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Disambig_gray.svg | この項目では、奈良県桜井市の長谷寺について記述しています。その他の用法については「長谷寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
長谷寺 | |
---|---|
所在地 | 奈良県桜井市初瀬731-1 |
位置 | テンプレート:ウィキ座標2段度分秒 |
山号 | 豊山(ぶざん) |
宗派 | 真言宗豊山派 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 十一面観音(重要文化財) |
創建年 | 奈良時代(8世紀前半) |
開基 | 道明 |
正式名 | 豊山 神楽院 長谷寺 |
別称 | 花の御寺 |
札所等 | 西国三十三箇所8番 真言宗十八本山16番 神仏霊場巡拝の道 第35番 |
文化財 | 本堂、長谷寺経、銅板法華説相図(国宝) 木造十一面観音立像、仁王門ほか(重要文化財) |
二本の杉
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺[1]であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
本堂(礼堂)を望む
ファイル:Hasedera Sakurai Nara pref32n4272.jpg本堂(正堂)を西北から見る
ファイル:Hasedera Sakurai Nara pref45n4272.jpg本堂(礼堂)の懸造部分
初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。このうち、本堂は慶安3年(1650年)の竣工で、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立である。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の再建である。
本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。
現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものである。同年6月に記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある[2]。高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。
本堂は傾斜地に南を正面として建つ。平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊を安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。正堂は一重裳階(もこし)付き。構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階をめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下の文中においても同様)。礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分を相の間とする。礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻を大きく見せる。礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化している。礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風を付し、屋根構成をさらに複雑にしている。礼堂の前半部分は床下に柱を組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台を張り出す。屋根はすべて本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とする。
礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とする。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。外陣は板敷きで、天井は中央を化粧屋根裏、左右を格天井とする。その奥は中央の間口5間、奥行4間を内陣とし、その東西の各間口2間分は、東を宰堂室、西を集会所等とする。内陣は石敷き、格天井とし、その中央を2間四方を本尊を安置する内々陣とする。内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっている。[3]
本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定された。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっている。
銅板法華説相図
時期 | 入山時間 |
---|---|
4月~9月 | 8:30~17:00 |
10月~3月 | 9:00~16:30 |
区分 | 入山料金(個人) |
---|---|
大人・中高校生 | 500円 |
小学生・障害者 | 250円 |
行事の名称 | 時期 |
---|---|
本尊元旦開帳法要 | 1月1日 |
仁王会 | 1月1日~1月7日 |
修正会 | 1月1日~1月7日 |
仏名会 | 1月8日~1月10日 |
星祭 | 1月28日~2月3日 |
三社権現網懸祭 | 旧暦1月11日 |
節分会 | 2月3日 |
大黒天祭 | 2月3日 |
修二会 | 2月8日~2月14日 |
だだおし法要 | 2月14日 |
常楽会(涅槃会) | 3月15日 |
彼岸会 | 3月17日~3月23日 |
釈尊降誕会 | 4月8日 |
ぼたんまつり | 4月中旬~5月上旬 |
ぼたん献花祭 | 4月中旬 |
春季特別寺宝展 | 4月~5月 |
お茶会 | 4月下旬 |
専誉僧正恩徳会 | 5月5日 |
弘法大師誕生会 | 6月15日 |
興教大師誕生会 | 6月17日 |
盂蘭盆会 | 8月13日~15日 |
彼岸会 | 9月20日~26日 |
もみじまつり | 10月上旬~12月上旬 |
秋季特別寺宝展 | 10月~12月 |
もみじ茶会 | 11月下旬 |
陀羅尼会 | 12月12日 |
除夜本尊閉帳法要 | 12月31日 |
テンプレート:Commonscat
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