永い夕焼けの続く街
4
かずきさんへ。
とつぜんいなくなって、ごめんなさい。
わたしは、もうじゅうぶんにしあわせです。
これいじょういっしょにいたら、かずきさんのしあわせをうばってしまうから、
だからわたしは、いなくなります。
わがままかもしれませんが、わたしのこと、おぼえていてくれたらうれしいです。
さようなら。
カトレア。
*
右手に掴んだカトレアの写真に、指先の汗が滲んで伝わっていく。古い紙の表面から溶け出した砂埃が、纏わりついていくのを感じる。シェルターとは逆側の道、夕焼けの落ちる方向へと、鉛の傘も持たずに駆けていく。心臓に感じる痛みが、どこか他の場所にあるようだと思う。吸い込んだ息が満たす領域。息を吐き出すたびに、締め付けられるようなその痛み。
カトレア、君は2つ間違っている。跳ねる喉に息を切らしながら、僕は夕日を睨み、鋭い視線で語りかける。
まず第1に、君はまだ幸せを知らない。あるいは君は、幸せを勘違いしている。幸せに十分だなんて、存在しないんだよ。君にとって十分な幸せは、僕から見たら驚くほど不幸だ。もし君が、あの時間、少しでも幸せだったなら――。
否! もし君が、幸せを勘違いした大不幸者だったしてもだ! 君の第2の間違い、君といたことで、僕は幸せを奪われたなんて、思っちゃいないッ!
だってそうだろう? ――仰いだ赤い空、雲一つない天球に、桃色掛かった茜が広がる。幸せってのは、奪ったり奪われたりするものじゃない。与えたり、与えられたりするものでもない。幸せだって思った時に、そこから生まれ出るものなんだッ! 夕焼けの道を君と腕を絡めて歩いたとき、写真機に腰を撃たれて君に心配されたとき、君の写真を撮ったとき、君が歌った誕生日の歌に手を打ったとき、それから君と――キスしたとき。
僕は――それはもう――心の底から、幸せだったさッ!!
カトレア、君は、幸せじゃなかったのか? 僕は改めて問いかける。否、不幸だったなんて言わせない。だから君は、あのとき泣いたんじゃないか。あの涙が、そしてあの笑顔が、嘘だったなんて、絶対言わせないッ!
僕は右手に握りしめた写真を、顔の高さまで持ち上げる。走る足を止めないまま、目を瞑り、きょとんとしたカトレアの変顔を見て、笑う。
なあ、カトレア。君の写真を上手に撮れなかったとき、実を言うと、ちょっとショックだったんだ。僕は父さんの写真の凄さを母さんから繰り返し聞かされて育った。だから父さんのことを尊敬してたし、俺も父さんみたいな写真が撮りたい、否、撮れるはずだ、そう確信していた。父さんの写真はすごいよな。君も見ただろう? どの写真も、笑顔で溢れてる。それに比べて、この写真はどうだ? なんて面白い顔だ! カトレア! カトレアには悪いけど、思わず笑っちまうよ! ははははははッ!
でも、安心したよ。やっぱり僕は、父さんの息子だった。目を瞑れば、目蓋の裏に、ばっちり残ってる。カトレア、君のその笑顔がね。あんなに楽しそうな表情、幸せそうな表情、静止暦以来、僕が初めて見たんじゃないか? やっぱり僕には才能がある、否、あるなんてもんじゃない。カトレア、君の笑顔を撮ることにかけて、僕は人類史上稀に見る、正真正銘の大天才だ!
僕は右手の写真を、そのまま手のひらに丸め込んで握りつぶした。夕日に向かって高らかに掲げると、くしゃくしゃになった写真は僕の駆け抜ける速度に追いつけず、煽られるようにして、後ろへと吹っ飛んでいった。
別れの手紙なんていらない。変な顔した写真だっていらない。覚えている必要なんてない。全くないッ!
僕はこれからも、カトレア、君と一緒にいて、覚えきれないほどたくさんの話をして、持ちきれないほどの幸せの中で――生きるんだ、2人でッ!
複雑に湾曲した道を、夕焼け目掛けて真っ直ぐに駆け抜ける。倒壊しかけた建物を横目に見る。赤い日差しがこめかみをつついて皮膚を溶かす。大粒の汗が零れて、目に染みる。
壊れていく、何もかも。僕は張り詰めて痛み出した腿を引き摺るようにして走りながら予感した。仰いだ空に透かした手のひらが、青かった。
「長生きなんかしなくてもいい、あなたの時間を生きなさい」
母の言葉を思い出していた。
旧い家に辿り着く。たった数時間前まで無限に遠く感じられたこの家も、今では一息に着けるほど近い場所になっていた。半分開いたまま止まった自動ドアに、肩を思い切りぶつけても、怯まない。くすんだ鉄板のドアを壁に叩きつけて、急階段を足元も見ずに駆け登る。
ふと、違和感に気づいた。避難階段が、妙に明るい。振り返ると、前来た時にはそこにあった、鉄の仕切りがなくなっている。リノリウムの床に横たわるように倒れたその板を、僕は鼻で笑い飛ばす。
踊り場には黒板が引っ掛かっている。いつ書かれたかも分からない、掠れた符牒のその端に、真新しい赤色の落書きがある。
三角の屋根の真ん中を、一本の線が分かつ、一筆書き。傘のような記号のその両側に、「カトレア」、「かずきさん」の文字。こんなもの、どこで見たんだろう。僕は苦笑した。僕にだって、その記号の意味するところくらい、分かっている。傘の先に、薄明るい床に転がっていた白のチョークで、ハートマークを書き足す。躊躇いなどない。恥ずかしいと思うなら、思えばいい。笑いたければ、笑え。あいにく傘は持ってないが、そんなもの、今はいらない。
幸い、雨は降ってない。
カトレアの居場所に、心当たりができた。シェルターに映写機があったのは、ずっと昔のことだった。都市に住む人間のすべてを収容することが可能で、生活必需品や主要な施設のほとんどが揃い、緊急時には閉鎖しやすい。機能的な構造をしたその建物に、核戦争を危惧した政府が、秘密裏にシェルターの機能を与えた。その建物――大型の自立型予備電源装置を備えたショッピングモールの8階には、収容人数1000人を誇る大型の映画館が設置されていた。外界から隔離された映画館は、限られた数のフィルムを繰り返し上映するしかなかった。僕も、多分カトレアも、繰り返し上映される映画を、飽きもせず何度も見た――そう、フィルムが焼き切れてしまうまで。
その中のひとつに恋愛映画があった。雨の日の午後、学校と呼ばれる場所に、傘を持たない女の子が1人。頭を鞄で庇いながら、雨の中を駆け出していく。男の子が彼女に追いすがる。彼女の頭上に傘を差しだす。女の子が言う。
「あなたは、誰? どうして、私なんかに傘を差し出すの?」
「君の名前を、聞きたくてね。僕は――」と男の子は名前を名乗る。
「私は――」と女の子も答える。雨の音が響いて聞き取り辛い。しかし2人の間では、確かに言葉が交わされているのだと分かる。
「――、いい名前だね。僕のことは、――って呼んでくれ」
旧い家を駆け出るとき、また肩をぶつけた。あの映画のラストシーンは、駅で向かい合う2人だった。電車がホームに入ってきて、女の子がそれに乗る。乗車口のすぐ近くで言葉を交わしているうち、警笛が鳴る。横向きのドアが、二人を分かつ。互いに声が聞こえなくなる。電車が走り去り、見えなくなると、男の子はその場に崩れ落ち、大声を上げて泣く。
見上げると、高架がかかっている。あのどこかに、駅があるはずだ。僕は高架を目印にして走る。カトレアも同じようにしたはずだと、根拠もなく思う。
黄昏時には、空が黄金色に輝いて見えるのだそうだ。空はただただ夕日に赤く、単色の壁紙がべったりと貼りついているようだった。過呼吸が、脳幹を叩きつける。視界がちかちかするような痛みが襲ってくる。それでも僕は走り続けた。その駅に電車が辿り着くことは、決してない。それでも、僕は走らなければならない。そういうものだろう? 静止暦の記憶しかない僕、文化のほとんどが失われた時代を生きるしかなかった僕らには、映画の中のワンシーンを、そうやって無理やりに理解する他なかった。
――でも、この気持ちは間違ってないはずだ。そう思う。
全ての道がそこに通じているように、複雑に伸びていたいくつもの道が次々に合流して、巨大な建物の入口へと延びていた。朽ちた看板に、『神内駅』の文字を見た。構内も同様に打ち果てていて、壁には泥跳ねのような茶褐色の染みがあちこちついている。僕はとにかく階段を探し、駆け上がり、外に出る。壁一面にひび割れた硝子の白くなっているホーム。膨らんだ枕木に、真っ黒になった子供の靴が横になって転げている。
「カトレア!」
僕は声を張り上げる。向こうの端まで、何もかもを見渡せる。誰の姿もない。向いのホームも、空のようだ。
別の階段を上がる。
「カトレア!」
声を張り上げる。掠れている。肺が熱くて、穴が開きそうだ。でも今の僕は、もっと大きな穴を抱えている。その穴がつぶれそうな肺を吸い込んで膨らます。
別の階段を上がる。
「カトレ――」
ふいに、左腕の中ほどに冷たい感触が走る。思わず右手のひらを押しあてると、ほとんど無抵抗にふわりと浮き上がった。右手のひらは空を切り、振り子のように戻ってきた左手に叩かれた。
左手が死んだ。それは僕の身体の一部であり、僕の身体の一部でない。そこに残っていながら、そこに何もないような感覚。空虚な感覚に、心音が震えた。
「死ぬって、こんなに怖いのか」
僕は声に出して呟いた。今なら、カトレアの気持ちが分かるかもしれない。幸せになるのが怖いと言った、カトレアの気持ちが――。
――分からねえよ。
「カトレアぁ!」
僕は身体を仰け反らせるようにして叫んだ。目の前で火花が散って、一瞬暗転した。次に見えた風景はぼやけて、立体感が欠けていた。右の目が死んだ。僕は足を引き摺って歩き、ホームの向こう側と、こちら側を見た。カトレアの姿はない。向いのホームにも、人影はない。
別の階段を上がる――いや、もう無理だ。右足が、ほとんど動かなくなっている。足を引きずったままでは、階段を降りることすらままならない。僕はこのまま、ここで死ぬのだろう。滲んだ視界。白変したガラスの向こうで、夕焼けが黄色に染まっていた。七色に分かれた光線が、足元に落ちている。
手すりに右手を掛け、左足を前に出す――ダメだった。身体が滑っていく。無重力。僕は沈んでいく……。
「一季さん、大丈夫ですか?」
その身体を、少女の細腕が抱きかかえた。
「息が切れてます。走ったんですか? そんなことをしたら、寿命を縮めるに決まってますよ」
早口に、たしなめるような、泣き出しそうな、嘲るような、喜ぶような――でもそれは、間違いなく、彼女の声だった。
「カトレア、会いたかった」
僕は彼女の腕に抱きかかえられたまま言った。彼女の細い体や白い腕だけが見えている。
「わたしも、会いたかったです。一季さん」
「どうしていなくなったりしたんだよ。探したじゃないか」
「探してもらえるなんて、思わなかったですから」
「じゃあ覚えておいてくれ、カトレア」と僕は言った。「君が好きだ」
「嬉しいです。一季さん」とカトレア。
「幸せか? カトレア」
「はい。一季さん」
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