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藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、漫画家コンビのペンネームで『オバケのQ太郎』などの作者。共に富山県出身。ファンの間では「ふじこ ふじお」と発音する場合もあるが、当人たちは「ふじこ ふじお」(「ふ」にアクセント)と発音していた。
コンビ結成初期は二人とも手塚治虫タッチで絵の描き方が一緒であった為、二人でひとつの漫画を描くという完全合作に挑戦していたのだが(片方がシナリオ、片方が作画というコンビは多い)、お互いの作風、作画に変化が現れた後は、コンビと言っても共著は前述の『オバQ』等が数点あるのみで、別々に作品を執筆し、それぞれが藤子不二雄名義で発表するという、2人で1つのペンネームを使用するという方法を執っていた。1988年にコンビを正式に解消し、藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐになる。コンビ解消前は「藤子不二雄」名義であった作品でも、後にいずれかの名義に改められたものも多い。
二人の出会いは氷見市に住んでいた安孫子の父が亡くなり、1944年(昭和19年9月)に高岡市に引っ越して来て、高岡市立定塚小学校5年2組で同じクラスになったことがきっかけである。当時人付き合いが苦手だった安孫子がノートに絵を描いていたところ、同じく人付き合いが苦手だった藤本が珍しく話し掛けたことで二人は知り合った。クラスメイトの似顔絵などを描き、代金の代わりに肝油などを貰っていた。一旦安孫子は戦争の疎開のために富山県山崎村(現朝日町)へ疎開したが、終戦後再会した。
中学・高校時代は二人で反射幻燈器(スライドのようなもの)を利用した物語や、同人誌『Ring』や『少太陽』を製作し近所の子どもたちに見せていた。なお、当時製作された『少太陽』は数冊現存し、『開運!なんでも鑑定団』で1200万円と鑑定されている。手塚治虫のストーリー漫画に衝撃を受け、また映画や小説などを鑑賞し多感な時期を過ごした。当時の漫画好きな少年たちの王道として雑誌『漫画少年』へ投稿したりするなど漫画への熱意は絶えることはなかった。1951年(昭和26年)に『毎日小学生新聞』へ四コマ漫画『天使の玉ちゃん』を送ったところ掲載され、事実上のデビュー作となる。同年二人は宝塚の手塚の自宅へ訪れ、二人が書いた漫画を見せる。手塚はその際「うん、上手だね」という言葉を掛けてその場を取り繕ったが、内心は「とんでもない子達が現れた……」と恐怖心・ライバル心を抱いたという。この時二人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。
漫画家を目指すにあたり、一人でやるより二人でやったほうが力になるだろうということで合作を決意。以後、『新宝島』の手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」の名で投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」足塚不二雄名義になった。
高校卒業後(1952年・昭和27年)、安孫子はおじが経営していた富山新聞社へ入社、藤本は製菓会社へ入社した。しかし、藤本は自分には合わないと、数日で辞めてしまう。安孫子は得意の漫画をいかして紙面にイラストを多く取り入れるなどし、順調に会社勤めをこなしていた。一方、藤本は雑誌社へ送る漫画を描き、週末には安孫子も手伝うという状態だった。足塚不二雄はじめての連載作品である『四万年漂流』を連載しはじめたが、数回で打ち切られる。その後、最初で最後の書き下ろし単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』(鶴書房)が出版される。これは名義が「足塚不二雄」であり、現存冊数も少なく日本で最もプレミアム価値がついた漫画単行本の一つである。
1954年(昭和29年)6月10日、藤本が安孫子を誘う形で二人は上京。後がない藤本と違って、安定したサラリーマン生活がある安孫子は新聞社に未練があったと語っている。最初に二人が暮らしたのは東京都江東区森下にある安孫子の親戚の家を間借りした2畳の和室であった。東京ではトキワ荘に住んでいた寺田ヒロオたちと新進児童漫画家のグループである「新漫画党」を結成。この頃描いた『探検王』の読みきり・『宇宙鉱脈』から、ペンネームを「足塚不二雄」から2人の名前を取って「藤子不二雄」に変更。やがて手塚治虫がトキワ荘を出たため、藤子不二雄の二人は手塚がいた部屋の後釜に納まる。トキワ荘入居後、読みきり作品や新漫画党メンバーによる合作などをこなしていくうちに仕事が急増し、毎月6本の連載漫画を持つようになる。
しかし、自己の能力の限界を無視して仕事を引き受け過ぎたため、1955年1月、富山に一時帰省中、連載の〆切をほとんど落とすという大失態を演じてしまう。
以後、一時は漫画家廃業も考えたが、寺田ヒロオの勧めもあり、再びトキワ荘に戻る。約1年間は雑誌社から干されて不遇をかこつが、何とか復帰を果たす。またこの頃より合作ではなく、単独で描いた漫画が徐々に増えていく。また、近所のアパートの一室を借りてその部屋を仕事場とした。
漫画を描くかたわらで、当時珍しかったテレビを秋葉原で購入したり、8ミリカメラで映画を製作したりする。テレビの導入は週刊誌での連載が増えて〆切日も短くなったため、時間や話題を知るために役に立ったといい、仕事中はつけっぱなしにしていたという。
1959年(昭和34年)、トキワ荘を出る。小学館が創刊した『週刊少年サンデー』に『海の王子』(合作)を連載。1960年、光文社の『少年』で『シルバークロス』(安孫子)連載。
1963年(昭和38年)、鈴木伸一・石ノ森章太郎・赤塚不二夫・つのだじろうらとアニメーション・スタジオであるスタジオ・ゼロ結成。
1963年に藤子不二雄の二人とスタジオ・ゼロによって描かれた『オバケのQ太郎』が大ヒット。これまではシリアス志向の作品が多かったが、これにより「ギャグ漫画の藤子不二雄」として広く認知される様になる。
これに続いて『パーマン』(藤本)・『忍者ハットリくん』(安孫子)・『怪物くん』(安孫子)・『21エモン』(藤本)などの現在でもよく知られた漫画が続々と発表され、またアニメ化される。
1960年ごろから、劇画が隆盛し、少年誌もそれまでよりもずっと対象年齢が高い漫画を中心に載せるようになった。
1968年(昭和43年)に『ビッグコミック』で安孫子は『黒イせぇるすまん』を発表。それまでもブラックな漫画をしばしば発表していたが、大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。また少年漫画においては1972年に連載を開始した『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』のようなブラックユーモア漫画を描いていた。その他、『プロゴルファー猿』のような大作も生まれた。
一方、藤本は児童漫画に取り組んでいたが、劇画隆盛の中、『ウメ星デンカ』や『モジャ公』など思うように人気が出ず悩んでいたといわれる(ただし、現在では『モジャ公』の評価はファンの間で非常に高い)。そんな中、1970年(昭和45年)に連載が開始された『ドラえもん』の人気が小学生の間で徐々に上がっていく。また、SF短篇作品を多数発表している。
『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が1977年(昭和52年)に創刊し、また『週刊少年キング』には藤子不二雄の自伝的漫画である『まんが道』(安孫子)も連載された。
1979年に『ドラえもん』がテレビ朝日でアニメ化され、『ドラえもん』人気が不動のものとなる。『ドラえもん』に続いて1980年代には『怪物くん』・『忍者ハットリくん』・『パーマン』・『オバケのQ太郎』・『プロゴルファー猿』・『エスパー魔美』・『ウルトラB』・『ビリ犬』が立て続けにテレビ・アニメ化や映画化されるなど藤子不二雄アニメがテレビに溢れた。また藤子不二雄の漫画全集である『藤子不二雄ランド』が創刊された。
一見すると好調に見える時期だが、藤本はしばしば体調を崩し、『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』(1988年公開)は映画原作漫画が描かれなかった。
1987年(昭和62年)、コンビを解消する。コンビ解消の理由については藤本が「実際一緒に作品を描いたのは最初の頃だけで、以降はお互いが別々に作品を描いては藤子不二雄の名前で発表していたものですから、もうここらへんで、お互いに藤子不二雄のネーム・バリューに頼らず一本立ちしていってもいいんじゃないか、と話し合い解消しました」等と共同で発表した。解消後も2人の間には密な交流があった。当時の互いの事務所(藤本は「藤子プロ」を立ち上げ、安孫子は「藤子スタジオ」に残る形がとられた)も隣同士のビルであった。
コンビ解消後安孫子は藤子不二雄Ⓐに、藤本は藤子不二雄Ⓕとしたが、1年後に藤子不二雄Ⓕは「あのね、藤子不二雄Fじゃちょっと語呂が悪いよ。Fを真ん中に持ってきたらどうだ?ミドルネームみたいでかっこいいじゃないか」という石ノ森章太郎の薦めにより藤子・F・不二雄へと変えた(安孫子は現在も藤子不二雄Ⓐ(藤本と違い藤子・A・不二雄ではない)として執筆活動を続けている)。
コンビ解消の理由について、当初は2人が詳しく語らなかったためか、いろいろ憶測されることがあった。例えば、「共同名義の作品の中で『ドラえもん』の人気が圧倒的に高いにもかかわらず、収入は折半という約束をかたくなに守り続ける藤本への安孫子の配慮」という噂がある。
後に安孫子はインタビュー(『別冊宝島』409 ザ・マンガ家/宝島社)で、コンビ解消の理由として「藤本は生活ギャグ一本でやってきたが、自分は傾向が変わってきた。ブラックユーモアを描くようになったのが転機となった。作品も生活も自分と藤本とは違いが出て来た。自分が過激なのを描こうとして、藤本の『ドラえもん』を傷つけるといけないから。50まで漫画やるとは思わなかったし、やることはやり尽くして来たので、あとは好きな様に気楽にやろうと別れた(以上要約)」。参考:ドラえもんコラム008
しかし『笑ゥせぇるすまん』の元となった『黒ィせぇるすまん』はコンビ解消から20年近く前(昭和40年代)に執筆された作品であり、その時期既に安孫子は『黒ベエ』や『ブラック商会変奇郎』『夢魔子』『仮面』シリーズ、昭和50年代には傑作と名高い『魔太郎がくる!!』などダークな作品群を多く発表していている。ブラックユーモアを描くようになってから、コンビ解消を決断するまで、かなり長い期間を必要としたようだ。
コンビ解消後、藤子Aは、『コロコロコミック』の『ビリ犬なんでも商会』連載終了により児童漫画を離れた。そして取り組んだのは『少年時代』の映画化だった。映画は大成功し、またテレビ番組『ギミア・ぶれいく』へも出演した。『ギミア・ぶれいく』では『笑ゥせぇるすまん』などのブラック作品がアニメ化され、こちらも人気がでた。結果として従来の児童漫画家としての藤子不二雄のイメージから脱却し成功を収め、テレビ出演の機会も増えた。
その事について当人は『ROCKIN'ON JAPAN』2005年4月増刊号の特集において「『ドラえもん』のサインをしてくれと言われ、僕は『違う』と言うが、子供がせっかくそう言って断るのもなんだから、時々描いてたりはした。そういう意味でコンビ解消は、確かにスッキリした部分はある(以上要約)」と語っている。
漫画創作活動は、過去の作品の続編が目立っている。
漫画界の大御所として、著作権法改正のためにマスメディアなどで活発な活動を行った。
富山県警のシンボル・マスコット「立山くん」の原画を担当した。2007年11月に創刊された「ジャンプSQ」にて「PARマンの情熱的な日々」連載開始。新作は20年ぶりだと週刊少年ジャンプにて語る。
藤子・F・不二雄[]映画の原作となる漫画『大長編ドラえもん』を毎年コンスタントに描く一方で、健康の悪化が続いた。そんななか、『キテレツ大百科』のアニメ化や、『未来の想い出』が実写映画化されたりしている。
大長編ドラえもん『ドラえもん のび太と雲の王国』を『コロコロコミック』に連載中に入院(1992年)、この時はストーリーが絵物語で掲載されるという異例の事態になった。1996年、『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の最初の数ページ目を自宅の仕事場で描いている最中に倒れ、三日後にその生涯を閉じた。「藤子・F・不二雄ミュージアム(仮称)」が、晩年を過ごした川崎市多摩区にある生田緑地に建設予定。
初期の作品に、
などがある。
『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』1977年 毎日新聞社 ISBN 4620300810 文庫版 文春文庫 ISBN 4167253011安孫子の『まんが道』とは異なり、純然たる自伝。また、漫画ではない。主に安孫子が書き、各章の冒頭に藤本のコメントが付いている。
藤子不二雄の頃、設定したもので、コンビ解消後も、それを受け継いでいる。
藤子不二雄Aと藤子・F・不二雄の両方の漫画に登場するキャラクターとして
などがいる。
Smallwikipedialogo.png | このページには、クリエイティブ・コモンズでライセンスされたウィキペディアの記事が使用され、それをもとに編集がなされています。使用された記事は藤子不二雄にあり、その著作権者のリストはページの履歴に記録されています。 |
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