伝えには聞いたが、伊豆の海というのはまっことに美しいものだ。月明かりに照らされ神秘的な煌きを放つ面に、浜辺に打ち付ける耳に心地よい波風の音。薬師というものの大半はそうだと言えばそうだろうが、産まれ甲府藩を出るなぞ生まれてこの方初めてという田舎者であったから、ここに至るまで城下道から何までが新鮮で素晴らしかった。ああ、本当に。こんなにも善いものであると知っていたならば、花にも見せてやりたかった。彼女と一緒に過ごしたかった。だがそうはいかない、それを選ばなかったのは自分が願ったことであるゆえに。
彼女に死に顔を見せることなく消えること。お前の行いは悪辣な裏切りだとあの世の獄卒に責められることになろうとも、せめてそれだけはこの何も成しえなかった無為な生の中でも通したい、いや、通さねばならぬ。誰かを見送る度に彼女は悲しみをその中に湛えていたのを見ていたのだから。
沖を目指して粛々と歩く。このような時間であるにも関わらず不思議と寒さは感じなかった。着物はみるみるうちにまるで鉛や鉄を括りつけたようにその重さを増していき、僕を底へ、底へと沈めていく。足はもうとっくに着かなくなった、今仮に戻ろうとしたところで、もう水面へはどちらへ向かえばいいかもとんと見当が付かない。肺腑に水が満ち満ちていく。溺れるのもそういえばこれが初めて、最初で最後か。存外大したことはないというか、息苦しさなんぞは結核でとっくの昔に慣れてしまったようだ。意識が徐々に遠のいていく。ああ、ようやくこれで自らの本懐を遂げることができる。
よかった、よかった。本当に。これで、
……嫌だ。死にたくない、生きていたい。
僕はなぜ死のうとしたのか、病の果てに恐ろしい死が待つのが恐ろしかった。死なぬために死のうとしたんだ。だから僕は花を”だし”にして、自身の心のうちさえ欺こうとした。そんなの許されない、許されてなるものか。生きねば、死ぬには、生きてからでなければならぬ。
だけどどうやって。もう殆ども目も見えない。この後悔が僕の罰なのか。嘘と、この浅ましさの。
視界が完全に暗闇に飲まれるほんの一寸先、僕は大きな大きな蛸と目が合った。
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