リスボン地震_(1755年)

ページ名:リスボン地震_(1755年)
ファイル:1755 Lisbon earthquake.jpg

リスボン大地震による火災と津波によって破壊されたリスボンの市街

ファイル:1755 Lisbon Earthquake Location.gif

リスボン地震の推定震源地(★)

リスボン地震(リスボンじしん)は、1755年11月1日に発生した地震。午前9時20分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含むと5万5000人から6万2000人が死亡した(理科年表2006年版)。推定ではモーメントマグニチュード8.5(同じく理科年表2006年版)であるので、表面波マグニチュードや気象庁のマグニチュードに換算すればもう少し小さな値となるかも知れない。

Gutscherがサイエンスに投稿した論文によると、

An active subduction zone off southern Iberia poses a long-term seismic risk and is a likely candidate for having produced the Great Lisbon earthquake in 1755.

という記述があることからイベリア半島南西沖の寄生マイクロプレートにおける弓状の沈み込み帯で発生した地震であると考える説も有力のようである。

リスボンは地震の後、津波と火災によりほぼ灰燼に帰した。これによりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度をました。ポルトガルは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いはそがれることとなった。また震災の悲報は、18世紀なかばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響をあたえ、啓蒙思想における弁神論と崇高論の展開を強く促した。リスボン大地震によって思想的に大きな変化を蒙った思想家にはヴォルテールがいる(『カンディード』参照)。

当時、ポルトガル王ジョゼ1世の下で宰相の地位にあったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はリスボンの再建を積極的に推進した。

目次

地震当日[]

11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日)であった。当時の記録では、地震の揺れは3分半続いたというものや6分続いたというものもある。地震でリスボンの中心部には5m幅の地割れができ多くの建物が崩れ落ちた。生き残ったリスボン市民は港のドックなどの空き地に殺到したが、やがて海水が引いてゆき、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に海が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がり港や市街地を飲み込みテージョ川を遡った。津波はさらに2回市街地に押し寄せた。津波にのまれなかった市街地では火の手が上がり、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。

ポルトガルの他の町でもリスボンのような惨禍に見舞われた。国土の南半分、特にアルガルヴェ地方の被害は大きかった。地震の揺れは遠くフィンランドからアフリカ北部まで感じられた。モロッコなど北アフリカの沿岸は高さ最大20mの津波に襲われ、イングランド南部やアイルランド西部にも3mの高さの津波が押し寄せて建物などを破壊した(ゴールウェイのスパニッシュ・アーチは津波で破壊された跡が残っている)。さらに大西洋を越えたバルバドスやマルティニークにも津波が到達した。

ファイル:Convento do Carmo ruins in Lisbon.jpg

カルモ修道院の廃墟

当時リスボンは27万5千人の人口を数えたが、最大9万人が死亡した。モロッコでも津波などで1万人が死亡した。リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少なかった建物も、火災で焼失した。わずか6か月前にこけら落としを祝ったばかりのオペラ座も火災で焼け落ちた。テージョ川沿いに建っていたリベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震と津波で崩れ、7万巻の書物やティツィアーノ、ルーベンス、コレッジョらの絵画も失われた。ヴァスコ・ダ・ガマら大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も王立文書館の建物と運命を共にした。リスボン大聖堂、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院などの大きな教会や修道院も破壊された。ロシオ広場には当時最大の公立病院だったレアル・デ・トードス・オス・サントス病院があったが、数百人の患者もろとも火災にのまれた。ポルトガルの独立の英雄ヌーノ・アルバレス・ペレイラの墓所も破壊された。カルモ修道院は今も廃墟のまま地震の爪痕を残している。

津波が押し寄せる前、動物たちが高い土地へ逃げたという言い伝えがある。これは震災に伴う動物の異常行動がヨーロッパで最初に記録されたものである。

震災後[]

幸運なことに国王一家は震災で怪我ひとつしなかった。ジョゼ1世らは当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、姫の願いを聞いて街から離れて祭日を過ごそうとしていた。地震の後、王は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。

ファイル:Lisbon1755hanging.jpg

震災後、廃墟と化したリスボン市街と、郊外のテントで暮らす市民たち。中央には掠奪者に対する見せしめとして立てられた絞首台が見える

宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様地震を生きのびた。彼は地震直後「さぁ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。彼は、後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建にとりかかった。彼は消火隊を組織し市街地に送り火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、多くの人が処刑された。ポルトガル軍は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。

震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消えいたるところが建築現場になった。王は新しいリスボンを完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。当時宰相にこんな広い通りが本当に必要なのかと尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの混乱した交通は、彼の知恵が現実になったことを示している)。

当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は世界最初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。

政治への影響[]

ファイル:Pombal portrait.jpg

ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ

ポルトガルの内政における地震の衝撃は非常に大きかった。地震以前、宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョは王の寵臣であったが、貴族たちは彼を郷士の息子からの成り上がりとして軽蔑した(彼は今日ではポンバル侯爵と呼ばれるが、この地位は地震の15年後の1770年に得たものである)。一方で宰相のほうは古い貴族たちを、腐敗しており実際的な行動ができない無能な集団として嫌った。

両者の間には権力と王の寵愛をめぐる絶えざる衝突があったが、1755年11月1日の地震を境に、有能な対応を示した宰相が古い貴族層の権力を上回った。貴族層は宰相を重用する王ジョゼ1世に対する反感と恨みを募らせ、1758年には王の暗殺未遂事件が起きた。これを機に宰相は貴族の一掃に乗り出し、陰謀を裏で巡らせていたとされたポルトガル最大の貴族アヴェイロ公爵は処刑されその一族は勢力を奪われ、イエズス会もポルトガルの領土から追放され財産を国庫に没収された。以後、敵のいなくなった宰相は啓蒙主義的専制を振いポルトガルを独裁支配する。

社会的・哲学的影響[]

地震が与えた衝撃はヨーロッパの精神にも及んだ。多くの教会を援助し海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも破壊されたことは、18世紀の神学・哲学では説明の難しいものであった。

ファイル:Voltaire3.jpg

ヴォルテール

地震はヨーロッパの啓蒙思想家たちに強い影響を与えた。当時の哲学者の多くがリスボン地震に言及しているが、ヴォルテールの『カンディード』や『リスボンの災害についての詩』(Poème sur le désastre de Lisbonne)はとくに有名である。『カンディード』は、慈悲深い神が監督するわれわれの「最善の可能世界」(le meilleur des mondes possibles)では、「すべての出来事は最善」である、という楽天主義を痛烈に攻撃している。リスボンの悲劇は、ヴォルテールに楽観論への反証を与えるものだった。テオドール・アドルノは「リスボン地震はライプニッツの弁神論(慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない、という議論)からヴォルテールを救いだした」と述べている。当時のヨーロッパの知識人にとり、リスボン地震の衝撃による文化的・哲学的転換は、20世紀後半におけるホロコーストの衝撃に比べられるほど大きかった。

ジャン=ジャック・ルソーもこの地震による被害から衝撃を受けた一人であり、その被害の深刻さはあまりにも多くの人々が都市の小さな一角に住んでいることから起こったものだとした。ルソーはこの地震による人災を、都市に反対しより自然な生活様式を求める議論に引用した。

「崇高」という概念は、1755年以前から存在したものの、それを哲学の中で発展させて非常に重要な概念としたのはイマヌエル・カントであった。カントは崇高の概念を、リスボン地震と津波の甚大さを理解しようとする試みの中から発展させた。カントはこの地震について3つの薄い書物を出版している。若い日のカントは地震に魅せられ、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、これらを使って地震の起こる原因に関する理論を構築した。彼は熱いガスに満たされた地底の巨大空洞が震動して地震が起こると考えた。これは、誤りであることが後に分かったが、地震は超自然的な原因ではなく自然の原因から起こる、という仮定によって地震のメカニズムを説明しようとした近代のもっとも初期の試みと言える。ヴァルター・ベンヤミンによればカントが出版した地震についての書物は、「おそらくドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである」[1]

ドイツの哲学者ヴェルナー・ハーマッハーによれば、地震の結果は哲学用語にも及び、硬い根拠を大地にたとえて「ground」と呼ぶ比喩がぐらつき不安定なものとなったという。「リスボン地震により起こされた印象は、ヨーロッパのもっとも神経質な時代の精神に触れたため、「大地」や「震動」の比喩はその明らかな無垢さを失い、もはや単なる修辞には過ぎなくなってしまった」[2]。ハーマッハーはルネ・デカルトの哲学のうち「確実性」に関する部分がリスボン地震後の時代に揺らぎ始めたという。

地震学の誕生[]

宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョの震災に対する対応は都市の再建にとどまらなかった。宰相は国中のすべての教区に質問状を送り、地震とその影響を回答させた。この質問には以下のようなものがあった。

  • 地震はどのくらい続いたか。
  • 余震は何回感じられたか。
  • どのような被害があったか。
  • 動物が不審な振る舞いをしなかったか。
  • 井戸や水穴には何が起こったか。

これらの質問へ寄せられた回答は現在も国立公文書館トーレ・ド・トンボ(サン・ジョルジェ城)に保存されている。現代の研究者たちは教職者たちの回答を研究し相互に参照して、大地震を科学的な見地から再現することができる。宰相が考えた質問がなければ、これは不可能であった。客観的かつ科学的に地震の原因と結果を調べようとしたポンバル侯爵は近代地震学の先駆者と評価されている。

この地震の原因などについては、残された資料や地質調査などをもとに、今日も研究者により研究と議論が続いている。

脚注[]

[ヘルプ]
  1. Benjamin, Walter. "The Lisbon Earthquake." In Selected Writings vol. 2. Belknap, 1999. ISBN 0-674-94586-7. 難解なことで知られるベンヤミンは1930年代に子供のためのラジオ番組を持った。1931年の放送ではリスボンの地震とヨーロッパ思想への衝撃を簡略に述べている。
  2. Hamacher, Werner. "The Quaking of Presentation." In Premises: Essays on Philosophy and Literature from Kant to Celan, pp. 261–293. Stanford University Press, 1999. ISBN 0-8047-3620-0.

関連項目[]

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズには、リスボン地震 (1755年)に関連するカテゴリがあります。
  • サント・アントニオ・デ・リシュボア教会

外部リンク[]

  • Images and historical depictions of the 1755 Lisbon earthquake
  • The 1755 Lisbon Earthquake
  • More images of the 1755 Lisbon earthquake and tsunami
  • Voltaire letter extract on the Lisbon earthquake
  • Contemporary eyewitness account of Rev. Charles Davy
  • Description of the Pan-European consequences of the earthquake and tsunami, by Oliver Wendell Holmes.

ar:زلزال لشبونةbg:Лисабонско земетресениеbs:Veliki zemljotres u Lisabonuca:Terratrèmol de Lisboa de 1755cs:Zemětřesení v Lisabonuda:Jordskælvet i Lissabon 1755eo:Lisbona tertremo en 1755et:Lissaboni maavärinfi:Lissabonin maanjäristys 1755gl:Terremoto de Lisboa de 1755he:רעידת האדמה בליסבון (1755)hr:Potres u Lisabonu 1755.hu:1755-ös lisszaboni földrengésid:Gempa Lisbon 1755it:Terremoto di Lisbona del 1755nl:Aardbeving Lissabon 1755no:Jordskjelvet i Lisboapl:Trzęsienie ziemi w Lizbonie 1755pt:Terramoto em Portugal em 1755sv:Jordbävningen i Lissabon 1755tr:1755 Lizbon Depremi



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