御子上典膳(剣豪)

ページ名:御子上典膳_剣豪_

登録日:2009/12/04(金) 06:33:33
更新日:2023/08/12 Sat 19:13:27NEW!
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剣豪 戦国 不遇 不遇 ←とは言い切れない 一刀流 千葉県 御子上典膳 小野忠明 安房




1569年生(1565年とも)~1628年没


戦国~江戸時代初期の剣豪。


またの名を小野忠明。
神子上典膳とする書物もある。


安房の国(千葉県南房総)に生まれ、初め里見家に仕える。
数々の合戦で武功を上げたが、後に出奔。
京に向かい剣の修業をしようとした所、道中で伊東一刀斎に出会い弟子入り。
一番弟子の小野善鬼と双璧を成す一刀流の剣客として名を馳せる。


やがて徳川家康の家臣として一刀斎に推挙されるが、これにより怒った善鬼と決闘し、これに勝利して一刀流の正当後継者となる。
世に言う小金原の決闘である。


なお典膳が徳川家に仕官した経緯については他にも逸話があり、


1:江戸近隣、膝折村というところで剣術者の罪人が民家に籠った剣術者の罪人を斬るように小幡景憲から依頼を受け、これを達成。景憲の話を聞いた徳川家康が旗本に召抱えた。


2: 一刀流の正統を継いだ後、家康に招かれ参上し、目の前で一刀流を披露したものの、仕官が叶わなかった。しかしその後、病に臥していた時に盗賊退治を命じられ、ふらふらのまま勝ってしまったところ、「この男も病になったら弱るのか。以前、見た時は強過ぎて不安になったものだが、病気になれば弱るとわかって安心した」と家康から声が掛かり、仕官できた。


といった話もある。
いずれにせよ剣の腕が立ったので仕官できたという点は共通してる。


その後は文禄二年(1593年)に二百石(三百石とも)の旗本として徳川家に仕え、徳川秀忠の剣術指南役となり、これを機に典膳は母方の小野姓を名乗り、名を「小野次郎右衛門」に改める。*1


仕官して8年経った慶安五年(1600年)、関ヶ原の戦いでは上田城攻防戦において「上田城七本槍」と称されるほどの活躍をした。*2
が、軍紀違反や真田方の依田兵部に対し、どちらが先に初太刀を浴びせたかで辻久正と言い合いをするなどの問題行動が目立ったことで咎められ、真田信幸の預かりとなり、真田領内の上田国吾妻に蟄居させられる。


その後、罪を許され、下総国埴生郡の本領に加増、及び旧地改めがあり、最終的に上総国山辺・武射の両群に六百石の知行地を領する事となる。
放免の件については、結城秀康の周旋があったとも言われているが詳細は不明。
この頃、秀忠に一刀流の極意を言上し、その褒美として、勝光の脇差、御料の羽織、黄金に加え、秀忠の名から一字を拝領し、名を「忠明」と改めた。


だが忠明は元和二年(1616年)七月またしても評価を下げることとなる。
その顛末は、 『徳川実紀(台徳院殿御実紀)』によると以下の通りである(意訳アリ)


ある日、御家人の集会において、小野忠明は唐突に 「大坂の陣にて怯惰の挙動をせし者あり(意訳:大坂の陣でビビッていた奴がいた)」と言った。
同僚がこれを聞きとがめ、大坂の陣において同役(道具奉行)であった 石川市左衛門利賢、山角又兵衛正勝、中山勘解由照守*3、伊東新十郎弘祐の四名が、
これに怒り、訴状を老臣へ提出した。


これが却下されたので、 今度は神田橋を渡る途中の秀忠へ直訴するが、秀忠は、移動中であるとして、これを捨て置いた。
憤った4名は、七月十五日、今度はなんと、諸大名の前で訴状を提出するという手段を取った。
これでは捨て置くわけにも行かず、審議が行われることとなるが、表立ってやるものではないと判断されたため、 関係者を厨所へ召し、話を聞くこととなった。


各人の言い分を聞いた後、この一件については、 小野次郎右衛門忠明、石川市左衛門利賢、山角又兵衛正勝、 中山勘解由照守、伊東新十郎弘祐の各人は、それぞれ閉門処分という裁決が下された。*4
石川は後に士籍を削られ、山角は改易になったという。


また閉門になると、お役御免(役職を外される)になるため、忠明は、平時の役職である先手頭(もしくは弓持頭)と将軍家剣術指南役を両方*5外されることとなった。


なお閉門が解けられた後、再び出仕しているようである。


寛永5年(1628年)11月7日、60歳で死去。下総国埴生郡寺臺村、永興寺に葬られた。
現在の千葉県成田市に墓がある。



【余談】


師匠の一刀斎より武勇伝は多いかもしれない。
……が、自身の流派(一刀流)内部にのみ伝わる逸話や後世の創作も多く含まれている。
これらの逸話の中には、史実と相反するものも多い*6ので注意が必要である。
例えば、



  • 柳生宗矩と仕合をした所、宗矩は真剣、典膳はで応戦、宗矩の服をススだらけにしたという
  • 秀忠が思い付いた剣術を、『机上の空論にござる』と一蹴。ちなみに秀忠はこの時既に将軍様である
  • 柳生十兵衛三厳が仕合を挑んだが、戦う前に「典膳先生には敵いませぬ」と土下座して平伏、弟子入りする

これらは非常に有名であるが信憑性がかなり低い。
まず宗矩と十兵衛の逸話と秀忠に遠ざけられたという逸話の出典は一刀流内部の伝記『一刀流三祖伝記』である。


『一刀流三祖伝記』では「徳川家剣術指南役の宗矩に炭で勝ち、それによって仕官した。」となっているのだが、史実では宗矩が家康に仕えたのは文禄三年(1594)であり、忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年))に仕官している。
また宗矩が秀忠の剣術指南役になったのは慶長六年(1601)で忠明が秀忠の剣術指南役となってから8年も後のことである


続いて十兵衛の逸話であるが、『月之抄』など十兵衛自身の著書や当時の書状に忠明との関係を伺わせる記述はない。
そもそもこの逸話が成り立つ時期はかなり限られており、小野忠明の死(1628年)より前であり、十兵衛がそれなりの年齢になっている(15歳くらいが下限)ことが前提となる*7
十兵衛は慶長12年(1607年)生まれなので、逸話が成立するとしたら十兵衛が15~22歳、忠明は52~60歳もしくは63歳となる*8
これを現代に置き換えると十兵衛がどんなに強かったとしても『剣道の学生の全国大会優勝クラスvs剣道で日本最高峰の達人』 ということになってしまい、忠明は「学生が弟子入りするほどの達人」と紹介されているようなものである。
よってこの逸話は十兵衛=剣豪という評価が広まってからでないと成立しないと考えられる。


また秀忠に関しての逸話も創作の可能性が高い。
家康の元側近にして、幕府における最高権力者の一人である本多正純ですら、 家康の死後、秀忠によって処断されており、ただの旗本である忠明が意見していたとしたらチャレンジャーすぎである。
ましてや稽古で将軍を叩きのめすなんて真似をしたら切腹になってもおかしくない。


『一刀流三祖伝記』などでは「自身と同じく徳川秀忠の剣術指南役となっていた柳生宗矩は優しく教えるのに対して、典膳は至極厳しく当たった為に、次第に疎まれるようになった。」という記述があり、これが閉門の理由とされることもあるが、元和二年(1616年)の時点で自身が剣術指南役となってから20年以上経過し、宗矩と忠明が二人で指南役を務め始めたのも15年以上も前なので 仮に稽古に差があったとしても、間が空きすぎて不自然。
よって閉門の理由に剣術指南は関係ないであろう。


余談だが、上田城攻防戦での軍紀違反の罪を許された後の加増、中山勘解由照守らとの諍いでも訴えの拒否や取り下げが続く(諸大名の居並ぶ前での訴えでようやく審議)、家格においては忠明が一番低いにも関わらず処分は単なる閉門で終わっているなど、実際は秀忠にかなり贔屓されていたと思われる。


また一刀斎の伝記と柳生の伝記で、性格が全く異なる。
一刀斎の伝記では「真面目で冷静、優しい為に人を殺す事に躊躇する」
柳生伝記では「剛の者にして苛烈、どんな相手にも容赦無し、秀忠公の腕は奴の業により三度折られた」


とあるが『徳川実紀』では「世に並びなき撃剣の達者であり、上田城七本槍の一人である」とした上で「かたがた武功に誇り、同僚を軽侮し、常に大言を吐きゆえに 衆人かたむけにくまぬ者なし」と記述されている。
これは剣の腕や武功を認めつつ「己の武功を自慢して他人を馬鹿にし、大口ばかり叩くので、皆から嫌われてた」という意味である。




ライトノベル『境界線上のホライゾン』では、主人公葵・トーリとその姉葵・喜美の父親が忠明の「襲名者」とされている。
本人自体は弟子たちと共に旅に出ているため本編に登場しないものの、嫁ヨシキ(元善鬼の襲名者)が引退してなお達人の域の体術を誇り、娘が戦闘にも応用可能な程のダンスの達人な事から彼の実力が察せられるかもしれない。




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  • 御子みこ剣士 -- 名無しさん (2014-07-18 07:25:50)
  • 伝記の性格を全部統合すると、シグルイの藤木源之助(orエクゾスカル零の葉隠覚悟)なイメージ。 本人にとっては当たり前でも他人にとっては異常、 空気を読めない発言 →同僚を軽侮 って受け取られても不思議ではない。 -- 名無しさん (2020-11-22 17:32:39)
  • 色々あって石田三成の玄孫が一子相伝を受けていたりする -- 名無しさん (2022-12-10 17:43:54)

#comment

*1 「上田七本槍」のところでは、神子上典膳の名で書かれているなど、改名の時期は不明瞭
*2 「上田城七本槍」は敗戦の失態を覆い隠すために作り出された虚構という説もある
*3 忠明と同じ「上田城七本槍」の一人
*4 厨所に集められてから何故か忠明の馬の話になっており、真相は記載される事なく裁決が下され話が終わっている
*5 当時、剣術指南役は公的な役職ではなく私的な役職だったため、剣術指南役たちは別の公的な役職を与えられ武士としての仕事をしていた
*6 これは忠明、及び一刀流に限った話ではなく、剣豪といわれる人物の逸話が創作だったり、自身の流派にのみ伝わっているという事はよくある
*7 15歳より下だと、本当にただの子供である
*8 当時は数え年なので0歳ではなく1歳から始まる

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