「政頼」を含むwiki一覧 - 1ページ

続々群書類従(雑部) - いにしえwiki

291 本朝法家文書目録雑部1 292 寺社宝物展閲目録 第1-5,追加(柴野彦助,住吉内記共著)雑部1 293 但馬国太田文(太田政頼)雑部1 294 下京中出入之帳雑部1 295 糸割符由緒書(伊藤権左衛門)雑部1 296 中家実録第1-20雑部1 297 書

土岐政頼 - 日本通信百科事典

土岐 政頼(とき まさより)とは、陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。舟木政頼 : 舟木頼重(頼直/頼真)の6世の孫、頼春(頼玄/頼員)の玄孫、頼夏の曾孫、頼尚の孫、政尚の子、光俊の父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔にあた

土岐頼尚 - 日本通信百科事典

流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔である。明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、頼篤の

土岐頼夏 - 日本通信百科事典

流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。舟木頼夏 : 舟木頼重(頼直/頼真)の孫、頼春(頼玄/頼員)の子、頼尚の父、政尚の祖父、政頼の曾祖父、光俊の高祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔にあたる。土岐頼夏 (土岐頼顕の子) : 通称は宇津十郎。土

土岐頼直 - 日本通信百科事典

国・教国・笠毛光教(光時)・国胤・蜂屋定親(貞親)・頼定(頼貞)の弟、頼春(頼玄/頼員)・光賢の父、頼夏の祖父、頼尚の曾祖父、政尚の高祖父、政頼の6世の祖、光俊の7世の祖。妻は叔父の土岐光員[2]の娘。戦国時代の南光坊天海(随風/舟木秀光)[3]は、その後裔にあたる。讃岐国守護と

土岐光親 - 日本通信百科事典

親(とき みつちか)とは、陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。揖斐光親 : 土岐政房(頼継)の子、頼武(政頼/頼建)[1]・頼芸[2]・江戸崎治頼[3]・光高の弟、鷲巣光敦(光蓮入道)・頼満・頼香・光武(光建)の兄、光就の父。嗣子がなかった族父

土岐頼香 - 日本通信百科事典

陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。土岐頼香 (戦国時代) : 通称は八郎。土岐政房(頼継)の子、頼武(政頼/頼建)[1]・頼芸[2]・江戸崎治頼[3]・光高・揖斐光親・鷲巣光敦(光蓮入道)・島田頼満(嶋田頼満)の弟、光武(光建)の兄。土岐頼香

土岐頼重 - 日本通信百科事典

国・教国・笠毛光教(光時)・国胤・蜂屋定親(貞親)・頼定(頼貞)の弟、頼春(頼玄/頼員)・光賢の父、頼夏の祖父、頼尚の曾祖父、政尚の高祖父、政頼の6世の祖、光俊の7世の祖。妻は叔父の土岐光員[2]の娘。戦国時代の南光坊天海(随風/舟木秀光)[3]は、その後裔にあたる。讃岐国守護と

土岐政房 - 日本通信百科事典

。土岐成頼の子、六角頼真[1]・大桑定頼(貞頼)・佐良木尚頼[2]・景頼(上坂五郎)・長山元頼(小里基頼)・万喜頼房(萱津六郎)の兄、頼武(政頼/頼建)[3]・頼芸[4]・江戸崎治頼[5]・光高・揖斐光親・鷲巣光敦(光蓮入道)・島田頼満(嶋田頼満)・頼香・光武(光建)の父。佐良木

土岐光俊 - 日本通信百科事典

政/義枚(よしひら))の娘。舟木光俊 : 舟木頼重(頼直/頼真)の7世の孫、頼春(頼玄/頼員)の6世の孫、頼夏の玄孫、頼尚の曾孫、政尚の孫、政頼の子。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[6]は、その後裔にあたる。脚注[]↑ 娘は甥の舟木頼重に嫁いで、頼春(頼玄/頼員)を産んだ。↑

多田頼季 - 日本通信百科事典

)の子、頼重の弟。馬場頼季 : 別名は頼重。多田氏一門の馬場仲綱の子、宗綱[1]・有綱・頼成(田代冠者)・成綱(盛綱)の弟、頼有の父、頼義・政頼・成頼・章有・章仲の祖父。脚注[]↑ 宗仲の父、宗重(下間蓮位の岳父)の祖父。関連項目[]源頼季この記事は 『多田頼季』 のための曖昧さ

六角高頼 - 日本通信百科事典

高頼(ろっかく たかより)とは、宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)一門の六角氏の武将。約2名ほど存在する。六角行高 : 別名は高頼。六角久頼(政頼)の子、氏綱・定頼・大原高保・田光高盛・梅戸高実・真玄(僧侶)の父。六角義実 : 別名は高頼/隆頼/義久、法名は宗能入道。上記の行高(高

吉見政頼 - 日本通信百科事典

吉見 政頼(よしみ まさより)とは、鎌倉氏(源家)流吉見氏(武蔵源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。吉見政頼 (吉見頼興の子) : 石見吉見氏(石見源氏)の当主の吉見頼興の子、成興・隆頼・頼俊・頼周の弟、頼直・頼貞(威信)の兄。吉見頼元 (石見吉見氏) : 上記の吉見隆頼の子、

北条宗時 - 日本通信百科事典

軍勢に包囲され、その配下の小平井久重[2]が射られた矢で戦死を遂げた。阿曾宗時 : 通称は阿曾五郎。北条時頼の子、時輔・時宗・相模宗政の弟、政頼・宗頼・桜田時教(時厳入道)の兄。官職は遠江守[3]。脚注[]↑碓井貞光の後裔で、鎌倉氏一門。↑ 通称は平井六郎。紀姓一門。↑ 『系図類

吉見頼直 - 日本通信百科事典

頼興・頼安・宗頼・頼豊・頼貞(雲松入道)・頼高・頼元の兄。吉見頼直 (吉見頼興の子) : 上記の吉見頼興の子、成興・隆頼[2]・頼俊・頼周・政頼[3]の弟、頼貞の兄。下瀬頼直 : 石見吉見氏一門の下瀬氏の当主の下瀬頼定の子、頼盛の兄、頼常・隆直・隆広の父、隆任(隆佐とも、隆直の子

吉見頼貞 - 日本通信百科事典

頼宗の曾祖父。吉見頼貞 (吉見頼興の子) : 法号は威信。上記の吉見頼弘の曾孫、おなじく成頼の孫、おなじく頼興の子、成興・隆頼・頼俊・頼周・政頼[1]・頼直の弟。脚注[]↑ 広政の父。関連項目[]源頼貞この記事は 『吉見頼貞』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共

吉見頼興 - 日本通信百科事典

: 石見吉見氏の当主の吉見成頼の子、信頼・成廉・頼直・頼成の弟、頼安・宗頼・頼豊・頼貞(雲松入道)・頼高・頼元の兄、成興・隆頼・頼俊・頼周・政頼・頼直・頼貞(威信)の父。下瀬頼郷 : 初名は頼興/頼種、通称は弥五郎、官職は左衛門尉。石見吉見氏一門の下瀬氏の当主の下瀬頼里(頼銀)の

多田国頼 - 日本通信百科事典

孫、頼茂[1]の孫、頼氏の子、頼明・輔頼の弟、定頼・教来石広政(教来石氏の祖)の父、氏頼の祖父、明頼の曾祖父、為頼の高祖父、清頼の6世の祖、政頼の7世の祖、盛頼の8世の祖、時頼の9世の祖、常頼[2]の10世の祖、行頼の11世の祖、晴頼の12世の祖、房頼の13世の祖、頼重の14世の

多田頼忠 - 日本通信百科事典

世の孫、頼氏の17世の孫、国頼[4]の16世の孫、定頼の15世の孫、氏頼の14世の孫、明頼の13世の孫、為頼の12世の孫、清頼の11世の孫、政頼の10世の孫、盛頼の9世の孫、時頼の8世の孫、常頼[5]の7世の孫、行頼の6世の孫、晴頼の玄孫、房頼の曾孫、頼重の孫、頼直の子、頼通の父

馬場政頼 - 日本通信百科事典

馬場 政頼(ばば まさより)とは、陽成源氏(摂津源氏)流多田氏の系統の摂津馬場氏一門の武将。約2名ほど存在する。馬場政頼 (馬場頼有の子) : 馬場頼季(頼重)の孫、頼有の子、頼義の弟、成頼・章有・章仲の兄。馬場政頼 (馬場清頼の子) : 馬場仲政の12世の孫、頼政の11世の孫、

三本松城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

三本松城お殿さん、今度鷺舞(さぎまい)を踊るので絶対見に来てくださいね!今はまだ下手っぴだから、練習中なんですけど。鷺舞は、三本松城主の吉見政頼が、大内義隆の姉の大宮姫を娶った頃に、疫病よけを祈念して始まったものなんです。毎年夏に、弥栄(やさか)神社で行われるんですが、「舞方」と

馬場頼重 - 日本通信百科事典

門の武将。約2名ほど存在する。馬場頼季 : 別名は頼重。馬場仲綱の子、宗綱[1]・有綱・頼成(田代冠者)・成綱(盛綱)の弟、頼有の父、頼義・政頼・成頼・章有・章仲の祖父。馬場頼重 (馬場房頼の子) : 馬場仲政の19世の孫、頼政[2]の18世の孫、頼兼の17世の孫、頼茂[3]の1

上杉謙信 - なんでもある Wiki

護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、

源頼義 - 日本通信百科事典

の よりよし)とは、陽成源氏(摂津源氏・河内源氏)流の武将。約5名ほど存在する。馬場頼義 : 多田氏一門の馬場頼季(頼重)の孫、頼有の子、政頼・成頼・章有・章仲の兄。源頼義 (信海入道) : 幼名は代王丸、法号は信海入道。源頼信の子、頼清(村上冠者)・頼季(乙葉冠者)・頼任(河

平泉成 - 日活 Wiki

- 本多忠勝信長 KING OF ZIPANGU(1992年) - 六角承禎炎立つ(1993年) - 藤原説成天地人(2009年) - 栗林政頼連続テレビ小説おしん(1983年)おんなは度胸(1992年)芋たこなんきん(2006年) - 畑山耕三おひさま(2011年)- 相馬剛三

藤原正頼 - 日本通信百科事典

久頼の弟、有遠・頼遠の父、経清・連国・重久・頼久・遠久兄弟(頼遠の子)の祖父。藤姓亘理氏・奥州藤原氏・刈田氏(白石刈田家)の祖となった。淵名政頼 : 渕名正頼とも呼ばれる。藤原秀郷の玄孫、知常(千常入道)の曾孫、文脩(文修/文条(文條)[2]の孫、淵名兼光[3]の子、兼助・行範・

源頼純 - 日本通信百科事典

を奪うために、下野国の国司の斎藤利行[1]に唆された岳父によって、謀殺された。土岐頼純 : 幼名は法師丸。土岐氏(美濃源氏)一門の土岐頼武(政頼/頼建)の子[2]、盛頼の父。妻は斎藤道三(秀龍)の娘の帰蝶[3]。叔父の揖斐光親[4]に擁立されて、岳父の斎藤秀龍(道三)を打倒すべく

島田満基 - 日本通信百科事典

の奉公衆となった。『応仁の乱』では、義政の弟の足利義視(よしのり)を擁立した足利氏一門の細川氏(三河源氏)の当主の細川勝元率いる東軍に属した政頼に基信とともに従軍したために、逆鱗に触れた義政の正室の日野富子によって、戦後に基信とともに奉公衆を解任されて、美濃国に戻って、隠棲したと

松浪の新左衛門 - 日本通信百科事典

護代でもある美濃斎藤氏の当主の斎藤利良が亡くなると、規秀は頼芸の命でその後を継いで、斎藤利政と改名した。その後の利政は越前国にいた頼芸の兄の政頼(頼武/頼建)の軍勢を撃退した。1541年に利政は頼芸の弟の頼満を毒殺し、次第に勢力を拡大した。翌1542年に主の頼芸を襲撃して、これを

源時綱 - 日本通信百科事典

殿助。義経流下野中村氏(下野源氏)の祖の中村朝定の子、朝綱[1]の弟。武田時綱 : 武田氏(甲斐源氏)の当主の武田信政の孫、信時の子、時頼・政頼の弟、信実の兄、信宗の父。北条得宗家の北条時頼から一字を与えられた。脚注[]↑ 頼長の父。この記事は 『源時綱』 のための曖昧さ回避ペー

武田信実 - 日本通信百科事典

(常陸源氏/甲斐源氏)の人物で、約3名ほど存在する。武田信実 (武田信時の子) : 武田氏(甲斐源氏)の当主の武田信政の孫、信時の子、時頼・政頼・時綱の弟。武田信実 (刑部少輔) : 若狭武田氏の第6代目の当主の武田元光の子、信豊(若狭武田氏の第7代目の当主)の弟、山県政信・盛信

源重頼 - 日本通信百科事典

父、重弘の祖父。土岐重頼 : 土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。吉見重頼 : 別名は重行。石見吉見氏(石見源氏)の当主の吉見政頼の孫、広頼の子、元頼・広長の弟。戦国時代に兄とともに毛利氏に仕えたが、家臣の讒言を聞いた毛利輝元の討伐を受けて、兄とともに戦死を遂げて、

源頼満 - 日本通信百科事典

頼勝の兄。島田頼満 : 土岐頼満/嶋田頼満とも呼ばれる。上記の頼光・頼国父子の後裔で、土岐氏(美濃源氏)の当主の土岐政房(頼継)の子、頼武(政頼/頼建)[2]・頼芸[3]・江戸崎治頼[4]・光高・揖斐光親[5]・鷲巣光敦(光蓮入道)の弟、頼香・光武(光建)の兄。嗣子がなかった族父

源頼員 - 日本通信百科事典

源氏)一門の舟木頼重(頼直/頼真)と大叔父の土岐光員(祖父の光定(光貞)の弟)の娘との間の子、光賢の兄、頼夏の父、頼尚の祖父、政尚の曾祖父、政頼の高祖父、光俊の6世の祖。妻は六波羅探題の奉行人の斎藤利行(藤原北家利仁流)の娘。戦国時代の南光坊天海(随風/舟木秀光)[1]は、その後

続群書類従(合戦部) - いにしえwiki

応仁乱消息合戦部 579 細川勝元記合戦部 580 官地論合戦部 580 長享年後畿内兵乱記合戦部 581 細川政元記合戦部 581 瓦林政頼記合戦部 582 道家祖看記合戦部 582 立入左京亮宗継入道隆佐記合戦部 583 舟岡山軍記合戦部 589 惟任退治記合戦部 589

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