「正年」を含むwiki一覧 - 2ページ

阿波国分寺 - 巡礼 Wiki

56年)、聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、遅くともこの頃には完成していたことがわかる。天正年間(1573~1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の

藤井寺_(吉野川市) - 巡礼 Wiki

伝えられる。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号したという。中世以降[]真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展したが、天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。延宝2年(1674年)に臨済宗の南山国師が再興したことから臨済宗に改め

南光坊 - 巡礼 Wiki

たという。なお、これら8坊の移転を正治年間(1199年 - 1201年)とする説もある。これらの坊はそれからしばらくともに存続していたが、天正年間(1573年~1592年)に、伊予の全土を襲った長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、失われることとなった。しかしのちに至って、それらのう

大日寺_(徳島市) - 巡礼 Wiki

いると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置したという。天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によってすべて焼失したが、徳島藩3代藩主蜂須賀光隆によって再建された。その後阿波一宮神社

大興寺_(三豊市) - 巡礼 Wiki

年)に東大寺の末寺として建立され、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に開基し、本尊の薬師如来を刻んで安置した。天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年~1615年)に現在地で再興される。境内[]

園城寺 - 巡礼 Wiki

家康が寄進したもの。墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定される。釈迦堂(重文)-大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝える。金堂(国宝)-三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年

安楽寺_(上板町) - 巡礼 Wiki

寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治年間(1658年 - 1661年)に駅路寺であった瑞運寺を併合して現

太龍寺 - 巡礼 Wiki

武天皇の勅願によって堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。[1]皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建

岩本寺 - 巡礼 Wiki

いう。弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺へと発展させ、五社寺にそれぞれ本尊を安置したという。天正年間(1573年 - 1592年)に兵火によって焼失するが、一条氏によって再興し現在の名称に改められる。明治初期には廃仏毀釈により廃寺とな

立江寺_(小松島市) - 巡礼 Wiki

胎内に収めたといい、このときに寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時の所在地は現在地から400mほど西であったという。中世以降[]天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で

恩山寺 - 巡礼 Wiki

めに女人解禁の修法を行い迎え入れた。玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、空海が自身の像を刻み現在の寺名に改めたとされる。天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代に入って徳島藩主蜂須賀氏の支援を受けて復興、文政年間(1

本山寺_(三豊市) - 巡礼 Wiki

寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したという。中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、鎌倉時代

平等寺_(阿南市) - 巡礼 Wiki

の水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 - 1736年)になって照後僧正によって再興される

常楽寺_(徳島市) - 巡礼 Wiki

として安置したという。空海の甥に当る真然僧正が金堂を建立、祈親上人が講堂、三重塔などを建立し七堂伽藍の大寺院となったと伝える。中世以降[]天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって再興された。文化15年(

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