蜀漢

ページ名:蜀漢

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蜀漢(しょくかん/しょっかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州、現在の四川省・湖北省一帯および雲南省の一部)に建てた国。

蜀の地に割拠した王朝は多数あるが、単に「蜀」と言った場合、多くは蜀漢を指す。


目次

概要[編集]

蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀を領土とし、成都を都に定めた。

「蜀漢」は後世の称であり、正式な王朝名は「漢」である。これは魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、劉備が漢の正統を継ぐと宣したためである。従って同時代に「蜀漢」を自ら名乗った訳ではない。

他の同時代の称としては、蜀の臣から季漢と呼ばれた例がある。「季」は「末っ子」の意味であり、「漢の正統を最後に受け継いだもの」ということになる。

歴史[編集]

劉備時代[編集]

208年、劉備は孫権と同盟を結んで赤壁の戦いで曹操を破り、209年、孫権とともに荊州を攻め、荊州の4郡を制圧し、支配下に収めた。当初は荊州刺史劉表の子の劉琦を擁立したが、劉琦の死後は劉備が後継者を自称し、孫権からその立場を承認させ、210年には周瑜の死去により荊州の南郡を譲られた。

212年から214年にかけて、劉備は劉璋の配下の張松・法正・孟達らの手引きで、劉璋から領土を奪い、益州の大半を得た(入蜀)。

215年、孫権と領土のことで係争となり、荊州南部の郡の大半を孫権に割譲した。

219年、劉備は漢中を守備している夏侯淵を討ち取り(定軍山の戦い)、曹操から漢中郡を奪って漢中王になった。劉備の配下の関羽は荊州方面から曹操領に侵攻したが、曹操と密かに同盟を結んだ孫権・呂蒙に荊州を攻撃され、荊州は失陥し、関羽は捕虜となり孫権に処刑された。

220年、曹丕が後漢を廃し、魏の皇帝となると、221年、劉備は対抗して漢の皇帝となった。諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。さらに劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。

222年、荊州奪還と関羽の仇討ちのため呉を攻めるも、陸遜の前に大敗した(夷陵の戦い)。この際に蜀軍は馬良をはじめとした主だった将兵が戦死し、その軍事力は大いに衰え人材も失った。同年、劉備は孫権と和睦を結んだ。

223年、劉備は諸葛亮に後事を託して崩御。後に昭烈帝と諡された。

劉禅時代[編集]

劉備の亡き後は子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮・李恢らは225年に益州南部四郡を征討して反乱を平定し、南方の異民族を信服させた。

その後、諸葛亮は魏に対しては、劉備の遺志を継ぎ北伐を敢行した。この北伐の出師にあたり、諸葛亮が劉禅に奏じた『出師の表』は、当時から現代に至るまで名文として非常に高く評価されている。228年、魏の天水・南安・安定の3郡を奪うが、先鋒の馬謖が軍令無視により街亭にて張郃に敗北した(街亭の戦い)。天水・南安・安定の3郡は張郃らに奪い返された。諸葛亮は軍律を模範的に遵守せざるを得ない立場であったため、自身の愛弟子である馬謖を処刑した。これが有名な故事「泣いて馬謖を斬る」である。

229年、魏の武都・陰平の2郡を奪った。同年、呉の孫権が皇帝を称し、蜀漢では原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出した。しかし諸葛亮は魏に対抗するために現時点での同盟破棄は妥当ではないと説得し、蜀漢と呉は改めて対等同盟を結んだ。同時に、魏領の分配についても取り決めた。

その後も祁山周辺において魏との攻防が続き、宿敵の張郃を射殺したが、234年に諸葛亮が五丈原において病に倒れ、陣中で死去した(五丈原の戦い)。

諸葛亮の死後は蔣琬・費禕らが政務を担当し、大々的な北伐を控えて内政の充実に努めた。244年、魏の曹爽・夏侯玄・郭淮らが侵攻して来たが、王平・費禕らが撃退した。魏ではこのころ司馬懿一族の専横によって政局が混乱しており、それを嫌った魏将・夏侯覇が蜀に投降した。

しかし246年に蔣琬・董允が相次いで死去し、253年の費禕の死後には、最早蜀を支える政治家はいなくなり、姜維や陳祗らが国政を執り、北伐が再開される。255年には魏に大勝したものの、256年の段谷の戦いでは逆に大敗し、相次ぐ北伐で蜀は疲弊した。258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。

そして263年、魏の実権を握っていた司馬昭が蜀討伐を命令する。姜維らは剣閣で魏軍に抵抗したが、対峙している間に別働隊が迂回して蜀の地へ進入、綿竹で呉の援軍が到着する前に諸葛瞻が討ち取られた。この知らせを聞いた劉禅は、魏軍が成都に迫る前に降伏、蜀は三国の中で最も早く滅亡した(蜀漢の滅亡)。劉禅の五男である劉諶と妻子が憤死し、その後の成都で起こった反乱で皇太子の劉璿が殺害されるなどの混乱はあったものの、劉禅自身は魏・西晋両朝で「安楽公」に封じられ、271年に亡くなる65歳まで生きた。

陳寿によれば、蜀は歴史を編纂する役人(史官)を(ほとんどの期間)置いておらず、魏や呉に比べ蜀の歴史は後世にあまり伝わらなかったようである。

劉氏のその後[編集]

劉禅はその後、先祖代々の土地である幽州の安楽県で安楽公に封じられた。長男の劉璿は先年の戦乱で先立たれていたため、後継者を決めることになったが、次男の劉瑤を差し置いて、六男の劉恂を後継にしようとしたため、旧臣の文立らに諌められた。271年に65歳で死去した。西晋によって、思公と諡された。

安楽公を継いだ劉恂は、道義を失う振る舞いを度々行い、旧臣の何攀らに諫言されたという。最後は永嘉の乱に巻き込まれ、劉恂も含めて一族皆殺しにされた。ただ、従孫の劉玄(弟・劉永の孫)だけが生き延びて、成漢を頼ったという。

政治[編集]

蜀漢は魏の正統性を否定してその討伐を大義名分としていたため、「軍事最優先型国家」と評価されるレベルの軍事重視型の国づくりを行っており、蜀漢の全人口が90万人から100万人なのに対し、兵士と官吏だけで14万人と人口の15%近くを占めると言う特異な構造となっていた。また、河北の出身であった劉備は関羽・張飛らと共に各地を転々した上でようやく荊州の一部に勢力基盤を確保した存在に過ぎず、自己の勢力を維持するためにも積極的な軍備増強と勢力拡大に努めざるを得ず、諸葛亮が提案した俗に「天下三分の計」とも称される「隆中対」は劉備の正当性と現状に適った方針であった。また、劉備が豊かな農業地帯であった益州の確保後に城内の金銀を将兵たちに分け与えてしまったのも、劉備の基盤の弱さゆえであり、そのために自己の政権作りと国内整備に必要な財源すらも放出してしまった(蜀書『先主伝』では穀物と布帛だけは回収したと伝えている)。そのため、劉巴の献策で「直百銭」(1枚で五銖銭100枚相当)の貨幣を鋳造して強制的に市場に流して物資を買い集めることでしのぎ、一方で劉備に従った旧来の豪族・地主にはその土地所有を保証することでその経済的打撃を抑制することで反乱の発生を防いだ。さらに王連という優れた財務官僚を登用して鉄と塩の専売制を機能させ、また絹織物の生産・貿易を管轄する「錦官」が設けられるなど、財政充実が図られた(ただし、これらの政策は民間経済への犠牲を伴うものでもあった)。また、劉備の時代に既に諸葛亮は国政のトップである丞相だけでなく、行政実務のトップである録尚書事を兼ね、更に地方政治のトップであった益州刺史を兼務して軍事だけでなく行政・経済を完全に掌握していた。なお、蜀漢では人事に関しては尚書台が管轄しており、更に戸籍についても管轄していた可能性があるという。

その後、劉備は漢中を得て漢中王から皇帝に即位したものの、荊州を喪失して夷陵の戦いで敗退するなど苦境の中で没し、新皇帝劉禅と丞相諸葛亮は劉備の体制を引き継ぐことになる。劉備の死と共に南中諸郡は反乱を起こし、諸葛亮は南征を計画するが王連から反対を受ける。諸葛亮の計画の背景の1つとして勢力の維持・拡大によって財政基盤の強化を図ろうとするものであったが、王連は自己の財政政策が機能している中で本来の目的である北伐を後回しにして南征を行うメリットは少ないとみたのである。しかし、王連が死去すると専売制は不振となり、結局南征が実施され、南中地域から兵力と物資を得ることになった。ただし、「隆中対」にも記された内治の充実は荊州を領有して初めて実現できるものであり、荊州を魏と呉に奪われた状況では民間経済を犠牲にして軍備を強化し一刻も早い北伐を目指すしかなく、諸葛亮の『出帥の表』にも「益州疲弊せり」と記されている。そのため、北伐においても漢中などにおける屯田や敵地における略奪や拉致を行うことで、できるだけ蜀漢の物資を浪費しないようにする策が図られることになる。しかし、度重なる北伐は蜀漢国内に対する度重なる臨時徴収の実施など、より一層の疲弊をもたらした。これに対して諸葛亮は、厳格な法治や思想統制、平時における軍隊の公共事業への使用などを行い、国内の不満を魏に向けさせる戦略を取り続けることで北伐と体制維持の両立を成功させていった。

諸葛亮の死後、蜀漢の体制は一時的に動揺したが、後継者である蔣琬は丞相には就かなかったものの、大将軍・録尚書事・益州刺史を兼務して諸葛亮の地位をほぼそのまま継承した。蔣琬の死後にその後を継いだ費禕も同様であったが、これは諸葛亮の存命中に蔣琬は撫軍将軍・尚書郎、費禕は中護軍・尚書令と、いずれも軍事系と尚書系の職務を両方経験していたため、軍事・行政・経済を一元的に運営する諸葛亮の政治手法を理解していたから可能であったとみられている。しかし、費禕の没後にその地位を継承すべき姜維は、録尚書事に就いたものの行政実務に関与しておらず、もう1人の陳祇は鎮軍将軍に就いたものの軍務には関与していなかったため、諸葛亮の政治手法は取れなくなっていった。大将軍として軍事を掌握する姜維と尚書令として行政実務を掌握する陳祇は、対立する立場にありながらも北伐の実現に向けて対立よりも協調する路線を取り続けた。しかし、姜維の北伐の失敗と陳祇の死去、彼に登用された宦官の黄皓の台頭によって、姜維は軍事面では張翼・閻宇、尚書側からは諸葛瞻・董厥・樊建、そして宦官の黄皓の3方向の反対派からの突き上げを受けることになった。人事を扱う尚書に足場を持たない姜維は、成都に帰還すれば尚書内の反対派によって確実に罷免されるため、成都へ帰還することができなくなってしまった。しかし、反対派も互いに対立関係にあり、蜀漢末期の宮廷は4派に分裂の様相を見せていた。それでも鄧艾・鍾会の蜀侵攻に際しては、張翼・諸葛瞻・董厥らは姜維と共にこれを迎撃しており、知略で成都を陥落させた鄧艾を除けば魏軍を撤退間際まで追い込んでいたなど、激しい権力闘争があったにも関わらず国内における致命的な分裂は最後まで生じなかった。

丞相、司徒の地位に就いた者については「三国相国、丞相、司徒の一覧」を参照

蜀漢と正統論争[編集]

蜀漢は三国のうちで最も国力の劣る国家であったが、後世に起こった正統論争(正閏論)においてはその存在が大きく注目された。

三つの王朝が鼎立した三国時代であるが、陳寿は『三国志』の中で曹操や曹丕ら曹氏のみを皇帝として認め、同時に皇帝を称した劉備・孫権は列伝に収録して形式上は彼らを魏の臣下として扱うなど、三国の内で魏のみを正式な王朝として扱った。ただ一方では「春秋の筆法」で以て蜀漢・呉もまた独立した王朝としての体裁を持っていたことを記し、その上で故国である蜀漢を呉とも差別し、その正統性を窺わせる記述も密かに盛り込んでいた。

東晋の時代、晋王朝は中原を非漢民族王朝に支配され、江南に逃れざるを得ない状況にあった。また、東晋は弱体で、桓温・桓玄父子や劉裕によって禅譲が狙われる状況にあった(最終的には劉裕が宋を開き滅亡)。そこで禅譲を否定するため、晋は魏からの禅譲によってではなく、後漢を継ぐ蜀漢を倒して初めて成立したのだという主張が生まれた。魏の正統性を否定した結果、蜀漢を正式な王朝と見なす、いわゆる蜀漢正統論の起こりとなった。習鑿歯の『漢晋春秋』や袁宏の『後漢紀』はそのような歴史観の影響を受けて成立した史料である。また『四庫提要』は『漢晋春秋』の蜀漢正統論を、中原を曹魏に追われて巴蜀にのがれた蜀漢に東晋の現況を重ね合わせたことによるとしている。また、中村圭爾は『漢晋春秋』の蜀漢正統論を、魏の正統性を否定することで魏から晋への禅譲の際に起きた事件における司馬氏の行為を正当化する(例えば、高貴郷公殺害は皇帝殺害ではなく、蜀漢=正統に反する僭主殺害として扱われる)意図があったとする。

なお非漢民族王朝では、匈奴の劉淵が自らを漢王朝の後継者に位置づけ、同時に劉禅に諡号を追贈し劉備を劉邦・劉秀と共に祀るなど、やはり蜀漢を漢の後継であると見なしていた。

北宋に成立した司馬光『資治通鑑』はそれまでの正史類を総攬する大書であるが、この中で魏・蜀漢・呉はいずれも正統な王朝と認められていない。司馬光は統一王朝のみを正統として扱っているからである。しかしその紀年には便宜上魏の元号を用いており、消極的ではあるが魏の正統を認める立場にあった。ところが南宋の時代になると、再び蜀漢正統論は脚光を浴びる。女真族の金によって南宋王朝が東晋同様に江南に追いやられてしまったからである。そんな中で朱熹は『通鑑綱目』を編し、蜀漢の正統性を宣揚した。また南宋の蕭常や元の郝経などは『続後漢書』と称する、『三国志』を蜀漢正統論に基づいて再編集した史書を著した。これらはいずれも蜀漢を本紀に立て、曹操らの存在は載記や列伝へと追いやっている。

元末明初に成立した小説『三国志演義』においては、『通鑑綱目』の思想・歴史観が大きく作用したため、蜀漢が正統なる存在として物語上も明確に位置付けられている。そして清初に『三国志演義』を改編した毛宗崗もまたそれを継承して正統観を強く働かせ、蜀漢を正統とした上で、魏・呉を僭国であると断じている。ここに劉備を善玉、曹操を悪玉とする三国志観は確立したと言える。

歴代皇帝[編集]

昭烈帝(劉備)

諡号(通称)姓名在位元号
昭烈帝先主劉備221年 - 223年章武 221年-223年
懐帝後主劉禅223年 - 263年建興 223年-237年


延熙 238年-257年

景耀 258年-263年

炎興 263年

先主・後主という呼び名は、『三国志』が魏を正統とする立場に立脚しているため、蜀漢の皇帝を「帝」と称することを避けたためのものである。呉の皇帝は「孫権」のように呼び捨て扱いであるのに対し、「帝」ではないものの実名で呼ばないのは、『三国志』を著した陳寿が蜀の出身ゆえの故国称揚であると考えられている。



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