原風景

ページ名:原風景

 

私はこの世には人を狂わせ、内側の世界へと閉ざし、最後には自身を怪物に変える、そういう呪いがあると考えている。それは思考を止めたものにとって安寧によく似ているが、葛藤するものにとっては耐え難い恐怖の具象化だ。その呪いとは道理、正義、そういうものでできている。謂わば正当化という概念そのものだろうか。「私の怒りは正当なものだ」「俺の境遇は慰められて然るべきだ」「道理に反するものはすべからく排除すべきだ」「正義の下許されぬものはない」

恐らく誰にだってこういう考えがよぎることはある。私だってそうだ、誰しもがいくつも呪いの芽を抱え込んでいる。思うに、それを俯眼して見れなくなった時、つまり自分自身のエゴを妄信し疑うことができなくなったときに怪物は産声を上げ目を覚ますのだ。

たとえば、喩えを一つ挙げよう。そう、昔、国語の教科書か何かでみんな誰しも一度は「山月記」という小説に触れたことがあると思う。臆病な自尊心と尊大な羞恥心に気付けず、自身のエゴを肥やさせた結果が、虎という怪物に主人公を変えさせてしまった。私達も、きっと、彼と何一つ変わりはしないのだ。


 

たとえば、僕の昔話をしよう。僕が初めて夢現災害というものに出くわした時の話で、僕がまだ一般社会で働いていた時の、同僚の話だ。

その人は決して善人とは言えないが悪人でもなかった、と思う。少しばかり同性への当たりと偏見は強かったし、誰も意見しようとは思えないほどには語気も強かった。いわゆるお局さまと言うのか。あの人のいる職場の居心地はよかった、とは口が裂けても言えない。

 

 

 

そのときみたのは緑色の眼をした6、7m大の鎧龍が何本もの大剣を宙に浮かべるフリフリの魔法少女に対峙する光景。まず自分の目を、それから頭を疑ったのは言うまでもないが、幻覚にしては余りにもそれはリアルだ。僕が見た怪物とはまさしく彼女の「嫉妬」それそのものであったと思う。その巨躯を苦しそうにみじろぎさせながら、その四肢の届く範囲をただ衝動のままに破壊する。その怪物の厚く、ぎっしりと並んだ鱗達を掻き分けて、直に、直にと突き立てられた刃に付着するのは赤や青の血でなく、黒いインクか、或いは墨の文字。それらは殴り書きしたそれのように非常に乱雑で、一見してはそれを読むことさえ容易ではない、けれど、しかし、そこに込められた怒りと憎悪は読解し理解するのではなく、共感するように直感できた。あの字は何と書いてあったのだろうか?具体的に思い出すことはかなわずとも、当時、それを読んだときに僕は酷く狼狽したことをよく覚えている。こんな人が、こんなよく居る只の人が、これほどまでに何かを呪って異形になり果てるのか。―――ならば、僕もそうならない保障などどこにある?

そう思うと途端に身体がピクリとも動かせなくなった。さながら蛇に睨まれた蛙だ。その場から逃げることも、目を瞑ることもできない。この地獄を眺め続けることを強要されていた。できたことと言えばつい先ほど回顧したようなわずかばかりの思索か、突き立てられた刃がみるみるうちに増えていくのをただ呆然と数えることだけだった。1本、2本……数を増すごとに怪物の抵抗はより強く、より苦悶を帯び、より憐みを感じさせるものになっていった。それは恐らく一瞬の出来事だった。僕にとってはもっとも長い一瞬であったが……。そうして両の指を使っても数え切れなくなる頃には見る影もなく、まるで針山のように無残だった。ただ、最後に一つ、意味は酌めないが、何かをいいや、それは決して違う。ただ荒れ狂う情念を、憎悪を、渇望。そう云う悲鳴にも似た絶叫を響かせて怪物は消滅していった。そして、そこにはもう、黒い宝石がただ一つ転がるだけだった。刃の主は去り際に確かこう言った。
「これで、あなたの憎悪が晴れんことを」

違う、それは救済じゃない。意思の蹂躙だ。僕はそう吐き捨ててやりたかったけど、僕の喉から漏れたのはただの空気がかすれ出る音だけだった。

 

 

 

 

 

 

 


奇書院のダイバーになってからは何十件だって見てきた。戦友がエゴに飲み込まれるところだって見たし、その度にその「魂」を、あるいは本人そのものを介錯してきた。

僕が思うに、怪物になることからは多分逃れられない。自分の気持ちに全てを委ねることはきっと心地よいし、そのときにはあのときに感じた僕の嫌悪も、今僕が抱えるこの理想も忘れ去ってしまう。

 

 

 

 

 

 

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