勢高頼の曾孫[1]、資国の孫、資氏(倉垣冠者)[2]の子、頼仲の父、長頼・頼

多田頼経 - 日本通信百科事典

多田 頼経(ただ よりつね)とは、摂津源氏流多田氏一門の武将。約2名ほど存在する。蜂屋頼経 : 山県政信(頼清)の子、小島頼資(家信、美濃小島氏[1]の祖)・彦坂頼定(経国、彦坂氏[2]の祖)の弟、原頼忠・不破頼胤の兄、頼俊の父、頼親[3]の祖父。蜂屋氏の祖となった。能勢頼経 :

渋川頼重 - 日本通信百科事典

氏の当主の板倉重家(重忠)の婿養子となった碓井姓鎌倉氏一門の板倉重時(通称は次郎、鎌倉景継(景次)の子、長江義景の弟、景行の兄)の系統である頼資(尹重)の後裔で、勝重の父)を、渋川義重と同人物として扱って、系譜を仮冒したという。↑ 上記の義俊・俊詮の弟、氏治の兄。↑ 渋江純明(後

源師光 - 日本通信百科事典

する。源国仲 : 称号は福島冠者。後に福島師光と改称する、法名は国保入道。摂津源氏の祖である源頼光(頼満)の孫、頼国の子、頼弘(摂津冠者)・頼資(溝杭冠者)・頼実・実国・多田頼綱・土岐国房[1]・頼仲の弟、頼房・頼任(頼佐)・富国(明円/明圓)の兄、福島実俊・福島盛実・福島光隆(

源光重 - 日本通信百科事典

の みつしげ)とは、陽成源氏(摂津源氏・河内源氏)流の人物で、約数名ほど存在する。源光貞 (深栖冠者) : 通称は深栖三郎。源頼国の曾孫、頼資(溝杭冠者)の孫、基国の子、重清・重高・頼重・光貞・仲重・保綱の父。金丸光重 : 武田氏(甲斐源氏)の当主の武田信重の子、信守・穴山信介

藤原経光 - 日本通信百科事典

[1]の孫、経清の子[2]、藤原清衡(奥州藤原氏の祖)・刈田経元[3]の異母兄、清経の父。広橋経光 : 真夏流日野家一門の広橋家の当主の広橋頼資の子、頼経・世尊寺経朝・信光・頼光(円誉/圓誉)の兄、兼頼・兼仲の父。大炊御門経光 : 花山院家一門の大炊御門家の当主の大炊御門経孝の子

稲沢氏 - 日本通信百科事典

家紋(違い矢紋)稲沢氏(いなざわし)は、日本の氏族で、下野国北部を支配した。稲澤氏とも呼ばれる。那須国造の系統である那須氏一門で、当主の那須頼資の子の資家(五郎)が、武蔵河内氏の当主の河内盛経の娘を妻に娶って、岳父が拠点とした武蔵国児玉郡のうち稲沢郷[1]の地名と採って、稲沢氏と

足利義正 - 日本通信百科事典

国岡崎藩主の水野忠善の家老として余生を送ったという。渋川義正 : 上野渋川氏(上野源氏)の当主の渋川満行の6世の孫、満直の玄孫、教直の曾孫、頼資(尹繁)の孫、義陸(よしたか)[4]の子、頼基の兄、義満の父。脚注[]↑梁田氏(簗田氏)の祖。↑義綱の弟。↑藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)一門

源頼房 - 日本通信百科事典

氏・大和源氏・河内源氏)・村上源氏)の人物で、約数名ほど存在する。源頼房 (摂津源氏) : 源頼光(頼満)の孫、頼国の子、頼弘(摂津冠者)・頼資(溝杭冠者)・頼実・実国・多田頼綱・土岐国房[1]・頼仲・福島師光(国仲)の弟、頼任(頼佐)・明国・富国(明円/明圓)の兄。摂津頼実 :

足利義重 - 日本通信百科事典

氏の当主の板倉重家(重忠)の婿養子となった碓井姓鎌倉氏一門の板倉重時(通称は次郎、鎌倉景継(景次)の子、長江義景の弟、景行の兄)の系統である頼資(尹重)の後裔で、勝重の父)を、渋川義重と同人物として扱って、系譜を仮冒したという。↑ 秋英(秋豪)・光行(光之)・朽木昭貞・朽木昭知・

源頼重 - 日本通信百科事典

氏の祖となった。戦国時代にはキリシタン大名でもあった後裔の高山右近[3](重友/長房/友祥斎)が出た。源頼重 (堀冠者) : 源頼国の玄孫、頼資(溝杭冠者)の曾孫、基国の孫、光重の子、重清・重高の弟、光貞・仲重・保綱の兄、頼時・重胤の父。多田頼重 : 上記とおなじく摂津源氏流多田

源頼弘 - 日本通信百科事典

とは、陽成源氏(摂津源氏・河内源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。源頼弘 (摂津冠者) : 通称は摂津冠者。源頼光(頼満)の孫、頼国の子、頼資(溝杭冠者)・頼実・実国・多田頼綱・土岐国房[1]・頼仲・福島師光(国仲)・頼房・頼任(頼佐)・富国(明円/明圓)の兄、摂津家光・明助(

足利頼基 - 日本通信百科事典

駿河源氏)の当主の今川基氏の子、国満・範国の兄、頼貞・頼兼の父。渋川頼基 : 上野渋川氏の当主の渋川満行の6世の孫、満直の玄孫、教直の曾孫、頼資(尹繁)の孫、義陸[1]の子、義正[2]の弟。天童頼基 : 斯波氏(奥州源氏)流奥州大崎氏の祖の大崎家兼の6世の孫、最上兼頼の玄孫、直家

源義資 - 日本通信百科事典

ど存在する。太田義資 : 宇野頼房(宇野氏の祖)の9世の孫、頼俊の8世の孫、頼景の7世の孫、維風の6世の孫、頼明の5世の孫、太田頼遠の玄孫、頼資の孫、頼兼の子。伯父の頼基の養子となり、同族の太田氏の家督を継ぐが、嗣子がなく断絶した。源義資 (二条院判官代) : 源義時の子で、義盛

源経国 - 日本通信百科事典

もと の つねくに)とは、陽成源氏(摂津源氏・河内源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。彦坂頼定 : 別称は経国。山県政信(頼清)の子、小島頼資(家信、美濃小島氏[1]の祖)の弟、蜂屋頼経・原頼忠・不破頼胤の兄、重国・国信・国清・陀全(僧侶)の父。彦坂氏[2]の祖となった。河内経

源頼任 - 日本通信百科事典

・河内源氏)一門の武将。約4名ほど存在する。源頼佐とも呼ばれる。源頼任 (源頼国の子) : 源頼光(頼満)の孫、頼国の子、頼弘(摂津冠者)・頼資(溝杭冠者)・頼実・実国・多田頼綱・土岐国房[1]・頼仲・福島師光(国仲)・頼房の弟、富国(明円/明圓)の兄。源頼任 (河内冠者) :

源頼季 - 日本通信百科事典

信の子、頼義・頼清の同母弟、頼任(河内冠者/頼佐)[2]・頼政(快誉)[3]の異母兄、中津乗家季・依田光実(他田満実)・乙葉光明[4]・知久頼資・片桐(片切)資明[5]・夏目祐頼[6]の父。信濃国南部~中東部を本拠地として、信濃源氏である中津乗氏・依田氏(他田氏)[7]・知久氏・

源頼国 - 日本通信百科事典

国 (左衛門尉) : 通称は多田太郎。源満仲の孫、頼光(頼満)の子、頼家・頼基(山国冠者)・永寿(僧侶)・頼昭の兄、頼弘(摂津冠者)[1]・頼資(溝杭冠者)[2]・頼実・実国・多田頼綱[3]・土岐国房[4]・頼仲・福島師光(国仲)[5]・頼房・頼任(頼佐)・富国(明円/明圓)の父

承元元年九月 - いにしえwiki

17)伊勢例幣。*18十二日(ユリウス暦1207年10月5日*19)十三日(ユリウス暦1207年10月6日*20)文章博士藤原宗業、少納言同頼資に院昇殿を聴す。*21十四日(ユリウス暦1207年10月7日*22)上皇、清水寺に御幸あらせらる。*23八条院、常磐殿より八条殿に還御あ

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