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由緒

当大馬神社は、花の窟、産田神社及び二木島の牟呂古、阿古司に次ぐ古社である。嵯峨天皇の御宇(大同、弘仁年間)紀伊国室郡に南蛮起こ り、東国の人民の伊勢、熊野参詣、また西国の人々の伊勢熊野参詣を妨げ、人々を害したので、勅命によって坂上田村丸将軍が、伊勢から熊野路へ入って賊を討 ち、賊の首魁の首を地中に埋め、【その後熊野は平穏になり、遠近からの熊野詣は妨げが無く安泰にできるようになった。】その上に社殿を造営した。その後、智 興和尚が熊野参詣、一山に七日宛参篭した。そのとき、当神社の由来を伝聞して、当社に参詣を志し、大般若(花の窟)の汀のあたりまできたところ、馬上の貴人が現れて、和尚を大馬谷の奥の当社まで案内したのち、かき消すように姿が消えた。和尚は不審に思って、神官を尋ねると、「それはまさしく田村将軍であ る。将軍は帰京の時「我は後世において、此処に再び悪鬼の出るのを防ぐ為、熊野三所権現と共に此処に居よう。」と言われた。それによりいまもこの神社の祭 神としてあり、御僧が敬神の念篤く、当社へ御参詣の志しを貴く思し召し、田村将軍の霊が仮の姿をとって現れ、御僧を迎えてここまで案内されたのでろう。 と答えた。和尚はその言葉を有り難く思い、当社僧坊へ足をとめ、精進の後、神前において法華経読誦及び大般若経一部六百巻、五部大乗経一部五百巻を書写奉 納され、一千日の参篭終わってその夜の夢に、田村将軍が現れ、「和尚一千日の参篭及び法華経読誦、大般若、大乗経書写は殊勝である。この恩は来世にて報ず べし。」と言い、「この世にてころもの玉をみがきなば中う(前世に死したる後未だ次世をうけざる間をいう)の旅の道を光さむ」と歌一首を和尚に贈り、和尚 も「ありがたや千手の誓に任せつつ普茶落世界へすぐに詣てむ」と返歌した。夜が明けて和尚はこのことを神官、社僧に語り、田村将軍は千手観音の化身である から、この御神を信仰し、足をはこんでこの神社に参詣する人は、現世では富貴繁盛し、来世では上品上世の極楽に詣でることは疑いなしである。また田村将軍 の乗っておられた馬は大きな葦毛の馬であった。だから当社は「大馬権現」と号し奉る。 また大馬祭祀を考えれば祭祀場所の背後に岩壁があり、傍らに滝がある。それに古木老杉をそえてその自然環境は自ら神秘神威感に富んでいる。この自然信仰に 後世祭神を加えて成ったものとも考えられ、和歌山県新宮市の速玉神社に「有馬三山の図」という江戸時代の色彩絵掛軸があり、花の窟、産田神社、大馬神社の 三社を熊野三山になぞらえたものがある。
尚、七里御浜海岸の獅子岩(阿の岩)、神仙洞(吽の岩)が古来より当社の狛犬と称されている。
明治三九年十二月二五日、神饌幣帛料供進社に指定され現在に至る。


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