スキージャンプ日本代表チーム

ページ名:スキージャンプ日本代表チーム

登録日:2014/01/22 Wed 17:33:44
更新日:2023/12/08 Fri 13:53:15NEW!
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日本 スキー ジャンプ 伝説 スポーツ オリンピック 日本代表 代表 チーム 日の丸飛行隊 表彰台独占 ルール改正の被害者←それだけじゃないけど



ここでは、スキージャンプ日本代表の沿革と代表的選手について記述する。


沿革

スキーが本格的に伝わったのが1910年代、第一次大戦ごろのことであったが、
1928年の第二回サンモリッツ冬季五輪にはすでにクロスカントリー、ノルディック複合とともにジャンプ競技に選手が送り込まれている。
結果はコーチもおらず、ジャンプ台も小さいものしか飛んだことがない選手ばかりで散々だったが、この結果を糧に成長を始める。
四年後のレークプラシッド五輪では早速8位入賞を果たす選手が出るなど順調に伸び始め、1940年には夏季の東京と合わせて札幌で五輪が開かれることとなるが、
日華事変の悪化で東京と合わせて開催返上が決定。戦後1952年のオスロ五輪で復帰したものの完敗。また一から研鑽しなおしとなった。


しかしまあ日本は例によって伸びるのは早く、1968年のグルノーブル五輪では90m級(ラージヒル)で藤沢隆が一回目に2位につけた(2回目ミスって18位)。
そして、東京同様リベンジ開催となった1972年札幌五輪では70m級(ノーマルヒル)では地元という要素もあったが、
笠谷幸生・金野昭次・青地清二の3人で表彰台を独占。
90m級は残念ながらメダルに届かなかったがノルディックスキーの本場を抑えての偉業に日本国民は沸き立ち、「日の丸飛行隊」の異名を与えた。


まあ、札幌は地元開催ということもあっての奇跡というべきものだったか、
1980年のレークプラシッド五輪で八木弘和が70m級で銀メダルを獲得、秋元正博が4位に入って健在をアピールするが、
サラエボ、カルガリーは一桁順位にも届かず。1992年アルベールビル五輪ではラージヒルで原田雅彦が4位、新競技の団体戦でも4位に入り、強豪国への一歩を記す。
1994年のリレハンメル五輪ではノーマルヒルで葛西紀明が5位、ラージヒルで岡部孝信が4位、団体戦では3人まで2回目を終えて圧倒的リードで1位だったが、
原田雅彦がまさかの大失敗ジャンプで銀に終わる。


アルベールビルの辺りからはノルディック世界選手権やワールドカップでも素晴らしい結果を残し始め、
札幌以来となる地元開催の長野五輪ではリレハンメル後に出現した天才船木和喜がノーマルヒル銀、ラージヒル金、原田雅彦がラージヒルで銅、
団体戦ではリレハンメルのリベンジを完遂する金メダルを獲得。
日の丸飛行隊は再び白馬の地で復活を遂げたのであった。


その後はスキー板の長さにまつわるルール(146%ルール、チビの多い日本狙い撃ち?)や、
ジャンプスーツの余裕に関するルール(板が短くなった代わりにスーツダブダブにしていた日本狙い撃ち?)の改正に悩まされ、
世界選手権では団体戦でなんとか銅メダルに届くのがやっとという流れのまま現在に至っている。


ただ、アダム・マリシュ(169㎝)やシモン・アマン(170㎝)が大柄な選手と互角以上に渡り合っていたため、ルール改正ばかりを言うのもなんだかなあ、という感はある。
ルールへの適応に立ち遅れたにもかかわらず、以前の栄光にすがって指導法を変えずにルールのせいにして言い訳していたかのような時期があり、
その中でマリシュやアマンが活躍したため幻滅したファンも多かった。
ルールもそうだが日本の低迷を招いた要因で一番大きいのは、
デサント、地崎工業など日本のノルディックスキーやウインタースポーツを支えてきた企業や堤義明という大きなパトロンを失い、
少子化や他のスポーツとの兼ね合いで一部の地域にしかないジャンプ少年団に入団する子供が年々減っているということではなかろうか。
ウインタースポーツは機材や遠征費などカネがかかるもので資本投入がなければすぐに干上がってしまうし、
ジャンプは専門性が無茶苦茶高いもののため少年時代から教えこむジャンプ少年団が減ると目に見えて競技人口が減ってしまうのだ。
ジャンプ少年団は地方有志のボランティア的側面があり、トップチームにカネを突っ込んで強化するだけでは裾野が狭まって滅んでしまうというのが辛いところである。
トップチームは打開のために海外からコーチを招いたりと努力はしていたのだが。


ソチ五輪では男子ラージヒルで葛西が銀、男子団体で銅を獲得、女子も高梨沙羅がメダルにわずかに及ばなかったものの、4位に入るなど一時の大低迷期を脱した感はある。
男子は葛西らソチ五輪メンバーに、女子は高梨に続く選手の育成が急務といえよう。


主な選手

笠谷幸生

札幌五輪70m級金メダルを獲得した当時不世出のジャンパー。
1971/72シーズンのジャンプ週間でも開幕から3連勝を遂げ4連勝での完全制覇を望まれたが、
札幌五輪代表選考会のため日本チームが帰国が決まっていたため欠場してしまい、
ポイント制だったジャンプ週間の総合優勝を逃した。ともかく1972年の彼は間違いなく世界屈指のジャンパーであった。


八木弘和

レークプラシッド五輪で銀メダルを獲得したジャンパー。1982年には大倉山のバッケンレコード(当時)を樹立するなど活躍。
怪我などで不振に陥ったサラエボ五輪は完敗して引退。引退後はデサントのコーチとして船木和喜を育て上げ、日本チームのコーチも担当した。


岡部孝信

165センチとジャンパーとしても体格に恵まれなかったがビッグジャンプを連発した。
長野五輪団体金メダル、リレハンメル五輪団体銀メダルの他、1995年サンダーベイで行われた世界選手権ノーマルヒル金メダルなど輝かしい実績を持つ。
ワールドカップ最年長優勝記録(38歳4ヶ月)を保持していた。


葛西紀明

本場もビビらせるカミカゼ・カサイ。詳しくは項目参照。


原田雅彦

誰よりも高く踏み切ると言われた異端のジャンパー。その高すぎる踏み切り故助走が低速になるジャンプ台・雪質では本当に遠くまで飛んで行くが、
条件が噛み合わないと三流ジャンパーよりも酷い落ち方をする極端な男。
いつも笑顔でニコニコしており欧州でのアダ名はハッピーハラダ。
トリノ五輪はコーチ監督の不手際でスキー板の長さをミスって失格になったにもかかわらず不平不満を表立って漏らさない、
不祥事があろうと雪印に対する強い愛社精神を曲げず、彼の存在もあってスキー部は不祥事禍にあっても潰されずに済んだ逸話など彼をポジティブに語る要素は多い。
一方で勝負弱いというレッテルをただ一度の失敗(リレハンメル五輪団体戦のミス)で張られたこともあるが、
1997年トロンヘイムで行われた世界選手権ではノーマルヒル2位、ラージヒル優勝、団体戦2位と圧倒的な成績を残し、
長野五輪でもラージヒル銅、団体戦金と大暴れしたように世界屈指のジャンパーであった。
彼の低速環境に強いジャンプは現在では主流になりつつある。


西方仁也

リレハンメル五輪団体戦メンバー。彼もまたリレハンメルのリベンジを目指していたが長野五輪では代表落ち。
しかし、悪天候に見まわれ2回目の開催が危ぶまれた団体戦でテストジャンパーとして完璧なジャンプを見せ、
2回目の開催を引き寄せた金メダル影の立役者といえる一人。


斎藤浩哉

「教科書」と形容されたほどのオーソドックスを極めたジャンプで活躍した。
1995年サンダーベイの世界選手権ではノーマルヒルで銀メダルを獲得するなど実力も十分。
長野五輪では団体戦二番手として金メダル獲得に貢献した。


船木和喜

「世界一美しい飛行姿勢」を持つ天才。
ワールドカップ15勝は日本男子歴代2位(1位は葛西、女子を入れると高梨沙羅がトップなので3位)、
97/98シーズンのジャンプ週間では三連勝して総合優勝、
長野五輪では金メダル2つ銀メダル1つを獲得するなど間違いなく日本でも屈指の才覚の持ち主であった。
ルール改正や所属していたデサントスキー部からの独立など外的要因で選手寿命を著しく縮めてしまったのが残念でならない。


宮平秀治

社会人になって開花した遅咲きの才能。全盛期が日本ジャンプ陣にとって辛い時期ではあったが、世界選手権などで活躍した。


高梨沙羅

女子ジャンプ界の黎明期より安定した活躍を見せる生ける伝説とも言えるジャンパー。怪我をしても折れない強い心と、ゲートを下げて助走を短くしても遠くへ飛ぶ技術を兼ね備える。
W杯で打ち立てた金字塔の数々は黎明期故のレベルを考慮したとしても色褪せないとてつもない記録ばかりで

  • W杯総合優勝4回はヤンネ・アホネン、アダム・マリシュと並び最多タイ
  • W杯表彰台登壇回数110回は108回のアホネンを超えて最多
  • W杯通算60勝はグレゴア・シュリーレンツァウアーの53勝を超えて最多
  • W杯最多連勝記録10連勝、男子は小林陵侑他の6連勝
  • シーズン15勝(2013/14シーズン)はペテル・プレヴツと並び最多タイ
  • シーズン18戦で全戦表彰台(2013/14シーズン)、男子は達成0、女子でもマーレン・ルンビ(2017/18シーズン)のみ
  • 最年少優勝(15歳146日)
  • 11シーズン連続W杯優勝

とまあ、本当に形容し難い程の栄光を重ねている。特に11シーズン連続優勝が白眉であり、女子ジャンプは旬の短い選手が多いなか、8シーズン連続W杯総合順位3位以内とずっと安定した実力を誇る。
ただ五輪とは相性があまりにも悪く、ソチでは風が悪く苦手の着地で加点出来ず4位、平昌では銅メダルを獲得したが、北京では個人でメダルを逃し、混合団体では大荒れの展開の先触れとなるスーツの規定違反で1回目の記録抹消となりやはりメダルを逃し…とあまりにも運がない。まだ若いので次の五輪も狙えるとは思うがどうするだろうか…


小林陵侑

ついに現れた世界と伍す男子ジャンパー。W杯ポイント0の屈辱を味わったりもしたが、自らを土屋ホームに招いた葛西紀明の教えを受け成長。
2018/19シーズンのW杯総合優勝、2018/19、2021/22ジャンプ週間制覇、北京五輪ノーマルヒル金メダルを達成した。通算26勝は船木を抜いて現在のW杯男子最多勝記録保持者である。ノルディックスキー全体に広げても荻原健司を超えている。


追記・修正はルールの改定に負けずに頑張ってからお願いします。


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  • 高梨さんマジ超高校級のスキージャンパー -- 名無しさん (2014-01-22 21:50:08)
  • 長野五輪の時に滑り台からジャンプする「原田さんごっこ」が子供たちの間で流行って、「原田さんごっこは危険なのでやらないように」ってニュース番組か何かで言ってたのを思い出す。彼はそれくらいに英雄だった。 -- 名無しさん (2014-01-22 22:47:07)
  • 「ルール改正は日本をつぶすため」という陰謀論から脱却しない限り日本の進歩はない -- 名無しさん (2018-04-27 16:41:06)

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