ハリー・S・トルーマン

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ハリー・S・トルーマンHarry S. Truman
アメリカ合衆国

第33代大統領

任期1945年4月12日 – 1953年1月20日
副大統領不在(1945年 - 1949年)

アルバン・W・バークリー(1949年 - 1953年)

アメリカ合衆国

第34代副大統領

任期1945年3月4日 – 1945年4月12日
元首フランクリン・ルーズベルト
アメリカ合衆国

ミズーリ州選出上院議員

任期1935年1月3日 – 1945年1月17日
出生1884年5月8日

アメリカ合衆国 ミズーリ州ラマー

死去1972年12月26日(88歳)

アメリカ合衆国 ミズーリ州カンザスシティ

政党民主党
配偶者ベス・トルーマン
子女マーガレット・トルーマン
署名
ハリー・S・トルーマン

Harry S. Truman

所属組織ミズーリ州兵

アメリカ陸軍アメリカ陸軍予備役]] (1920 - 1953)

軍歴1905-1911

1917-1919

最終階級少佐(第一次世界大戦)

大佐(陸軍予備役)

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ハリー・S・トルーマン(英語: Harry S. Truman、1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。上院議員、第34代副大統領、第33代大統領を歴任した。

フランクリン・ルーズベルトの死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格した。白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)への加入歴もあるが、全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領である。第二次世界大戦の終了から冷戦の始まりに関与し、NATO、CIA、NSA、ペンタゴンを創設した。日本への原子爆弾投下について、投下書類(投下命令書)を承認したとされているが、トルーマンによる正式な承認は記録されていない。英語での発音は「トゥルーマン」に近い。


目次

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加し士官となり、フランスで大戦の休戦時まで、大尉として砲兵部隊を指揮した。戦争終結後、インデペンデンスに戻り長年の恋人ベス・ウォーレスと1919年に結婚した。間もなく一人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いてクー・クラックス・クラン(白人至上主義団体KKK)の支援を得るため同団体に加入した。しかしKKKが提示したカトリック教徒とユダヤ人の雇用の禁止に反対し、すぐに脱退した。衣類販売業を共同で行った戦友であり、クラーク・クリフォードとともに後のトルーマンのイスラエル建国の承認に大きく役割を果たすユダヤ人のエドワード・ジェイコブソンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。

カウンティ・ジャッジ[編集]

1922年にトルーマンは、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受け、ジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく、他の2人のカウンティ・ジャッジとともに郡政府の責任者となる行政官)に選任された。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。

カウンティ・ジャッジとしての主な業績の一つは道路の改良であった。トルーマンは計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。

政治経歴[編集]

1934年にトム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは4万票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。

上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。

再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、第二次世界大戦に突入したアメリカにおいて、トルーマンの知名度は全国的に上昇した。

1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上し、党大会によって指名された。ルーズベルトは戦時指導者として高い評価を受けて先例のない4選を果たし、それに伴いトルーマンは副大統領に就任した。

しかし、重い障害を持ちながら戦争中を通じて世界中を飛び回り、体調が悪い中で戦争終結に向けてヤルタ会談に参加するなど、心身に負担をかけ続けたルーズベルトが1945年4月12日に急死しトルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期はわずか82日間であった。トルーマンは就任初日の気持ちを自身の日記に「私の肩にアメリカのトップとしての重荷がのし掛かってきた。第一、私は戦争の詳細について聞かされていないし、外交にもまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ。」と記していた。スターリンは前任者のフランクリン・ルーズベルトと対極的な、威厳も貫禄もない粗雑な小物が突如として大統領の地位を獲得したことに愕然とし、アメリカへの不信を募らせることになった。合衆国副大統領時代のトルーマン。ピアノの上の女性は、女優のローレン・バコール。1945年2月10日にワシントン D.C. のナショナル・プレス・クラブで撮影された写真。トルーマンはピアニストになるのが夢であった。

大統領職[編集]第二次世界大戦[編集]

大統領に就任してから終戦にかけてのトルーマンは外交政策に没頭した。前述の通りトルーマンは外交経験が全くない上に、ルーズベルトとはわずか1度しか会っておらず、戦争の進捗や内部の情報は全く聞かされていなかった。この当時ヨーロッパ戦線ではナチス率いるドイツが降伏間近、アジア・太平洋戦線でも連合国軍が日本を追い詰め、戦争をどう終わらせるか舵取りが求められていた。

トルーマンが大統領に就任した時に知らされたのが、ヤルタ会談での秘密協定と新型爆弾(原子爆弾)の開発状況であった。

また、戦後の国際秩序を決めるソ連など連合国との駆け引きがトルーマンの肩にのし掛かっていた。1945年7月にはポツダム会談に参加した。7月26日にはアメリカ、イギリス、中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには、日ソ中立条約を結んでいるソ連抜きで戦争に勝利したい意図があった。

1945年7月に、国務長官となったジェームズ・F・バーンズは、天皇制の護持が容れられれば日本には終戦交渉の余地があるとする国務次官・ジョセフ・グルーら三人委員会とは正反対の路線であり、三人委員会の提言を独断で黙殺し、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持し、原爆の使用を強く大統領に進言した。「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・マックロイ(英語版)に対して、「それはアメリカの弱さを示すものだ、原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ」と述べる。

戦争に勝てないと判断した大日本帝国政府は、7月12日、ソ連にいる日本特命全権大使(佐藤尚武)宛に、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電した。そのパープル暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。トルーマンは、大日本帝国政府が和平の動きに出たことを知っていたことになる。ポツダム入りした米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分」との結論を出した。しかしトルーマンは、その結論を信用しなかった。

バーンズは、原爆の力を使えば、ソ連に加勢してもらわなくても、本土上陸作戦の前に日本を降伏させることができると考えた。もしそうなれば、戦後の世界でソ連の力を抑えることもできるし、ベストの結果となろう。しかしこのタイミングで日本の降伏条件を緩和した場合、日本が降伏してしまい、原爆投下の機会を逸することをバーンズは恐れた。そこで「降伏条件の緩和で日本の降伏を促進する」という路線については「原爆投下までは棚上げすべし」とトルーマンに説き、大統領を味方につけることに成功した。こうして降伏条件を緩和することで、日本の降伏を促進すべしと説くグルーやスティムソンの陣営と、原爆を投下し、その威力を示すまでは、降伏条件を緩和すべきでないとするバーンズとトルーマンの陣営とにトルーマン政権は分裂することになった。

スティムソンは代表団員から外されていたにもかかわらず、別便のマルセイユ行き陸軍輸送船に乗り、ポツダムに向かった。ポツダムでトルーマンに再会したスティムソンは、天皇制の存置を保証する一文を復活させるように説得を試みた。しかしトルーマンは頑として応じず、スティムソンに対し「気に入らなければ荷物をまとめて帰ったらいい」とまで言い放ったという。

トルーマンは、7月17日にソ連のヨシフ・スターリンと事前打ち合わせをした際、スターリンからソ連が(ヤルタ会談での密約通り)8月15日に対日宣戦布告すると聞かされた。その日トルーマンが妻に書いた手紙では、「戦争はこれで一年以内に終わるであろう」と安堵の気持ちを述べていた。しかし、トルーマンは、7月16日のトリニティ実験の詳細結果を聞いたときに態度を一変、ソ連に対して強硬路線をとるようになった。

トリニティ実験から8日後に、陸軍長官のヘンリー・スティムソンがトルーマンのもとを訪ね、京都を原子爆弾投下の目標から外すように言ってきた。マンハッタン計画の責任者である、レスリー・グローブスらが一般市民が数多くいる京都を目標として検討していたことを憂慮したものである。スティムソンは、かつて京都を二度訪れたことがあり、原爆を投下すれば数多くの一般市民が犠牲になることを知っていた。トルーマンの7月25日の日記には「原爆の投下場所は軍事基地のみに限る」と書いてあった。

しかしその後、軍から送られてきた目標選定書に最初に書かれていたのが広島で、そこには広島は軍事基地であると書いてあった。トルーマンは広島について調べる暇がなかった為、京都と広島を勝手に拡大解釈し、広島に多くの一般市民はいないと思いこんでしまった。その結果トルーマンが広島を外すことはなかった。7月24日のポツダム会談でチャーチルは、1944年9月にトルーマンの前任のルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。7月25日に、アメリカ軍が起草された原爆投下指令書が発令された。

この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「アメリカが世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを図られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。こうしてトルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化し、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導きアメリカ将兵の命を救った大統領」という評価が定着している。

対ソ・対中政策[編集]

日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンは南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする案をトルーマンに申し入れていたものの、トルーマンはこの提案を拒否した。

第二次世界大戦後、スターリン率いるソ連が東ヨーロッパを中心に勢力を拡大しているということに気付いたトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによって北大西洋条約機構(NATO)を設立してヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。トルーマンの基本方針は東西冷戦の開始に伴う共産主義封じ込め政策だったが、ソ連と同じ共産圏ながらスターリンと対立していたユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー政権には軍事援助と経済支援を行った。また、国家安全保障法の制定によってアメリカ国家安全保障会議(NSC)、アメリカ中央情報局(CIA)、アメリカ国防総省を創設して冷戦時代における対外政策の決定に必要な各省の情報収集活動を統合した。

アメリカは蔣介石政権崩壊・中国共産党拡大防止対策を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、双十協定を仲介するなど国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ローズヴェルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日、対中戦後政策に関する包括的な以下の公式声明を発した。その内容は、⑴中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立。⑵中共軍の国民党軍への編入。⑶安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求する。⑷以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用すること。以上の4つから成り立っていた。

しかしルーズベルトが大きな支持を与え、自らの利権もあり親密な関係を保っていた中華民国の蔣介石との折り合いが悪く、蔣介石は後に国共内戦を始めてしまう。トルーマンは8月10日に蔣介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し再度、中国国民党と中国共産党の政治的和解こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならば、アメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた。

さらに12月18日「対中政策」を発表し、アメリカは中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助するだけであるとして、国民党と共産党の和平を仲介させていたジョージ・マーシャル将軍の召喚と中国の内戦に関わる一切の行為からのアメリカの撤退を表明したのであり、アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった。1947年に入るとマーシャル・ミッションの失敗によって、中国の「大国化」が事実上失敗したことが明らかになりつつあった。

アメリカは失敗の原因として蔣介石の率いる国民党政権の無能や腐敗を指摘し、中国問題に距離をおき、後に蔣介石率いる国民党への支援を事実上断ち切った。その代わりに、国務省は中国の代わりとなる国家を探し始め、アジアの経済発展における日本の重要性が強調されるようになる。その結果、ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる共産党が国共内戦に勝利し、1949年に中華人民共和国が設立され、蔣介石は台湾に遷都することとなった。

トルーマン政権は蔣介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。1950年1月5日には台湾不干渉声明を発表していたが(後にアチソン・ラインとして定義される)、この頃になると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったとの批判(中国の喪失論)が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、蔣介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。朝鮮戦争開戦から2日後の同年6月27日に台湾海峡の中立化を名目に第7艦隊を派遣した。

再選[編集]

朝鮮戦争時、極東情勢について演説・マッカーサー解任の必要を述べるトルーマン、世界通信より朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン

1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。

トルーマンの敗北が広く予想されたが、トルーマンは猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。

朝鮮戦争[編集]

2期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や当時、人種差別に肯定的な立場だった民主党保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。

国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーによる仁川上陸作戦と、その後の国連軍の猛攻を受けて金日成は中華人民共和国に事実上亡命して韓国に侵攻していた北朝鮮の朝鮮人民軍は壊滅的な状態であり、戦争は北朝鮮の消滅で終結するかと思われたが、中華人民共和国から義勇兵と称する中国人民志願軍の本格参戦を受けて国連軍はもとの38度線近くまで押し返された。

シビリアンコントロール[編集]

マッカーサーは、戦況の膠着状態を打開すべく1950年11月に中国大陸への核攻撃を主張するも、日本への原爆投下とは異なり、中華人民共和国との本土決戦は中ソ友好同盟相互援助条約を結んでいるソ連との核戦争を招いて第三次世界大戦が起きる可能性もあることだけでなく、単なる「軍人」でありながら、自らの範疇を超えて指導者のように主張するマッカーサーを危険視し解任した。

これは後に「シビリアンコントロールの模範例」として称賛されることもあったが、結果的にトルーマンの支持率に大きく影響した。中華人民共和国への弱腰姿勢、朝鮮戦争の休戦協議の停滞、ベトナムのフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。

首席補佐官[編集]

1946年にアメリカ合衆国大統領首席補佐官を創設した。ジョン・スティールマンが任命された。

ブレア・ハウス[編集]

他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られている。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスとなった。

トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの急進的なナショナリスト、グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。トレソーラは警察官3名を銃撃したが射殺された。銃撃を受けた警察官の1名は病院で死亡した。コラッツオは負傷したが身柄を確保され、裁判後に服役した。

内閣[編集]
職名氏名任期
大統領ハリー・S・トルーマン1945年 - 1953年
副大統領不在1945年 - 1949年
アルバン・W・バークリー1949年 - 1953年
国務長官エドワード・ステティニアスフェアディール政策1945年
ジェームズ・F・バーンズ1945年 - 1947年
ジョージ・マーシャル1947年 - 1949年
ディーン・アチソン1949年 - 1953年
財務長官ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニアフェアディール政策1945年
フレデリック・ヴィンソン1945年 - 1946年
ジョン・スナイダー1946年 - 1953年
陸軍長官ヘンリー・スティムソンフェアディール政策1945年
ロバート・ポーター・パターソン1945年 - 1947年
ケネス・クレイボーン・ロイヤル1947年
国防長官ジェームズ・V・フォレスタルフェアディール政策1947年 - 1949年
ルイス・A・ジョンソン1949年 - 1950年
ジョージ・C・マーシャル1950年 - 1951年
ロバート・A・ラヴェット1951年 - 1953年
司法長官フランシス・ビドル1945年
トム・C・クラーク1945年 - 1949年
J・ハワード・マクグラース1949年 - 1952年
ジェームズ・P・マクグラネリー1952年 - 1953年
郵政公社総裁フランク・C・ウォーカー1945年
ロバート・E・ヘネガン1945年 - 1947年
ジェシー・M・ドナルドソン1947年 - 1953年
海軍長官ジェームズ・V・フォレスタル1945年 - 1947年
内務長官ハロルド・L・アイクス1945年 - 1946年
ジュリウス・A・クルーグ
オスカー・L・チャップマン1949年 - 1953年
農務長官クロード・レイモンド・ウィッカード1945年
クリントン・プレスバ・アンダーソン1945年 - 1948年
チャールズ・フランクリン・ブラナン1948年 - 1953年
商務長官ヘンリー・A・ウォレス1945年 - 1946年
W・アヴェレル・ハリマン1946年 - 1948年
チャールズ・W・ソウヤー1948年 - 1953年
労働長官フランシス・パーキンス1945年
ルイス・B・シュウェレンバック1945年 - 1948年
'モーリス・J・トービン1948年 - 1953年

大統領退任後[編集]

ジョンソン大統領と共にメディケア・ビルの署名を行うトルーマン夫妻、1965年7月30日退任時には、収入がなくなり経済的に困窮したことから大統領の年金制度が創設された。トルーマンはワシントンD.C.からミズーリ州インデペンデンスの自宅に戻った後、数多くの講演を行い、回想録を執筆した。

1964年、自宅バスルームでの転倒事故で半身不随になり、大統領図書館で毎日の仕事を継続することが困難となった。1972年12月26日午前7時50分(日本時間午後10時50分)ミズーリ州カンザスシティにて死去(88歳没)した。遺体は28日に大統領図書館の庭に埋葬された。

当時アメリカはベトナム戦争とウォーターゲート事件で揺れ動いていたが、トルーマンは偉大な元大統領としての評判を受けた。ポップ・グループ「シカゴ」のロバート・ラムは死を悼み、トルーマンについての歌「Harry Truman(邦題は「拝啓トルーマン大統領」)」を書いた。なお、同曲のシングルはアメリカのビルボードホット100で最高位13位を記録している。

ニミッツ級航空母艦の8番艦ハリー・S・トルーマン(USS Harry S. Truman, CVN-75) はトルーマンの名に因んで命名した。

日本への原爆投下に関して[編集]

批判[編集]

原爆投下強硬派であるバーンズに同調してトルーマンが原爆投下を承認した事に対して、当時のアメリカ一般国民の支持率は85%だったが、トルーマンと政治的に対立する立場だった共和党や民主党和平派からは酷評があったという。

原爆投下に対する批判のコメントについては『日本への原子爆弾投下#アメリカ側の原爆投下に対するコメント』を参照。

ハーバート・フーヴァーは『裏切られた自由』で日本への原爆投下は「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を、疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を、示していた。これはアメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」と批判している。

ドワイト・アイゼンハワーは原爆投下に否定的なコメントをしたとされる。アイゼンハワーが原爆投下に反対した理由は『第一は、日本は降伏する準備ができていたので、あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第二に、アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかったからだ』という理由である(しかし、アイゼンハワーは大統領任期中の1953年に、自身の政権下で被爆地広島に原子力発電所を造る案が浮上した際に「原爆を投下したことへの罪悪感を示すことになる」という理由で反対している。)

大統領主席補佐官でアメリカ海軍提督だったウィリアム・リーヒの回想録には、天皇の地位保全さえ認めれば日本は降伏する用意がある事、東郷茂徳が採った日本がソ連を仲介者とする和平工作を依頼していた事を意図的に無視したことを批判しており、「アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない」と述べている。またリーヒはトルーマンに対し、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見していた。

海軍長官のジェームズ・フォレスタルも、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルも、陸軍次官補のジョン・マックロイも無警告の原爆投下には反対をしていた。海軍作戦本部長のアーネスト・J・キングも反対をしていた。1945年シカゴ大冶金研究所で7月12日、原爆の対日使用に関するアンケートがあった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書 (Szilard petition) を提出したが、原爆投下前に大統領に届けられることはなかった。しかし実際には、レスリー・グローブス陸軍少将らが請願書を手元に置き、大統領には届かないように防害した。

ジョセフ・グルー国務次官はソ連に対する威嚇のために原爆投下を強行に主張するバーンズと正反対の路線であった。タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。

映画監督のオリバー・ストーンは、トルーマン政権内では多くの軍幹部が、空襲を受けて疲弊し、降伏寸前だった日本に原爆を使っても意味がないと進言していたが、それでも耳を貸さなかったのは、対日参戦へと動いていたソ連を牽制するためではなかったのかと批判している。

オリバー・ストーンとともに『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』を手掛けたピーター・カズニック歴史学教授によると、年配の世代の人たちはトルーマン大統領は英雄だったと信じているのは「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」という「原爆神話」を信じているためであり、同教授が講演で、第二次世界大戦当時の7人の米軍最高幹部のうちの6人までが原爆投下は不要か道徳的ではないと言っていたと話すと、これを聞いた退役軍人らは衝撃を受けると述べた。またカズニックは前述のウィリアム・リーヒ同様に、トルーマンが日本がソ連に和平仲介したことを意図的に無視したことを批判している。広島・長崎に原爆を投下した真の狙いはソ連が参戦する前に日本の降伏を促すため、またソ連に対して警告するためであり、原爆が勝利をもたらしたというのは「神話」であり実際にはソ連対日参戦が日本が降伏する決定打だったと主張している。

トルーマン政権時代の外交政策、核政策を専門とするスタンフォード大学の歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は「太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない」という内容の論文を1995年に掲載しており、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の一つだったと説明している。また同教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱っている。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。長崎市の福岡俘虜収容所第14分所に収容された捕虜たちは、三菱重工長崎造船所で働かされ、第14分所は敗戦時、オランダ人152人・オーストラリア人24人・イギリス人19人の195人を収容し、原爆で8人が死亡した。アメリカ合衆国連邦政府が被爆死したアメリカ兵捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている。同教授は「政府はある時点から認めるようになりましたが名前は公表していません、政府は自分にとって不都合なことは公表しないものです。」と取材に電話で応じている。実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が被爆した。

1997年に歴史家でアメリカ原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー(英語版参照)は『原爆投下とトルーマン』を発表、「この数年公開された外交文書と当時のアメリカ政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した。」とも発言している。

森林学者のフロイド・シュモーは原爆投下のニュースを聴きナチス・ドイツのユダヤ人虐殺にも匹敵する蛮行であると怒り悲しみ、トルーマンに抗議電報を打った。被災者のための家屋建設支援についてはその日の内に決断し、1口1ドルの寄付を募り米国各地を回り始めた。

1945年8月9日にアメリカ・キリスト教会連盟の抗議があり、「多くのキリスト教徒は、日本の都市に対する原子爆弾の使用に深く心を痛めております。なぜなら、原爆の使用は必然的に無差別破壊をもたらし、人類の未来にとって極めて危険な前例となるからです。連盟会長オクスナム主教と同連盟の恒久的平和委員委員長ジョン・F・ダレスは、報道向けの声明を準備しており、明日、次のことを強く主張するつもりです。原爆は人類に託されたものと見なすべきであり、日本国民に対して新型爆弾に関する事実を確認させ、降伏条件の受諾に十分な機会と時間が与えられるべきであること。そして、日本国民にこれ以上の原爆による破壊がもたされる前に、日本が最後通牒について考え直す十分な機会が与えられることを謹んで要請致します。」とトルーマンに抗議の電報を打った。

渡邊恒雄は中央公論 2006年10月号に掲載された『なぜ、今、戦争責任の検証か』において、トルーマンは原爆投下がもたらす非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力が欠如していたのではないかと述べている。しかし、ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた。

トルーマン政権と軍との攻防[編集]

トルーマンは広島への原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語り、公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。だが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたこと、トルーマン自身が一般市民を犠牲にする行為に反対していたこと、トルーマン政権と軍の間に知られざる攻防があったことが近年明らかになった。

原爆による最大の破壊効果を得るために選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所であったが、その中でも広島と京都が有力候補に上がっており、「マンハッタン計画」で原爆計画の責任者を努めていたレスリー・グローブス准将は京都を推した。グローブスは「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」と述べていた。しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはかつて京都を2度訪問し、原爆を投下すれば、おびただしい数の市民が犠牲になることを認識していたためこの案を却下した。一方、グローブスはスティムソンとの面会から1か月後、京都に軍事施設があるという報告書を作成し、京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設として報告していた。京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソンはグローブスの提案を認めようとはしなかった。

1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功。一方で、日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近と見られ、グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えた。原爆実験から5日後、スティムソンに部下から緊急の電報が届き、軍は京都への原爆投下をまだ諦めていなかった。スティムソンはトルーマンに報告し京都を外すよう求め、トルーマン自身は7月25日の日記に「この兵器は今から8月10日の間に日本に対して使う予定になっている。私は陸軍省長官のスティムソン氏に、使用に際しては軍事目標物、兵隊や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標としないようにと言っておいた。いかに日本が野蛮、冷酷、無慈悲かつ狂信的とはいえ、世界の人々の幸福を推進するリーダーたる我々が、この恐るべき爆弾を日本の古都や新都に対して落とすわけにはいかないのだ。この点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は純粋に軍事物に限られる。」と記していた。

しかし、トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島で、目標選定を行っていたグローブスたちが意図的に騙すために報告書には、「広島は日本有数の港と軍事物資の供給基地など軍の大規模施設が集まる陸軍都市である」と述べられていた。トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまい、結局トルーマンが投下目標から広島を外すことはなかった。

1945年7月25日、「最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。2発目以降は準備ができ次第投下せよ」とグローブスが起草した原爆投下指令書が発令された。1945年8月6日、午前1時45分、部隊はテニアン島を離陸。そして8時15分に広島に原爆が投下された。ポツダム会談の帰り道にトルーマンは大西洋の船上と船中で演説を開始し、「先ほどアメリカ軍は日本の軍事拠点ヒロシマに1発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ」とあくまでも軍事目標に落としたと強調した。一方、ワシントンで報告を受けたグローブスは、原爆を開発した科学者に電話し「君たちを誇りに思う」とねぎらった。

8月8日、トルーマンがワシントンに戻った直後、スティムソンはトルーマンの元を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せ、トルーマンは「こんな破壊行為をしてしまった責任は大統領の私にある。」と述べている。しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走し、同じ日、原爆は長崎にも投下された。トルーマンは友人である民主党のリチャード・ラッセル上院議員に送った手紙に、「個人的には、一国の指導者の“強情”のために集団を全滅させる必要性があるのか、明らかに後悔している」と心境を吐露していた。また、「一つ言っておくが、私は原爆が全体に必要でない限り、使用しない」と日本を降伏させるためにやむを得ない措置であることを強調。さらに「ソ連が戦争に介入すれば、日本は非常に短期間で降伏するだろう」とも記していた。トルーマンは「私の目的は、できるだけ多くの米国人の命を救うこと」とする一方、日本に対しては「日本の男性と子供たちには人間として同情を感じている」「私は日本が非常に残酷で野蛮な戦争国家だと知っている。だが、我々も彼らと同じように行動しなければならないとは思わない」と複雑な心境を抱いていることを明かしている。書簡を送られたラッセル議員は原爆投下2日前の8月7日にトルーマンに、「もし我々が、(日本を無条件降伏させるのに)十分な数の原爆を保有していないなら、原爆ができ上がるまで、TNT爆弾でも焼夷弾で攻撃を続ける必要がある」などと、日本への徹底的な攻撃を促す電報を送っていた。

8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝え、この場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言し、「大統領の許可なしに今後の使用は停止される」と決定した。

アメリカ・キリスト教会連盟の原爆投下抗議の電報に対し、8月11日にトルーマンは「8月9日付の電報を頂き感謝いたします。私ほど原爆の使用に心を痛めている人間はいません。しかし、私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下をすることのように思えます。獣(beast)と接するときは、それを獣として扱わなければなりません。非常に残念なことでありますが、それが真実です。」と返答した。

トルーマンはその事実を覆い隠そうとし、長崎への原爆投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」と用意されていた原稿にはなかった文言が加えられた。研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘する。スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授は「トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈でした。このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです」と述べている。

スティムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明した(1947年2月)。

トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルは韓国聯合ニュースのインタビューに対し「祖父のトルーマン大統領は広島と長崎の原爆被害の惨状に大きな衝撃を受け、このために朝鮮戦争時に原爆を使用しなかった」と証言している。トルーマンは朝鮮戦争では「原爆使用の可能性を排除しない。」との構えを見せながらも、記者会見では「原爆は恐ろしい兵器であり、(北朝鮮の)侵略に関係のない無実の人びとや女性、子供に対して使用すべきではない。」と述べて、中国に対する原爆使用を主張したマッカーサー国連軍司令官を解任した。1962年ある教授がトルーマンに「大統領として何か悔いることがありますか。」との質問に、「もちろん原爆だ。」と答え、「原爆投下の悪夢にうなされ続けており、大きな失敗を犯したと思っているが、原爆投下の決定を公に取り消すわけにはいかないので、それを抱えて生きるしかない。」と述懐した。

1964年、ミズーリ州インデペンデンス市のトルーマン図書館でトルーマンはアメリカに訪問した被爆者と面会したことがあり、世界平和研究使節団親善大使の松本卓夫と会談した。トルーマンは被爆者に対し「原爆を投下したのは日本人のためでもあった」と説明していたものの、最後まで目を合わさず、面会は3分程で打ち切られた。

家族[編集]

結婚式にて(1919年6月28日撮影)トルーマンと妻ベスの間には娘マーガレット・トルーマンがいる。マーガレットは長じてクリフトン・ダニエル(英語版)と結婚し、クリフトン・トルーマン・ダニエル(1957年 - )ら4人の子供をもうけた。クリフトンは2012年8月、トルーマンの孫として来日、同4日広島市平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。

  • Robert H. Ferrell(ed.), Dear Bess: the Letters from Harry to Bess Truman, 1910-1959. (Norton, 1983).

その他の家族・親族[編集]

  • ジョン・ヴィヴィアン・トルーマン(1886年 - 1965年) - 長兄。
  • メリー・ジェーン・トルーマン(1889年 - 1978年)- 妹。

ミドルネームについて[編集]

トルーマンはミドルネームではなくイニシャルだけを持っていた。フル・スペルのミドルネームの代わりにイニシャルだけを付けることはミズーリを含む南部の州でしばしば行われていたという。トルーマンは、イニシャルが彼の祖父アンダーソン・シップ・トルーマンとソロモン・ヤングの名前の折衷であると語った。彼は「S」はイニシャルではなく「エス」というミドルネームだとジョークを言い、それにはピリオドを付けないのだとしたが、すべての公文書、彼の大統領図書館もピリオドの付いた名前を使用している。ハリー・S・トルーマン図書館は、トルーマンの生涯を通じての様々な場面で、彼が「S」の後にピリオドを付けた署名を行った多数の明白な例が存在すると公に述べている。

語録[編集]

「合衆国大統領は、貴方は世にも立派な人だと告げる声を嫌という程聞かされる。大統領は、貴方は立派な人ではないと言う一つの声に耳を傾けなければならない」。

その他[編集]

フリーメイソンのエプロンを着けたトルーマン(左から3人目)

  • 1909年2月9日にミズーリ州のベルトン・ロッジNo.450 (Belton Lodge No.450) でフリーメイソンに入会。
  • トルーマンは「the buck stops here」(直訳は「バック(ポーカーで用いられる親の印)はここで止まる」、意味は「ここが終点だ=ここが決定の場だ」)という言葉を好み、執務室の机にこの言葉を記した置物を置いていた。
  • 身長は5フィート9インチ(約175cm)だった。

著作(日本語訳)[編集]

  • 『トルーマン回顧録』(全2巻、堀江芳孝訳、恒文社、1966年、再版1973年、新装版1992年)

(新装版 ISBN 4-7704-0752-1 2巻とも同じ、分売不可となっている) 「MEMOIRS BY HARRY S. TRUMAN Year of Decisions」 「MEMOIRS BY HARRY S. TRUMAN Years of Trial and Hope」



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