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日記(にっき)は、個人が日々の出来事を記録した文書である。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅(旅日記、航海日誌)、ある職務(日報)、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。
日記が書かれる主な契機の一つとして、旅の記録がある(これが書物にまとめられると紀行文となる)。仕事であれ、私的な所用であれ、戦争への従軍であれ、特別な出来事の内容、見聞、心覚えを記したものとして日記は書かれた。古代ローマのカエサルがガリア征服の経過を記した『ガリア戦記』がその有名な例である。
日本でも、遣唐使の随行日誌など、旅の日記(紀行)の伝統は古く、円仁の『入唐求法巡礼行記』のように世界的に著名な紀行が、9世紀に生まれている。
平安時代、9世紀末の日本では、国家体制の変化のもと、儀式化した政務のために王朝貴族たちは、外記日記など国家の記録とは別に私的な日記を作成し始める。この貴族たちの日記作成の流行をもとに、女性たちの回想録的な日記文学が生まれてきたと考えるべきであろう。その背景には、仮名文学の成熟、浄土教の発展による内省的な思考の深化などが認められる。紀貫之の『土佐日記』を始めとして『蜻蛉日記』、『紫式部日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』、『讃岐典侍日記』などの平安時代の女流日記や『弁内侍日記』、『十六夜日記』などがその代表例である。
男性貴族の日記の多くは漢文で書かれており、歴史学の用語として漢文日記とも呼ばれるが、近年これら儀式のための先例のプールやマニュアルとして作成された日記を「王朝日記」として新たに概念化する学説も出されており(参考文献;松薗2006)、平安時代の日記文学を安易に王朝日記とネーミングすることには問題がある。
中世までは、王朝貴族(公家)・僧侶にほぼ限られていた日記も、中世末から近世に入ると、階層的に多様化し、量的にも格段に増加していく。
近代に入ると、西洋の個人主義などの影響を受け、プライベートの個人的秘密を吐露するために書かれたものも出てくる。石川啄木の『ローマ字日記』などである。実体は私小説、またはフィクションであっても、表現手段として日記の形式を借りることもある。
中学生などの交換日記や学級日誌などは、手紙の世界と重なっていると考えられる。今日では、Weblog(ブログ)やインターネット上のレンタル日記サイトにおいて、不特定多数に読んで貰うことを前提として、多くの公開日記が書かれている。これら新しい日記については、情報倫理の観点からも議論があり、新たな分析が必要であろう。
日記は日本の歴史を解明するために欠かすことのできない史料の一つとして、同じく古くから数多く残されている古文書などとともに重要視されてきた。しかし、だからといって古来から残されてきたそれら日記の、日本における文化史的な位置付けや、社会史的な機能といったものが明らかにされてきたかというと、そうではないようである。
このような意見については、例えば『土佐日記』や『蜻蛉日記』などを例に挙げて反論される者も多い。確かに古典として認められている、これら平安時代の日記については実に数多くの研究がなされている。しかし、これらの少数の著名な日記は、周知の通り作者が同時性をもって記していったものではなく、後のある時期に一つの作品として仕上げられたものである。また、同時代に作成された日記のごく一部に過ぎないはずで、これらの作品を花開かせた数多くの無名の日記群が、これらの土壌として存在する。
河盛好蔵は「日記について」という文章で、「私たちが日記をつけておいてよかったと思うのは、自分の古い日記を読むとき」であり、そのことによって「自分の人生について多くのことを反省させ」ると述べている。また、ある人の説として日記は三つの会話、つまり「自己自身との会話、友人や肉親との会話、偉大な創造者との会話」から成り立っているとして個々の場合について例を挙げ説明を試みている。
日本人は日記好きとよくいわれる。例えば、日記専門の出版社があり、年末になると多種多様の日記が書店の店頭を飾るのは日本だけということである。この点、多田道太郎・加藤秀俊の対談による「日記の思想・序説」では、その理由として個人的な会話が下手なことや、欧米諸国と異なり、夜寝る前の神に対するお祈りがないことなどが挙げられているが、原因はそのような表面的なものではなくもっと深いところにあると考えられる。この点について最も印象深い指摘は、ドナルド・キーンが『百代の過客ー日記にみる日本人ー』の序の中で触れられている第二次大戦中の日本兵の日記(米軍ではつけることが禁じられていた)の話である。ここでキーンが戦場に遺棄された日本兵の日記を翻訳する職務の経験から達せられた結論の一つは、「日記を付けるという行為が、日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位を占めている」という。
近代以前の日本の史料の代表的なものとして挙げられるのが、古文書と日記を中心とする記録類である。
日本において記録に残る最古の個人の日記は、遣唐使として唐に渡った伊吉博徳によるもの(『日本書紀』斉明天皇紀)とされるが、航海日誌、もしくは遣唐使としての職務の報告書の材料として作成された可能性が強く、個人の日記とは見なさない方がよいと思われる。現象的には、六国史の編纂が絶えてしまった10世紀以後に、天皇や貴族の日記が出現し、「発生」したように見えるが、もう少し前の時代にさかのぼって想定すべきであろう。朝廷の政務や行事の儀式化が進行し、それらを殿上日記や外記日記などの公日記で記録する一方、それらを上卿などの立場で運営・指導する廷臣や皇族たちの間で、次第に習慣化していったものと考えられ、初期のものとして、例えば、宇多・醍醐・村上3代の「三代御記」などの天皇の日記や重明親王の『吏部王記』などの皇族の日記、藤原忠平の『貞信公記』、藤原実頼の『清慎公記』、藤原師輔の『九暦』(九条殿御記)など上級貴族の日記が知られている。平安中期以降は、摂関家や小野宮流・勧修寺流藤原氏、高棟流平氏などが代々多くの日記を残しており、本来儀式のためのメモであった実用品としての日記が、12世紀に入ると「家」の日記化(家記の形成)し、さらに別の機能が付加され、中・下級官人も含む多くの貴族たちによって記されることになったと考えられる。中・下級官人の家柄で代々当主の家記を所持する家を特に「日記の家」と称した(『今鏡』など。また、実際には天皇家や摂関家にも「日記の家」としての要素があった)。
今日伝わる公家の日記の書名の多くは没後に付けられたものであり、執筆者自身は「私記」(藤原実頼『清慎公記』・藤原資房『春記』など)や「暦記」(藤原実資『小右記』など、具注暦に日記を記したことによる)などと呼ぶ例が多かった。自ら命名した日記の名称が後世に伝わるのは、後奈良天皇『天聴集』や中院通秀『塵芥記』など少数である。多くは執筆者の諱の偏旁を採って重ねたり、諡号・官職・姓氏・居所やこれらを合わせたものが、後世の人によって命名されたのである。従って、1つの日記に複数の名称が用いられる事例も多く、藤原実資の日記は彼が「“小野宮家”の“右府(右大臣)”」であったということから、『小右記』・『野府記』という名称が並存し、更に祖父・実頼の『清慎公記』の別称『水心記』より、『続水心記』とも呼ばれている。また、平信範の日記は、彼の諱の偏から採った『人車記』(信→人・範→車)と兵部卿の官職と諱の一字を組み合わせた『兵範記』、更に「洞院(地区名)に住む平氏」という意味の『平洞記』という呼称が併称された。
当時、紙は貴重であったために、日記は具注暦などの暦の余白や裏側に記載したり、反故になった紙の裏側を用いられた例(紙背文書)が多い。また、これを上手く利用したものとして、伏見宮貞成親王の『看聞日記』のように自らの和歌・連歌の書付の裏に日記を記して歌と日記の両方の保存を図ろうとした例や万里小路時房の『建内記』のように出来事に関連して遣り取りされた手紙や文書の裏側にその出来事に関する日記を綴った例もある。また、日記の著者が後日になって改めて文書を整理して清書した例(『後二条師通記』・『兵範記』など)もある。なお、子孫が日記を書写・清書する例もあったが、その場合重要とは思われない部分が省略される場合はあるものの、原文に忠実に書写されることが多く、写本間の異同は大きくはない。また、著者あるいは子孫が日記の内容を検索するために目録を作成したり、分野ごとに分けた「部類」と呼ばれる別本を作成することもある。なお、藤原実頼の『清慎公記』の「部類」を作成する際に孫の藤原公任が原本を切り貼りしてしまったために全巻が紙屑と化してしまうという出来事があり、従兄弟の藤原実資が激怒したという逸話がある。当時、「部類」作成時には一旦写本を作成して、その写本を切り貼りするのが常識とされ、公任がそれに従わず原本を破損させたために実資を激怒させたのであるが、実際には日記を裁断されて作られたとみられる掛軸や帖(「古筆切」)も存在しており、その過程で散逸した日記も少なくなかったとされている。
平安時代には公家と深いつながりのあった僧侶の日記も登場し、中世に入ると寺社の日記が発生するようになる。寺院の日記としては『東寺執行日記』・『大乗院寺社雑事記』・『多聞院日記』、神社の日記としては『鶴岡社務日記』・『春日社記録』・『祇園執行日記』などがある。更に鎌倉時代には武家の日記も出現し、『吾妻鏡』は近年では御家人などの日記を集成して作った記録集であったと考えられている。武家の日記は公家や僧侶のそれよりも伝わる数は少ないものの、室町時代の蜷川親元『親元日記』や相良正任『正任記』、大館尚氏『大館常興日記』、戦国時代から江戸時代初期にかけての上井覚兼『上井覚兼日帳』や梅津政景『梅津政景日記』など優れた日記も伝わっている。
江戸時代に入ると、学者や庶民(商人や名主など)の間にも日記を書く風習が広まり、武家の日記とともに多く残されるようになった。
近代以前の日本の主な日記には次のようなものがある。
日本の近現代のものとしては、次のようなものがある。
また、原敬や佐藤栄作の日記は、政治史の資料として没後に公刊されている。
日記という記録行為は、当然日本だけに限られた存在ではない。文字とそれを記す紙(羊皮紙や板、竹簡などでもよい)、そして時間の概念が存在し、その日の出来事を記録することに何らかの意義を持った社会ならば、いかなる社会でも記されていた可能性が強い。しかし日記がそれぞれの国において、今日いたるまで歩んだ道のりはそれぞれに異なる。このことがそれぞれの国における日記の文化としての位置づけに変化を与えている。そのため他国の日記の文化史的な考察は、日本の日記についての理解を深めるための一手段となり得るであろう。しかし日本以外の諸国の日記、とくに古い時代の日記についてはいまだ調査不足である[誰?]。どの国にどれくらい昔から日記が記されていたのか、日記についての関連研究の有無など、詳細は不明な点が多く、今後の課題である。ここでは知り得た範囲において、諸外国の古い日記を紹介しておこう。
ヨーロッパでは、早くから紙を使用していた中国や日本と異なり、高価で希少な羊皮紙しかなかったため、私的な記録である日記の普及には限界があったと考えられる。つまり実用性のみで記される帳簿や裁判記録の類に、それらの形態を外見上保持しながら、その本来の記載目的を越えた内容を記せる余裕を与えた。それらの日記への進化の契機をもたらしたのは、紙の普及であると考えられる。
日記の用紙となる紙は、ヨーロッパでは、まずイタリアやスペインに12世紀頃、アラブ商人の手を経て伝えられた。イタリアでは当初マルケ州ファブリアーノで製紙業が発達した。その後パドヴァやジェノバなどの各地に広がり、主としてロンバルディア商人によってヨーロッパ各地に広められていった。13世紀の後半から14世紀の初めにかけて、フランスや南ドイツ・スイスなどで各種の記録簿に紙が使用されるようになった。やがて各地で紙の需要が増大する中で、イタリア以外でも紙の生産が始まり、技術的な側面ではかなりの進歩を遂げ、製紙業自体は大きく発展していった。14世紀から19世紀にいたるまで、紙の主要な材料はあくまで古着などの“ぼろ”であり、その需要と供給がうまくいかず、長い期間にわたって材料不足にみまわれた。例えばフランス革命の頃には古紙の再利用が大規模に行われ、かなりの古文書が失われてしまったという。この当時たとえ日記が記されても、記主の死後よほど日記自体に重要性が認められなければ反古として潰されてしまったものと考えられ、ヨーロッパに古い日記が残りにくいのは、そういった背景も考慮する必要がある。
フランス[編集]ヨーロッパの諸国ではこの国の日記が日本でもよく知られている。ベアトリス・ディディエ『日記論』(松籟社、1984年、32ページ)によれば、この国では「都市と市民階級の勃興期」である15世紀以降、日記が数多く出現するとのことであるが(同書の56ページでも、日記は15世紀以前には存在しないと述べている)。以下のようにわずかながら14世紀段階のものも存在しているようである。また、昔のフランスでは"livre de raison (raisons)"(ここでのlivreは「台帳」、raisonは「勘定」の意味)というものもあって、元々は出納帳(あるいは大福帳)であるが、それに加えて家長が身内の冠婚葬祭について記録したり、自分の考えを記載するものであった。下のニコラ=ヴェルソリ(Nicolas-Versori)の家族日誌も"livre de raison (raisons)"である。
根占献一「イタリア・ルネサンス期の日記―西欧の古記録が語るもの―」(別冊歴史読本事典シリーズ『日本歴史「古記録」総覧』上巻、新人物往来社、1989年11月。根占献一『ルネサンス精神への旅』創文社、2009年所収)によれば、近代西欧の日記の起源は、もともと帳簿であった、リコルダンツェあるいはリコルディ(いずれも「回想」の意)とよばれる、14世紀から16世紀にかけて書かれた私的な覚書にあるといわれる。それらは、13世紀末に市民であり商人が随時書き留めておいた家の記録(または会社の収支決算帳簿)にはじまり、主として土地と金銭にまつわる記事、すなわち不動産の売買や賃貸借、金の一般的貸し借りや日々の諸経費が記録されるとともに、家族の出生・結婚・死亡の日時などか記された。婚姻の記事も婚資に関係し、財産の相続に関係する製紙の記録とともに経済的な意味合いが強いものである。しかし、当時から算術的で冷めた筆致のそれらの帳簿にまったく個人的な覚えが記入されはじめ、次の世紀の初めには、自分の生い立ちを記しているものが出、ここに自伝的要素の芽生えがうかがえるという。
中野記偉(「日記の文学と文学の日記」 )によれば、日記(diary)という語の英語の文献における初出は文芸復興期の1581年であり、元来丸太の意味であったlogという語に、航海日誌の意味が加わったのもほぼ同じ頃であるとのことである。さらに日記の発生について「日記が人間記録として明確に出現するのが、近代人の誕生と時を同じくしていることに意味があろう。自分の目でものを見て、自分の意思で生き、その結果については自分が責任をとるといった習慣の発生は大きな関係があるといわねばならない。したがって日記をつける行為は自我の覚醒とも密接に関連し合うのである」と述べられている。
現存する英語で書かれた日記の最も古いものという。記主は1537年に生まれ、9歳で父ヘンリー8世の跡を継ぎ、15歳で死去。
以上のわずかな例からであるが、現存の日記、特に16世紀以前のものを記した記主の社会階層としては、聖職者や教会関係者が多く、またイタリアでは商人の日記も多いようである。これは当時のヨーロッパ社会において文字を自由に使用できる階層を反映したものと考えられる。これらの階層以外の人々によって日記が記されるようになるのは、17世紀以後であり、日記がつけることが一般の人々の生活習慣として広まるのは、18世紀末以降である。
その他[編集]他に西洋の日記には次のようなものがある。
日記形式のフィクション作品
ヨーロッパの日記は、日本において日記が作成された時代より後に出現してくるのに対して、中国の日記は、直接的・間接的に日本の日記の出現に影響を与えた。以下、玉井幸助『日記文学概説』、曾沢太吉「『日記』は果して中国からの借用語か」(『国語国文学』27-10)によって、中国の日記について説明していこう。
中国における「日記」の語の初見は、後漢の時代に活躍した学者王充の著した『論衡』の巻十三効力篇に「夫文儒之力、過於儒生、況文吏乎、然能挙賢薦士、上書日記也、能上書日記者文儒也」とあるものである。ここにみえる「日記」について、玉井は「学者が研究の為に資料を蒐集して之を整理し記述したもの」として、後代中国において主として日記と呼ばれた「学者が研究の為に抄録した書及び門下の修学に資する為に記録した書、更に村塾に於て童蒙に課する教科書の如きもの」の起源とされている。玉井によれば、以後中国において日記の名を持って著された作品は、これらのものの他は随筆・紀行の類が中心であり、日次記としての日記は日本に比較して極めて数が少ないという。
以上のように中国では、「日記」という語自体は古い起源をもち、日本における日記とは用法がかなり異なり、様々な内容のものを含んでいるが、それでも実際に作品が残され始めるのは、「日記」の語の出現から約千年以上たった宋代以後のようである。特に日次記としての日記で最も古いものは、宋代の詩人黄庭堅の『宜州家乗』で、彼の没年である崇寧4年(1105年)正月元日から没する前の月である8月29日までの日記である。次いで元の郭天錫日記で、至大元年(1308年)8月27日から翌年10月30日までの日記である。以後明代では「日所歴夜必記之」と冒頭に記された馮夢禎の快雪堂日記、李日華の味水軒日記などがあり、これらはいずれも1年乃至10数年くらいの比較的短いものが多い。清代になると、残存数も増加するとともに生涯にわたって記される大部のものも出現してくる。
中国の場合、このような個人によって成された日記に関する傾向は、歴史の表面に現れてきた時点を比較するかぎり、前節で説明したヨーロッパのそれに近いように感じられる。また曾沢もその論文で指摘されているように、時間的にも内容的にも日本の日記の直接の起源とはなり得ない。それでは日本の日記は、紙(それも中国から元号などとともに移入された暦)に漢字で記されながら中国のそれとは無関係に誕生し発達した文化なのであろうか。この点、曾沢が述べているように、中国で創出された起居注について説明する必要があろう。
中国では、周代まで遡れるかは疑問にしてもかなり古い時代から、国家・諸侯などには、その言行を記録する専門の官職(史官)が設置されていた。起居注とは、そのような史官によって記録された皇帝の言行の記録であり、天命を受けた皇帝(天子)の動きはそのまま天下国家の動きであるとする中国古来の思想が、その作成の背景である。国家の制度としては隋・唐の時代に完成した。かなり大量に作成されたはずであるが、宮廷に保存されたまま火災や王朝の滅亡とともに消滅したものも多く、この当時のものは原本のみならず写本でも現存するものはほとんどない。ちなみに現存最古のものは明代万暦・泰昌・天啓三代のものであり、それらは日次記の形態をとっている。ただし平安時代には、一部日本にも伝来していたらしく、平安中期に作成された『日本国見在書目録』には、起居注家という項目に「晋起居注」三十巻・「大唐起居注」三巻があげられている。
隋・唐以後の中国の歴代王朝では、これら歴代皇帝の起居注などを材料として実録(天子一代の事蹟を編年体で記録したもの)が編纂され、さらに次の王朝の時に正史にまとめられた。日本でも、単に書物としての起居注ばかりでなく、律令制度その他様々な文物の移入とともに中国の歴史編纂の方法を学び、国家組織の整備に伴い、国史の編纂にも着手し始めた。それとともに、文書行政を根幹とする国家機構の内部には、記録を専門とする官職・組織が設置されていったはずであり、それらの範となったのは中国の史官の制度であっただろう。
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