シナリオ 第一節

ページ名:シナリオ 第一節

永い夕焼けの続く街

 1

 夕焼け色のアスファルトに、長いビルの影が覆いかぶさっている。僕は気休めほどの意味もない鉛の傘を片手に捧げ、その上を歩いている。人の気配はない。誰も、シェルターの中にいるのだろう。
 太陽が朱くなってから、どれだけの時間が経っただろう。
 僕はそうなる前のこの街を、アルバムの中でしか知らない。知っているのだろうが、覚えていない。
「これがあなたよ。よく泣く子で、大変だったんだから」
 母の声を、不意に思い出す。あの写真は、一体どこに仕舞われたのだろう。僕の昔住んでいた家はシェルターの外にあって、時々探しに行くのだがついに見つけられたことはない。複雑な街路は影のない空間を作り出す。僕はその度遠回りをして、目的地から離れていく。
 あれは不思議な写真だった。
 昼間の高い太陽の日差しが、僕の頬を叩いていた。僕は目を細めながら、レンズの向こうの誰かをじっと見つめている。指先に落ちたわずかな影を、煩わしそうに払っている、ように見えた。
「あなたは日陰の嫌いな子供だった」
 母は13日も前に死んだ。その時の僕はまだ3歳と8日で、母が死んだことを理解できなかった。皮膚ガンだろう、と藪医者がろくな診察もせずに言った。母の身体は、皮膚を電灯に透かして見る血管のように全身青かった。病に苦しむ母の最期の言葉を、僕は随分はっきりと覚えている。
「長生きなんかしなくてもいい。あなたの時間を生きなさい」
 音のしない街の中では、思い出の中の誰かの言葉が、やたらはっきりと聞こえる気がする。遊園地に連れて行ってもらったことがある。けたたましい電子音に満たされた空間の隙間をさらに膨らませるほどの人の声だった。その頃の僕はパニックを覚えて、母に泣きついたのだそうだ。それでも今は、この人の声がこんなにも優しい。僕はなんとなく目を細めて、歩きながら、喧騒の中の言葉に耳を澄ます。
「ずっと昼だったらいいのに。そうしたら、帰らなくてもいいのに」
 甘えるような少女の声を、鉄の爪が引き裂いた。
 電灯が消えかかっている。高架の電線が一本切れてぶら下がり、紫色の飛沫を上げながら延々と揺れている。鉄の爪はその向こう側で、静寂を引っ掻いている。二度、三度。
 走るには傘は邪魔だった。僕は鉛の傘をたたんで帯に引き下げるようにしながら、音のする方へと走った。アスファルトを蹴るゴムの靴は、その度乾いた摩擦音を立てる。長い時間を掛けて積もった砂が舞い上がって足首に纏わりつく。夕焼けが目端を突いて眩しい。影のない小さな空間に、境界の曖昧な薄暗い影が落ちている。蝋燭の火のように揺れている、弱々しく、落ち着かない瞬き。
「ここで何をしているんだ?」
 僕はその影の主に、日陰の中から叫んだ。鉄の振り子に腰かけた主は、曖昧に揺れたまま、身体を伸ばした。夕焼けを背にして、顔が影に埋もれていた。箒のような長い癖っ毛が、砂の溜まった足場を擦ってしまいそうで、危うさを感じた。
「夕焼けとはいえ、太陽風は吹いているんだ。そんなところにいたら、死んでしまうよ」
 僕は鉛の傘を差し、影の主の所へ向かった。漆石を重ねて作ったような囲いに銀色のプレートが埋め込まれていて、『神内市立公園』とあった。
「気休めだけど、ないよりはマシだろう」
 僕は主の背中側に、鉛の傘を向けて言った。身体が影に覆われて、僕は初めて、その顔を見ることができた。
「あ、ありがとう、ございます」
 戸惑い交じりに礼を言う主は、女の子だった。幼い顔立ちで、円く大きな黒目に、不健康なほど白い肌が目を引いた。
「どうしてこんなところにいるんだ。シェルターの外が危ないって、知らないわけじゃないだろう」僕は諭すように言った。
「それを言うなら、あなただって……」言いかけて、彼女は口をつぐんで俯く。「ごめんなさい」
 僕はため息をついた。
「そうだよ。確かに僕も、危険を承知でシェルターの外に出た。君みたいに、堂々と夕日に当たったりはしないけど」
 夕日に当たるか否か、そこにさして大きな違いや意味がないことは僕も知っていた。だから言い終わってから、僕は少しの罪悪感を覚えた。
 しばらくの沈黙があって、少女は口を開いた。
「あなたは、どうしてここに来たんですか?」
「君の跨っている、その振り子の軋む音が聞こえたからだよ」僕は少女の腰かける鉄製の器具を指し示して応えた。振り子の名を、僕は随分昔に母に聞いた気がするのだが、忘れてしまった。
「そうではなくて」と少女はじれったそうに手を揺らす。「どうしてあなたは、シェルターの外に出たんですか?」
「ああ、そういうこと」僕は少し考えてから、答える。「写真を探していたんだよ」
「写真、ですか?」拍子抜けしたように言う。
「僕の古い家のどこかにアルバムがあって、その中に写真が収められている。その写真を、どうしてもまた見たくなったんだよ」僕は言ってから、ため息をつく。「だけど僕の家は夕焼け中にあるみたいだ。どの道を辿っても、辿り着けなかった」
 少女は「写真」と口の中で呟くようにしながら、思案顔をしていた。それから突然、「分かりました」と言って立ち上がり、胸の前で手を打ち鳴らした。僕は慌てて鉛の傘を持ち上げ、彼女の顔を陰に収めた。
「その写真、私が取って来ますよ。家の場所は、分かっているんですよね?」
「え、ちょっと待ってよ」僕は慌てて彼女の肩に手を置くと、元の位置に座らせた。「ダメだよ、危ないって。ここはまだ、夕日が半分隠れているからいいけどさ」
「大丈夫ですよ、ほら」
 少女は僕の手を振り払い、傘の外へと踊るように出た。片足で立ち、つま先を軸にしてくるりと回ると、ロングスカートの裾がひらりと上がって、どこか幻想的だった。僕はその姿に見とれてしまって、傘を持って追うこともせずに、ただぼんやりと眺めていた。
 少女は手を夕日に透かす。橙色の光線が少女の指を射す。存在感の曖昧だった少女の影が、はっきりとした黒を示す。
 その手のひらは、青かった。
「わたし、もう長くないんです」少女は振り返るようにして言った。愁いを帯びた長い睫毛が、またも影の中に隠れた。
 僕は茫然として、少女の口角に浮かぶ微笑みの証を眺めていた。やるせない気分で胸が満たされる。少女は朝を迎えず死ぬ。どれだけその身をかばっても、いずれ、死ぬ。
「……分かったよ」
 少女は嬉しそうに目を円く見開いて、僕の傍らに駆けてきた。
「そうと決まれば、ほら、さっそく行きましょう。お家の場所、教えてください」
 少女に腕を組まれて、広場の外へ連れ出される。僕は背中側に傘を差したまま、夕焼けの熱さを感じていた。
 僕が道を教えるのも待たずに、少女はアスファルトの道を、僕の腕を引っ張って進んでいく。幸い方向は正しかった。
「誰かと2人で歩くのなんて、久しぶりですね」と少女は言った。僕は思わず同意の言葉を口にしそうになり、慌てて口を噤む。その様子は少女は見ていて、声を上げて笑う。
「いいんですよ、見栄を張らなくても。あなたは、わたしと同じのような気がしますから」
「君と同じって、どういうことだ?」
「上手く言えませんけれど、多分、変わってる、ってことなんだと思います」
 僕は傘を持つ手をにじらせて、頭を掻いた。
「ここ、左ですね」
 少女は確認の言葉を口にしたが、僕の答えを待たない。
「どうして分かるんだ?」と僕は尋ねる。
「夕日の眩しいほうに歩いているんですよ。それだけです」
 その言葉に、僕は慌てて鉛の傘を構えなおす。
「ここは右ですね」少女が僕の腕を引く。
 入り組んだ通りは何度も目にしてきた。狭い街の中、コンクリートブロックの壁が自分たちの敷地を最大限に主張し、時には曲線を作って道行く人を惑わせる。こんなにも寂れて静かな街の中でも、彼らは自分たちの役目を果たしている。決して帰らない主人を待ち続けている。
 僕の家も、きっと同じだろう。主人の帰らない部屋に、生活の微かな残り香や人の気配をずっと守っている。
「君は、ずっと一人でいたの?」
 ふいに寂しさを感じて、彼女に引かれている腕を軽く引いて彼女を呼んだ。
「ええ」彼女はただ短く答えた。
「寂しくなかった?」
「寂しかったですよ。寂しくないわけないじゃないですか」
「それなら、どうしてシェルターの外にいたんだよ」僕は言った。「君にだって、割り当てられたシェルターがあって、部屋があったはずだ。そこには人が大勢住んでいて、そこでなら、君も寂しくなかったはずじゃないか」
 責めるような口調になった。「ごめん」と詫びる。
「いいんですよ。あなたの言う通りですから」と少女は答えた。しばらくの沈黙。
「さあ、着きましたよ」
 彼女が急に言ったので、僕は戸惑って辺りを見回した。そこに僕の家はない。
「ここから先は、わたし一人だけで行かなければなりません」
 そういって足元を指さす。アスファルトの上に、夕焼けと日陰の境界線がまっすぐに引かれていた。
「本当に、いいのか?」僕は改めて尋ねた。彼女は満面の笑みだった。
「ええ。その代わりと言ってはなんですが……」そこまで言うと、彼女は俯きがちに、困ったように眉根を吊り上げる。はにかんでいるようでもあり、困惑しているようでもある。
「傘か? 傘ならほら、持って行ってくれ」僕は開いたままの傘を彼女に差し出す。
「そうじゃないんです。そうじゃなくて」慌てたように、手のひらをこちらに向けながら、彼女は言った。「わたしも見てみたいんです。あなたの言う、写真を」
 『なんだ、そんなことか』とは言えなかった。写真は、初めから彼女にも見せるつもりだった。
「分かったよ。写真を持って帰って来たら、好きなのを一枚、君にあげるよ」
「えっ、そっ、そこまでは頼んでませんよ!」彼女は増々慌てた。「そんな、大切な写真を貰ってしまうなんて」
「貰って欲しいんだよ。君に」と僕は言った。それから間をおいて、急に何か申し訳ないような気持ちになった。「ごめんね」
「どうして謝るんですか?」彼女はきょとんとした。
「やっぱり、君ばかり危険に晒すのは、悪い気がしてさ」
 彼女は笑って応えた。言葉は何もなかった。
「地図を渡しておくよ。この建物の、2階の203号室が、僕の住んでいた家……らしい。僕も記憶がはっきりしているわけじゃないから、分からないけど」
 僕はポケットから手のひら大の紙を取り出して広げ、彼女に渡した。彼女はそれを一瞥してから、半分に折り曲げて両手で持った。
「分かりました。それじゃあ、ここで待っていてくださいね」彼女はそう言って少し進んでから振り返り、すまなそうに肩を落とす。
 どうしたんだろう、と思っていると、彼女はとぼとぼと歩いてきて、言い加えた。
「もし、待っていられなくなったら、帰ってください。ごめんなさい。待っていてください、なんて。わがままでしたね、わたし……」
 それからまた、道の向こうの夕日に向かって歩いていく彼女に、僕は何の言葉も掛けられないでいた――その時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
「……待ってくれよ」
 半ば無意識に、僕は、呟くとも違う、唸るような声を上げていた。彼女は振り返らない。夕焼けに染まるアスファルトの道を、静かに歩いていくばかり。僕は空になった手で頭を掻いた。右手の先で鉛の傘が揺れる。目に見えない放射線の雨が斜め向いた太陽から降りつけてその表面を叩いているのを感じる、気がした。いくら浴びても濡れることのない、乾いた雨。その雨が、彼女の肩を打ち付けている。彼女は決して濡れない。だが確実に、身体を蝕まれていく。
 ふいに、あの時の笑みが蘇る。
 雨に濡れない自分を喜ぶように傘の外へと躍り出た少女の、目を細めた笑い顔。長い睫毛。
「わたし、もう長くないんです」
 夕日に透かしたその手の色は、青かった。
「待ってくれよ」
 まだ彼女は振り返らない。身体を左右に揺らして、鼻歌でも歌っているかのようにそっけなく、僕の進むはずだった道をまっすぐに、傘も差さずに歩いていく。
 こんなもの気休めだ。僕は鉛の傘を振り下ろす。ふいに、夕焼け空が広がって見える。傘なんて意味はない。こんなものがあっても、無限に降り注ぐ太陽風を防げるわけではない。無数に飛び交う放射線から身体を守れるわけじゃない。
 それでも!
 僕は声もなく走り出す!
「えっ、だっ、ダメですよ、こっちにきたら。あなたまで被曝してしまいますよ!」
 砂の散らばるアスファルトを蹴って走る音を聞いてついに振り返った彼女は大きな目を更に見開いて驚く。
 そんなことは分かってる!
 鉛の傘なんか、何の役にも立ちゃしないッ!!
 それでも! それでもだ!!
 それでも僕は、彼女に傘を差しだすべきなんだ!!
 無言で彼女の横に並び、彼女の頭上に鉛の傘を差しだした。彼女はぼんやりと、傘に遮られた空を仰ぎ見て、それからはっとしたように僕の横顔に視線を戻した。
「もっ、戻ってください! あなたまで被曝する必要はないんです!」
 慌てる彼女を落ち着かせるように、僕は静かに深呼吸をする。
「君の名前を聞いていなかった。僕は御影一季」
「わたしはカトレア……じゃなくて! どうしてついてきたのかって聞いてるんです!」
「カトレア、いい名前だね。僕のことは一季って呼んでくれ」
「あっ、ありがとうございます、一季さん……」
 僕は彼女の腕に、自分の腕を絡ませた。それから、念のため尋ねる。
「カトレア、僕はこれから、僕の家に写真を取りに行く。これは僕のやるべきことだから、君は戻ることもできる。どうする?」
「戻るなんて、そんなのダメですよ。これは、わたしが一季さんに頼まれたんです。だからわたしは、何としても一季さんの家に行って、アルバムを持って帰らないといけないんです!」
 なんだか物事があべこべに感じられた。僕は思わず笑った。
「……ああ、確かにそうだ。カトレアも僕も、変わってる」
「……そうですね。一季さん、変わってます」
 鉛の傘の下で、二人、顔を合わせて笑い合う。夕焼けの街の、閑散としたアスファルト。乾いた空気に乗って飛び交う、目に見えない太陽からの風、放射線。
 今から21日前。地球は自転を停止した。一昼夜の概念はがらりと変わり、一年という単位は自然に消滅した。日付を数える人もやがていなくなった。僕らが知っているのは、地球が静止してから、どれだけの時間が経ったかということだけだった。
 静止暦21日。2000時間続く、永い夕焼け。
「いきましょうか、一季さん」
 カトレアの言葉に頷いて、僕はゆっくりと、夕焼けの中のアスファルトを蹴っていく。カトレアの真っ白な腕を引きながら。

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