平等寺_(阿南市) - 巡礼 Wiki
2年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 - 1736年)になって照後僧正によって再興される。境内[]山門(仁王門・楼門)本堂:格天井には多くの草花を描いた天井画がある。大師堂鐘楼地蔵堂観音堂護摩堂十王堂鏡の井戸(弘法の霊水・白水の井戸):この水は万病に効くとの
2年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 - 1736年)になって照後僧正によって再興される。境内[]山門(仁王門・楼門)本堂:格天井には多くの草花を描いた天井画がある。大師堂鐘楼地蔵堂観音堂護摩堂十王堂鏡の井戸(弘法の霊水・白水の井戸):この水は万病に効くとの
11第十番清水寺善光寺堂北法相宗如意輪観音東山区清水一丁目294第十一番清水寺奥の院北法相宗三面千手観音東山区清水一丁目294第十二番清水寺本堂北法相宗千手観音東山区清水一丁目294第十三番清水寺朝倉堂北法相宗千手観音東山区清水一丁目294第十四番清水寺泰産寺北法相宗千手観音東山
て再興され、現在の山号、寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に火災で全焼、明治になって現在の堂宇が再建された。境内[]山門(楼門)本堂大師堂鐘楼両側に大草鞋がかけられた重層の山門を入ると左側に手水場がある。最も奥に本堂が建ち、本堂の右に大師堂が並ぶ。本堂に向かって左側に
皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度のの兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築された。境内[]本堂大師堂:昭和60年(1985年)落慶。鐘楼:明治14年(1881年)建立。今治城内の太鼓楼の古材で再建された。不動明王弁財天千体仏不忘松
尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻んで、元正天皇の念持仏である金銅千手観音像をその胎内に納め祀ったのが当寺の初めとされる。伽藍[]本堂は、天正5年(1577年)に再建されたもので、寛永年間に解体修理された。当寺には山門は現存していない。本堂脇の不動堂は度々建て替えが行わ
源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると戦災により当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり毎年3月19日には慰霊法要が行われている。義経は焼亡
入山した際に大日如来を刻み、これを本尊としたという。明治初年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明治42年(1909年)に再興される。境内[]山門本堂大師堂鐘楼聖天堂星供大師庫裏・客殿山門を入り参道を進むと右に手水場があり、左に行くと庫裏・客殿・納経所が、右に行くと正面に鐘楼・星供大師
戸沖で暴風雨に遭ったとき、どこからともなく一人の僧が現れて船の楫をとり無事に室津の港に着けて立ち去った。衣から垂れた水跡を辿っていくと本寺の本堂の前で終わっていた。そこで本尊を拝観するとその姿が濡れており、本尊の地蔵菩薩が僧に姿を変えて船を救ったことを悟った。このことから本尊を楫
幕府の武将が伽藍を整備した。正徳5年(1715年)の山火事で焼失し、江戸時代中期の天明5年(1785年)に住職の尽力により復興した。境内[]本堂大師堂鐘楼一願弁財天堂仏手石仏足石籾大師説法石経塚万霊塔イブキビャクシン:樹齢千年を超すといわれる松山市指定天然記念物。正岡子規の句碑:
香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。伽藍[]山門本堂大師堂五大堂六角地蔵堂白猴欅(はっこうけやき):樹齢1600年とも言われるケヤキの老木であり、香川県の天然記念物に指定されていたが枯死し
建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。昭和2年(1927年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は昭和15年(1940年)に再建が開始されたが戦争により中断、昭和46年(1971年)
から、築池の成功に対して朝廷から銭二万銭が与えられた。弘仁12年(821年)、その銭の一部によって堂を建立した。伽藍[]山門 2008年落慶本堂大師堂宿坊:なし交通アクセス[]鉄道四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 - 善通寺駅 (3.6km)道路一般道:県道48号線 善通寺球場
菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。足利尊氏は本寺を祈願所とし、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の帰依を受けていた。境内[]山門(仁王門)本堂大師堂鐘楼十二社神社三面大黒天堂:中央に大黒天像、右に毘沙門天像、左に弁財天像が安置されている。参道より石段を上ると山門があり、入ってい
ながる仏教者がこの地に存在したことは想定される[1]。伽藍[]寺は大正2年(1913年)の山火事で全焼し、現存の諸堂はそれ以後の再建である。本堂にあたる根本中堂の本尊十一面観音像は秘仏。大講堂本尊の千手観音坐像(大正時代作)は秘仏でなく拝観可能である。西国三十三所の札所本尊は後者
)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。境内[]山門(仁王門):明治33年(1900年)の久保南窓の筆による八方にらみの龍が描かれている。本堂大師堂鐘楼観音堂琴平神社厄除け薬師如来像:高さ15m 戒壇巡りをすると厄除けのご利益があるという。観音像修行大師像子安地蔵水子地蔵高岳親
極楽寺本堂所在地徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地位置テンプレート:ウィキ座標2段度分秒山号日照山宗派高野山真言宗本尊阿弥陀如来開基(伝)行基正式名日照山 無量寿院 極楽寺札所等四国八十八箇所2番文化財阿弥陀如来像(重要文化財)テンプレート:右極楽寺(ごくらくじ)は徳島県鳴門
祈願して開基したと言われている。後に行教上人が山頂に神仏混合の岩清水八幡宮を創建した。明治初年に神仏分離令によって現在地に移された。境内[]本堂大師堂鐘楼薬師堂金毘羅堂庫裏八幡宮への上り口付近から右に入って行く。山門はなく右手に鐘楼があって参道奥に本堂がある。本堂右手に大師堂、そ
如来創建年伝・天平元年(729年)開基伝・行基、聖武天皇(勅願)正式名熊野山 虚空蔵院 石手寺札所等四国八十八箇所51番文化財二王門(国宝)本堂・鐘楼・三重塔ほか(国の重要文化財)テンプレート:Mapplotテンプレート:Commons石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市石手にある
年 - 1830年)に現在の諸堂が建立された。境内[]テンプレート:Commons山門(仁王門):参道の上り口の道から外れた所に建っている。本堂大師堂:本尊は空海自刻と伝える。鐘楼地蔵堂毘欄樹(県の天然記念物):「弘法大師お手植え」と伝えられている。玉依御前の剃髪所道から外れた山
要を著したことは有名である。明治の頃、五十三番札所の須賀山圓明寺との混同を避けるため、通称の延命寺を寺号とした。境内[]山門 単層の小型の門本堂大師堂鐘楼薬師堂山門を入ると右手に鐘楼が、少し先に手水場があり左には薬師堂、納経所がある。石段を少し上ると正面に本堂が建ち、左に大師堂が
れた。伽藍[]ファイル:Iyadaniji 08.JPG岩窟の護摩堂ファイル:Iyadaniji 06.JPG阿弥陀三尊磨崖仏山門(仁王門)本堂大師堂・獅子の岩窟(奥の院)鐘楼堂多宝塔観音堂十王堂岩窟の護摩堂阿弥陀三尊磨崖仏水場宿坊:なし文化財[]重要文化財金銅四天王五鈷鈴香川県
立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。伝説によれば延喜11年(911年)赤い亀が境内にある池からいなくなったが、やがて銅
安観音)。四国八十八箇所霊場の第十四番札所・常楽寺の奥の院。目次1 概要2 前後の札所3 関連項目4 外部リンク概要[]常楽寺の寺領に位置。本堂には十一面観世音菩薩脇仏を本尊とし、脇仏に弁財天、昆沙門天を安置している。本堂の東側に生木地蔵尊のお堂がある。Myounzan Jige
院真言宗御室派阿弥陀如来廿日市市宮島町魚之棚64587多喜山水精寺大聖院真言宗御室派波切不動明王廿日市市宮島町滝町21088多喜山水精寺弥山本堂真言宗御室派虚空蔵菩薩廿日市市宮島町弥山番外霊場・原爆供養塔・広島市中区中島町平和公園内関連項目[]中国三十三観音霊場中国四十九薬師霊場
空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。境内[]本堂:大師堂と護摩堂のある本坊より山道を徒歩で約15分登った場所にある。大師堂護摩堂本坊穴禅定:徳島県指定天然記念物の鍾乳洞。本堂の更に上部
菩薩創建年(伝)704年(慶雲元年)開基真応上人別称成相観音札所等西国三十三観音28番文化財絹本著色紅玻璃阿弥陀像・鉄湯船ほか(重要文化財)本堂・鎮守堂・成相寺参詣曼荼羅ほか(府文化財)成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にある寺院。山号は成相山。西国三十三箇所第28番札所。本尊
を越え、翌日早暁に峠の麓にあるこの寺院で休息したと言われている。戦国時代に伽藍が焼亡し、江戸時代に境内が大幅に縮小し再建された。伽藍[]山門本堂大師堂(白龍大弁財天堂)弁慶鐘撞きの鐘楼義経の手洗堂義経鞍掛の松(2代目)義経馬洗いの池画像[]Kaizoin Tokaiji 02.J
し、山号・我拝師山、寺号・延命院曼荼羅寺と改称したと伝える。空海の手植えとされた「不老松」があったが、2002年に枯死している。伽藍[]山門本堂大師堂観音堂護摩堂地蔵堂鎮守堂愛染堂宿坊:なし文化財[]木造聖観音立像(平安時代後期・香川県指定有形文化財)交通アクセス[]鉄道四国旅客
」 DSCF6957.JPG空海の七不思議「くわずいも」の伝説にちなみ作られているクワズイモ畑テンプレート:Commons山門(仁王門)重層本堂大師堂多宝塔宝物館鐘楼堂霊宝殿聖天堂護摩堂室戸岬に近い登山口から岬の高台に登っていき灯台への分岐点を過ぎると仁王門に至る。門を入ると右に
在でも、ここから室戸岬へ向かう数kmは店舗や自動販売機が無く、歩きの巡礼者が休憩に立ち寄っている。画像[]Toyodaishi 02.JPG本堂Toyodaishi 03.JPG観音堂(左)と通夜堂(右)参考文献[]宮崎建樹/著 『四国遍路ひとり歩き同行二人』解説編 へんろみち保
方墳と推定されるが開発等により変形している。昭和43年(1968年)10月25日指定。画像[]Daihozan Monjuin 03.JPG本堂Daihozan Monjuin 04.JPG大師堂Daihozan Monjuin 05.JPG弘法大師像Daihozan Monju
寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。御詠歌[]深山路や檜原松原わけゆけば槇の尾寺に駒ぞいさめる境内[]麓には駐車場があるが、本堂に至るには
64年)崇徳天皇が讃岐流刑地で没した際に、慰霊のために陵墓近くに頓証寺が建立され、これが現在の白峯寺になったとされる。伽藍[]山門(七棟門)本堂大師堂崇徳天皇陵頓証寺殿金堂薬師堂鐘楼宿坊:あり(団体のみ宿泊可能:100名)文化財[]重要文化財(国指定)石造十三重塔 - 2基木造頓
茨城県の竹林山地蔵院の寺格を移して再興され、昭和に入って神峯寺と称するようになった。境内[]テンプレート:Commons山門(楼門・仁王門)本堂大師堂鐘楼庭園:庫裏から本堂までの参道に続く山肌の斜面一面に造園される。つつじ、さつき、モモ、モクレン、紅葉が美しい。聖観世音菩薩像地蔵
めようとする人は本寺を起点とする場合が多いため、巡礼装束である白衣や金剛杖、菅笠、納経帳、掛け軸など様々な巡礼用品を揃えることができる売店が本堂横と駐車場にあり、遍路初心者には遍路作法なども伝授している。本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばくご詠歌:霊山の 釈迦の御前に め
皇の勅命により「金倉郷(当時の地名)」から名前をとり現在の金倉寺と改名したとされる。伽藍[]ファイル:Konzouji-02.jpg境内山門本堂 本尊薬師如来のほか、不動明王、阿弥陀如来を安置する。大師堂 智証大師(円珍)像と弘法大師(空海)像が安置されている。四国八十八箇所の寺
ていた。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。後に一遍上人が踊り念仏の道場寺とし、その頃に郷照寺に改称したという。伽藍[]本堂大師堂庚申堂粟島堂庭園宿坊:なし交通アクセス[]鉄道四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - 宇多津駅 (1.5km)道路一般道:県道33号
600年)に落慶している。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)本堂であったという。部材には平安時代のものが残るが、堂が湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在する。立ちの高い
隆が乳母を誤って射殺してしまったため、これを悲しんで桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。伽藍[]山門(仁王門)本堂大師堂多宝塔目治し薬師宿坊:なし交通アクセス[]鉄道四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - 多度津駅 (1.2km)道路一般道:県道21号
を寄進しているほか、土佐藩主の祈願所とされた。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている。境内[]テンプレート:Commons山門(単層の仁王門)本堂大師堂鐘楼堂霊宝殿護摩堂魚籃観音弁財天稚児大師一粒万倍の釜ファイル:Kongochoji,龍頭山金剛頂寺 (室戸市)、高知県室戸市元崎山
と交差し御所大橋を渡る。3kmほどで右に自動車道の高架が近づいてきたら標識に注意して右の細道に入ると、正面に8番熊谷寺の大きな山門が見えるが本堂はまだ300m先である。山門下まで戻って県道139号線を歩き、標識に沿って左に進む。田園風景の向こうに9番法輪寺を囲む森が見えてくる。門
の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。境内[]テンプレート:Commons山門(仁王門)本堂大師堂多宝塔鐘楼護摩堂愛染堂不動堂権現堂行者堂和泉式部逆修塔弁財天庭園山門を入ると左手に弁財天、不増不減の手水鉢、鐘楼がある。右手の納経
金泉寺(こんせんじ)本堂所在地徳島県板野郡板野町大寺66位置テンプレート:ウィキ座標2段度分秒山号亀光山宗派高野山真言宗本尊釈迦如来創建年伝・天平年間(729年 - 749年)開基伝・行基、聖武天皇(勅願)正式名亀光山 釈迦院 金泉寺札所等四国八十八箇所3番金泉寺(こんせんじ)は
いう歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で消失。延宝6年(1678年)に再建されたが、昭和34年(1959年)に失火で本堂を焼失、現在の本堂はその後に建立された。境内[]ファイル:Kanjizaiji 07.JPG八体仏十二支守り本尊山門(仁王門):総欅造本
玄和尚が復興した。廃仏毀釈により廃寺となった時、寺院跡に隣接して秦神社が建立され長宗我部元親が祀られた。境内[]テンプレート:Commons本堂大師堂鐘楼観音堂安産堂太玄塔・玄峰塔:17代山本太玄住職、第18代山本玄峰住職の供養塔。石柱門から境内に入ると右に鐘楼、左に手水場がある
れている。昭和62年(1987年)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれ、訪れやすい寺となった。境内[]山門(仁王門)本堂大師堂鐘楼護摩堂五社大権現五百羅漢毘沙門天展望館本坊ロープウェイ山頂駅宿坊:なし駐車場:20台(ロープウェイ山麓駅駐車場:800台、大型
741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。伽藍[]山門本堂仮大師堂(烏瑟沙摩明王堂):大師堂は1996年に火災で焼失したのち再建されていない。鐘楼堂地蔵堂白山大権現・秋葉大権現庭園(国の名勝):
、得度したとの言い伝えもある。伽藍[]山門日本三大名門の1つという。寛文10年(1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる。本堂大師堂護摩堂薬師堂自在天堂経幢2基石造。西側のものが弘安6年(1283年)、東側のものが弘安9年(1286年)の建立。国の重要文化財。宝
を巡る巡礼地。霊場一覧[]ファイル:Onsenzan-anrakuji-main.JPG二番札所安楽寺ファイル:P4022349-3番金泉寺本堂.jpg九番札所金泉寺札番寺院名所在地1神宮寺徳島県阿波市土成町吉田字一の坂92安楽寺徳島県板野郡上板町引野寺の西北83和泉寺徳島県板野
波藩主蜂須賀光隆の支援を受け宥応法師が再建した。境内[]山門(鐘楼門) 和様重層の堂々とした門であり、こぢんまりした境内に重みを見せている。本堂大師堂庚申堂夜鳴き地蔵尊:子どもの夜鳴きにご利益があるとされる。水子地蔵尊仏足石八幡大神宮(国府八幡)・惣社大御神(阿波総社宮):八幡宮