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JT女性社員逆恨み殺人事件 | |
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Wikimedia | © OpenStreetMap | |
場所 | 日本・東京都江東区大島六丁目1番1号「住宅・都市整備公団 大島六丁目団地」1号棟4階エレベーターホール |
座標 | 北緯35度41分25.071秒 東経139度49分56.553秒座標: 北緯35度41分25.071秒 東経139度49分56.553秒 |
標的 | 被害者・女性会社員A(本事件当時44歳・日本たばこ産業〈JT〉社員 / 7年前〈1989年〉にMの強姦致傷事件で被害者になった) |
日付 | 1997年(平成9年)4月18日 21時過ぎ (UTC+9〈日本標準時・JST〉) |
概要 | 別の殺人で服役した前科を持つ加害者の男Mは本事件の7年前(1989年)に被害者女性Aを強姦・負傷させて恐喝した強姦致傷事件を起こし、Aから被害届を出されたために逮捕・起訴され札幌刑務所に服役した。男Mは服役中に一貫して被害者Aを逆恨みして報復(お礼参り)を企てており、出所直後に事件後も引っ越していなかったAの居所を見つけてAを刺殺した。 |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | 包丁(平成9年押収第1579号の1) |
死亡者 | 1人(女性A) |
犯人 | 男M(本事件当時54歳 / 殺人前科あり) |
動機 | 強姦被害を告発され服役することとなったことへの逆恨み(お礼参り) |
対処 | 加害者Mを警視庁が逮捕・東京地検が起訴 |
謝罪 | 被告人Mは公判で被害者・遺族への謝罪の言葉を述べたが、第一審では被害者に責任転嫁するような発言を行った。 |
刑事訴訟 | 死刑(控訴審・上告棄却により確定 / 執行済み) |
影響 | 刑事裁判・第一審の最終弁論で被告人Mおよび弁護人がそれぞれ「被害者Aにも落ち度がある」旨の主張を行い、弁護人に対しては傍聴席から「ふざけるな」と罵声が飛んだ。本事件をきっかけに警察庁・法務省は犯罪加害者による被害者へのお礼参りを防ぐため「事件の被害者・目撃者に対し加害者の出所事実・出所予定時期・出所後の居住地を通知する制度」を制定した。 |
管轄 | 警視庁(本部捜査一課・城東警察署) 東京地方検察庁・東京高等検察庁 |
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JT女性社員逆恨み殺人事件(ジェイティーじょせいしゃいん さかうらみ さつじんじけん)は、1997年(平成9年)4月18日夜に東京都江東区大島六丁目の団地で発生した殺人事件である。
加害者の男M(本事件当時は54歳・1976年に殺人を犯した前科あり)は本事件の7年前となる1989年(平成元年)12月に当時日本たばこ産業(JT)の社員だった被害者女性会社員(本事件当時44歳)に対する強姦致傷事件を起こした上、同事件をネタに被害者女性を恐喝したが、警察に通報されたことで逮捕・起訴され懲役刑を受けて刑務所に服役した。服役中もなお被害者の通報を逆恨みし続けていたMは刑務所を出所後に被害者を探し出して刺殺した。
本事件はマスメディアにより「逆恨み殺人事件」「お礼参り殺人事件」などとして大きく報道され、近隣住民に恐怖感を与えるとともに一般社会にも大きな不安感・衝撃を与えた。刑事裁判では被害者が1人で利欲的目的ではない殺人事件における死刑適用の是非が争われ、第一審・東京地裁は検察側の死刑求刑を退け無期懲役判決を言い渡したが、控訴審・東京高裁は原判決を破棄して死刑判決を言い渡した。1983年(昭和58年)に最高裁判所判例で死刑選択の許される基準(通称「永山基準」)が示されて以降は「殺害された被害者数が1人である殺人事件の場合、特に利欲的目的でなければ死刑が回避される傾向が強い」とされていたが、最高裁も上告審で「殺害された被害者が1人でも死刑選択がやむを得ない事例はある」と控訴審判決を是認したために死刑が確定した。
また本事件は犯罪被害者保護制度の不備が指摘される契機となり、2000年(平成12年)5月の犯罪被害者保護法・2001年(平成13年)10月の「出所情報通知制度」(被害者側に加害者の出所時期・居住地を通知する制度)がそれぞれ導入されるなどした点でも注目された。作家・丸山佑介は本事件を著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』(彩図社・2010年)において「刑事司法制度の根幹を揺るがしかねない殺人事件」「『刑事事件の被害者が犯人を告発したために殺される』というあまりにも不条理な筋書きに世間が震撼した」「『刑事事件の被害者保護・再犯の防止』という点でも非常に大きな意味を持つ事件だった」と評している。
M・T (記事中では仮名「M」と表記) | |
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生誕 | 1942年5月15日 日本統治時代の朝鮮・京城府 |
死没 | 2008年2月1日(65歳没) 日本・東京拘置所(東京都葛飾区小菅) |
職業 | 土木作業員(逮捕当時) |
罪名 | 殺人罪・窃盗罪 |
刑罰 | 死刑(絞首刑・執行済み) |
動機 | 強姦被害を届け出た被害者への逆恨み |
有罪判決 |
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殺人 | |
被害者数 | 1人 |
時期 | 1997年4月18日 |
国 | 日本 |
現場 | 東京都江東区大島六丁目 |
死者 | 1人 |
凶器 | 刃渡り約20.9 cmの柳刃包丁(平成9年押収第1579号の1) |
逮捕日 | 1997年4月26日 |
本事件の元死刑囚M・T(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャル「M」で表記)は1942年(昭和17年)5月15日に日本統治時代の朝鮮・京城府(当時)で5人兄弟姉妹の次男として生まれ、2008年(平成20年)2月1日に法務大臣・鳩山邦夫の死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑を執行された(65歳没)。事件当時は身長180 cmほどの大柄な体格で、千葉県船橋市咲が丘四丁目在住の54歳・土木作業員だった。
Mの父親は郵便配達員で、Mは終戦後に家族とともに朝鮮半島から日本へ引き揚げ、1947年(昭和22年)ごろからは福岡県戸畑市(現:福岡県北九州市戸畑区)に居住し、1958年(昭和33年)3月に同市内の中学校を卒業してからは九州などで映写技師見習いとして働くようになったが、映画産業の斜陽化により5年ほどで退職し、塗装店・映画館従業員などの職を転々とするようになった。
Mは34歳だった1976年(昭和51年)8月に広島県広島市内で別れ話の諍いから交際相手の少女・甲(当時16歳・高校2年生の女子高生)を殺害して懲役10年の刑に処された前科があった。
Mは1976年5月6日 - 8月10日ごろまで下関市内のストリップ劇場「下関ショー劇場」で照明係として働いていたが、その際に当時家出中だった私立高校2年の女子高生・甲(当時16歳・大分県別府市在住)と偶然知り合い、肉体関係を持った。Mは1976年8月6日に勤務先の劇場へ「甲を劇場で働かせてほしい」と頼み込んだが未成年であることを理由に断られたため、8月10日夜には甲とともに2人で職を探しに広島市へ向かい、8月11日に2人で広島市田中町(現:広島市中区田中町)のホテルに投宿した。しかし広島でも甲が未成年であることから職がなかなか決まらず、「ホテルで生活を続けると金銭がかさむ」として甲を足手まといに感じるようになったことに加え、既に「両親の下に帰る」という意思を固めていた甲から邪険な態度を取られるようになった。そのため恋着の情が憎悪に転じるとともに、甲が自分の思い通りにならなくなった憤激も加わり、Mは1976年8月12日6時ごろに宿泊先のホテルの一室で確定的な殺意の下に浴衣の紐で甲の首を絞め絞殺し、翌8月12日朝になって1人でフロントに現れ「11時ごろには帰って来る」と従業員に告げてホテルを出た。その後は山陽新幹線(広島駅 - 新神戸駅)や電車を乗り継いで大阪府大阪市まで逃亡し、「生田安治郎」の偽名で同市港区の簡易宿泊所に潜伏していた。
一方で8月12日昼ごろ、Mとともに宿泊していた甲が一向に起きてこないことを不審に思ったホテル従業員がホテル和室で甲の遺体を発見して広島東警察署(広島県警察)に110番通報し、広島県警捜査一課は本事件を殺人事件と断定して捜査を開始した。その結果、翌8月13日には遺体の身元が甲と断定され、同時に現場から採取された指紋が前歴者カードに記録されていたMの指紋と一致することが判明したため、同日朝になって広島県警捜査一課・広島東署は被疑者Mを殺人容疑で全国に指名手配した。その後、8月24日夜になって港警察署(大阪府警察)へ匿名で「新聞に載っていたMによく似た男が泊まっている」と110番通報が寄せられ、Mは翌25日早朝に駆け付けた大阪府警機動捜査員・港署員により殺人容疑で逮捕された。被告人Mは1977年(昭和52年)1月14日に広島地方裁判所(雑賀飛龍裁判長)で懲役10年(求刑:懲役12年)の有罪判決を言い渡され、後述の仮出所まで約8年間にわたり岡山刑務所に服役した。
本事件の被害者女性A(44歳没)は埼玉県の農家夫婦の下にて三女として生まれ育ち、1971年(昭和46年)に地元の県立商業高校を卒業して日本専売公社(日本たばこ産業〈JT〉の前身)へ入社し、本事件で死亡するまで約26年間にわたって精勤していた。農家の長男との見合い話が数多く寄せられていたが、すべて「仕事を辞めたくない」との理由で断っており、入社後は主に東京専売病院(現:国際医療福祉大学三田病院)で事務職を務め、本事件前年の1996年(平成8年)7月にJT東京支店へ異動してからは社員の産休・育児休暇などの事務を担当していた。一方で個人的に女性地位・権利を向上させる運動にも関心が高く、「(男女雇用機会)均等法ネットワーク」などの会合に参加して女性問題について熱心に活動していた。
受刑者Mは1984年(昭和59年)12月20日に岡山刑務所を仮出所すると、千葉県船橋市内に転居していた両親の下へ身を寄せ、地元の映画館で映写技師として働いた。その後は東京都内で住み込みの建設作業員などとして働くようになったが、1987年(昭和62年)末 - 翌1988年(昭和63年)初めにかけて東京都内で自動車を盗み、その盗難車を無免許で運転したとして、窃盗・道路交通法違反の罪で1988年3月10日に東京地方裁判所で懲役1年2月の実刑判決を受け、1989年(平成元年)2月15日に46歳で仮出所するまで府中刑務所に服役した。
加害者Mは被害者Aへの強姦致傷事件を起こした1989年12月当時、船橋市内の母親の実家に住み、東京都江東区内の建設会社に勤務していた。同年12月19日深夜1時ごろ、Mは江東区大島六丁目のバス停付近で、付近の「大島六丁目団地」(後の事件現場)に居住し、同団地に帰宅する途中だった被害者女性A(当時37歳・JT社員)がタクシーから下車するところを見かけたため、Aに「一緒に酒を飲まないか」と声を掛け、深夜営業の居酒屋に2人で入った。Mは女性Aと2人で深夜の居酒屋で飲酒した後にAをホテルに誘ったが、拒否されたことから路上でAの頸部を両手で強く締め付けて失神させた。そしてAを近くのゴミ集積所の横へ引きずり込み、付近に落ちていた電気コードでAの首を絞めるなど暴行を加えて強姦し、Aに全治約2週間を要する頸部縊創などの傷害を負わせた。
その後、Aは失神して現場で倒れているところを通行人に発見されたが、冬季の深夜に半裸で屋外に放置されたことで生命の危険に晒された。Aは意識を回復してからもしばらくは自分が強姦されたかどうかも判然とせず悩んでいたところ、Mからの電話で金員を要求された。一方でMはAの所持品から財布などの入ったショルダーバッグ1個を奪って現場から逃走し、バッグ内にあった手帳などからAの電話番号を知ると、事件から数日後には「この強姦致傷事件をネタに女性から金品を恐喝しよう」と考え、Aに電話を掛けた。Mの口ぶりはAに電話した当初こそ「Aが警察に通報したかどうかを探るような」口ぶりだったが、Aの対応がおとなしかったことから「まだ警察には通報されていない」と考え「あんたの出方次第では、強姦されたことを会社に言うよ」「君の秘密を10万円で買ってくれ」「警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ」などとAを脅迫した。これは強姦致傷の被害者であるAの「強姦されたことを知られたら勤務先にいられなくなるのではないか」という困惑・恐怖心につけ込んだものだったが、Mの意図に反してAが警視庁に通報したため、Mは1989年12月29日に現金の受け渡し場所に現れたところをその場で待ち構えていた警察官に逮捕された。その後、強姦致傷・窃盗・恐喝未遂の各罪状で東京地方裁判所に起訴された被告人Mは1990年(平成2年)3月13日に懲役7年の有罪判決を受け、札幌刑務所に収監された。
MがAを強姦した後で被害者Aを脅迫したことは一方的な口止めに過ぎず、Aが犯罪被害を警察に届け出たことは被害者として当然の対応だったが、Mは逮捕された直後からその行為を「Aが(警察に届け出ないという)約束を破って自分を裏切ったから自分は逮捕された」と決めつけ、筋違いな恨みを抱いていた。そのためMは「Aに『自分の言った言葉は脅しではない』と思い知らせてやらなければならない」などと考え、出所した暁には恨みを晴らすためにAを殺害することを決意した。また、札幌刑務所で同房の未決囚から「この強姦致傷事件の刑は普通より1年か2年重い」と言われたこともあって「こんな重い刑を受けて気候の厳しい札幌刑務所で辛い思いをしなければいけないのは、強姦被害を警察に届け出たAのせいだ」などと恨みを募らせ、服役中も一貫して「出所後にAを殺そう」という決意を変えなかった。
受刑者Mは1997年2月20日に懲役7年の刑期を満了し、翌日(1997年2月21日)に札幌刑務所を満期出所すると同日深夜に札幌駅から上野駅行きの夜行に乗車して上京し、船橋市内の実家に身を寄せた。1997年2月24日からはかつて勤務していた東京都墨田区錦糸にあった設備会社で作業員として働き、その後同社を退職して3月14日からは東京都江戸川区内の会社に就職して社員寮に住み込みながら建設作業員として働き始めた。
一方でMは服役中と同様に被害者A(事件当時44歳)を殺害する決意を有しており、強姦致傷事件を起こした日にAから聞いていた「現場の団地で1人暮らししている」という言葉を手掛かりにAの住居を探そうと考え、上京翌日の23日からその準備を進めた。現場団地は2,000戸以上からなる巨大な団地で、Mは「住人でもない自分が調べ回っていると怪しまれるから、調べるのは1日に1棟だけ」と限定した上で仕事の休日を使い、各棟1階の集合郵便受けを調べ続け、執念深く被害者女性Aの名前を探したほか、以下のように犯行への準備も進めた。
Mは(Aの居室を突き止めてから11日後となる)事件当日の1997年4月18日6時45分ごろ、鞘に収めた包丁を持参した上で社員寮を出て現場団地に向かい、Mは7時30分ごろにAの居室の前に着き、玄関の表札を見てA宅であることを確認した。しかし当時は室内に照明が点いていたことから「Aがまだ在室している」と考え、人目につかないように部屋から十数メートル (m) 離れた非常階段踊り場に移動した。その上で「ここ(非常階段踊り場)でAを待ち伏せ、部屋から出てきたAがエレベーターに乗る前に『7年前に約束を破って警察に届け出た恨みを晴らしに来た』と伝えた上で殺害する」ことを決め、8時ごろになって部屋を出てきたAの後を追いかけた。しかしAの背後数 mまで近づいたところ、エレベーターホール横の中央階段付近から階段を降りてくる人の足音が聞こえてきたため、これに怯んだMは犯行を目撃されることを恐れて立ち止まった。Aはその間にエレベーターで1階まで降り、そのままタクシーに乗車して団地を発ったため、Mは午前中にAを殺害できなかった。
そこでMは「Aの帰りを狙って殺害しよう」と計画を変更した上で、着ていたセーターに包丁を包み、Aの部屋の玄関脇にあるメーターボックスの中に隠し、付近にある酒屋で酒を買って飲んだり、社員寮に帰って昼寝をしたりして時間を潰した。Mは19時過ぎに再び現場団地に戻ったが、当時は410号室(Aの居室)の室内がまだ暗かったことから「Aはまだ帰宅していない」と考え、メーターボックスの中から包丁を取り出し、そのまま包丁をベルトに挟んで非常階段踊り場などでAの帰宅を待ち伏せた。一方でAは18時過ぎに勤務先・JT東京支社(渋谷区南平台町)を退社してから女性の知人らとともに港区内で開かれた「女性問題フォーラム」に参加し、友人らとともに行きつけだった港区内の飲食店で飲食してから帰宅する途中だった。Mは21時過ぎになってAが団地内の広場付近を住棟に向かって歩いてくる姿を見つけたため、エレベーターに乗って下に降り、1階で乗り込んでくる女性を待ち伏せた。そして1階に到着すると、ちょうど開いたドアの先にAが立っていたため、Mは「Aを殺害するのに絶好の機会だ」と考え、エレベーターに乗ったままAが乗り込んでくるのを待った。
MはAに「何階ですか?」と声をかけて「4階をお願いします」という返答に応じて4階のボタンを押し、エレベーターが上昇し始めると「Aさんですか?」と尋ねて本人であることを確認した上で「俺のことを覚えているかい?」などと話し掛けた。そして思い出しかねている様子のAに対し、その恐怖心を殊更に引き起こさせるため、隠し持っていた包丁の柄を右手で掴み、ゆっくり鞘から引き抜きながら「7年前の事件のことは覚えているか」と低い声で脅した。これに恐怖したAは悲鳴を上げながら突然Mに飛び掛かってMの右手から包丁を奪い取り、エレベーターが4階に到着してドアが開くと包丁を持ったままエレベーターから降り、「助けて!殺される!」などと大声で叫びながら4階エレベーターホール北側の壁際まで後ずさりし、Mを遠ざけようと包丁を小刻みに突き出したり横に振ったりした。
いったんはAの思わぬ抵抗に動揺して凶器の包丁を奪われたMだったが「殺害の機会は今しかない。少しくらい自分が怪我をしてでも殺害しよう」と考えてAに飛び掛かり、Aをエレベーターホール北側の壁に押さえつけた上でその左手から包丁を奪い返し、殺意を有した上で胸部・腹部を複数回突き刺して心損傷などの致命傷を負わせ、被害者女性Aを同日22時39分ごろに搬送先・東京都立墨東病院(墨田区江東橋)で失血死させて殺害した(殺人罪)。MはAに致命傷を負わせたことを確認した上で、被害者が文字通り血の海の中で横たわっているのも意に介さず、Aの手から床に落ちていた所持品のハンドバッグ(現金約11,773円 / クレジットカードなど計76点在中。時価約16,410円相当)を奪い、凶器の包丁を持ち去って現場から逃走した(窃盗罪)。その後、Mは現場最寄り駅である都営地下鉄新宿線大島駅付近の路上まで約800 m徒歩で移動し、駅前で待機していたタクシーに乗車して同線船堀駅まで逃走したほか、凶器の包丁・Aから奪ったハンドバッグなどをMの自宅付近にあった駅のコインロッカーに隠匿した。
1997年4月18日21時過ぎ、男女の言い争う声に続き女性(被害者A)の悲鳴を聞きつけた4階の男性住民が廊下に出たところ、被害者女性Aがエレベーターホールで血を流して倒れていた。この男性住民から119番通報を受けた東京消防庁の救急車が現場に駆け付けてAを病院に搬送したが、Aは出血多量により間もなく搬送先の病院で死亡した。警視庁捜査一課・城東警察署は本事件を殺人事件と断定し、城東署に特別捜査本部を設置して捜査を開始し、以下の事実に着目して目撃証言探し・駅構内に設置された防犯カメラの映像解析を進めた。
「犯人が被害者を待ち伏せして襲撃した」という犯行経緯が浮き彫りになったことに加え、遺体の刺し傷が心臓にまで達していたため、捜査本部が「被害者Aに強い恨みを持つ者の犯行である可能性が高い」とにらんで捜査したところ、7年前(1989年12月)にMが被害者Aに対する強姦致傷・恐喝事件を起こして懲役7年の実刑判決を受け、同年2月末まで札幌刑務所に服役していた事実が判明したほか、事件現場などでMに似た不審な男の目撃情報もあった。また、犯人の逃走経路については当初「犯人は被害者Aと揉みあった際に負傷し、そのまま大島駅まで徒歩で移動して電車で逃走した」と推測されたが、その後「犯人は徒歩で大島駅まで逃走していったん同駅構内に入ったが、地下鉄には乗車せず同駅から約3 km離れた同線船堀駅付近までタクシーに乗車した」ことが判明した。その証拠として犯人(=M)を乗車させたタクシーの後部座席には現場団地・大島駅構内に残された血痕と同一人物の血痕が付着しており、そのタクシーの運転手も警視庁の事情聴取に対し「Mに似た男だった」と証言した。そのため、捜査本部はMが犯行に関与した疑いが強い」と推測してその行方を追い、現場に残された掌紋など物的証拠を鑑定して裏付け捜査を進め、Mの犯行を裏付けた。
事件発生から1週間後の1997年4月26日午後、M宅前で張り込んでいた警視庁城東署特捜本部の捜査員がMを発見し、同日夜になって警視庁捜査一課・城東署特捜本部は殺人容疑で被疑者Mを逮捕した。被疑者Mは逮捕された当初、犯行動機について特捜本部の取り調べに対し「7年前の事件のことを謝ろうと思ってAを待ち伏せしたが、騒がれたので殺した」と供述したが、特捜本部は「以前の強姦致傷事件などで被害者Aから告訴されたことを逆恨みしてAを殺害した疑いが強い」と推測してさらに詳しい動機を追及した。また凶器の包丁・奪われたAのバッグはMの自供通り、Mの自宅付近の駅のコインロッカーから発見されたため、特捜本部はこの点について「Mが事件後に証拠隠滅目的で持ち去り隠した」として追及した。
その後の捜査で「Mは事件前に現場の団地を下見し、郵便受けの名前からAの部屋番号を確認していた」という事実が判明した。またMは「凶器の包丁は4月4日(犯行の約2週間前)に仕事で行ったビルの作業現場で偶然拾った」と供述したが、実際にはこの供述は虚偽で、前述のようにMが事前に凶器として購入したものだった。またMは東京地方検察庁の検察官から取り調べを受けた際には一貫して「強姦致傷などで逮捕された時点から、被害者Aを必ず殺そうとする決意が既にあった」などと供述したほか、前件で逮捕されてから出所するまでの状況・出所後の状況・犯行時の状況などについていずれも「自己の心情を交えつつ、迫真性・臨場性が認められる具体的・詳細な供述」をした。その一方で自身にとって一方的に不利益にならないよう「服役中は『自分を裏切ったあの女を殺す』という気持ちで頭がいっぱいだったわけではない。むしろ刑務所での日々を過ごすことに気持ちを使っていたことが多かった」などと供述したほか、捜査官から強盗目的・強姦目的の存在について嫌疑を掛けられるとそれらを明確に否定した。
東京地検は1997年5月16日に殺人・窃盗の各罪状で被疑者Mを東京地方裁判所へ起訴した。被告人Mは被害者Aの所持品を殺害後に奪ったが、動機は強盗目的ではなかったため、本件は強盗殺人罪ではなく殺人罪・窃盗罪で立件されることとなった。
1997年7月3日に東京地方裁判所(三上英昭裁判長)で被告人Mの初公判が開かれ、罪状認否で被告人Mは起訴事実を認めた一方、被告人Mの弁護人は冒頭陳述で「Mは『被害者に報復しよう』という強度の視野狭窄に陥っており、犯行当時は心神耗弱状態だった」と述べて完全な責任能力を否定した。
被告人質問・精神鑑定[編集]初公判以降、被告人Mは一連の公判で行われた被告人質問において「犯行の直前までは不確定的な殺意しかなかった」という旨の供述をする一方で、動機などについて以下のように「前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していた」ことをほのめかすような発言をしていたため、東京地裁(1999)は「これらの発言と被告人Mの犯行前後の行動を照らせば「『前件で逮捕された時点から被害者の殺害を決意していた』とする検察官の取り調べに対する供述は信用性が高い」と事実認定した。
一方で弁護人側は「被告人Mは被害者Aに包丁を奪われるなど予想外の展開に気が動転するとともに、『自分の方が殺されてしまう』という恐怖心から極度のパニック状態に陥った。さらに包丁による被害者Aの反撃に対して本能的に反撃行動に出たが、この時に右手人差し指に切り傷を負ったことで一層逆上・激昂し、善悪の弁別能力・およびそれに従った自己制御能力が著しく減退し、いわゆる『不可逆的衝動』に支配された状況下で殺害行為に及んだ」と訴えた上で「本件殺人は正当防衛・誤想防衛・過剰防衛のいずれかに該当する。被告人Mは本件殺人の犯行当時、心神喪失・心神耗弱どちらかの状態にあり、完全責任能力は問えない」とする旨を主張した。しかし東京地裁(1999)は「逃げようとする被害者Aを追いかけて包丁を奪い返し、強烈な刺突行為に及ぶなどしたMの行動を考えれば明らかに正当防衛などではない。また被害者Aに包丁を奪われるという予想外の展開にMが多少動揺したことは否定できないが、Mはその後Aの動きに的確・機敏に対応して包丁を奪い返して当初の計画通り被害者Aの殺害を遂行し、致命傷を負わせたことを確認した上でAのハンドバッグを盗み、凶器の包丁を携えて現場から逃走するなど冷静・合理的な行動を取っており、それらの行動からは何ら異常さは窺われない。捜査段階・公判段階のいずれにおいても犯行や前後の状況について詳細に供述している点から照らしても意識障害・記憶障害などは認められず、責任能力に問題はない」と結論付け、弁護人の主張を退けた。
1997年12月4日に東京地裁(山室惠裁判長)で開かれた公判では被告人質問が行われ、被告人Mは事件の動機について質問されると以下のように被害者に落ち度があったことを主張した。
その上で弁護人から「服役中の7年間、ずっと殺意を抱いていたのか」と質問されると、被告人Mは「直前まで殺そうという気持ちは五分五分で、被害者の態度次第だった」として、確定的な殺意を否定する供述をした。また陪席裁判官による補充質問で被害者Aへの身上について問われると「後悔しているし、ああいう行為はしなくてもよかった」と話したが、山室裁判長から「あなたの口調からは反省の色が感じられない。『警察に届けない』というのが約束になると今でも思っているのか?被害者女性(A)があなたに会って『申し訳ない』と言うとでも思ったのか?」と強い口調で詰問された。結局、被告人Mは「警察に届け出た被害者が間違っていると思うのか?」という山室からの最後の質問に答えられず、山室は被告人Mに「結局『今でも相手の方が間違っていた』と思っているんだな」と念を押した。同日、弁護人側は「被告人Mは7年間服役した札幌刑務所で計13回懲罰を受けている。服役中の大半は独居房におり、前科・前歴が多い危険人物である」などと主張して、被告人Mの精神鑑定を申請した。
東京地裁が弁護人の申請を認めたために審理は一時中断し、精神鑑定が行われた。藤田宗和・大越誠一が実施した情状鑑定により「被告人Mは前件で逮捕された際、被害者Aに対して恨みとともに恋慕の情を抱き、その後もこれらの思いを錯綜させつつも増幅させていた。犯行当時は『Aに対する恨みを晴らす』という心理とともに、『(Aは)もしかしたら自分を受け入れてくれるのではないか』という幻想的な心理も持ったままAに再会したが、Aに包丁を奪われてパニック状態に陥り、殺害に及んだ」とする結果を示した。その根拠としては「Mは犯行当日の朝に被害者Aの殺害を実行できたにも拘らずしなかったり、エレベーターの中でも直ちに犯行に及ばず、被害者から包丁を簡単に奪われていた」ことなどが挙げられたが、東京地裁(1999)は「鑑定人の面接時における被告人Mの供述には『被害者に謝りたかった』など信用性のないものがある上、鑑定の前提となる事実評価に誤りがあるため、その結論には疑問を抱かざるを得ない。被告人Mは事件当日朝、他の住民に目撃されることを恐れて殺害を先送りにしたにすぎず、エレベーターの中で直ちに犯行に及ばなかった理由も『被害者に7年前の事件を思い起こさせるため』、被害者に包丁を奪われた理由も『隙を突かれたから』に過ぎず、殺害を逡巡していた様子は認められない。そのためこの鑑定の結論は『被告人Mが当初から確定的殺意を有していた』ことを覆すに足りるものではない」と認定した。
死刑求刑・最終弁論[編集]公判再開後の1999年(平成11年)2月12日に論告求刑公判が開かれ、検察側(東京地検)は被告人Mに死刑を求刑した。東京地検は論告で「被害者が犯罪被害を警察に届け出たことを逆恨みして報復することは我が国の刑事司法に真っ向から挑戦する反社会性の強い犯行で、被告人Mには殺人前科があり、公判でも謝罪の意を示していない。被害者遺族も極刑を望んでいる」と指摘した。
公判は1999年3月16日に結審した。同日の最終弁論で弁護人は死刑適用基準を示した最高裁判所の判例「永山基準」を引用して検察側の死刑求刑に反論し、「無期懲役か長期の有期懲役刑が相当だ」と主張した。
この最終弁論の際、被告人Mの弁護人・石川弘弁護士は「被告人Mは恨みの気持ちと同時に、一方的ではあるがAに対し『恋慕に似た感情』も抱いていて、それが却って『裏切られた』と思い込むことになった」と主張した上で、事件のきっかけとなった強姦致傷事件について「故人の名誉を傷つけるようだが、事実は事実として述べたい。深夜、偶然出会ったMと2人で飲食し、店を出て深夜の夜道を歩いたのは被害者Aも軽率で、重大な落ち度だった。その軽率な行為が強姦致傷事件に結びつき、その後、ストーカー的に付きまとったMが10万円を要求、警察に逮捕されたことを恨んだMから7年半後に殺される結果になった」と述べ、被害者側に非があったとする旨の弁論をしたが、その途中で傍聴席から「ふざけるな!」と罵声が飛び、廷内は騒然となった。この最終弁論後、被告人Mは最終意見陳述の場で「被害者はもちろん、遺族の方々にも申し訳ないことをいたしました」と頭を下げたが、傍聴席の女性が「本当にそう思っているんですか」と声を荒らげた。これに対し、山室裁判長は困惑しながら「たとえ遺族の方でももう一度、許可なく発言したら退廷させます」と強い口調で注意したが、朝倉喬司(1999)は『週刊実話』(日本ジャーナル出版)にて「(最終弁論の際、傍聴席から被告人Mに罵声を浴びせた人物が)誰だろうと、Mの犯した罪が理不尽で手前勝手なものであることを考えれば怒りたくなるのも無理はない」と述べている。
無期懲役判決[編集]1999年5月27日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第5部(山室惠裁判長)は被告人Mに無期懲役判決を言い渡した。 東京地裁は判決理由で殺意について「被告人Mは『被害者が包丁を見て、警察に届け出たことを謝れば殺す気はなかった』と主張しているが、各種証拠・捜査段階における供述に照らせばその主張は到底信用できず、確定的な殺意の下に犯行を準備して実行に至ったことが認められる」と認定した一方、殺害の計画性については「計画性自体は認められるが、検察側が主張したような『緻密で周到な計画に基づく犯行』とは言い難い」と指摘した。また公判中の被告人M・弁護人側による「被害者にも落ち度があった」とする旨の主張に対しては「被害者に対する被告人の恨みは一方的な決めつけによる逆恨みであり、被害者には何の落ち度もない」と退けた上で「被害者遺族の気持ちを逆撫でする言語道断ともいうべき責任転嫁の供述」と強く非難したが、検察側が「今回のようなお礼参り的事件が続発すると、犯罪被害者が報復を恐れて届け出なくなる恐れがある」として死刑を求刑したことに対しては「罪質・残忍で執拗な犯行などからみれば被告人Mの刑事責任は重大で、検察官の死刑求刑も傾聴に値するが、犯罪被害者保護の問題は立法や行政上措置に委ねるのが適切で、今回の量刑で考慮するには限界がある」と指摘した。そして量刑理由にて死刑を回避し、無期懲役を選択した理由について「本件犯行動機は理不尽・身勝手・短絡的なものだが、個人的な恨みに基づくもので利欲的なものではない。殺人前科に関しても20年以上前に起こした衝動的な単純殺人の事案であり、過度に重視すべきではない。殺害された被害者数は1人で、被告人Mは公判が進むにつれて反省の態度を示し始めており、法廷での謝罪の言葉も口先だけとは断定できず、死刑を適用するには躊躇せざるを得ない」と説明した。
被告人Mは東京高等裁判所第3刑事部で開かれた控訴審公判において改めて被害者・遺族への謝罪の意思を表明し、「命ある限りは被害者の冥福を祈っていきたい」などと反省の言葉を口にしたほか、写経などをして被害者の冥福を祈る行動を取ったが、第一審のみならず、控訴審判決までに被害者遺族に対する謝罪の手紙を書いたり、慰藉の措置を講じるなどの行動を取ることはなかった。また被告人Mは第一審と同じく、控訴審でも「確定的殺意に基づく高度な計画性」を否定し「殺害は被害者の出方次第で、警察に届け出たことを謝罪すれば殺害するつもりはなかった」とする主張を行った。
なお1999年末には控訴審判決に先んじて、1997 - 1998年に検察官が控訴審判決の量刑の無期懲役を不当として相次いで上告した5事件について最高裁の判断が示された。その結果は4件で上告棄却・1件のみ破棄差し戻しとなったが、検察官上告が棄却された1999年11月29日の最高裁第二小法廷判決(国立の主婦殺害事件)では「殺害された被害者が1名の事案でも極刑がやむを得ない場合があることは言うまでもない」と説示されたほか、唯一上告が受け入れられた1999年12月10日の第二小法廷判決(福山市独居老婦人殺害事件・1992年に仮釈放中の無期懲役刑受刑者が強盗殺人を再犯した事例)でも「殺害された被害者数は1名だが、被告人の罪責は誠に重大で無期懲役は量刑不当だ。特に自斟酌すべき事情がない限り死刑を選択するほかない」と判事された。
逆転死刑判決[編集]2000年(平成12年)2月28日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第3刑事部(仁田陸郎裁判長)は第一審・無期懲役判決を破棄して検察側の求刑通り被告人Mに死刑判決を言い渡した。東京高裁は犯行の背景について「被告人Mは出所直後から被害者宅を探し始めた上であらかじめ包丁を購入し、包丁の柄に滑り止めのテープを巻き付けたりしている。一連の事件の経緯・被告人Mの供述などから判断すれば、執念深く強固な殺害意志とともに周到で高度な計画性が認められる」と認定し、検察側の控訴趣意書主張を採用した。また被告人Mの前科・犯罪性行などについても「1976年の殺人前科は女性に対し一方的に『裏切られた』と怒りを募らせ、それが殺意に転嫁した点で本件と類似しているほか、浴衣の腰紐で同事件被害者・甲の首を絞めた点は本件被害者Aに対する強姦致傷と酷似したものである。本件犯行に際しても包丁だけでなく、絞殺用のロープ2本を購入・準備していたことなどに照らせばいずれも『被告人Mが持つ危険な犯罪性行の徴憑』と捉えられるべきだ。罪を重ねるごとに被告人Mの犯罪性行は相当に深化しており、そのきっかけとなった甲殺害について原判決が『20年以上前に起こした衝動的な単純殺人に過ぎない』とのみ評価したことは不当である」と認定した。
その上で犯行の動機について「なんら落ち度のない被害者に極めて理不尽・身勝手な逆恨みの感情を抱き、高度な計画性の下に殺害した本件の動機は、殺害そのものを自己目的としたものである。その動機の悪質さは保険金殺人・身代金目的の誘拐殺人と何ら変わらない」と断じ、本事件の社会的影響については「特異な犯行動機・凄惨な被害結果が報道機関などにより大きく取り上げられ、近隣住民に与えた恐怖感・一般社会に与えた衝撃は甚大だ。犯罪被害者、とりわけ性犯罪被害者に被害申告を躊躇させる悪影響を与えかねないことにも一定の考慮がなされるべきで、『本事件は刑事司法に対する重大な挑戦であり、刑事司法制度の根幹に関わる』という検察官の所論には直ちに同調できないにしても、その意味での社会的影響には大きなものがあって無視できない」と指摘した。また被告人Mの反省の情についても「第一審から控訴審に至るまで客観的事実に反する供述を繰り返している。現時点で実際に被害者の冥福を祈っているとしても、第一審公判で『被害者にも落ち度があった』とする『言語道断というべき責任転嫁の供述』をしている上、殺意を抱いた過程について事実に即した反省をしていないまま述べた謝罪の言葉である。被害者遺族にまったく慰謝の措置を取っていないことなども併せて考慮すると、心底からの真摯な反省の情とは認められない」と指摘した。そして「原判決が死刑選択について消極的に働く事情として挙げた事情はいずれも不十分だ。被害者が1人でも死刑がやむを得ない場合はあり、本件において極刑をもって臨むことはやむを得ない」と結論付けた。
被告人Mには殺人前科があったが、最高裁から1983年に死刑適用基準として「永山基準」が示されて以降では「身代金目的の誘拐殺人・保険金殺人・過去に殺人を犯し無期懲役刑で服役したにも拘らずその仮釈放中に再び殺人を犯した場合」などを除くと「殺害被害者数1人の事件に対する死刑判決」は極めて稀なケースだった。また、事実認定が同一にも拘らず第一審の無期懲役判決が破棄され、逆転死刑判決が言い渡された事例も当時は異例だった。
被告人Mの弁護人は控訴審・死刑判決を不服として2000年3月8日付で最高裁判所に上告した。
最高裁判所第二小法廷(滝井繁男裁判長)は2004年(平成16年)6月14日までに「2004年7月16日に被告人Mの上告審口頭弁論公判を開廷する」と指定して関係者に通知した。
2004年7月16日に最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護人は死刑判決の破棄を、検察官は上告棄却をそれぞれ求めた。同日の弁論で弁護人側は「場当たり的で計画性がなく、被告人Mには強固な殺意もなかった。動機は単なる恨みであり利欲的な動機はない」と主張した一方、検察官は「強固な殺意は明らかで、殺害された被害者数が1人で死刑が確定した他の事案と比べても勝るとも劣らない非道な犯行だ。報復殺人は犯罪を助長させ、治安の根幹を揺るがせかねない」とそれぞれ主張した。その後、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は2004年9月22日までに「2004年10月13日に上告審判決公判を開廷する」と指定して関係者に通知した。
裁判長を務めた滝井は「身勝手な犯行動機は許せないが、被告人Mを目の前でよく見ている一審の判断は重い。死刑以外の選択肢はないのだろうか?仮にこの判決で上告を棄却し死刑判決を確定させれば被告人はこれ以上上訴できない」と悩み続けた末に「上告棄却」の結論を出し、裁判長として判決文(裁判官4人全員一致の結論:上告棄却)に署名した。2004年10月13日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は控訴審・死刑判決を支持して被告人M・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人Mの死刑判決が確定することとなった。同小法廷は「特異な動機に基づく誠に理不尽かつ身勝手な犯行であり、犯行に至る経緯に酌量の余地はない」「犯行は計画性が高く、強固な殺意に基づくものであって、殺傷能力の高い刃物を用いた犯行の態様も冷酷かつ残虐である。被害者の生命を奪った結果は重大で、被害者遺族の被害感情は極めて厳しく、社会に与えた影響も大きい。殺人前科の存在も考慮すれば、死刑の判断は是認せざるを得ない」と述べた。
被告人Mは上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)に上告審判決の訂正を申し立てたが、同小法廷から2004年11月10日付で申し立てを棄却する決定がなされたため、同日付で正式に死刑判決が確定した。保険金など経済的利欲を目的としない被害者1人の殺人事件で死刑が確定した事例は極めて異例だった。
法務省(法務大臣:鳩山邦夫)が発した死刑執行命令により、死刑囚M(65歳没)は死刑確定から3年2か月後の2008年(平成20年)2月1日に収監先・東京拘置所で死刑を執行された。同日には死刑囚M以外にも大阪拘置所・福岡拘置所で死刑囚各1人の刑が執行されたため、計3人の死刑執行となった。また前回の死刑執行時(2007年12月・藤沢市母娘ら5人殺害事件の死刑囚ら)からわずか55日後の死刑執行となったが、これは1993年に後藤田正晴法務大臣が死刑執行を再開して以降の15年間で最短の間隔となった。
法務省は前回の死刑執行にあたり初めて死刑囚の氏名・執行場所・犯罪事実の概要を公表したが、この死刑執行でも同様にMら死刑囚3人の実名などを公表した。
事件から1年となる1998年4月中旬には「東京ウィメンズプラザ」(東京都渋谷区)で被害者Aの友人ら約100人がAを偲んで「わたしたちは忘れない わたしたちは許さない 女性への暴力」と題した集会を行った。
集会では評論家・ヤンソン柳沢由実子が「この事件は女性に対する暴力の普遍的な問題だ」と指摘して「性暴力は性という手段を使った一方的な襲撃だ。身近な人に相談された時は訴えた人の話を信じ、終始一貫して支持することが大切だ。泣き寝入りしたくない女性は裁判などの知識を得たり、住所・職場を変えたりなどの対策も必要だ」と訴えた。また弁護士・中島通子は犯罪被害者の人権を保護する方法について「現在の日本には犯罪被害給付制度以外に犯罪被害者を守る法的措置がなく、被害者が落ち度を責められるなどの『セカンドレイプ』も問題だ。『セカンドレイプ』から被害者を守るために犯罪被害者救済法・性暴力禁止法などを制定し、人権侵害を禁止する項目を作ったりサポートセンターを設立することが望ましい」と提言した。
1997年の警察庁調査によれば、再被害事件は過去10年間に38件発生し、41人が被害を受けていたことが判明した。
この事件を契機として「過去の犯罪被害者に対し、加害者の出所などに関する情報を連絡する制度を充実させるべきだ」という声が上がり始め、事件を重視した警察庁は1997年9月29日午後に開かれた「全国捜査鑑識関係課長会議」で全国の都道府県警察本部に対し「凶悪事件は再被害を視野に入れ捜査し、仮に再被害の恐れが強いと判断された場合には、加害者の出所時期を事前に被害者に通知する場合もある」などの方針を発表した。この方針は「所轄警察署が殺人・性犯罪などを摘発した際、報復犯罪が発生する可能性がある事件を各警察本部に登録し、被害者への警戒活動を行うとともに必要な場合は加害者の出所情報を連絡する」というものだった。検察庁は1999年4月以降に事件の処分結果を被害者に連絡する「被害者通知制度」を開始したが、この時点ではまだ出所情報の提供はされなかった。
この制度はその後、2000年3月19日までに法務省内で検討が開始され、同年9月28日までに翌2001年(平成13年)3月から各地方検察庁で実施されることが決まった。同制度は出所情報の通知を希望する被害者からの申請を前提に、検察庁が法務省の通達に従い刑務所・保護観察所の情報を得て被害者に通知するもので、加害者の実刑判決確定後に希望する事件の被害者・目撃者へ懲役刑などの終了予定時期(年月)などを通知する」こととした。
この段階では提供内容は原則として「出所事実」に限定されたほか「再被害の可能性が高い場合を除き『出所時期の事前通知』はせず、加害者の出所後の住所も教えない。また加害者の更生を不当に妨げたり『被害者による報復・暴力団抗争など新たな紛争』が予想される場合は情報を提供しない」という方針だったが、法務省は2001年7月31日に同制度を拡充して「犯罪の形態・受刑中の加害者の言動などを検討して妥当と認められる場合に限り、被害者本人やその親族だけでなく事件の目撃者・弁護士に対し、必要に応じて加害者の出所予定時期・加害者の居住地も事前に通知する」制度に改め、同年10月1日から新制度に切り替えることを決めた。同制度の利用件数は2002年(平成14年)時点で125件だったが、2003年(平成15年)時点では250件と利用が倍増した。
朝倉喬司は「『被害を通報した人間を加害者が逆恨みして殺す』ということが罷り通れば被害者が届け出を躊躇う風潮につながり、公判で検察官が主張した通り『法秩序が脅威にさらされる』ことになりかねない。警察が被害者の保護についてちゃんと考えていたか否かが問われるが、(被害者をつきっきりで四六時中守ることまではできないにしても)今回の事件の場合はせめて被害者Aに対し事前に引っ越すことなどをアドバイスできなかっただろうか?仮に被害者Aが(事件現場とは)方向の違う場所へ引っ越していたら、おそらくMの調査能力程度ではAの居所を突き止められなかっただろう。非業のうちに亡くなった被害者へのせめてもの供養として、できることから直ちに実行してもらいたい」と述べている。
『西日本新聞』(西日本新聞社)記者は「犯罪被害者の人権を考える」と題した連載特集記事を執筆する目的で本事件被害者遺族への取材を試み、被害者Aの家族の住所を調べた上で手紙を郵送したが返信は得られなかった。その後、記者が公判で死刑を求める意見陳述をした女性の弟(埼玉県在住)に電話取材を試みたところ、被害者Aの弟は「『まだ気持ちの整理ができず仕事にもやっとの思いで出ている状態』なので、弁護士に託した手紙を読んでほしい」と回答し、数日後には以下のように記された「弁護士代筆の手紙」が記者宛に届いた。
被害者の人権を擁護する立場から良い記事が掲載されることを願っていますが、悲しみはあまりにも大きく、それを乗り越えるにはまだまだ長い歳月が必要です。それまでは、ただそっとしておいてほしいという気持ちです辻原登(小説家)は本事件から着想を得て、長編小説『寂しい丘で狩りをする』(講談社)を執筆した。
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高所恐怖症分類および外部参照情報診療科・学術分野精神医学ICD-10F40.2ICD-9-CM300.29テンプレートを表示高所恐怖症(こうしょきょうふしょう)は、特定の恐怖症のひとつ。高い所(人によ...