シナリオ 第三節

ページ名:シナリオ 第三節

永い夕焼けの続く街

 3
 
 広場に戻り、青いペンキの剥がれて錆びた鉄の露出している長いベンチに並んで腰かけると、僕は鉛の傘を背もたれに引っ掛けて固定し、貼り付いた埃が薄黄色いまだら模様になっているアルバムを開いた。肩を預けるようにして傾き、アルバムを覗き込むカトレアの癖毛が鼻先を掠める。
「この写真は、正月。横にいるのは、僕の祖父母に当たる人だ」
 一枚ずつ写真を指差し、カトレアに説明する。
「正月、ですか?」
「静止暦になるより前の、一日の始まりのことだよ。僕もよく覚えていないけど」
 カトレアは目を円くして指先を追い、僕の説明にしきりに頷いている。ほとんどの写真に写っているのは幼い頃の僕と母で、幸い見られて恥ずかしいようなものはなかった。しかし、それでも彼女の視線が児子の無邪気で暗さを知らない表情を撫でる度、僕は気恥ずかしさに頬のむず痒さを覚えるのだった。
 アルバムは1ページに2枚、見開きで4枚の写真が納まる簡素なもので、紙が6枚入っていたから、写真は全部で24枚あった。すべての写真を説明しても、長い時間はかからない。2枚目の紙をめくり、次の4枚の写真が露になる。カトレアの指が飛びつくように1枚の写真を指差した。
「これ、なんですか?」
 口調こそ落ち着いていたが、逸る気持ちを抑えられないでいるのが僕にも分かった。その写真には、全身を柔らかな体毛で覆われた、円い瞳の愛らしい生き物が映っていた。後ろ足で立ち上がり、紐に吊るされたフェルト生地のおもちゃに飛びつかんばかり腕を伸ばしている。
「これは、ネコっていう生き物だ。僕のいるシェルターにも、一匹いたよ。元は金持ちだったっていうおばさんが飼っていて、時々僕の方へ寄こしては、遊び相手をさせられた」
 ふと、カトレアの顔を見ると、頬が緩み、とろけるばかりになっている。そういえば、カトレアはネコに似ている。写真の上で指を動かすと、円い瞳が動いてそれを追い、身体が触れることなどお構いなしというように、僕の身体に寄りかかってくる。翳りの中ではほうきに見えた癖毛も、夕日に透かせばネコのしっぽに似ている。
「ネコはね、にゃあと鳴くんだよ」
 僕は悪戯のつもりで、カトレアに言い伝えた。カトレアは写真から顔を上げると、僕の顔を不思議そうに見つめながら、
「……にゃあ?」
 と言った。
「それで、手は指先を丸めて、首を傾げてこう」
 ネコの手を作って見せて、かつて僕自身もネコおばさんから教えられた、伝統的なネコのポーズをカトレアに伝授する。カトレアは少し照れたようになりながら、僕の真似をして、鳴く。
「にゃあ……あの、一季さん。ひょっとして、からかっていませんか?」
「からかってない」僕は答えながら、込み上げる恥ずかしさと堪え切れない笑いとに、目を伏せて肩を震わせる。
「ああ、やっぱりからかってたんですね! 笑わないでください! ひどいですよ!」
 僕の肩をネコの手のまま殴りつける。
「落ち着けって。それに攻撃するときは、にゃんにゃん、って鳴くんだよ」
「にゃんにゃん!」
 ネコがじゃれつくようにして僕の肩を執拗に叩き続けていたカトレアは、急に可笑しくなったのか、腹を抱えて笑い出す。高く澄んだ、夕焼けの中にこだまする笑い声。広く、人のいない風景に溶けていく、幸の声。
「そろそろ落ち着いた?」
 丸まった背中を見下ろしながら尋ねると、カトレアは身を起こし、目端の涙を拭った。
「こんなに笑ったの、久しぶりです」
 僕はアルバムをめくって、次の写真を指差す。照明の落ちた暗い部屋の中、蝋燭の炎に顔を照らされた僕と母が、頬を寄せ合っている。
「これは、誕生日の写真だ」
 蝋燭の台地を覆う白いクリームと、飾りチョコに掛かれた”Happy birthday!”の文字でそれが分かった。カトレアは首を傾げる。
「誕生日、ですか?」
 正月同様、誕生日も静止暦生まれのカトレアには馴染みのない文化だった。地球の自転が止まり、それまでの1日の境界が曖昧になったことで失われた文化は数多くある。月や日付なんて、誰も数えなくなった。ただ夜が来て、朝が来れば誰でも平等に1日という歳を取る。そんな時代に、誕生日なんて概念は馴染まなかった。
「あの、誕生日って何ですか?」
 カトレアの言葉に何を返せばいいか分からず、僕は言葉に詰まった。正月のように、静止暦の言葉で簡単に言い表せるものではない。そもそもカトレアには誕生日が『ない』のだ。『ない』ものを説明するとき、その言葉は必ず嘘になる。僕はカトレアに嘘をつきたくはない。
「誕生日は、とても楽しい日だよ」僕は少し芝居がかった口調で言った。「カトレア」
 カトレアは僕の顔をじっと見つめて、次の言葉を待った。息を吐くと、焦げた大気の中に白い息が流れて見えた。
「今日を、カトレアの誕生日ってことにしないか?」
 息をつめて、大きな目を更に大きくして驚いた後、嬉しそうにそれを細めた。
「そんな幸せなこと、いいんですか?」
「もちろんだよ。Happy birthday、カトレア」
 僕の言葉に、カトレアは嬉しさ余ってという風に立ち上がって、夕焼けの広場に踊った。
「あの、誕生日って、何をするんですか?」
「そうだな」と僕は考える。「まず、誕生日の歌を歌うんだ。どんな歌だったか、忘れてしまったけれど」
「任せてください!」
 そう応えると、カトレアは音を立てて息を吸った。喉を鳴らし、珠鈴のような声で、軽やかに歌う。
 
 誕生日は楽しい日
 あなたもわたしもネコもいっしょに
 みんな揃って写真を撮ろう
 笑顔になれる楽しい誕生日

「上手いな」と僕は手を叩いていった。
「えへへ、ありがとうございます」とカトレア。「他には、どんなことをしますか?」
「次は、ケーキに歳の数だけ蝋燭を立てて、その炎を吹き消すんだ」と言ってから、僕はポケットを漁る。「ここに携帯食料はあるんだけど、あいにく炎はないな」
 カトレアは少し考えてから、気づいたように、あっ、と声を上げた。
「一季さん、炎ならありますよ、あそこに」カトレアは空を指差す。
 ――空? 僕はカトレアが指さした方向を仰ぎ見る。そうか。忌々しいその火が、とても厳かで、偉大なもののように見えた。大昔、神に例えられた天の球体。あの太陽は、まさしく、炎だ。
「わたし、誕生日を迎えるのははじめてですから、まだ1歳です。あの炎も、ちょうどひとつ、です」
 目を瞑り、くちづけをするように、そっとつま先を立てる。身体を斜めに突き出して、顎を傾けると、カトレアの紅色の唇が、優しい日差しにつつかれて柔らかな艶を放つ。
 あの天の球は、炎は、朱は、あんなにも優しかったのだ。橙色の光は、こんなにも親密に、僕らの傍に寄り添っていたのだ。目頭を熱くする何かが鼻を抜けていく。カトレアの唇の隙間を、白い息が通っていく。
 僕はその様子を、鉛の傘に守られたベンチの上で見た。
「えへ、蝋燭の炎、吹き消しましたよ」
 カトレアが照れたように言いながら戻ってくる。僕は携帯食料の封を切る。鋭い音を立てて膨らんだそれは、ふかふかのスポンジにフルーツの風味がついたパンだった。半分に引き裂いて、片割れを差し出す。
「そ、そんな、悪いですよ! 貴重な食糧をいただいてしまうなんて!」
「いいから、もらってよ」と僕は言った。「プレゼントを貰うのも、誕生日のひとつなんだ」
「そ、それなら……」カトレアはパンを受け取って、僕の隣に再び腰かけた。「ありがとうございます、一季さん」
 二人揃ってパンにかぶりつく。唾液を吸って溶け、柑橘果実の酸のような甘さを残して消えていく。
「おいしいです、とても」とカトレアは言った。「誕生日って、楽しくて、おいしくて、最高の日ですね」
「そうだな」僕は自分の誕生日のことに思いを馳せた。確かに楽しくて、おいしい日だった。
 その記憶の中で、母が言っていた言葉を思い出す。
「誕生日にすること、まだあるんだ」
「まだあるんですか?」カトレアが期待に目を輝かせる。
「そんなに期待はしないでくれよ。大したことじゃないんだから」
 母の言葉。
 『誕生日はね、大好きな人にキスをしてもいい日なのよ』
 頬擦りをする母に仕返しするように、僕はキスをした。
 それを伝えたとき、カトレアは言葉を失ったように口をぱくぱくさせ、視線を顔ごと左右に振り乱し、それから頬を真っ赤に染めて俯いた。僕は笑った。
「軽い冗談だよ。それに、僕の母さんが言ってただけで、みんながみんな誕生日にはキスをするってわけじゃないみたいだ……」
 ――瞬間、喉に熱い息が流れ込んでくる。柔らかな感触が、乾いた唇を包み、濡らす。
「ん……っ」
 柑橘の匂いが、鼻へ直接寄せてくる。心音が聞こえる。自分の音に混ざって、一際小さな、彼女の音。開いたままの目を、閉じることができない。長い睫毛の端が濡れていて、やがて頬を伝って零れる。夕日に照らされて宝石のように輝いたそれは、暖かかった。
「ふぅ……っ」
 やがて唇が離れると、心臓を失くしたような感覚が胸を打った。ぼんやりと仰ぎ見ると、はにかんだままのカトレアが後ろ手を組んでそこに立っていた。夕焼けがその背中を照らし、影を作っている。僕は彼女の長い影の中にいる。
「大好きな人に、キス、しちゃいました」
 その声が震えていることに、僕は気づいた。カトレア? カトレアは、その場に崩れるようにしゃがみこみ、大声を上げて泣いた。僕はベンチから降りてカトレアの前にしゃがみこみ、その肩を抱いてやる。カトレアは唸るように言った。
「こんなに楽しくて、おいしくて、愛おしくて、苦しくて、息ができなくて、でも幸せで! 怖いものなんて、もう何もなかったはずなのに、今は怖いんです! この幸せが、いつかなくなってしまうことが、怖いんです……」
 重く、地鳴りを起こすような鐘の音が、遠く響いてきた。シェルターから聞こえるその音は、24時間の区切りを意味していた。死んでいった人たちへの祈りも込められているというその音は、今の僕にとって、忌々しいものでしかなかった。
「終わっちゃいましたね、誕生日」
 肩をひくつかせながら、泣き笑いのカトレアが僕の顔を見上げる。その肩を、僕は強く抱きしめる。
「まだ終わってないよ。地球が止まってから1日はずっと長くなったから。ずっとカトレアの誕生日だよ」
「そっか……えへへ、嬉しいなあ」
 カトレアの唇に、自分の唇を重ねる。触れるだけの、でも、深く触れ合うキス。
「そうだ、昨日の配給で、ジュースを貰ったんだった」僕はカトレアの手を引いて一緒に立ち上がりながら言った。「持ってくるよ。一緒に飲もうよ、カトレア」
 シェルターに向かって駆けだそうとする僕の服の裾を、カトレアが掴んだ。
「どうした? ああ、一人は寂しいか。それじゃあ、一緒にシェルターに……」
 僕の言葉を遮るように首を振ってから、カトレアは微笑んだ。
「写真」とカトレアは言った。「一枚、くれるって約束、覚えてますか」
「ああ、うん。覚えてるけど」と僕は言って、アルバムを開いた。「やっぱり、ネコの写真か? 気に入ってたからな、カトレア……」
「それじゃなくて、あの――」カトレアは僕の手を取って、アルバムを閉じた。「一季さんの家で撮った、一季さんの写真を、私にください」
「え?」僕は戸惑って言った。「もちろんいいけど、こんな写真、もってても――」
 僕の差し出した写真を受け取って、カトレアは大事そうにロングスカートのポケットにしまい込んだ。「ありがとうございます、一季さん」
 カトレアの腕が、僕の身体を離れる。意味深な沈黙。僕は「じゃあ」と言って広場の入口へ駆けだす。
「ジュース、持ってくるよ。すぐ戻るから、ここで待ってて」
「はい、一季さん」とカトレアは言った。「ありがとうございます」
 シェルターまで大体1キロ。全力で走れば、往復で10分。僕は鉛の傘を持つことも忘れて、その場を後にした。
 夕日の射す広場の真ん中、永く手を振り続けるカトレアの姿が見えなくなって――。
「……さようなら。一季さん」

 *

 両手にジュースの瓶を掴んで広場に戻ったとき、そこにカトレアの姿はなかった。
 鉛の傘が折りたたまれていて、その下に、赤茶けた紙が置かれている。拾い上げると、変な顔をしたカトレアが写っている。僕の撮った写真に間違いなかった。
 その裏側に、何か滑るような雰囲気を感じて、写真を裏返す。赤色のチョークで、文字が並んでいる。僕はその文字に、目を走らせる。小さな紙に、沢山の言葉が書いてあった。でも僕の目には、その言葉しか映らなかった。
 『さようなら』
 僕はジュースの瓶を放り投げて、広場を疾り出た。夕焼けはいつまでも、僕の背中を灼いている。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。

コメント

返信元返信をやめる

※ 悪質なユーザーの書き込みは制限します。

最新を表示する

NG表示方式

NGID一覧