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リオネル・アンドレス・メッシ・クッシッティーニ(Lionel Andrés Messi Cuccittini [ljoˈnel anˈdɾes ˈmesi] ( 音声ファイル), 1987年6月24日 - )は、アルゼンチンサンタフェ州ロサリオ出身のイタリア系アルゼンチン人サッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・FCバルセロナ所属。アルゼンチン代表。ポジションはフォワード。
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はメッシ、第二姓(母方の姓)はクッシッティーニです。 |
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ワールドカップでのアルゼンチン代表でのメッシ | |||||
名前 | |||||
本名 | リオネル・アンドレス・メッシ・クッシッティーニ Lionel Andrés Messi Cuccittini | ||||
愛称 | レオ、リオ メシアス(メシア)D10S | ||||
ラテン文字 | Lionel MESSI | ||||
基本情報 | |||||
国籍 | アルゼンチン スペイン | ||||
生年月日 | 1987年6月24日(33歳) | ||||
出身地 | ロサリオ | ||||
身長 | 170cm | ||||
体重 | 72kg | ||||
選手情報 | |||||
在籍チーム | FCバルセロナ | ||||
ポジション | FW | ||||
背番号 | 10 | ||||
利き足 | 左足 | ||||
ユース | |||||
1995-2000 | ニューウェルズ | ||||
2000-2003 | バルセロナ | ||||
クラブ1 | |||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||
2003-2004 | バルセロナC | 10 | (5) | ||
2004-2005 | バルセロナB | 22 | (6) | ||
2004- | バルセロナ | 485 | (444) | ||
代表歴2 | |||||
2004-2005 | アルゼンチン U-20 | 18 | (14) | ||
2007-2008 | アルゼンチン U-23 | 5 | (2) | ||
2005- | アルゼンチン | 138 | (70) | ||
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1. 国内リーグ戦に限る。2020年7月20日現在。 2. 2019年11月19日現在。■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
13歳でFCバルセロナに加入し、17歳でトップチームデビューして以降、10度のリーガ・エスパニョーラ優勝、6度のコパ・デル・レイ、4度のUEFAチャンピオンズリーグを含むバルセロナ歴代最多33回の優勝に貢献。自身も歴代最多6回のバロンドールを受賞し、6回のチャンピオンズリーグ得点王と歴代最多6回のゴールデンシュー(欧州得点王)を獲得している。同クラブの歴代通算最多得点(603ゴール)の記録を保持しておりラ・リーガ(419ゴール)、ラ・リーガとヨーロッパのリーグの1シーズン(50)、クラシコ(26ゴール)の歴代最多ゴール記録ならびにチャンピオンズリーグ歴代最多ハットトリック記録(8)、ラ・リーガ(169)、コパ・アメリカ(12)の歴代最多アシスト記録を保持している。また多くのサッカー関係者、選手にサッカー史上最高の選手と呼ばれている。
アルゼンチン代表では2005年8月から代表に選出され、2010年からはキャプテンを務めている。同国代表の通算最多得点記録及び通算最多アシスト記録の保持者でもある。2005 FIFAワールドユース選手権に出場し、優勝するとともに自身もゴールデンボール賞(MVP)、ゴールデンシューズ賞(得点王)を受賞した。2008年、北京オリンピックに出場し、金メダルを獲得した。2014 FIFAワールドカップではアルゼンチンの準優勝に貢献し、大会MVPにあたるゴールデンボールを受賞した。南米全てのチームからゴールを奪った史上4人目の選手である。W杯南米予選で通算21ゴールを記録しており南米予選歴代最多得点者でもある。
2012年、公式戦69試合に出場し91得点を記録した。これは1972年にゲルト・ミュラーが作った公式戦年間最多ゴール記録85ゴールを40年ぶりに破った記録である。更にこの年にまたがる2011-12シーズン、ラ・リーガでシーズン37試合に出場し50得点を記録。スペイン記録のみならず、1976-77シーズンにルーマニア1部リーグのディナモ・ブカレストでドゥドゥ・ゲオルゲスクが記録した47得点を抜き、欧州のリーグシーズン最多得点記録を更新した。この記録はギネス世界記録にも認定されている。
フランスフットボールによるとメッシは2009年から2014年までの6年間のうち5年間世界で最高年収のサッカー選手であり、2019年にはフォーブスによる世界のアスリートの年収ランキングで1位に選出された。2011年と2012年にはアメリカの雑誌タイムが発表する世界で最も影響力のある100人に選出され、世界で最も有名なアスリートの1人である。メッシは2006年以来スポーツ用品メーカーであるアディダスとスポンサー契約を結んでおり会社の主要なパートナーとしての地位を確立している。
アルゼンチンで、父ホルヘ・メッシ、母セリア・クッチティーニの3人目の子供として生まれた。ホルヘはニューウェルズ・オールドボーイズの下部組織でサッカー選手となる夢を追っていたが、その後夜学に通い技術者の資格を得てアルゼンチン有数の鉄鋼会社の工場長になった("messi" by GUILLEM BALAGUE)。ホルヘの父方の祖先アンジェロ・メッシは1883年にアルゼンチンに移住したアドリア海沿岸アンコーナ出身のイタリア移民、母方の祖先はカタルーニャにルーツをもつスペイン人であった。母セリアはイタリア移民の子孫である。5歳の時には父親がコーチを務めるクラブで本格的にサッカーを始め、1995年には地元のクラブであるニューウェルズ・オールドボーイズに加入する。当時敵なしで「La Maquina del '87」と称えられたニューウェルズのユースチームの一員であったメッシはプレーしていた6年間の間に約500ゴールを記録した。しかし10歳の頃成長ホルモンの分泌異常の症状(成長ホルモン分泌不全性低身長症)が発覚、成長ホルモン投与などの治療なしでは身体が発達しないと診断された。2年程はホルヘの会社の医療保険で治療費をまかなうことができたが、アルゼンチン経済の逼迫によりそれが打ち切られると、毎月$1000以上に及ぶ支払いは困難となった。ニューウェルズは当初治療費の工面に同意するが実際に支払われることはほとんど無かった。メッシの憧れであったパブロ・アイマールが所属しているリーベル・プレートでトライアルを受けるも入団には至らなかった。そんな折ホルヘの元に一本の電話が入った。FCバルセロナと強いコネクションを持つ著名な代理人ホセ・マリア・ミンゲージャ であった。アルゼンチンの天才少年のビデオを手に入れた彼はそれをバルサに送っていた。
人生の転機となったのは、13歳の時に受験し合格したスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナの加入テスト。当時の監督カルロス・レシャックは彼のプレーを一目見ただけでその小さな身体に驚くべき才能と将来性が宿っていることを悟り、すぐさま合格を決めたが当時、ヨーロッパのクラブがメッシのような若い年齢の選手と契約することは珍しいことだったため会長がなかなか契約を前に進めなかったため交渉は難航した。どうしても契約を逃したくなかったレシャックは自身の権限の下でFCバルセロナはメッシと契約すると約束した。この時レシャックは契約書の代わりになるものを持っていなかったため紙ナプキンにこの契約を書き留めた。その後FCバルセロナは家族揃ってのバルセロナへの移住を条件に治療費を全額負担することを約束し、家族もこれを快諾。2001年2月、メッシは家族と共にバルセロナへ渡りバルセロナの本拠地であるカンプノウ近くのアパートで暮らし始めた。2001年3月1日、正式契約を結びスペインでの生活を本格的に始めることとなった。スペインでの最初の1年間、ニューウェールズとの移籍交渉が難航していたため親善試合とカタルーニャリーグにしか出場出来なかった。サッカー外ではメッシはあまり喋らなかったためチームメイトと馴染むのに苦労した。さらに母が兄弟と妹のマリア・ソルと共に故郷に帰り父と2人で生活している時、メッシはホームシックに苦しんだ。スペイン在住となってからでもアルゼンチン時代の幼なじみや友人知人とはこまめに連絡を取り合っていた。
ユースチームで投薬治療を続けた結果、身長は170cmまで伸び、選手としても一流のテクニックを披露するまでに成長。17歳となった2004年10月16日、第7節エスパニョール戦にてプリメーラ・ディビシオン・デビューを果たすと、2005年5月1日の第34節アルバセテ・バロンピエ戦で初得点。17歳と10ヶ月7日で決めたこの得点は、後にメッシ自身のアシストからボージャン・クルキッチが17歳と51日で記録するまでクラブ史上最年少得点だった。このシーズンはレギュラー定着とはならなかったが、その才能をのぞかせ、リーガ制覇を経験した。
世界最高の選手へ[編集]バルセロナと2014年まで契約期間を延長し、スペインの市民権を得て臨んだ2005-06シーズン、リュドヴィク・ジュリとの右ウィングのポジション争い時にこのフランス代表のライバルを上回る活躍を披露。ワールドユースも含めた質の高いプレーが人々に認知され、イタリアのスポーツ紙Tuttosportが選ぶゴールデンボーイ賞(U-21欧州最優秀選手賞)にクリスティアーノ・ロナウドやウェイン・ルーニーを抑えて選出された。UEFAチャンピオンズリーグの対チェルシーFC戦・1stレグをはじめ、相手左サイドをしばしば混乱に陥れるビッグプレーを見せたが、対チェルシー戦の2ndレグ中に右足の筋肉を故障し、その後のシーズンを棒に振った。リーガでは17試合、チャンピオンズリーグでは6試合の出場に終わったが、チームはリーガ、チャンピオンズリーグの二冠を達成した。
2006-07シーズンは故障による欠場が目立ったものの、右サイドから切れ込むドリブルが冴え渡り数々の印象的なプレイを披露する。バルセロナ最大のライバルであるレアル・マドリードとのエル・クラシコでは自身初のハットトリックを達成(試合結果は3-3)し、スペイン国王杯準決勝1stレグ、ホームでの対ヘタフェ戦においては、センターサークル付近から5人をかわして得点を決めた。後者はアルゼンチンサッカー界の英雄ディエゴ・マラドーナの1986 FIFAワールドカップにおける伝説の5人抜きゴールとほぼ同じコースを辿った、同じ13回のタッチでのゴールであり、当時のリーガ最少失点チーム相手に繰り出した「マラドーナ2世」と呼ばれる彼の「後継者」たる所以を見せ付けたスーパープレーだった。第37節のエスパニョール戦では、マラドーナばりの「神の手」ゴールも記録した。チームはリーガ3連覇とチャンピオンズリーグ2連覇のどちらも達成できずに終わったが自身はリーグ、カップ合計で36試合に出場し17得点と奮闘した。
2007-08シーズンは、ジュリがローマに移籍したものの、プレミアリーグのアーセナルからフランス代表のエースストライカー、ティエリ・アンリがチームに加入し、サミュエル・エトオ、ロナウジーニョにメッシと、4人のワールドクラスのFWを揃えた陣容は「ファンタスティック4」と呼ばれその圧倒的な攻撃力が期待されたが、アンリがチームのスタイルに合うまでに時間を擁し、エトオが負傷、ロナウジーニョが不調と、思うように攻撃陣が機能しない序盤戦、単独での突破から貴重なゴールを幾度となく決めチームを支え、欧州最優秀選手を選出するバロンドールではカカ、クリスティアーノ・ロナウドに次ぐ3位に選出された。
2008-09シーズンは、ACミランに移籍したロナウジーニョに代わって背番号10を背負ってチームを牽引。これまで孤立しがちだった右サイドにダニエウ・アウヴェスという心強い相棒が加わったこともあって、前線のエトオ、アンリと共にゴールを量産。初めて年間通して故障らしい故障もなく過ごし、チームはUEFAチャンピオンズリーグなどで優勝し見事に三冠を達成。メッシは大会を通じて9得点を挙げ得点王に輝いた。2008-09シーズンの総計38得点は、チーム得点王。リーガ第21節、ラシン・サンタンデール戦(エル・サルディネーロ)では、バルセロナのリーガ通算5000ゴール目を決めた。ラシン・サンタンデールは、リーガ初年度第1節(1929年2月12日、エル・サルディネーロ)でマヌエル・パレーラがバルセロナのリーガ初得点を記録した相手でもある。
バロンドール受賞以降[編集]2009年12月1日にはアルゼンチン出身の選手としては3人目(4度目)となるバロンドールに選出された。12月のクラブワールドカップでは負傷した状態での参加となったが試合には間に合い、準決勝のアトランテFC戦では途中出場し、決勝点を挙げる。決勝のエストゥディアンテス戦では先発出場し、延長戦の末にダニエウ・アウヴェスのクロスを胸で押し込み決勝点を挙げ、バルセロナの優勝に貢献。メッシは大会選定のゴールデンボール賞(MVP)を受賞した。胸でボールを押し込んだことに関してメッシは「相手GKが体勢を崩していて強いシュートを打つ必要がなかったので、確実にボールを押し込むために胸を使った」と話した。12月21日にはアルゼンチン人としては初となるFIFA年間最優秀選手に選出された。2007年、2008年と2年連続で次点となっていたため、3度目の正直での受賞となった。
2010年1月16日のセビージャ戦で、自身バルセロナ通算100得点を史上最年少で達成した。3月6日のアルメリア戦で決勝点を挙げると、14日のバレンシア戦、21日のサラゴサ戦と2試合連続でハットトリックを達成するなど、バルセロナの得点を9連続で記録した。4月6日のチャンピオンズリーグ準々決勝・アーセナルとの2ndレグで、大会史上6人目となる1試合4得点を達成した。決勝トーナメントでの1試合4得点は史上初であり、この得点でチャンピオンズリーグ通算得点が25となり、リバウドを抜いてバルセロナ歴代1位となった。チャンピオンズリーグは準決勝で敗退し連覇を逃したものの、リーガではその後も得点を挙げ続け、バルセロナの連覇に貢献。メッシ自身は35試合に出場して34得点を挙げ、得点王、ヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。リーグ34得点、シーズン公式戦通算47得点はロナウドと並び、バルセロナ最多タイ記録となった。
2011年1月10日、バルセロナの同僚でありワールドカップ優勝メンバーでもあるアンドレス・イニエスタとシャビを抑え、2年連続でバロンドールを受賞した。2年連続でバロンドールを受賞したのは史上6人目であり、複数回バロンドールを受賞するのは史上9人目の快挙である。バロンドールがFIFA最優秀選手賞と統合され、FIFAバロンドールとなってからは最初の受賞者となった。
2010-11シーズンも、前シーズンと変わらぬ活躍を見せる。チャンピオンズリーグではルート・ファン・ニステルローイと並び大会史上最多タイとなる12得点を挙げ、3季連続の得点王を獲得。バルセロナの2シーズンぶりの優勝に貢献した。2011年8月25日には新たに設立されたUEFA欧州最優秀選手賞の初代受賞者に選出された。
2011-12シーズンも開幕から得点を量産し、2011年9月28日のチャンピオンズリーグ・BATEボリソフ戦で2得点を挙げ、ラディスラオ・クバラと並びクラブ史上2位タイとなる公式戦通算194得点とすると、10月25日のラシン・サンタンデール戦で2得点を挙げ、単独2位となった。2011年12月18日に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ決勝のサントスFC戦ではブラジルの新星ネイマールとのエース対決に注目が集まったが、試合は終始バルセロナがサントスを圧倒し、4-0のスコアで勝利した。メッシ自身も2得点の活躍で大会MVPを受賞し、チームの2年ぶり2度目の大会制覇に貢献した。
2012年1月9日にはFIFAバロンドール男性部門の最優秀選手賞を受賞。3度目の受賞は史上4人目、3年連続での受賞はミシェル・プラティニに次ぐ史上2人目の快挙となった。
2月14日のチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのバイエル・レバークーゼン戦で1得点を挙げ、チャンピオンズリーグ決勝トーナメント通算得点数を19とし、ラウル・ゴンサレスとアンドリー・シェフチェンコを抜き歴代単独最多となった。2月19日のバレンシア戦では自身のリーガ通算200試合出場を、4得点を挙げて祝った。同月26日のアトレティコ・マドリード戦では決勝点を挙げたもののハンドリングでシーズン5回目の警告を受け、自身初の累積警告による出場停止処分を受けた。3月7日のレヴァークーゼン戦2ndレグではチャンピオンズリーグ史上初となる1試合5得点を達成し、バルセロナの大勝に貢献した。3月20日のグラナダ戦でハットトリックを達成してバルセロナでの公式戦通算得点数を234とし、セサル・ロドリゲス・アルバレスの持つ記録を更新し歴代トップとなった。3月24日のリーガ第30節のマジョルカ戦で自己最多となるシーズン35得点目を挙げ、8節を残してロナウドの持つリーガでのシーズン通算得点のクラブ記録を更新した。4月3日のチャンピオンズリーグ準々決勝2ndレグ、ACミラン戦で2得点を挙げチャンピオンズリーグでのシーズン通算得点を14とし、昨年の自身の記録を更新して大会最多得点記録を樹立した。4月7日のリーガ第32節のサラゴサ戦で2得点を挙げ、1972-73シーズンのゲルト・ミュラー以来39シーズンぶりとなる、1シーズン公式戦通算60得点を達成した。5月2日のリーガ第20節延期分のマラガ戦で3得点し、これでシーズン公式戦68得点とし、ゲルト・ミュラーの持つ、シーズン公式戦67得点の最多得点記録を更新し、最終的にシーズン公式戦73得点を記録し、リーガ、チャンピオンズリーグの両方で得点王を獲得。リーガでは史上最多記録となる50得点を挙げ、1976-77シーズンにディナモ・ブカレストのドゥドゥ・ゲオルゲスクが記録した欧州リーグシーズン得点記録(47得点)を35年ぶりに更新した。またチャンピオンズリーグでは前述の通り大会最多得点を記録し、史上初の4シーズン連続得点王となった。 2012年12月9日のリーガ第15節のベティス戦では2得点を挙げてゲルト・ミュラーの年間ゴール記録(85得点)を40年ぶりに更新し、最終的に年間91得点を記録した。
2013年1月7日、クリスティアーノ・ロナウドとアンドレス・イニエスタを抑え、バロンドールを4年連続で受賞。4年連続4度目の受賞は共に史上初である。
2013年1月27日のリーガ第20節のオサスナ戦では4得点を決めてリーガ200得点を史上最年少(25歳217日)で達成し、テルモ・サラの持つ記録(29歳352日)を大幅に更新した。3月9日のリーガ第27節のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦では第11節のマヨルカ戦から続く17戦連続27得点を達成。その後、第29節から3試合負傷欠場するも復帰後は再び得点を続け、最終的に21戦連続33得点を記録しリーグ戦における史上最多連続得点を記録した。また、この記録によってプリメーラ・ディビシオンのバルセロナ以外の全19チームから得点を奪い、なおかつ得点を途切れさせずにリーグ戦を半周するという史上初の快挙を達成した。シーズン終盤は負傷欠場の影響もあり記録更新はならなかったものの、リーガ46得点、公式戦60得点を挙げ2年連続得点王に輝いた。また、これによって3度目の欧州得点王となり、ヨーロッパ・ゴールデンシューの単独最多受賞者となった。チャンピオンズリーグでは1回戦2ndレグのACミラン戦で2得点を決めてチームの逆転勝利に貢献するも、パリ・サンジェルマン戦の1stレグで右足ハムストリングを負傷。2ndレグでは途中出場となり、こちらも逆転勝利に貢献した。準決勝でのバイエルン・ミュンヘン戦では1stレグには出場を果たしたものの、2ndレグでは出場機会はなく、ベンチからチームの敗退を見届けることとなった。2014年3月、アルメリア戦でのメッシ2013-14シーズンは開幕当初から度重なる負傷に悩まされ、11月10日のベティス戦では左足大腿の肉離れを起こし、1ヶ月半以上の離脱を強いられることとなった。2014年3月16日のオサスナ戦ではハットトリックを達成して親善試合&公式戦含めて通算371得点を記録、これによってパウリーノ・アルカンタラの記録を87年ぶりに更新しバルセロナ歴代最多得点者となった。続く3月23日のレアル・マドリード戦でもハットトリックを達成してエル・クラシコでの通算得点を21とし、アルフレッド・ディ・ステファノを抜いてクラシコ単独最多得点者となった。
2014-15シーズンは9月27日のグラナダ戦で2得点を決め、クラブ、代表合わせて公式戦通算400ゴールを達成した。11月22日のセビージャ戦ではハットトリックを達成してリーガ通算253得点を記録しテルモ・サラを抜いてリーガ最多得点記録者となった。11月25日のチャンピオンズリーグGS、APOEL戦では2試合連続、CLでは5度目のハットトリックによってラウル・ゴンサレスの71得点を抜いてCL累計74得点を記録し、CL歴代最多得点者となった。12月7日のエスパニョールとのダービーマッチでは再びハットトリックを達成して、親善試合&公式戦含めてクラブ通算400ゴールを達成した。シーズン後半からはルイス・スアレスの加入の影響もあり、かつてのように右ウィングで起用されることが多くなった。
2015年3月8日のラーヨ・バジェカーノ戦では公式戦32回目(リーガでは24回目)のハットトリックを達成し、公式戦、さらにはリーガでのハットトリック最多記録を更新した。4月18日のバレンシア戦ではバルセロナでの公式戦通算400ゴールを達成した。チャンピオンズリーグ準決勝ではかつての恩師、ジョゼップ・グアルディオラ率いる、バイエルン・ミュンヘンと対戦し、2ゴールを挙げ、前日にクリスティアーノ・ロナウドに抜かれたCL通算得点を77点とし、再びトップに立ち、決勝進出に貢献した。リーグ戦では5月17日のアトレティコ・マドリード戦、コパ・デル・レイでは決勝のアスレティック・ビルバオ戦でいずれも先制点を決め、 チャンピオンズリーグ決勝のユヴェントス戦では決勝点につながるシュートを打ちチームの史上初の2度目三冠達成に大きく貢献した。チャンピオンズリーグではネイマール、クリスティアーノ・ロナウドと並びCL得点王に輝いた。
2015-16シーズン、8月27日にはUEFA欧州最優秀選手賞を54票中49票(得票率90.7%)と圧倒的な票を集めて史上初となる2度目の受賞を果たした。FIFAクラブワールドカップでは決勝のリーベル・プレート戦で先制点を挙げてチームの5冠達成に貢献し、2015年を出場した6大会全てで得点して締めくくった。1月11日にはクリスティアーノ・ロナウドとチームメートのネイマールを抑えて5度目のバロンドール受賞を達成し、バロンドールの受賞記録をさらに更新した。2月3日のバレンシア戦では34度目のハットトリックを達成し、キャリア通算500ゴールを記録した。同17日のスポルティング・ヒホン戦では2ゴールを決めリーガ通算300ゴールを達成した。
2016-17シーズン、10月19日のチャンピオンズリーグ、マンチェスター・シティ戦ではチャンピオンズリーグ単独最多の7度目のハットトリックを達成した。11月6日のリーグ11節セビージャ戦ではクラブ通算500ゴールを達成した。2017年3月19日のバレンシア戦では2ゴールを決め、8シーズン連続リーグ戦25ゴール、および公式戦40ゴール越えを達成した。4月23日、レアル・マドリードとのエル・クラシコでは決勝点を含む2ゴールを決めてクラブでの公式戦通算500ゴールを達成した。
2017年7月5日、メッシはバルセロナとの間で新たに4年間の契約を延長したことが発表された。これにより税控除後の年俸は4000万ユーロになるとのことである。
2017-18シーズン、2017年10月1日、ラス・パルマス戦に出場し、公式戦594試合出場を果たした。これによりカルレス・プジョルの記録を上回って、クラブ歴代3位の出場回数となった。10月18日、チャンピオンズリーグ、グループステージのオリンピアコス戦で欧州カップ戦通算100ゴールを達成した。11月1日にリーガのセビージャ戦に出場し公式戦600試合出場を果たした。2018年3月14日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦第2戦のチェルシー戦では2ゴールを決め欧州CL通算100ゴールを史上最速(123試合)で達成した。2018年5月にキャプテンであったイニエスタが退団したことで、メッシは次のシーズンにチームの新キャプテンに選ばれた。
2018-19シーズン、2018年8月12日、スペールコパでセビージャを2-1で下し、バルセロナのキャプテンになってから初めてタイトルを獲得した。 これによりバルセロナでの自身のタイトル獲得数が33個になり並んでいたイニエスタを抜き単独でチーム歴代最多記録となった。チャンピオンズリーググループステージ第1節PSV戦でハットトリック(直接FK1本を含む)を達成した。10月20日、メッシはセビージャ戦でゴールとアシストをそれぞれ決めていたが26分に右腕から激しく転倒し負傷退場を余儀なくされた。検査の結果、橈骨の骨折と診断され3週間の欠場を余儀なくされた。12月16日、アウェイのレバンテUD戦で2アシストと2018年50ゴール目と同時に自身通算43回目であるハットトリックを決めた。2019年1月13日、リーガ出場435試合目のホームのエイバル戦でリーガ400ゴール目を挙げチームも3-0で勝利した。そしてメッシは欧州5大リーグにおいて1つのリーグだけで400ゴールを決めた最初の選手となった。2019年1月17日、国王杯5回戦2ndレグのレバンテ戦でデンベレの2ゴールをアシストし自身もゴールを決めチームの準々決勝進出に貢献した。レバンテ戦で決めたこのゴールは国王杯での通算49ゴール目でありバルセロナにおける国王杯でのゴール数でラディスラオ・クバラと並んで歴代2位に浮上した。1月30日、国王杯準々決勝2ndレグのセビージャ戦では国王杯通算50ゴール目を決めクバラのゴール記録を抜きバルセロナにおける国王杯得点数で歴代単独2位に浮上した。2月2日、リーガのバレンシア戦でチームの2点目をPKで決めた。このPKでのゴールによってクリスティアーノ・ロナウド、ウーゴ・サンチェスに続いてリーガにおいてPKで50ゴールを決めた3人目の選手となった。2月23日、アウェイのセビージャ戦でキャリア通算650ゴールを決めるとともに通算50回目のハットトリックを達成した。3月17日、アウェイのレアルベティス戦で相手サポータからの喝采を浴びたループゴールを含むキャリア通算51回目のハットトリックを達成した。4月16日、チャンピオンズリーグ準々決勝2ndレグのマンチェスターユナイテッド戦で2ゴールを挙げチームの準決勝進出に貢献した。4月27日、レバンテ戦では途中出場から決勝点となるゴールを挙げその試合での勝利により自身10回目となるリーガ優勝が確定した。2019年5月2日、チャンピオンズリーグ準決勝1stレグのリヴァプール戦でクラブ通算600ゴールとなるFKゴールを含む2ゴールを決めた。しかしその後の2ndレグで4-0の大敗を喫しチャンピオンズリーグで2年連続の逆転負けを味わうこととなった。5月19日、ホームで行われたリーガ最終節となるエイバル戦でチームは2-2のドローに終わったが自身は2ゴールを決めリーガ通算34試合36ゴールの成績でテルモ・サラと並ぶ史上最多6度目のリーガ得点王になり同じく史上最多6度目のピチーチを受賞することが決定した。
2019-20シーズン、2019年8月5日、チームに合流直後に右足のヒラメ筋を痛めたため、プレシーズンのアメリカ遠征を欠場すると、怪我の再発防止の為に開幕戦も欠場した。9月23日、ザ・ベスト・FIFAフットボールアウォーズ2019で男子年間最優秀選手賞を受賞した。受賞はバロンドール時代も含めて6度目となり、C.ロナウドをふたたび抜いて歴代最多記録を更新した。第23節、ベティス戦ではチームの全てのゴールをアシストし3-2での勝利を引き寄せた。6年振りに6試合ノーゴールが続いたが、第25節のエイバル戦では一人で4ゴールを決めた。33節のアトレチコ・マドリード戦でPKによるゴールを決め、通算700ゴールを達成した。7月5日のビジャレアル戦で2つのアシストを記録し、リーグ戦におけるシーズンの通算アシストを19とし、これまでの自己最高記録であった18アシスト(2010-11、2011-12、2014-15シーズンに記録)を更新した。リーグ3連覇は逃したが、個人としてはトータル25ゴールを決め、7度目のリーガ得点王になり、同じく史上最多7回目のピチーチ賞を獲得、またこれまでシャビが持っていたラ・リーガの最多アシスト記録である20アシストを更新、21アシストを決め、アシスト王も獲得した。
2005年6-7月にオランダで開催されたFIFAワールドユース選手権にアルゼンチン代表として参加し、エースとしてチームを牽引した。決勝のナイジェリア戦では自身がドリブルを仕掛け獲得したPKから先制点を、セルヒオ・アグエロが獲得したPKから同点にされた後の勝ち越しゴールを決め、優勝に大きく貢献。大会を通じて6得点、得点王と最優秀選手を獲得する大活躍を見せた。この活躍がフル代表監督ホセ・ペケルマンの目に止まり、同年8月17日のハンガリー戦でフル代表デビューを果たした。この試合では63分に途中出場したものの、そのわずか40秒後に相手選手に肘打ちを入れレッドカードを受け、涙を流しながら退場というほろ苦いデビューであった。
2006年夏にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは怪我の回復が危惧されたが、プレイ可能な状態にまで回復し、代表に選出された。レギュラーとしての出場ではなかったが、グループステージの対セルビア・モンテネグロ戦にて、W杯でのアルゼンチン代表の最年少出場、最年少アシスト、最年少得点を記録する活躍をみせ、死のグループとも形容されたグループCの突破に貢献した。チームは準々決勝で開催国ドイツに敗れた。
2007年夏に母国アルゼンチンで開催されたFIFA U-20ワールドカップには出場資格を持っていたものの、既にフル代表に定着していた自身は辞退、フル代表が臨むコパ・アメリカ2007へ出場した。レギュラーを徐々に手繰り寄せていた彼は、準々決勝の対ペルー戦、準決勝の対メキシコ戦で得点を決めるなどチームの決勝進出に貢献。しかし、決勝のブラジル戦で敗れ、準優勝に終わった。
2008年夏に中国で開催された北京オリンピックではグループリーグ1試合目のコートジボワール戦で大会初得点を挙げチームの2得点目をアシストした。準々決勝のオランダ戦では1得点を挙げ1-1の同点で延長戦に突入したが決勝点である2得点目をアシストしアルゼンチンが勝利した。準決勝ではブラジルと対戦、3-0でアルゼンチンが圧勝して決勝へ勝ち進んだ。決勝ではナイジェリア戦では唯一の得点をアシストした。最終的に1-0でアルゼンチンが勝利し金メダルを獲得した。
2010年夏に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは大会最大の注目選手として臨み、マラドーナと同じトップ下でプレー。グループリーグ第3戦のギリシャ戦では初めてキャプテンを務め、大会選定のマン・オブ・ザ・マッチに選出される活躍を見せた。チームはベスト4の座を懸けたドイツ戦で完敗し、自身も30本のシュートを打つも無得点に終わる。
コパ・アメリカ2011では準々決勝で敗退し、自身も無得点に終わった。大会後に新たにアルゼンチン代表の監督に就任したアレハンドロ・サベーラからチームの新キャプテンに任命され、9月3日のベネズエラ戦ではキャプテンとしてプレーした。2012年2月29日のスイスとの親善試合で、代表では初めてとなるハットトリックを達成した。
2013年6月14日にグアテマラとの親善試合においてハットトリックを決め、これによって代表通算得点を35得点としディエゴ・マラドーナの代表通算34得点を抜き、アルゼンチン代表の得点数でエルナン・クレスポと並んで歴代2位タイに浮上した。2014 FIFAワールドカップ グループリーグのイラン戦で試合終了直前、自身が放った決勝弾となるシュートを見るメッシ2014 FIFAワールドカップ大会前、メッシはバルセロナで怪我に悩まされていたシーズンを送っていたため、コンディションが懸念されていた。しかし大会が始まるとその不安は払拭された。グループリーグ初戦であるボスニア・ヘルツェゴビナ戦ではフリーキックからセアド・コラシナツのオウンゴールを誘い、ドリブルで次々相手を抜き、追加点となる2点目を決め8年ぶりのW杯での得点を挙げた<。グループリーグ2戦目のイラン戦では、ロスタイムにゴールから約23mの位置からミドルシュートを放ち、決勝弾となる得点を挙げた。グループリーグ最終戦のナイジェリア戦では、キーパーが弾いたこぼれ球を、弾丸シュートでゴールに押し込み先制点を挙げ、逆転弾となるFKゴールを決めた。
トーナメント戦に入りベスト16のスイス戦では、4人抜きのドリブルをして決定機を作り、延長後半にはディマリアの決勝弾をアシストした。メッシはここまでの4試合全てでマンオブザマッチを獲得している。準々決勝のベルギー戦では、決勝弾の起点となった。アルゼンチンにとって1990年以来の準決勝となったオランダ戦では、ドリブルやパスからいくつもの決定機を作るもPK戦に突入し、チーム最初のPKキッカーとしてPKを成功させた。そしてチームもPK戦を4-2で制し決勝進出となった。決勝のドイツ戦ではゴールへの起点となっていたが、ゴールは入ることはなく、延長の113分にマリオ・ゲッツェが決勝弾を挙げ、アルゼンチンは準決勝に終わったがメッシは得点王ランキングで3位に位置する4得点と1アシストを挙げ、最も決定機を作り出し、最もドリブルを成功させた選手として大会最優秀選手のゴールデンボール賞を受賞した。
コパ・アメリカ2015では決勝で敗れ準優勝。同大会最優秀選手の受賞が決まっていたものの受賞を辞退。同賞は空席となった。
9月4日のボリビアとの親善試合では途中出場で2得点を決め、南米のチーム全てに得点した史上4人目の選手となった。
開幕前に負傷し臨んだコパ・アメリカ・センテナリオでは、2016年6月10日に行なわれたグループリーグ第2戦のパナマ戦で61分から途中出場しハットトリックを達成。6月18日の準々決勝・ベネズエラ戦では先発に復帰し、1得点2アシストの活躍で勝利に貢献。続く6月22日の準決勝アメリカ戦では直接フリーキックを決めて代表通算55得点とし、アルゼンチン代表最多得点記録を更新した。チームは3年連続で国際大会の決勝に進出するものの、因縁の再戦が実現したチリ戦では延長戦の末スコアレスドローで2大会連続でPK戦にもつれこむ。PK戦では自身もPKを失敗して2-4で敗れ、3年連続で決勝で敗退しタイトルを逃した。
コパ・アメリカ・センテナリオ大会の終了後、代表引退を示唆するコメントを残したが、8月12日、母国への愛情を理由に引退表明を撤回。引退騒動後最初の試合となったワールドカップ地区予選のウルグアイ戦では決勝点を挙げた。
アルゼンチンがワールドカップ出場圏外の6位で迎えた同予選最終節のエクアドル戦では、同点ゴール、逆転ゴールを含むハットトリックの活躍で全3得点を挙げ、アルゼンチンをワールドカップ出場に導いた。さらにこの試合で南米予選21ゴールを記録し、南米予選最多得点記録を樹立した。
メッシがチームのワールドカップ予選敗退の危機を救った後の2018年3月アルゼンチン代表は親善試合でスペイン代表と対戦した。メッシは怪我を負っていたため試合には出場しなかった。その結果アルゼンチン代表はスペイン代表に1-6で敗れた。この点差は代表歴代ワーストタイの最大差敗戦である。2018 FIFAワールドカップロシア大会ではグループリーグの第1戦アイスランド戦で自身がPKを外してしまいチームは1-1の同点に終わる。第2戦のクロアチア戦では0-3でアルゼンチン代表が敗北した。この状況について監督であるホルヘ・サンパオリはアルゼンチン代表について「メッシの輝きを曇らせているのがアルゼンチン代表の現実だ」と語っている。クロアチアのミッドフィールダーのルカ・モドリッチも、「メッシは信じられない選手だけど、彼がすべてを1人でできるわけがない」と述べている。2018 FIFAワールドカップのナイジェリア戦でゴールを決めたメッシグループリーグ最終戦のナイジェリア戦では バネガからのロングパスを2回のタッチでボールをコントロールし、右足でゴールした。この得点によりアルゼンチン人ではディエゴ・マラドーナ、ガブリエル・バティストゥータ以来3人目のワールドカップ3大会連続得点を達成し10代、20代、30代それぞれの世代で得点したワールドカップ史上初の選手となった。
決勝トーナメント1回戦のフランス戦ではガブリエル・メルカドとセルヒオ・アグエロへのアシストをして2アシストを記録した。これによりワールドカップで4大会連続アシストをしたワールドカップ史上初の選手となった。しかしアルゼンチンは3-4でフランスに敗北しワールドカップ敗退した。
大会終了後には過度な重圧から、年内の代表としての活動休止が報じられた。
2019年3月22日の国際親善試合のベネズエラ戦で代表復帰したものの、1-3で敗れた。コパ・アメリカ2019の代表メンバーに選ばれた。開幕から低調なスタートを切ったが自身はパラグアイ戦でPKを決めそれ以降チームの組織力が上がりグループステージ最後の試合であるカタール戦、準々決勝のベネズエラ戦ではそれぞれ無失点に抑え2点を決め勝利を収めた。しかし準決勝のブラジル戦では0-2の完封負け、試合後は協会、メディアなどと共に審判の曖昧なジャッジを批判した。続く3位決定戦のチリ戦では、アグエロへのアシストや共存不可能と言われていたディバラへチャンスメークを見せていたものの前半31分の場面で、ガリー・メデルと小競り合いを起こして一発退場となった。試合にはアルゼンチンが勝利しアルゼンチンは3位で大会を終えたが、メッシは抗議の気持ちを示すために試合後の表彰式に参加せずメダルを受け取らなかった、この一連の行動は多方面から批判を浴びることになった。南米サッカー連盟はこの一連の不適切発言と問題行動に対して、2019年8月2日、5万ドル(約550万円)の罰金と3か月の出場停止処分を科した。
瞬発力と敏捷性、卓越したボールコントロールを生かした突破力やキープ力は他の追随を許さない。加えて、シュートセンスも世界トップクラスであらゆる大会で得点王を何度も獲得している。また、極めて高いパスセンスや展開力も兼ね備えておりアシストも量産する。オフザボールの動きも秀逸で相手DFのマークを外すことも得意である。
メッシはMFとしても、左右のWGとしても、CFとしても対応できる世界最高峰のパサーであり、ドリブラーであり、チャンスメーカーであり、フィニッシャーでもある多才な選手である。幼年時代の好きなポジションは、アルゼンチンのサッカーのエンガンチェと呼ばれるトップ下の役割だったが、バルセロナのユースでは左ウイングまたは左フォワードとしてキャリアをスタートさせた。バルセロナのファーストチームのデビュー戦で、フランク・ライカールト監督によって右ウイングを持ち場とされ、サイドを深くえぐってからのセンタリングや、ドリブルで内側へ切り込んでからのシュートを武器としていた。 グアルディオラ監督の采配により0トップ布陣の中央へ移動しシステム上はストライカー(=9番)だが、9番が本来いるべきポジションを無視して中盤やサイドへ流れて相手を引きつけチームメートが攻め上がるためのスペースを巧みに作り出しメッシの武器であるドリブルやアタッカー陣と連動して相手DFに全く的を絞らせない流動的な攻撃を実現するために、センターフォワードよりも下がった位置で動き回る「ファルソ・ヌエベ(偽の9番)」の役割を会得。 2014-15シーズン途中からはルイス・スアレスの加入もあり、新しく監督に就任したルイス・エンリケがキャリア初期を象徴する右ウイングにポジションを移したが、試合中は右サイドに張ったポジショニングではなくやや中央に寄った位置でプレーし、ネイマールやスアレスらと強力なコンビネーションを見せ、メディアやファンからはMSNや南米トリデンテという呼び名でこのトリオは親しまれていた。 2017-18シーズンに新監督として就任したエルネスト・バルベルデが基本フォーメーションを4-4-2に変更して以降、メッシは2トップの右CFで起用されている。
決して恵まれた身長とは言えないがバランス感覚に秀でており激しい当たりを受けても簡単に倒れない、そのため自分より大きなDFにも対応が可能。こぼれ球の処理にも秀でている。 プレースキッカーとしても優れており、直接FKからの得点も彼の武器である。
メッシはタイミングの取り方が他の選手に比べ細かい。どう細かいかというと、たとえば、ふつうの選手が「タン、タン、タン」と一拍のリズムで動くところを、メッシは0.5拍で「タ・タン、タ・タン、タ・タン」と刻むように進む。この細かいリズムにより、メッシは相手が1歩を踏み出している途中のタイミングでサッと逆に切り替えしたり、シュートを打つため、マーカーは付いていけない。このリズム感こそが、メッシの最大の武器である。このようなリズムを生む要素はいくつかあり。一つは、歩幅の短さ。二つ目は、ドリブルタッチの細かさ。そしてもう一つ特徴的なのは、ドリブルをする際に、ボールタッチと歩みが同じ動きの中で行われていることである。
メッシはどんなボールが来ても確実に自分の足元(大概は左足側)にトラップすることができ、そのトラップによりドリブルなどの次の動作に移りやすくなる。メッシが止めるボールの位置は相手が触れられない場所にあってパス、ドリブル、シュートどの選択肢も行動可能な状態となるため相手は迂闊にボールを取りに行けば交わされることが見えているので、相手はその選択肢を全て考えながら守備をしないといけなくなりメッシの次の動作を待つしかなくなる状態となる。
メッシは視野を広く保ち、味方と相手の選手の位置や距離感などが常に分かっている。そのため自分の次の行動につなげる情報が豊富に揃い、さらにトラップテクニックを有することで、プレーの幅が増えている。また、味方だけでなく、相手選手についても全体を通して見えており、相手選手がどのように自分に向かって来るのかも分かる。このように視野を広く保ち状況判断がしっかりとしているため、数プレー先のことを考えながらプレーすることができる。メッシはその視野を生かし、味方の動きを利用し、パスを出すフェイントをしたり、味方の作ってくれたコースにドリブルで侵入したりする
メッシは2008-09シーズンから2018-19シーズン現在まで11シーズン連続でFKゴールを決めておりデビュー以来FKゴール数は年々増加している。そのメッシのFKについてスペイン紙マルカは「メッシはプラスチックの壁との練習で技を磨き、前よりも素晴らしい蹴り方を生み出した。以前までのメッシは、右足の外側で全体重のバランスを支えており、それが安定感と正確性を失わせていた。しかし、今の彼は軸足の角度を50度に保っている。これによって蹴る前に右足全体がしっかりと地面に接地し、キックが安定するようになった。また、ボールをより巧く叩けるように、肩と胸をアーチ状に曲げている。さらに身体の捻りも初期の頃と比べると変化しており、動作がよりコンパクトになっている」と重要なのは軸足だと分析している 。
近年では、加齢のため走行距離が少なく試合中の多くの時間を歩いてプレーしており、90分間で6〜7kmしか走っていない(平均的な選手の走行距離は10~11キロ程度である)。しかし、前述にある瞬発力・俊敏性の高さを活かし歩いている状態から一瞬でトップギアに切り替えることが可能であり、これによってマークしているDFを置き去りにすることや油断した相手DF陣がボールコントロールをミスした際に即座にプレッシングしボールを奪い取ることもある。メッシは2014年の試合で時速34.47キロのスピードを記録。メッシは自身のエネルギーを攻撃に集中させることで瞬時に爆発的なスピードを出せるようにしている 。
メッシ自身は自らのプレーがFCバルセロナのユース組織ラ・マシアで培われたバルセロナのスタイルに起因するところが大きいとし、直感を重視して本能的にプレーしていると述べている。
その正確無比なプレーはしばしば「プレイステーションの中の選手のようだ」と喩えられることがある。
史上最多となる6回のバロンドールに輝くなど、サッカー史上最高の選手の1人とされ、ジョゼップ・グアルディオラやシャビ、セルヒオ・バティスタなど、歴代最高の選手とする声も多い。
ジョゼップ・グアルディオラは「メッシを止められるディフェンスなど存在しない。自陣を9人で守り、11人でハイプレスをかけても対応できない。距離を詰めて、 ボールを受ける前にブロックしなければならないのは分かっているが、彼ほどの飛びぬけた才能の前には戦術も監督も関係ない」と賞賛している。
アレックス・ファーガソンは教え子であるロナウドを世界最高の選手に挙げながらも、メッシの真面目さとサッカーへの愛情、ボールを奪いに行く勇気を高く評価し「ロナウドとは違うタイプの選手で、素晴らしい選手であることに疑いはない」と賛辞を送っている。
ジョゼ・モウリーニョは「私はこれまで異なったチームでメッシと戦ってきた。その中で色々なアプローチや目的を持ってやってきた。試合に勝つため、時には負けないためや成績を維持するための方法も取ってきた。彼のプレーを読み、どのように相手にダメージを与えるかを理解しようとした。しかしそれでは彼を止めるのに時間がかかり過ぎる。それには感動すら覚える。彼は非常に素晴らしい選手であり、正真正銘のトップ中のトップだ。我々は彼に考えること、研究すること、分析すること、そして決断を下すことを学んだ。彼は我々監督をより成長させてくれる点でも素晴らしい」と評価している
カルロ・アンチェロッティは「メッシがフィジカル的に100%であれば、止めることは不可能と言わざるを得ない。戦術も、守備組織も、監督という存在も意味をなさないんだ。彼の巨大な才能はどのような対策も無効としてしまい、プレーを制御する方法などは存在しない」と述べている。
ファビオ・カペッロは「メッシと最初に会ったのは、彼が16歳の時だったが、驚かされたことを覚えているよ。当時から今のようなパフォーマンスができていた。なぜなら、彼は天才だからだ」と称賛している。
アントニオ・コンテはCLでバルセロナに0-3で敗れた後「こういう選手は50年にひとりしか生まれない。単独でこれだけの能力・スキルを持つ選手なんだ。ファンタスティックのひと言だよ。超、超、超トッププレーヤーだ。彼なら年間60ゴールも可能だろう。それも1シーズンだけでなく、毎シーズンね。こうして彼を称える機会がもらえて嬉しかったよ。素晴らしい選手だからね。世界最高の選手だ」と述べている。
アーセン・ベンゲルは「リオネル・メッシは2位以下を大きく引き離して世界のトップにいる」と世界最高の選手と評価し、トップスピードでありながら方向を変えることができるドリブル技術を「危険極まりない脅威」と表現した。
アルフレッド・ディ・ステファノは個人技や創造性、両足での決定力に加え、チームのためにプレーする姿勢を高く評価し、自らを魅了する選手の一人であるとしている。アルゼンチン代表におけるキャプテン就任についても「数々のタイトルを獲得したメッシはプレッシャーに耐える術を知っている人間であり、彼に相応しい名誉だ」として支持している。マラドーナとの比較については「時代が違う」として、必要のないことであると述べている。
ロナルド・デ・ブールは「私は、ペレの現役時代は知らないが、クライフなら知っている。だが、メッシは私が知る限り史上最高だ。ホーム、アウェイ、リーグ戦、カップ戦関係なくプレーする。3.4年いいプレーするを選手がほとんどの中、彼は10年トップであり続けている。私の見たベストプレーヤーだ」と絶賛している。
ルイス・エンリケは「メッシはどこでも望む場所でプレーすることができる。メッシは他の誰とも違う。色々な賞で彼を比べるのは馬鹿げたことだ。彼のような選手は過去にもいなかった。現在の選手との比較だけではない。現在のどの選手も傷つけるつもりはないが、過去のどの選手とも比較できない」と述べている。
フランク・ライカールトは「メッシを超える選手など有り得ない。彼は生粋のフットボーラーであり、ライバルなど関係ない。その一方で、彼はチームとはいかなるものかをしっかりと理解している。常にチームメートやスタッフへの感謝の気持ちを忘れない、謙虚な青年だ」と語っている。
シャビは「すべての監督がメッシを止めるための策を講じる。それは想像に難くない。でも、メッシは絶対に止められない。以前、コパ・デル・レイの決勝でアスレティック・ビルバオがメッシにマンマークをつけたことがあったね。だけど、無駄だった。メッシは違いをつくる選手だ。僕たちがやっていたのは、メッシに時間とスペースを与え、ボールを受けてもらうこと。メッシは世界一違いを生み出せる選手。それは余りにも明快だ」とメッシの個の能力について高く評価しているまた「彼は毎日より良い選手になる。信じ難いほどにね。僕の意見では、彼が史上で最高の選手だよ。この瞬間だけではなく、歴史上においてだ」。彼がしていることは素晴らしいことだ。全ての試合で違いを作る。12年前から毎試合そうなんだ。僕は彼と共にプレーしたけど、彼の技術…それはとてつもないものだ。私の中で、彼が史上最高の選手だということは揺るがない」と賞賛している。
エリック・アビダルは「リオネル・メッシは世界最高の選手であると同時に、私が知る限り最も腰の低いスター選手だ。バルサで6年間彼と共にプレーしたが、彼の傍にいれたことが私の誇りだ。彼の練習する姿や笑っているところを見るのは私にとって喜びだった。彼がストレスを感じているように見えたことは一度も無い。彼はフィールドで仲間を助けたり、人とは違ったプレーをすることができたがいつも他の選手たちに対してポジティブかつ控えめな態度で接した。彼から学んだことは多い。私は2007年から彼と一緒にプレーしたが、年々彼のレベルが上がっていった。彼ほど長い間才能を発揮し、記録を塗り替えて続ける選手はいない。ずっとサッカーをやめないで欲しい。あと10年間プレーし続けてほしい。私だけでは無く他の多くの人々も同じことを思っているだろう」とその態度と才能を称賛している。
ティエリ・アンリは「誰もが彼の成功を確信していた。最初からね。それを知るために、エキスパートになる必要なんてなかった。メッシは昔も今も特別な存在だ。最高級の形容詞でさえ、彼を表現するには至らない」と述べ称賛している。
ホセ・ルイス・チラベルトは「アルゼンチン代表はロシアで優勝候補の一角に入るか?」という質問に対して「もちろんだ。それについては何の疑いも持っていない。しかし、アルゼンチンを優勝候補にしているのはメッシだ。メッシがいなければ、アルゼンチンはグループステージを突破できない。アルゼンチンにはアグエロ、イグアイン、ディ・マリア、ディバラといった優れた選手がいるが、いずれも1人では試合を勝利に導けない。だが、メッシにはそれができる。そこに大きな違いがある」とメッシのアルゼンチン代表での影響力を高く評価している。
ガリー・リネカーは「メッシは私が現役時代に一度もできなかったようなプレーを、1試合のうちに4、5回見せている。信じられないよ。私はマラドーナを見た時、彼を超える選手は出てこないと思った。だがメッシは史上最高の選手だ」と述べている。
デビッド・ベッカムは「メッシが世界最高の選手。彼は子供たちの憧れの的だ。皆が彼のプレー、振る舞い、チームへの献身の姿勢を真似ようとしている。メッシはチームのためにプレーをする。それがどんな選手、人間であるかをよく表している。メッシは8歳か9歳の子供ように試合を楽しむ。まるで現役最後の試合であるかのように、各試合を心ゆくまで楽しんでいるんだ。特別な選手だね」と述べている。
スティーブン・ジェラードはUEFAチャンピオンズリーグ 2016-17グループステージ第5節のセルティック戦で2得点を挙げたメッシに対し、「私は彼が、歴代最高の選手だと思う。彼のプレーを見ることが絶対的な喜びだよ」と語っている。
フランチェスコ・トッティは世界最高の選手について尋ねられ「サラー?世界最高の選手はリオネル・メッシだよ。」と答えている。また次のローマの10番についても語っており「ローマで“10番”を背負うのは決して簡単なことではない。次の“10番”が誰になるかは誰にも分からない。新たなトッティかメッシ、もしくは2人に肩を並べる偉大な選手が現れた時、受け継がれることになるだろう。もしメッシがローマに来たら、間違いなく身に着けることになる。彼なら“10番”を選ぶはずだし、そうでなくとも私が空港まで迎えに行って自ら手渡すよ」とメッシをリスペクトしている。
ジャンルイジ・ブッフォンは「メッシはより完璧だ。彼はより低い位置からプレーを開始し、よりテクニカルのクオリティー、ゲームのビジョンを持っている。フィニッシャーというよりはトレクアルティスタ(トップ下)だと評価している。
ズラタン・イブラヒモビッチはESPNのインタビューに対して「オレが思うにメッシは唯一無二だ。彼のようなプレーをできる選手が今後現れるか、分からないな。なぜなら彼には自分のスタイルがある。だから、あそこまでの選手になれた。(第二のメッシの出現については)可能だとは思わない。毎日彼のプレーを見られることは自分にとって幸運だ。以前にも言ったけど、プレイステーションのようだ。ボールを預ければ、全員抜いてくれる。それがメッシなんだよ。彼は他の国に移籍しても、どこでも活躍できる。なぜならフットボールを愛する唯一無二の存在だからだ。フットボールを本当に愛しているからね。バルセロナでも世界のどこでも、パフォーマンス面でトラブルに陥るようなことなんてないんだよ。みんな感謝しなければいけない。特にアルゼンチンではね。あんな選手が自分の国にいるんだから。彼がプレーしている間は喜びを享受すべきだ。なぜなら、彼は美しいのだから。」とメッシの存在を唯一無二と表現している。
セスク・ファブレガスは「我々はロナウドやロナウジーニョのような素晴らしい選手を見てきたが、メッシは15年間もトップに立ち続けている。彼は18歳の頃から常に最高の選手であり続けた。信じられないようなものを見てきている。彼は3日おきにゴールを決め、アルゼンチン代表でもプレーし、時差ボケのまま戻ってきてハットトリックを決めるんだ。本当に普通じゃない、今後このようなクオリティーの選手が現れるのは不可能だろう」と述べている。
ピーター・クラウチは「いつの日か、僕が孫に『メッシと同じピッチに立ったんだよ』と伝えられる日が来るだろう。彼らには繰り返し、その話をするだろうね。なぜなら彼は、サッカー史上最も偉大な選手だからだ。彼が成し遂げていることについてどう表現するべきか、いろいろな考えがあるだろう。僕が思いついたのは、彼は『生ける記念碑』だということだ。生きているうちに、誰もが一度は彼のプレーを見に行くべき存在だよ」と述べている
ディエゴ・マラドーナは「(メッシが歴代最高の選手かどうかは)歴史が決めること」であるとしながらも、メッシのプレーを見ることが喜びであると語り、メッシが史上最高の選手となることを望む旨を度々発言している。マラドーナはメッシのプレーだけでなく、その人柄も高く評価している。
ウェイン・ルーニーはロナウドとメッシ、どっちのほうがいい選手かという質問に対して「メッシだね。前にも言ったと思うけど、2人はどちらも史上最高の選手だろう。個人的にはメッシが史上最高さ」と答えている。
エデン・アザールは「この世に2人の史上最高の選手は存在しない。唯一の存在であり、それがメッシだ」と語りメッシを称えている
アルトゥーロ・ビダルはメッシがハットトリックを達成したラ・リーガ第28節ベティス戦の後に「僕らはたくさん楽しまなければならない。彼の才能は世界で二度と見ることはできないだろうからね。彼はとても印象的な選手だ。君たちはそれを今日見たと思うし、ピッチに行くたびに見ているんだ」と称賛している。
ジエゴ・コスタはメッシが欠場したアルゼンチン戦の後に「メッシがいない時には全く違うものになる。それが見られただろう。ピッチにメッシがいれば、多くのことが変わる。もしピッチにいなければ、リーダーを失う。アルゼンチン人は、メッシはメッシだと知っている。彼を人々が批判していることは聞いている。しかし、メッシは優先的に扱われるに値する人間だ。なぜなら、彼は最高だからだ。メッシのような選手が批判されるべきではない。神に感謝しなければいけないよ。彼が存在することをね。誰もが知っている。メッシは何ができるかを。彼がそこにいないことですべてが変わる。メッシと対戦するチームは、何かを変えなければならない。彼は違いを作れる選手だからだ。」と語っている。
キーラン・トリッピアーは「メッシは4回見たって同じ場所にいる。本当に変だよ。また歩いて、歩いて、そしてゴールだ。彼と何度か対戦してきて、彼は本当に小さなスペースを探し出すのがとても上手いと思う。バルセロナがパスを回している間、彼はボールがどこに来るかをあらかじめ知っているみたいだ。彼の賢明さは本当に素晴らしくて、歩いている時でも常に注意する必要がある。本当に最高の選手だ」。
コケはマルカのインタビューに対して「僕にとっては世界最高だ。ピッチで対戦するときには、彼にとって最高の日ではないことを祈るしかない。もし、そういう日であれば、彼のチームは相当に優位な立場となる。彼を止めるのは難しい。その動きをカバーをして、DF陣を助け続けなくてはならないし、そして、彼にとって最高の日ではないことを願うしかない…。彼がプレーを開始することを意識し、それを阻止する心構えをして実際にそうしたとする。でも、彼はいきなり何かしらのプレーを発明してしまうんだよ。彼の創造性は凄まじい。なぜ、身体を投げ出さないのか?そんなことしても、止めるのはほぼ不可能だからだ。バルセロナでもアルゼンチンでも、メッシのチームは常に彼を探すことになる。彼はゴールやパス、またチームをプレーさせることで試合を決定づけてしまう。テレビで彼のことを見ていると、まるで急にギアを変えられるみたいだ。自チームにメッシがいるならば、彼を探すことは当たり前だよ」と称賛している。
フェルナンド・トーレスは「僕はメッシのような選手を人生で一度だって目にしたことがなかったし、今後も目にすることはないだろう。彼はあらゆる種類のプレーをやってのけ、そのすべてが90点以上だ。しかも、長年にわたってそうしたパフォーマンスを見せ続けているんだよ。僕にとってはメッシこそが至高だ。彼と比類する選手は存在しないし、似た選手を未来に見ることも疑わしい」と語っている。
2007年、「レオ・メッシ財団」を設立。難病の人々の救済や彼らの夢を叶え、平等の機会を与えるという信念の元に、自身と家族のアイデアから設立された。財団のホームページは現在では5ヶ国語に翻訳されている。
他の慈善団体と協力してイベントの実施や病院や施設などを訪れたり、施設環境の向上に尽力している模様はブログなどでも度々語られており、その活動が認められユニセフより国際親善大使に任命されている。
2008年、財団のホームページとは別に日本でオフィシャルブログを開設した。経緯としては、ファンへの情報配信と財団の協賛企業集めの一環である。財団の存在や活動内容を周知するアンテナの役目も果たしている。2009年には中国語版も開設されその後英語版やスペイン語版も開設された。
この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2015年7月) |
クラブ | シーズン | ディビシオン | 背番号 | リーガ | 国王杯 | UEFA CL | 国内スー ペル杯 | UEFAスー パー杯 | FIFA CWC | シーズン 通算 | ||||||||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | アシスト | ||||
FCバルセロナB | 2003-04 | セグンダB | 5 | 0 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | 5 | 0 | - | |
2004-05 | 17 | 6 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | 17 | 6 | - | |||
セグンダB通算 | 22 | 6 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | 22 | 6 | - | |||
FCバルセロナ | 2004-05 | プリメーラ | 30 | 7 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | - | - | - | - | - | 9 | 1 | 1 |
2005-06 | 19 | 17 | 6 | 2 | 1 | 6 | 1 | - | - | - | - | - | - | 25 | 8 | 5 | ||
2006-07 | 26 | 14 | 2 | 2 | 5 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | - | - | 36 | 17 | 3 | |||
2007-08 | 28 | 10 | 3 | 0 | 9 | 6 | - | - | - | - | - | - | 40 | 16 | 15 | |||
2008-09 | 10 | 31 | 23 | 8 | 6 | 12 | 9 | - | - | - | - | - | - | 51 | 38 | 18 | ||
2009-10 | 35 | 34 | 3 | 1 | 11 | 8 | 1 | 2 | 1 | 0 | 2 | 2 | 53 | 47 | 13 | |||
2010-11 | 33 | 31 | 7 | 7 | 13 | 12 | 2 | 3 | - | - | - | - | 55 | 53 | 24 | |||
2011-12 | 37 | 50 | 7 | 3 | 11 | 14 | 2 | 3 | 1 | 1 | 2 | 2 | 60 | 73 | 30 | |||
2012-13 | 32 | 46 | 5 | 4 | 11 | 8 | 2 | 2 | - | - | - | - | 50 | 60 | 15 | |||
2013-14 | 31 | 28 | 6 | 5 | 7 | 8 | 2 | 0 | - | - | - | - | 46 | 41 | 14 | |||
2014-15 | 38 | 43 | 6 | 5 | 13 | 10 | - | - | - | - | - | - | 57 | 58 | 28 | |||
2015-16 | 33 | 26 | 5 | 5 | 7 | 6 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 1 | 49 | 41 | 23 | |||
2016-17 | 34 | 37 | 7 | 5 | 9 | 11 | 2 | 1 | - | - | - | - | 52 | 54 | 16 | |||
2017-18 | 36 | 34 | 6 | 4 | 10 | 6 | 2 | 1 | - | - | - | - | 54 | 45 | 18 | |||
2018-19 | 34 | 36 | 5 | 3 | 10 | 12 | 1 | 0 | - | - | - | - | 50 | 51 | 22 | |||
通算 | 452 | 419 | 73 | 51 | 135 | 112 | 18 | 13 | 4 | 3 | 5 | 5 | 687 | 603 | 245 |
国際Aマッチ 138試合 70得点 (2005年 - )
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2005 | 5 | 0 |
2006 | 7 | 2 |
2007 | 14 | 6 |
2008 | 8 | 2 |
2009 | 10 | 3 |
2010 | 10 | 2 |
2011 | 13 | 4 |
2012 | 9 | 12 |
2013 | 7 | 6 |
2014 | 13 | 8 |
2015 | 8 | 4 |
2016 | 11 | 8 |
2017 | 7 | 4 |
2018 | 5 | 4 |
2019 | 10 | 5 |
通算 | 138 | 70 |
[表示]# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
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