シナリオ 第二節

ページ名:シナリオ 第二節

永い夕焼けの続く街

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 地図に記された場所には旧タイプの高層マンションがそびえていた。コンクリート造の外壁には長い間放置されたことで所々エフロレッセンスが走っていたが、倒壊の心配はなさそうに見える。カトレアが、僕の隣でほっとしたように息をつく。ここに来るまで、傾いた建物のいくつかを目にしていた。
 正門の自動ドアは半分開いたまま静止していた。巨大な磁気嵐が精密機器のほとんどを一瞬のうちに破壊してしまった、その名残だった。僕らは身体を横にしてその隙間を通り、ロビーへと進む。ロビーの正面に、扉を固く閉じたエレベーターがある。そんなもの、最初からアテにしていない。僕は辺りを見回し、外壁の色に紛れて、目立たないようひっそりとしている鉄の扉を見つけた。
「あのドアの向こうに、非常階段があるかもしれない」
 エレベーターの扉を撫でていたカトレアに声をかけてから、鉛の傘を傍らに横たえ、鍵穴のついた円いノブに手を掛ける。ドアの隅に警戒色をしたパトランプと、警備会社の物と思われるロゴマークが身を縮めるようにして隠れていた。どちらも、もはや機能しているとは思えない。ドアは既にこじ開けられていたようで、力を込める前に音もなく開いた。鉄の板に扇がれて、乾いた風が吹く。鉄粉とカビの臭いに、僕は思わず顔をしかめる。
 暗色の無機質な空間に白カビの生えた階段が続いている。僕は小走りに近づいてきたカトレアの腕を掴んだ。
「行こう」
 自分自身にも言い聞かせるように、震える声で言った。
 さして段数の多くない階段を、ひとつひとつ、慎重に進んでいく。手を繋いだままでは歩きにくかったが、そうする以外に進む方法が見つからない気がした。窓のないその空間は、非常灯すらも壊れていて、隔離された闇の中にあるようだった。
「一季さん、あそこ、何かありますよ」
 僕より早く闇に慣れたカトレアが、踊り場にぶら下がった四角い板を指さした。睨むようにしてみると、改装工事用の黒板のようだった。先の円い、小指の先ほどのチョークを掴んで、弄ぶ。カトレアが僕の顔を覗き込む。闇の中で、その瞳だけが浮かび上がる。
「何か書き残していきましょうか」
 突拍子もない提案だった。「何かって、何を?」
「何でもいいんですよ。どうせ、誰も見る人はいないんですから」
 僕は少し考えてから、カトレアにチョークを手渡した。
「カトレアに任せるよ」
 カトレアも考えていたが、何も思いつかないようだった。結局何も書かないまま、どちらからともなく歩きだし、非常階段を抜ける。
 2階の手前から3番目の扉に、203号室のプレートがはめ込まれているのを確認して、開いた。
 無遠慮に奥へ進む僕の後ろで、カトレアは遠慮がちに浅いお辞儀をした。玄関先のスイッチを叩いてみるが、電灯は点かない。それでも大きな窓がひとつついたこの部屋は、夕日を採り入れて明るく感じられる。
「僕は向こうを探すから、カトレアはあっちの部屋を」
 僕は夕日から離れた東側の部屋を指して言った。
「分かりました。何か見つかったら知らせますね」
 僕は夕焼けをこめかみに感じながらリビングだったと思われる部屋を探す。まだらに黒くなったフローリングに、分厚い埃が積もっている。引き出しをいくつも開けるが、めぼしいものは見当たらない。
 壁際の静止した振り子時計の隣にクリーム色の戸棚があって、その中を調べていた時、指先に痺れるような感覚を覚えてふいに引っ込めた。白く尖った塩のような見かけのぬらついた溶液が指先に纏わりついている。金属の目に染みるような臭いがする。僕ははっとして、中のものを一斉に掻き出した。その中のひとつをつまみ上げ、目の高さに持ち上げると、睨むように見る。
 それは確かに電池だった。精密機器の進歩、エネルギー効率の向上とともに淘汰され、やがて数を減らしていった旧時代のエネルギー資源。単三型、単四型の電池が、戸棚の中に沢山しまわれていた。
 発電施設の停止した今、電池は貴重品だった。ほとんどの物は長年の備蓄に耐えられず液漏れし、全身焼けて朽ち始めていたが、それでも一部は、まだ見た目には綺麗で、使えそうだった。僕はその一部をより分けて、ポケットにしまった。
 いくつもの電池の中に、見たことのない型の物が混ざっていることに気づいた。あまりにも大きく、重量感のあるその形はいびつにさえ思える。単一型と書かれていて、これも幸い液漏れしていない。これもポケットに詰め込むと、身体が少し重くなった。
 目当てのアルバムは簡単に見つかった。片足の朽ちて倒れた銀色のラックに挟まれて、いくつかの写真には折れ目がついていたが、それでも目当ての物には違いない。中を簡単に眺めた後、カトレアのいる部屋の方へと向かう。
 カトレアは、顔の大きさほどもない小さな四角の窓のついた部屋で、壁一面に飾られた様々な機械を眺めていた。そこには僕も見たことのない、あるいは覚えのない機械もいくつか含まれていたが、どれもこれもが写真機であることが分かった。
「僕の父は写真家だった。被写体は人間。誰かの笑顔を撮ることを仕事にしていたんだよって、母さんは言っていた」
 僕はカトレアに言うともなく言った。カトレアは壁に掛かった機械を見つめながら頷いた。
「素敵なお仕事だと思います」
 僕は思いついて、見たことのある、単純な形の写真機を手に取った。電源ボタンを押すと、背面のモニターに砂嵐が写った。時々砂嵐が晴れると赤や緑に歪んだ世界が見え、それからほどなくして暗転した。埃の積もった黒い画面に、泣きそうな僕の顔が写された。
 別の写真機を試してみたがダメだった。ある写真機は単三型の電池で動くものだった。ポケットの中から電池を取り出してはめ込み、電源を入れたが状況は変わらなかった。どれもこれも、砂嵐の後で歪んだ風景を写し、フィルムの焼き切れた映画のように瞬間的に暗転する。
 地球が静止した瞬間、地球を覆っていた地磁気の急変動は、磁気嵐となって地球上のあらゆる精密機械を襲った。その影響は大小問わず、あらゆる電子機械を破壊して、人類の文明の象徴のひとつを、根こそぎ奪い取っていった。
「一季さん、大丈夫ですか?」
 カトレアは心配そうに、僕の顔を覗き込む。僕はまぶたを覆うようにして、目端の涙を拭った。
「ああ、大丈夫だよ。もう行こう」
 僕はアルバムを頭の上に捧げて、無理やりに笑った。目的は果たした、だから、行こう。空元気のようだと分かっていた。上手く笑えていないことも。
「待ってください、一季さん」
 カトレアが慌てて僕の後を追う。その後で、短い悲鳴がする。
 僕は振り返る。
「あっ――」
 転げたカトレアのすぐ上で、棚のひとつが傾いている。黒々と角ばった箱状の機械が、カトレアの後頭部目掛けて滑り落ちる。
「カトレア!」
 僕はアルバムを投げ出し、カトレアの元へと駆けた。間に合え! 腕を伸ばし、身体を跳ばす。つま先が床を離れ、瞬間的に無重力を感じる。
 浮かんだ身体の下で、カトレアの身体が影になった。目を大きく見開いている。ぽかんと口を開いて、僕の方を見つめる。
「――伏せろ、カトレア!」
 ゆっくりになった世界の中で、言葉を紡ぐ。カトレアは頭をかばうようにして小さくなり、目をつぶってその場に伏せる。その身体の上に、僕の身体が折り重なる。肩から腰に掛けて鈍痛が走る。音もなく、じわりと広がる痛み。
「あっ、かっ、一季さん……」
 僕の身体その下で、喋り辛そうにカトレアが動く。僕の腰の下辺りから顔を出して、息を吐く。
「大丈夫か、カトレア」
 床に手を突いて、ゆっくりと身体を起こす。まだ痛みは残っているが、立てないほどではない。
「それはこっちの台詞ですよ!」
 カトレアも起き上がり、これまでにない剣幕で凄むように睨む。
「大丈夫ですか、怪我は――」
 肩にしがみつくようにして取りつき、首の後ろに手を回して、僕の腰の方を覗き見る。幸い、服の上からでも目立つような外傷はない。カトレアは焦りからか、ぐいぐいと身体を押し当てて、僕の傷跡を見つけようとする。
「お、落ち着いて、カトレア」
 その肩に手を置き、その場に座らせる。改めて向かい合ったカトレアは、さっきまで睨んでいたのに、今では泣きそうなほどだった。
「どうして、あんな無茶なことをしたんですか。一季さんが酷い怪我でもされたら、わたし……」
 ――そんなの決まってる。僕は言った。
「カトレアを守るためだ」
「そんな風にして守られたって、わたし、嬉しくなんか……」
 頬を涙が伝った。僕は少し気まずいような気持ちで、僕の腰を撃った黒い箱を眺めた。無粋な形の角ばった箱には、潜水艦についているような奇妙な形の長い棒がついている。
「これも、写真機だ」
 僕はその黒い箱を拾って立ち上がり、夕日の微かに差し込むだけの暗い部屋の中、その全身を調べる。こんな武骨なものも写真機だなんて、まるで想像しなかった。カトレアも立ち上がる。完全機械式の、旧型の写真機のようだ。ネジを巻いて夕日に向かって構え、シャッターを切ると、下部に取り付けられた歪なローラーが回転し、赤茶けた紙を吐き出した。赤茶色の中に、時間をかけて、夕焼けの赤が写し出される。だがそれは、血のような赤だった。
「これ、写真ですか? 一季さんが、撮ったんですか?」
 僕と写真とを交互に見ながら、カトレアが言う。僕は何も答えずに写真機を調べる。簡単に開くようになっている小窓には、見覚えのある大きさの空間があった。
 ――そうか電池だ。
 僕はポケットを探り、単一型の電池を取り出してそこにはめ込む。そしてもう一度、夕日に向かって構え、シャッターを切る。
「わっ!」
 瞬間的に、部屋全体が真っ白な光で包まれた。フラッシュ。潜水艦の棒の先が光ったのだ。
「ねえ、一季さん。これは、いったい……」
 写真を覗き込む。そこにはやがて、鮮やかな橙色が写し出される。僕は心底の喜びを感じた。
「カトレア」僕はカトレアに言う。「写真、撮ってやるよ。だから涙を拭いて、笑ってくれないか」
「あっ……はい! 一季さん!」
 夕日をバックに緊張した様子でぎこちなくレンズを見つめるカトレア。目に溜まった涙を袖で拭って、精一杯口角を引き上げる。
「もっと普通でいいって、普通に笑って」レンズの向こうから声を掛ける。
「そんなこと言われても……」カトレアは照れたように俯く。
 僕はさっき、簡単に眺めたアルバムの中の写真の一枚を思い浮かべていた。今と同じ、夕焼けの日だった。レンズの向こうには、無邪気に笑う僕と、それを抱きかかえる母の姿が映っていた。
 物心のつく前、父は暴動に巻き込まれて死んだ。33歳と1日。人の笑顔を取り続けた父は、大好きだったはずの人々に、頭を酒瓶でかち割られて死んだのだ。
 今なら父の気持ちが分かる。大袈裟な機械に隠れた顔が、喜びに満ちていくのが分かる。レンズの向こうでぎこちなく笑うカトレアを、たまらなく愛しく感じるのが分かる。
「はい、チーズ」
「えっ?」
 お決まりの言葉にきょとんとして見せたカトレアは、フラッシュの瞬間、目を瞑った。繰り出された写真に写っていたのは、変な顔をしたカトレアの姿だった。彼女は僕から写真を奪い取り、ロングスカートのポケットに入れた。スカートの上から確認するようにポンと叩いて、悪戯っぽく笑う。
「今度は一季さんの番ですよ」
 写真機を重そうに掲げ持ち、僕を壁際に立たせたカトレアが、「もっと笑って」とか、「チーズ」とか、仕返しのように言いながら笑うのを見て、僕は自然と笑ってしまった。
「はい、一季さん」
 カトレアから手渡された写真には、父の写真と同じ、笑顔の僕が写っていた。
 闇の中の非常階段を下りながら、カトレアは僕に尋ねる。
「あの写真機、本当に置いてきてよかったんですか?」
「いいんだよ」と僕は言った。「あの写真機は、あそこにあるべきものだから」
 踊り場を折り返して非常階段を下り切り、外へ出た後、僕はロビーに傘を置き忘れたことに気づいて取りに行った。外で傘を差した僕を見て、カトレアもまた何か思い出したようにロビーへ戻る。
「忘れ物をしてしまいました。ちょっと、待っていてください」
 鉄のドアの向こうの非常階段を駆け上がる音がした。時間がかかると思っていたが、カトレアは案外すぐに戻ってきた。
「お待たせしてすみません。いきましょう、一季さん」お決まりのように腕を絡ませながら、カトレアは言った。
「いったい何を忘れてきたの?」
 意味のない僕の質問に、カトレアは意味深に目を細めた。
「えへ、それは秘密、です」

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