シナリオ 第五節

ページ名:シナリオ 第五節

永い夕焼けの続く街

 5
 
 とても疲れた気がするのに、夕焼けはまだそこにある。幼い頃の記憶は曖昧だけれど、それでも感覚としての一日が残っている。カトレアは、どうなんだろう? 彼女の顔を覗き込もうとするのに、上手く行かない。
 右の目に光はない。それは夜のような闇だけを映している。
 そんな感覚が、やっぱり残っている。夕焼け空の街を歩いて家に帰ると、全身が疲れている。すぐに眠ってしまうと、夜半過ぎに目が覚める。そのとき、僕の目には何も映らない。ただ、寝息が聞こえる。暖かいのを感じる。僕はついに、闇に目を慣らすことなく、再び眠りにつく。
「カトレア、少し話をしてもいいかな」
 僕はただホームの先、線路の横切る巨大な溝を見下ろしながら、右隣に座るカトレアに言った。右肩に感じる彼女の重さが、少し大きくなる。
「ええ」カトレアは短く答えた。
「ずっと昔のことだ。僕たちのいたシェルターに、アメリカのシスターがやってきたことがあった。彼女の名前は、確かクレア、だったと思う。彼女は小さな子供を連れていた。その子の名前が、確かカトレアだった」
 カトレアはただじっと、僕に体重を預けたままで聞いていた。僕は続ける。
「地球が止まってから、アメリカの北部やヨーロッパ――もちろん、他の地域もそうだったんだと思う――では海面が大きく上がって、たくさんの大陸が沈んだ。そこに住んでいた人たちは南の方へと逃げた。もちろん、うまく逃げ切れるのはごくわずか。それでも、人口の過集中は免れなかった。当然、大混乱が起こる。この国でも、暴動は起こったし、僕らのシェルターでも――僕の父さんは、それで頭を殴られて死んだ。でもアメリカ南部地域でのそれは、そんなものとはスケールが違った。ほとんど戦争だったんだそうだ。でも、それもすぐに終わった。戦争で果敢に戦った兵士から死んだって、クレアさんは言ってた。今なら分かるよ――放射線を吸い込む量は、活動量に比例する――でも、クレアさんはそんなこと知らなかった。これは神様の罰なんだって思った。そして神様に祝福されている自分は、決してそんな風にはならないだろうって、信じ込んだんだ」
 僕はほとんど一息に話した。左目がかすみ始めた。擦ろうと思って、動く右腕を浮かすと、カトレアの身体が揺れた。「ねえ、カトレア。起きてる?」
「ええ」カトレアは短く答えた。
 僕はまばたきして、続ける。滲んだ視界に、向いのホームの破れた窓から差し込む夕日が、眩しい。
「クレアさんは戦争孤児だった幼い君を連れて船に乗った。争いばかりの土地を離れて、もっと穏やかな場所を目指したんだと思う――でも、本当のところは分からない。そして僕らのシェルターに辿り着いた。クレアさんはシェルターの人たちに向かって、熱心に布教活動をした。終末が近いと気づくと、人は盛んに救いを求めるようになる。クレアさんのミサは、いつも人で溢れていた。僕も何度か、聞きに行ったことがある。クレアさんは、善い生き方をした人のところには天使が、そうでない人のところには悪魔が来るのだと説いた――多分、キリスト教の厳密な教義とは、ずいぶん違うんだろうな。僕たちに分かりやすく、説明してくれたんだと思う。そしてクレアさんは、いつでも、ミサの最後にこう言った。『皆さん、善く生きましょう。神様は見ていてくださいます』」
 僕は真似をするともなく、読み上げるように、ただ淡々と彼女の言葉を述べた。「続けてもいい? カトレア」
「ええ」カトレアは短く答えた。
 僕は彼女の方へ首を捻る。途端に、激しい痛みが後頭部を走って、それから何か、すさまじい違和感が全身を巡った。呼吸の度、ざらついた感覚が鼻腔を擦っていく。そこに微かにあった、夕焼けの熱、カトレアの髪から流れていた優しい香りが消えている。嗅覚が死んだ。だが構わず、僕は続けた。
「僕は正直に言って、クレアさんの話が好きじゃなかった。天使も悪魔も、同じもののように思えたんだ。神様は、結局、僕らをどこかへ連れていくことしか考えていないんじゃないかって気がした。僕はどこにも行きたくなかったんだ。神様の目に晒されて、僕が善いことをしているか、そうでないかを勝手に判断されて、最後にはどこかへ連れていかれるなんて、あんまりだって思った――それからだよ、僕が神様の目を盗むようにして、シェルターの外に出るようになったのは。目的はなんでもよかった」
「一季さん」カトレアが細くかすれた声で言った。「わたし、分かりました。一季さんが、何を言おうとしているか」
 僕は動かない左手で、触感のない髪を掻くことを想像した。
「母さんはシェルターの外へ出る僕を見ても何も言わなかった。ただ、死ぬ間際に行ったんだ。『長生きなんてしなくてもいい。自分の時間を生きなさい』。生きることは目的なんかじゃない。もちろん死んだあと、天使と悪魔のどちらに出会うかってことも――」
「ねえ、一季さん」とカトレア。「一緒に言いましょう。こういうのって、大切なこと、ですから」
 僕は静かに頷くことを想像した。音を出して、息を吐く。
「ありがとう、カトレア。僕の時間を生きてくれて」
「ありがとうございます、一季さん。わたしの時間を生きてくれて」
 『ありがとう』だけが重なった。それから少し可笑しくなって、互いに体重を預け合ったまま、笑った。
 話したら、少し眠くなってきた。僕は欠伸の想像をして、カトレアの方へ顔を傾ける。
「眠くないか、カトレア」
「いいえ、一季さん。わたし、まだ一季さんと、話していたいです」少しの沈黙。「あの、もしかして、わがままだったでしょうか?」
「そんなことないよ」と僕は答えた。「僕も、カトレアと話していたい」
「嬉しいです。一季さん」とカトレアが言った。

 *
 
「一季さん」
「なに、カトレア」
「こうして待っていると、本当に電車が入ってきそうですよね」
「確かに、そうだね」
「どんな電車がいいでしょう?」
「外観は、赤いんだ」
「赤?」
「夕焼けに溶けていくみたいで、すごく綺麗だと思うよ」

 *

「カトレア、まだ起きてる?」
「ええ、一季さん」
「電車に乗ったらさ、どこに行きたい?」
「そうですね――海に行ってみたいです」
「海か、いいな」

 *

「一季さん、起きていますか?」
「ああ、起きてるよ。カトレア」
「海に行ったら、水着を着てみたいんですが、どうでしょうか?」
「水着か……うん、カトレアなら、似合うと思うよ」
「えへ、ありがとうございます。一季さん」

 *

「カトレア、起きてる?」
「少し眠いです、一季さん」
「そうか、眠くなったら、無理せず眠っていいんだぞ」
「ええ、一季さん」

 *
 
「一季さん、起きてます?」
「まだ起きてるよ、カトレア」
「シェルターでは、わたしたちのこと、今頃探しているでしょうか?」
「僕は、大丈夫だよ。シェルターの外に出ていることも、みんな知っているだろうし」
「――わたしも、同じです」

 *

「カトレア、起きてる?」
「起きてます、一季さん」
「もうどれくらい、こうしているんだろうね」
「そうですね。ずっと長い間、こうしている気がします」
「なんだか、夕日も傾いてきたみたいだ――」
「一季さん?」
「ああいや、ごめん。なんでもない」

 *

「一季さん、起きていますか?」
「……」
「一季さん?」
「ああ、ごめん。どうしたの?」
「鐘の音、聞こえますね」
「そうか――もうそんなに、こうしているのか」

 *
 
「カトレア」
「……」
「カトレア?」
「あ、ごめんなさい。少し眠ってました」
「傘――もって来なくてごめんな」
「どうしたんですか、急に」

 *

「一季さん」
「どうした、カトレア」
「幸せです。一季さん」
「ありがとう、カトレア」

 *
 
「カトレア」
「なんですか? 一季さん」
「幸せだよ。カトレア」
「ありがとうございます。一季さん」

 *
 
「一季さん」
「……」
「一季さん?」
「……」
「……」
「……」
「…………おやすみなさい、一季さん」

 *
 
 夕方、わたしは静かに、目を閉じる。
 眠ってしまった、彼の隣で。
 長い夕焼けの、続く街で――。
 
 <了>

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