0407 共和国防衛軍

ページ名:0407 共和国防衛軍

0407

 共和国の軍事化は独立直後から色々と言われていた。
 そもそも彼等の"黒服"の存在が明らかになったのだからそれは隠しようもない。
 だが同時に、その非軍事組織程度によって、国が揺るがされ一部を割譲するに至ったことは衝撃的ではあった。
 日本国民で居続けようと言う人であれ、これから共和国民となろうとする人であれ、心的負担になった。
 自分の価値観が揺るがされるとき、それを受け入れるのは人間として大変な行為であるのは間違いない。
 言論界は大いに揺れた。
 普段から偉そうなことを言っている人が狼狽しているのが手に取るように分かった。
 そして、疾風に勁草を知ることになる――その勁草が極僅かなことにも。

 共和国の新政府は、その軍事力について下記のように述べている。

 「武装を放棄すれば、誰かに攻められても国際社会が守ってくれる」と言う論は根強いが、ひとつだけ思考実験をしてほしい。
 他者の武力に頼り、自らの武装を放棄し、自ら己の為に戦う意志を放棄した国があったとしよう。
 仮にその国が他国から攻められたとき、己を守る意志や力も持たない人々のために、何処の国が軍事力を提供するだろうか? あるとすれば己にも領土的野心がある時だけだ。
 そういう時、日本の自衛隊に助けを求めたとして、それに応えるべきと貴方達は言うだろうか?
 あなた方は、自分の理想の結果以外を一切想定しないからそのような矛盾を指摘されるのだ。
 そして、そのような指摘に対して無視をする事によって自分を守ってきたのだ。

 如何なる問題も起こり得るべき事は起こるし、そして見て見ぬ振りをしたとしても問題は消え去ってくれない。
 彼等が軍隊を極度に嫌うのは、世の中には武力によって守らなければならない"優しくない現実"があると言うことを認識させるからである。
 認識から逃げることによって心の中での平和を求めている。心の有り様と世界の有り様は全く無関係であるのに。

 教師がいじめのある状況を無視して、生徒が自殺するに至っても「認識できなかった」と言い張るのと同じだ。現に一人の人間が死んでいても自分の認識の方が優先される人間のことを誰が尊敬するだろうか?
 そして、戦争ともなれば我々は教師の側ではなく、生徒の側に立たされるのだ。

 では、その時に助けに入らなかった人間を、誰が守ってくれるだろうか?
 世界には優しい教員も、守ってくれる警官も更正に裁く判事もいない。
 全て己の行動次第である。
 国際社会に対して責任力を示せない国家は、必要な時に必要なだけの支援を得られない。

 武装しないことが高貴なことだと言うのは、それによって殺される事も辞さないという覚悟を決めた人間だけである。
 政府が各個人に対してそのような覚悟を決めさせるというのは狂気の沙汰である。
 我々は高貴な人間になろうとは思わない。だが同時に国際社会に対しても、国民に対しても責任を持てる政府を目指している。

 責任を果たさず、それでいて自分を高貴な人間だと思い込むのは惨めである。そしてそのような惨めな人々を敢えて守る人はいない。
 近頃は自分のしたくないことを「重要な意味があってしていない」と言う人が増えたが、自分の責任を果たさないでいる現実は何一つ変ってないし、それによって人を動かす事も出来ない。
 日本国政府が実際に我々に対して行動を起こせず、同時に国際社会も我々を支持したのはそう言う事情だからだ。

 自衛隊や米軍を嫌う人が、いざ争いごとになったとき暴力性を丸出しにしているのは、さる総理に対するデモ隊の恥ずべきアピールを見れば分かる通りだろう。
 自分の理想に対してだけは暴力的であってよいと言うのである。そして現実、暴力的な結果となった時、彼等はその暴力を「目的によって肯定される」と言うのだ。
 自分たちがその「目的」の犠牲になる可能性を考えないのだろうか?
 自分は崇高な理想を持ち、"何故自分に価値が高いのか"は自分が決めると言う立場は、結局自分たちが好き勝手暴れても許される理由を求めているからである。

 彼等は普段平和であるとか非暴力である事とかを声高に叫んでいる。何故こんな矛盾があるのかといえば、彼等が人一倍暴力的だからだ。
 暴力的である自分を、自分は暴力を忌避する人間だと言う自己イメージによって誤魔化しているのである。
 実際彼等は、人を殺すという野蛮な行為でさえも美徳に変えてしまうほどの大層な平和主義者であるのは既に証明されている。
 愛を歌ったあのアーチストが自分の子供に暴力を振るい、ご大層な理想を掲げた音楽家が自分の付き人を酷く扱ったり、抑圧的な政府を嫌っている教員が生徒に対して抑圧的と言った例は、彼等が権力を持てばどういうことになるかを教えてくれる。

 彼等は何故そのような矛盾を受け入れられるのだろうか? もし自分が同じ立場になったらどうするのか? どうしてそれを想像しないのだろうか?
 それは想像力が自分を不安にさせるので、世の中を深く知ろう、そして正しく理解しようとするのを恐れるからだ。

 暴力反対を訴える人はすぐに「外交力で解決」と言う。
 国際的な責任を負わない国家が「外交力」などというものを獲得した例があるのであれば是非とも教えてほしい限りだ。この場合の責任とは、世界の平和のために血を流す覚悟に他ならない。
 このような人が現実的に外交の矢面に立つことはない。なので、こういう人が想像する外交とは、エライ人が立派なスーツを着て、綺麗事を無責任に並べ立てる事なのだ。
 いい事を言っていれば人を感動させられると思っているのなら、是非とも当事者である我々を絆す綺麗事を述べて感動させて欲しいところである。
 今ここで我々を説得できないような人間が、現に威嚇している人間をどのように説得できるのだろうか?

 我々は日々、"外交力"を手に入れる為に努力しているし、何かのために味方してくれる友人を作るために心を注いでいる。
 努力のためには何が必要だろうか? それは現実的に何かを動かす力でありお金である。
 この努力は常に泥臭く、常に不断の注意を強いられる。

 彼等が妄想する、"酒を酌み交わして談笑すれば解決する"などということは決してないのだ。何故なら、相手をする外交官や権力者は、その背後に自分の国に愛すべき人達がいるからである。そして、それを信任される責任と権限があるからだ。
 己に理想を持つのは結構だが、我々にも相手方にもその国民の利益と幸福、安全が掛かっているのを理解すべきだ。そして、この利益や幸福、安全がトレードオフになるとき、譲歩とは己の国の国民を窮地に陥れることになるのだ。

 共和国新政府は"防衛軍"を設立し、その強化を図っていった。
 外人部隊も作ったし、省人化の為のハイテク兵器を開発した。
 ただ、共和国国会に於ける予算にはそぐわない成果が出ている。明らかにお金を掛けているのに、国家予算の一パーセントをキープしている。

 これに関して軍は次のように述べている。
 省力化すれば彼等への給料や手当、年金等を払わなくて済む。
 国際平和に資する活動が評価されているという点が我々の活動を支えている側面もある。

 軍の行動計画や共和国の会計は欺瞞に満ちているが、しかし、現実、税金や社会保障費と呼ばれる徴収は少なく、国民は満足している。
 自分の懐が痛まなければ、人が何にカネを使っているのかなど気にならないのかもしれない。

 軍は各国の秘密作戦を請け負っているという側面もある。
 それらは発注元でも計上されないし、請け負った防衛軍も計上しない。

 日本共和国防衛研究所は日々成果を出していて、その中には明らかにされていない成果もある。
 "失敗した"と言う事でマイナス計上される資金は多く、これをそのまま信じるのもナイーヴと言えるだろう。

 そうして作り出したカネが、内務的にも外務的にも人には言えない活動に使われているのは間違いない。
 そしてそれが彼等の誇る"外交力"を生み出している。

「何故彼等が共和国の話を聞いてくれるのか? 日本国から独立したばかりの小さく力もないこの国に?」
 とはよく語られる議論だが、不死者が如何に国際政治に根茎を巡らしているのか。そして、その為にどれほどの力を行使しているのかを真正面から語る人はあまり多くない。

 市井の人が共和国の外交力を語る場合、以上を理解した上で濁している場合が殆どであるが、しかしたまに「リベラルな思想を持つこの国の理想が憧れと共に尊いものだと理解されているから」と本気で語る人がいる。

 このような手合いは自分の高貴さと自分が所属している、それも"単にそれが好きだと言う理由"で所属していると思える高貴さを同一視する。
 赤の場合以前から"愛国者"の中にもそう言う人間がいた。
 自分が生まれた国と言うだけで、その国が優れていると思えば、自分も共に優れていると錯覚できるのだ。

 では反日とか反共和国のような人間が"正しい"人間だという考えは、あのような考えの鏡写しでしかない。
 自分の組織を批判できる自分は、それだけで組織の害悪の真反対の人間であると信じている。

 どんな国も、どんな組織も、そしてどんな人間にも、絶対的な善悪や優劣なんて存在しない。
 もっと言えば、"真実"も"正しい歴史"も存在しない。
 それぞれの国が、国民が、政治的志向が自分の見たい歴史を見たがる。
 自分が自分の学んだ歴史を正しいと信じるのは、それを共有している集団を正しいと信じていて、そして自分がそれに所属しているからに他ならない。
 それは右翼でも左翼でもはたまた陰謀論でも変らない。
 自分こそは欺瞞から脱出した目覚めた人間なのだと信じている。

 誰がその正気を証明するだろうか?
 勿論、双方に様々な物証を用意するだろう。
 だが、そんな物証とて選好に曝される。否、その当時から既に何らかの思想に影響されているだろう。

 それ故に歴史は難しい。難しい故に、歴史学者が思想に填まり込んではいけない。
 歴史を語る人の中で、この条件を満たしている人はどれほどいるだろうか?

 価値観が絶対であると妥協を全面降伏と思ってしまう。
 本来問題解決とは、お互いの相対評価の中で妥協点を見つけていく作業だ。それが出来ないと、相手を討ち滅ぼす以外の道がなくなるのだ。

 共和国と反共和国の言い争いは大体そう言うものだ。
 共和国の短い歴史でもこれほどの論争が繰り広げられる。それが何十年も、何百年もはたまた何千年も過去に遡れば、容易に解決出来るものではない。

 長命種は恐らく、そう言う議論をよしとしている。
 それ故に、歴史的証拠をあやふやにしている。
 愛国者には都合のいい敵が必要なのである。

 害にならない敵は便利である。
 幾ら国民に不満の少ない国とは言え、人間とは常に自己に不満を持つ。そして、そのような人に敵を作ってやる必要があるのだ。
 何処の国でもやっている。それが隣国であったり、特定の思想であったり、民族や宗教、社会的地位などだ。所謂分断して統治せよと言うものだ。

 しかし、この敵はどれほど実体があるだろうか?
 共和国の野党はかなり政府の影響を受けている。
 ネットで甲論乙駁している相手も誰だろうか? 近頃は優秀なAIが行っているなんて説もある。

 "冷めた"人はこういう政府の行為に感づいているがそれについて反対も苦情も申し立てない。
 それが何の徳にもならない事を知っているからだ。

 不死者が気に入らない人間は国を出ていくしかない。
 それでも共和国にアレコレ言う人は、共和国の恩恵をそのままに自分の不満を人に解決して欲しいのだ――そう解釈される。
 勿論、そう言う不満の声もしっかりとコントロールされているのだが。

 不死者は人間の本性を利用して、それを余すところなく利用している。
 統治とは本来そうであるべきなのかもしれない。
 

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