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いまむら しょうへい 今村 昌平 | |||||||||||
別名 | イマヘイ | ||||||||||
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生年月日 | 1926年9月15日 | ||||||||||
没年月日 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 | ||||||||||
出生地 | 日本の旗 日本・東京 | ||||||||||
民族 | 日本人 | ||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家 | ||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||
活動期間 | 1951年 - 2002年 | ||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||
家族 | 長男:天願大介 次男:今村竑介 | ||||||||||
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表・話・編・歴 |
今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年9月15日 - 2006年5月30日)は、日本の映画監督、脚本家。
株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。長谷川和彦も一時、正社員として所属していた[1]。
1926年(大正15年)東京の大塚で今村半次郎(耳鼻咽喉科の開業医)の三男一女の四男として生まれる。小学校の同級生に俳優の北村和夫がいた。長兄はフィリピンで戦死。
1944年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。徴兵を避けるため桐生工業専門学校(現・群馬大学工学部)に入学、終戦後直ちに退学し、早稲田大学第一文学部西洋史学科卒業。
家族は妻と2男1女。長男は脚本家で映画監督の天願大介。次男は今村プロダクション代表取締役の今村竑介(いまむら ひろすけ、1963年3月22日 - )。50年余の映画監督人生の中で、20作品を監督している。
非常に大食いであり、どんぶり飯を2杯食べないと気がすまないと言われていた。しかし、その旺盛な食欲が災いして胃潰瘍になり、吐血して病院に運び込まれた事もあった。
大変な倹約家としても知られ、映画制作費を減らす事の為ならなんでもしたと言われている。不用意に電話を使う事すら許されず、電話代を節約するためハガキでのやり取りを奨励していた。
早稲田大学では演劇部に所属し演劇活動を行っていたが、『醉いどれ天使』に感動し、演劇に見切りをつけ監督の黒澤明に付こうと思い決めた。しかし、黒澤のいた東宝はその時助監督募集をしていなかった。
1951年早稲田大学を卒業し、松竹大船撮影所に入社。欠員の出た松竹が初の助監督公募を行い2000人中8人という難関を突破しての合格だった。主に小津安二郎の助監督をつとめ、松竹大船助監督部の幹事にまでなったが、収入や仕事で不満を感じ、1954年に日活に移籍する。のちに「松竹では束縛だらけだったが、日活はまったくなかったから驚いた」と松竹と日活のギャップを語っている。
1957年の名作・川島雄三監督『幕末太陽伝』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』の脚本も書いている。学生時代からの友人であるフランキー堺や小沢昭一、加藤武と親交が深い事でも知られていた。『神々の深き欲望』の過酷な撮影現場に耐え切れず脱走を試みては連れ戻されたという 嵐寛寿郎のエピソードは有名。
1961年の『豚と軍艦』、1963年の『にっぽん昆虫記』、1964年の『赤い殺意』などで監督として世間に認められるも、一時は企画がまったく受け入れられず、胃潰瘍を患い、明日の米にも困るほどの赤貧生活を経験している。
1979年、佐木隆三の『復讐するは我にあり』の映画化権を多くのライバルから奪い、公開までこぎつけて見事に復活を遂げたものの、1981年の『ええじゃないか』の大失敗で一時は「天下の今平も終わったな」と観客を失望させた。しかし1983年、起死回生の『楢山節考』を発表。本作と『うなぎ』(1997年)で、日本人では初めてカンヌ国際映画祭で2度最高賞(パルム・ドール)を受賞するという快挙を成し遂げた(他にフランシス・フォード・コッポラ監督など5名がいる)。なお本人は『楢山節考』を出品した際には「カンヌ(映画祭)出品のために作った作品ではない」とカンヌ映画祭を欠席。『うなぎ』の時は出席はしているが、作品を発表する前に帰国している。
1975年、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)を開校し、校長・理事長を務め、三池崇史・細野辰興・金秀吉・佐々部清・本広克行・李相日などの映画監督、鄭義信などの脚本家、芥川賞作家の阿部和重、さらに、タレントのウッチャンナンチャン、俳優の長谷川初範、隆大介などの人材を輩出した。
1998年、新潮別冊『コマネチ!』にて北野武と対談。
2006年5月30日午後3時49分、転移性肝腫瘍のため東京都渋谷区の病院で死去。享年79。遺作は『11'09''01/セプテンバー11 』中の短編。
葬儀には、私淑していたマーティン・スコセッシが「彼は私の師でした」と記した弔文を寄せたテンプレート:要出典
今村が松竹から日活へ移籍した後、川島雄三が同じく日活に移籍、また監督試験で「松竹に落選」した浦山桐郎が鈴木清順監督の計らいで日活入所となった。
川島は幕末太陽傳での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』などの製作を行なう。今村は常に川島を意識して、地方出身で都会志向の川島に対して、東北土着の「基層心理」をベースにした作風(本人の言葉で言えば重喜劇)をこのとき確立させた。のちに今村はこの基層心理を推し進めてドキュメントタッチの作風に変化して行ったが、主人公は常に庶民であり、有名人の故事来歴的作品は一切取り上げなかった。
彼の師匠川島雄三についての追悼録、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』では、川島の生涯を実証的に取り上げ、川島がALSに侵されながらそれを一切他言せず、最後まで映画製作の現場に立っていたことを取り上げた。今村は総じて女性を肉感的に表現することを好み、作品には『うなぎ』も含め多くの作品で女優のヌードシーンが登場している。また『ええじゃないか』の女優の放尿シーンは映像倫理審査会の規定に触れるとして物議をかもした事がある。テンプレート:要出典
日本の都会の底部や小さな農村を舞台にしたものが多く、日本人の意識の基層から来る性や本能・背徳的な近親相姦といった人間の『欲』に焦点を当てたものが多い。また、派手なアクションシーンなどはない重厚ながらも喜劇的でエネルギッシュな演出を好んでいた。
作品の随所に、人間の獲物を動物が横取りする場面がある。
テンプレート:Wikinews
テンプレート:毎日芸術賞
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