「公方」を含むwiki一覧 - 1ページ

足利茶々丸 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

Fri 13:50:32NEW!所要時間:約 13 分で読めます▽タグ一覧足利あしかが 茶々丸ちゃちゃまるとは、室町時代後期の人物。「堀越公方」という組織の公子であったが、北条早雲に攻め滅ぼされる。「茶々丸」とはかわいらしい名前だがこれは幼名で、元服をする前に死去したために諱が

栗橋城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

C%BD_%E5%BE%A1%E5%AC%A2.png[改壱]の画像を表示する/隠すボイス[]声:内田真礼自己紹介わたくしは栗橋城です。古河公方様が重臣、野田氏の居城として在りました。古河公方様を代々お支えし続けてきましたが、後に北条家の傘下に降り、北条氏が拠点となりましたの。で

征夷大将軍(室町幕府) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

がされていたという噂も…通称「籤引き将軍」「悪御所」。中央集権のため、従わない守護大名や寺社勢力は容赦なく暗殺・討伐。義持時代に悪化した鎌倉公方*9の足利持氏との関係は、持氏の個人的な恨みもあって完全に破綻。二度の討伐によって持氏とその子供2人、及び持氏一族は殺された*10(永享

新田氏 - 日本通信百科事典

いだ。足利氏の内乱である『観応の擾乱』に乗じて異母兄の義興とともに各地を転戦し、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが巻き返され、尊氏の末子で鎌倉公方の足利基氏と足利氏一門の源姓畠山氏当主の畠山国清配下の江戸高良と蒲田忠武にらによって、一族で岳父の糸井政勝(大島周防守)[17]と世良田

獣兵衛忍風帖 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

にあった。◆濁庵だくあん(CV:青野武)「おかしなのはお互い様じゃけぇ」獣兵衛の前に現れた雲水姿の小柄な老人。その正体は公儀の隠密であり、闇公方の野望を阻止するべくその配下たる鬼門衆の行動を調査するために望月藩に潜入していた。飄々として軽口を叩きながらも、任務のためならば冷酷な計

古人の異名の一覧 - いにしえwiki

鞠の長者(後鳥羽天皇)承元二年四月九条廃帝(仲恭天皇)書聖(伏見天皇)将軍鎌倉右大臣(源実朝)悪御所*4(足利義教)緑髪将軍(足利義尚)流れ公方*5(足利義稙)左様せい様(徳川家綱)犬公方(徳川綱吉)米将軍(徳川吉宗)小便公方(徳川家重)イモ公方(徳川家定)他悪悪左府(藤原頼長)

装甲悪鬼村正-FullMetalDaemon MURAMASA- - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

本的に婆さん共々ギャグキャラだが、戦闘時には……。○足利茶々丸「力だけの政治はもう終わった!これからはエンターテイメントの時代だ!」六波羅四公方の一人で堀越公方。おはよお兄さん、可愛い。明るく人懐っこい少女だが、その地位は父親を殺して奪い取ったものである。公式のサンプルボイスで地

足利義久 - 日本通信百科事典

となった。嗣子がなく、甥の頼種(宗義の子)を婿養子に迎えた。足利義久 (八幡太郎)[3] : 通称は八幡太郎、幼名は賢王丸。鎌倉足利家(足利公方家)の当主・足利持氏の長男、義氏(成潤)・春王丸・安王丸・成氏・蔭山広氏(尊敒)・安漬(僧侶)・周昉(守実/僧侶)・尊敒 (僧侶)・定尊

落語 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

の歴史「えー、そうだねまずは歴史から行ってみようか」「おう、俺は歴史は得意だったから、そういう話は大好物だ」「……本当かねぇ。じゃあ、江戸の公方様を初めから順番に言ってごらんよ」「そんなの簡単だい。えー、まずは東照神君家康公」「お、よく知っているね。それじゃあ次は?」「…………」

戦国遺文 - いにしえwiki

七年(1579)至天正十年(1582)第六巻武田家朱印状年未詳諸氏年未詳文書穴山勝千代文書武田氏受給文書補遺受給文書補遺人名索引地名索引古河公方編自嘉吉元年(1441)至慶長五年(1600)古河公方編(足利成氏 足利政氏 ほか)一族編(足利基頼 芳春院殿 ほか)雪下殿・小弓公方編

足利政氏 - 日本通信百科事典

る。今川政氏 : 三河吉良氏(三河源氏)一門の今川氏(駿河源氏)の当主の今川国氏の子、経氏・俊氏の弟、基氏・経国・兼氏の兄。足利政氏 (古河公方) : 古河足利家(古河公方)の祖の足利成氏と梁田直助[1]の娘(伝心院)との間の子、義綱(上杉顕実)[2]の兄、義基(高氏/高基)・小

応仁の乱 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

しばしば争いが発生していた。6代将軍足利義教は将軍権力の強化を目指し、「万人恐怖」と呼ばれるほどの専制政治を行った。比叡山延暦寺を攻撃、鎌倉公方を殺害し、自分の息子に鎌倉公方を再興させようとする(未遂。後に部分的に成立)、土岐氏や一色氏といった重鎮の粛清など、苛烈だがある意味では

越中公方とはなんですか? - クイズwiki

A. 越中公方とは、室町幕府10代将軍足利義材が越中国放生津に亡命政権を樹立し、明応の政変によって将軍の座を追われ、越中国を中心に北陸地方に勢力を持った時期を指す言葉です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD

堺公方とはなんですか? - クイズwiki

A. 堺公方とは、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけての足利義維に対する呼称であり、その政権を言います。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9

平島公方とはなんですか? - クイズwiki

A. 平島公方とは、室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維(のちの義冬)の末裔で、家柄的には足利義視から義稙、そして義維と続く足利将軍家の別家である。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B3%B6%E5%85%AC

小弓公方とはなんですか? - クイズwiki

A. 関東における足利氏基氏流の公方家のひとつで、小弓公方とも呼ばれます。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9

ぼくの考えた最強偉人募集(氷室の天地) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

ストラクラスであるルーラー。ちょっと分かり辛いが、プラトンの動きに合わせてアニメの中で三枝が叫んでいる。●徳川綱吉(日本)『生類憐みの令』犬公方として知られる江戸幕府の第五代将軍。人間以外の全ての種族の能力を大幅に強化する。投稿者のイラストを忠実に再現した結果、犬公方というより犬

上総源氏 - 日本通信百科事典

総畑中氏・上総茂木氏・太海氏などがあった。宮原氏 : 上総宮原氏/源姓宮原氏とも呼ばれる。陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門の足利公方家(鎌倉足利家/古河足利家)の庶家。宮原晴直(上杉憲寛/憲広)[6]を祖とする。同族に小弓氏[7]があった。上総国市原郡宮原郷[8]を本

宮原氏_(上総国) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、古河足利家(古河公方)一門について記述しています。その他の氏族については「宮原氏」をご覧ください。宮原氏の家紋(足利二つ引)宮原氏(みやはらし)は、古河足利家(古河公方)一門。上総宮原氏/源姓宮原氏とも呼ばれる(上総源氏)。宮原晴直(上杉憲寛/憲広)を祖と

古河氏 - 日本通信百科事典

統が存在する。前者は「こがし」、後者は「ふるかわし」と呼ばれる。陽成源氏(河内源氏)流の足利氏(下野源氏)のうち足利基氏[1]を祖とする足利公方家(足利鎌倉家)の嫡流である。古河足利家/下総古河氏とも呼ばれる。庶家に小弓氏[2]・上総宮原氏(上総源氏)・大内足利家(武蔵源氏)があ

足利直明 - 日本通信百科事典

松氏(上野源氏)の当主の岩松政経の孫、直国(真義/法松入道)[1]の子。上総国守護であった外従父の世良田義政が、惣領家である鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利基氏によって誅殺されると、その後任として引き継いだという。一色直明 : 初名は足利嗣俊。足利義満の孫、義嗣[2]の子、香厳院梵脩

奥州源氏 - 日本通信百科事典

、相義(すけよし)の子の頼茂を祖とするが、発祥地は陸奥国のいすれかは未だに判明されていない。上記とおなじく足利氏一門。足利基氏を祖とする足利公方家(鎌倉足利家)の庶家で、足利満直を祖とする。同族に古河足利家(下総古河氏)・小弓氏[6]があった。篠川足利家とも呼ばれ、陸奥国安積郡篠

足利義綱 - 日本通信百科事典

綱 : 岩松氏(上野源氏)一門の岩松頼宥(頼円(頼圓)入道)の子。足利義綱 (茶々丸) : 初名は政綱[1]、幼名は茶々丸。堀越足利家(堀越公方)の当主の足利義知(政知)の子、義高(義遐/義尊)[2](第11代目将軍の義澄)・潤童王丸(政氏)の兄、茶々丸(高氏(治氏))の父。足利

菖蒲城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

89%E3%83%83%E3%83%88_%E5%9B%B3%E9%91%91.gifボイス[]声:石上静香自己紹介わたしこと菖蒲城は、古河公方足利成氏が金田式部則綱に命じて作らせた御城にございます。完成した日付が、五月五日……つまりは菖蒲の節句だったからことから、この名がついた

喜連川氏 - 日本通信百科事典

縄の婿養子の塩谷忠朝(貞朝)[4]が、その名跡を継いだ。喜連川氏 (足利氏) : 喜連川足利家とも呼ばれる。源姓足利氏基氏流鎌倉足利家(鎌倉公方)の嫡流の古河足利家(古河公方)一門の小弓氏の直系。小弓義明の次子の喜連川頼純(小弓頼淳)[5]を祖とする。脚注[]↑ 現在の栃木県さく

田中氏_(上野国) - 日本通信百科事典

多くはその麾下に加わったために、幕府方である同族である足利氏(下野源氏)一門の新田岩松家と抗争したが、上杉禅宗(氏憲)が大敗したために、古河公方の足利成氏[3]に仕えたり、上野田中氏は四散し、戦国時代初期になると三河国に移住して、三河酒井氏の仲介で遠縁筋の松平氏(徳川氏)に仕えた

塩松義仲 - 日本通信百科事典

軍の足利義教が陸奥国や出羽国の国人に出兵命令を出したが、義仲はこれに応じず、叱責を受けた。また、長禄3年(1459年)に、義教の子である堀越公方の足利義知(政知)が、一族の古河公方の足利成氏に大敗して、異母兄の義知を支援していた将軍の足利義政から成氏追討の御教書が出されたが、義仲

鎌倉氏 - 日本通信百科事典

嗣子がなく、断絶した。鎌倉家 : 宮家あるいは公家に属する家格で、約2つの系統に分かれている。足利氏(下野源氏)のうち足利基氏を祖とする足利公方家の嫡流である。鎌倉足利家とも呼ばれる(相模源氏)。嫡流に古河足利家(下総古河氏)[4]が、庶家に篠川足利家(奥州源氏)・稲村足利家(奥

源義賢 - 日本通信百科事典

義綱(第12代目将軍の義晴)の異母兄、義栄(第14代目将軍、義親/義勝)・平島義助・平島義佐(義任)の父。父に疎まれて、将軍に就任できず、堺公方および、阿波国の平島公方となり、平島氏の実質的な祖である。六角義賢 : 近江源氏の佐々木氏一門の六角氏の当主。法号は承禎入道。六角定頼の

相模源氏 - 日本通信百科事典

祖とする[2]。高座郡大和郷[3]を拠点とした。同族に備後鷲尾氏・木梨氏・高洲氏などがあった。足利氏(下野源氏)のうち足利基氏を祖とする足利公方家の嫡流である。鎌倉足利家とも呼ばれる。嫡流に古河足利家(下総古河氏)[4]が、庶家に篠川足利家(奥州源氏)・稲村足利家(奥州源氏)・蔭

源頼純 - 日本通信百科事典

れて、岳父の斎藤秀龍(道三)を打倒すべく挙兵したが、かえって撃退された。喜連川頼純 : 初名は小弓頼淳。足利氏(下野源氏)流古河足利家(古河公方)一門の小弓公方の小弓義明の子、義純の弟、雪下等覚院某の兄、国朝・頼氏の父。 父の戦死後に幼少だったために、安房国の安房里見氏[5]の庇

真里谷氏 - 日本通信百科事典

要2 歴代当主2.1 信応系3 脚注概要[]武田信長の孫で、信高の嫡子の真里谷信興(清嗣)を祖とする。祖父の信長は、遠縁筋の古河足利家(古河公方)の足利成氏に従い、上総国の支配を承認された。信興の子の信勝(信嗣)・信清父子は古河足利家の当主の足利政氏(成氏の子)の子の小弓義明を迎

源義明 - 日本通信百科事典

氏一門の美濃山田氏一族の山田重義と八島重清(重房の子)らとともに討ち取られた[1]。小弓義明 : 法名は空然入道/宗済入道。古河足利家(古河公方)の祖の足利成氏の孫、政氏の子、義基(高氏/高基)の弟、基頼・実頼(貞巌昌永)の兄、義純・頼淳(喜連川頼純)・雪下等覚院某の父。遠縁筋の

石橋氏_(下野国) - 日本通信百科事典

年(1386年)を境に、石橋氏の消息が定かではなくなった。石橋氏の庶家の塩松氏の伝承によれば、陸奥国・出羽国までに管轄下に置く事になった鎌倉公方・足利氏満によって、明徳3年(1392年)に宇都宮氏が陸奥国安達郡塩松郷[3]に入ってきたが、それに反発した奥州探題の大崎詮持が応永7年

源義知 - 日本通信百科事典

勝の異母弟、義政(義成)・義視(よしのり)[1]の異母兄、義綱(政綱/茶々丸)[2]・義澄(義遐/義高)・潤童王丸(政氏)の父。伊豆国の堀越公方となり、堀越足利家の祖となった。山入義知 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の山入祐義の子、義真[3]の兄。松平義知 : 三河松平氏(徳川氏

源義嗣 - 日本通信百科事典

(千寿王丸)・宝幢若丸(冬満)・義持の弟、義教(義円)・法尊(僧侶)・虎山永隆(僧侶)・大覚寺義昭(僧侶)・梶井義承(僧侶)の兄、嗣俊(鞍谷公方)・直明(ただあき)・梵脩(僧侶)[4]・脩山[5]清欽(僧侶)の父。幼少時から父に寵愛されたが、父が逝去すると敵対した異母兄の義持との

藤原公光 - 日本通信百科事典

(きみきよ/まさきよ/たかきよ/ともきよ)・公停(きみとみ/まさとみ/たかとみ/ともとみ)・公俊(きみとし/まさとし/たかとし/ともとし)・公方(きみかた/まさかた/たかかた/ともかた)・伊賀公季(きみすえ/まさすえ/たかすえ/ともすえ)・佐藤公脩(公修/公条(公條))・波多野経

源氏連 - 日本通信百科事典

の兄、成義の父、時連の祖父、国義の曾祖父、宗連(家連)の高祖父、宗義・義宗の6世の祖。仁田山氏の祖となった。喜連川氏連 : 古河足利家(古河公方)一門の小弓氏の直系の喜連川氏の当主の喜連川氏春[2]の孫、茂氏の子、梅千代の弟。父に先立って早世した。嗣子がなかったために、足利公方家

源教氏 - 日本通信百科事典

野源氏)流義季流世良田氏(世良田氏)の当主の世良田頼氏の子、江田満氏(光氏)・義有(有氏)の弟、家時(家持)・得川宗氏の父。鎌倉足利家(足利公方家)一門の足利義久(持氏の嫡長子)の別称とされる。関連項目[]足利義教この記事は 『源教氏』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタ

源満季 - 日本通信百科事典

さ/むねたか)[6]を婿養子に迎えた。武蔵守に任じられて、検非違使・治部丞・兵庫助などを歴任した。足利満季 : 足利氏(下野源氏)一門の足利公方家(鎌倉足利家)の祖である足利基氏の孫、氏満[7]の子、満兼[8]・満直(みつただ)・満隆(満高)[9]・満貞(満家)[10]の弟。脚注

源満頼 - 日本通信百科事典

と堀口貞満[4]の娘との間の子、明智頼重(頼助)・兼貞・頼隆(頼澄)の弟、頼慶(よりのり)・頼重(光明)[5]の父。遠縁筋の鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利満兼から「満」の一字を賜って、美濃岩手氏の祖となった。多田満頼[6] : 別称は昌澄[7]/昌俊[8]/久衡[9]/貞弘[10]

源満政 - 日本通信百科事典

・満頼[3]・昭子女王[4]の兄、八島忠重・八島忠隆・八島忠国の父。八島氏(羽島氏)の祖となった。足利満政 : 足利氏(下野源氏)一門の足利公方家(鎌倉足利家)の祖である足利基氏の玄孫、氏満[5]の曾孫、満隆(満高)[6]の孫、満康の子。大和満政 : 大和氏(相模源氏)一門の大和

細谷氏_(源氏) - 日本通信百科事典

もに、義貞の子の義興・義宗兄弟を支えたようである。房清の子の清房は、経景の子の経貞と有親の子の宗親・信親父子とともに、同族の鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利氏満(足利基氏の子)の支援を受けて、義興の子の義和に仕えて、足利将軍家の支援を受けた足利氏一門の新田岩松家と対決したという。義和

蠣崎繁広 - 日本通信百科事典

々木繁綱(三郎兵衛門尉)[2]と郎党の工藤祐長(九郎左衛門尉)[3]ら数騎を率き連れて夜陰に乗じて出奔したという。そのまま、古河足利家(古河公方)の当主・足利成氏[4]を頼ったが、同年末に陸奥国の三戸城の南部光政[5]を頼った[6]。季繁・繁広父子は宇曾利を住居に定めて、南部氏(

水戸氏 - 日本通信百科事典

井松平家の男系が断絶したために、同族の水戸徳川家から婿養子を迎えた。↑ もともとは、徳川将軍家(江戸徳川家)一門であった。↑古河足利家(足利公方家)流小弓氏(小弓公方)一門の高家旗本の喜連川氏の当主の喜連川宜氏(一族の義清流長岡細川家の血統)の婿養子に松平昭縄(あきつな、徳川斉昭

足利義基 - 日本通信百科事典

ほど存在する。石塔義基 : 石堂義基とも。後に義憲と改称する。石塔頼茂の子、範家・頼房の弟。足利高基 : 初名は義基/高氏。古河足利家(古河公方)の足利政氏の子、小弓義明・基頼・実頼(貞巌昌永)の兄、晴氏[1]・高実・時氏(雲岳周陽)・宮原晴直(上杉憲寛/憲広)[2]・晴泰(大内

足利義勝 - 日本通信百科事典

弑されると、その後を継いでわずか9歳で将軍となるが、2年後に11歳で夭折した。足利義栄 : 別名義親/義勝。室町幕府の第14代目の将軍。平島公方の足利義維(義賢/義冬)の子、平島義助・平島義佐(義任)の兄、義啓(よしひら)の父。宮原義勝 : 宮原義克とも呼ばれる。上総宮原氏(上総

足利義教_(アニメ) - 日本通信百科事典

も病弱のために早世したので、彼女は比叡山の三宝院満済ら住職たちから次期将軍候補として、追い払う名目としてこれを推薦した。そのとき、一族の鎌倉公方である足利持氏が「待った!」と声をかけた。しかし、同族の管領・畠山満家は持氏の野心を警戒して籤引きを提案した。そのことを公開すると激怒し

足利義佐 - 日本通信百科事典

1]の曾孫、尚義[2]の孫、義通[3]の子。渋川義佐 : 別称は義任。上野渋川氏(上野源氏)一門の渋川義長の子。平島義任 : 別称は義佐。堺公方・阿波国の平島公方の足利義維の子、第14代目将軍の義栄(義親/義勝)・義助の弟。脚注[]↑ 氏直(うじただ、繁俊・義繁(義茂)の父)の弟