登録日:2015/05/05 Tue 18:26:04
更新日:2024/01/12 Fri 11:49:41NEW!
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剣豪小説 武士 短編 藤沢周平 秘剣 女剣士 女人剣さざ波
藤沢周平の短編剣豪小説。世に語るべからざる「秘剣」を身につけた武士と、その周辺の人々を主人公に据えた短編小説のシリーズである”隠し剣”シリーズの内の一編。
初出は文芸誌「オール読物」の1977年12月号。
現在は”隠し剣”シリーズを纏めた短編集「隠し剣孤影抄」(文春文庫)に収録されている。またその他、藤沢氏の全作品を収録した「藤沢周平全集」の第16巻に収録されているが全集だけあってこっちは生粋のファンでもなければ手を出しにくいであろう。
□概要
秘剣を題材とした短編剣豪小説”隠し剣”シリーズの第六作目。前作は「隠し剣鬼ノ爪」、次作は「悲運剣芦刈り」。シリーズではあるものの、基本的に各話間に繋がりは無く、これ一話で完結する。
本作では秘剣の要素はエッセンス程度に止められ、どちらかといえば夫婦の問題を主軸においている。
【物語】
勘定組の平藩士、浅見俊之介は妻の邦江を娶った事を後悔していた。
邦江の姉の千鶴は城下でも評判の美人であり、同じ血を持つ邦江もまた相当の美人であろうと期待して婚姻したのだが、実際に嫁入りしてきた邦江は姉とは似ても似つかぬ不器量な外見であったのだ。浅見はひどく落胆したが、一度縁を結んだ相手と外見を理由に離縁しては武士としての面子も立たない。その為浅見は離縁こそしないものの、邦江との間に距離を保ち、今日も今日とてお気に入りの芸妓であるおもんとの茶屋遊びに興じていた。
だが浅見はただ遊ぶ為だけに茶屋に入り浸って入る訳ではなく、ある一つの密命を帯びていた。その命の主は筆頭家老筒井兵左衛門である。内容は、元筆頭家老であり筒井の政敵でもある本堂修理に不穏な動きがあるため、本堂の子飼い達が集会所にする茶屋、「松葉屋」に入り密かにその動向を探れ、というものであった。
本堂は筒井との政争に破れ、家老の座を追われ閉門処分を受けた身であるものの、今もまだ派閥の人間は多く、家老の座に返り咲く時を虎視眈々と狙っている。筒井としてはそんな本堂の動きには気付いたものの、筒井派の人間が急に本堂派の拠点である松葉屋に入り浸っては本堂を疑っているという事に気付かれるためそれは避けたい。その為普段から茶屋通いを続けており、尚且つ藩内の政争から距離をとっていた浅見に白羽の矢が立ったのだ。
剣の腕も立たず、政争にも興味がない浅見は気は乗らぬものの、結局は筒井の迫力に押されその役目を受ける事となる。
とはいえ、仕事と言えば基本的に何時集まるか解らない本堂派の人間を松葉屋で待つ事が多い。経費は筒井から出るため実質タダである。密命を理由に浅見の茶屋通いは深みに嵌って行き、それと共に妻女である邦江の扱いもおろそかになってゆくのであった。
そんなある日。いつもと同様に松葉屋を訪れていた浅見は廊下で一組の男女とすれ違う。男には見覚えが無かったものの、女の方は見覚えがあった。それは邦江の姉の千鶴であった。そう、千鶴もまた、浅見と同様に伴侶には秘密の遊びに興じて居たのだ。
千鶴との刹那の邂逅の後、部屋に戻った浅見はおもんから本堂派の人間がどこかの見知らぬ金持ちと離れへと入った事を聞かされる。それは、本堂派を今度こそ完全に瓦解させる、確かな不正の証拠であった。
【登場人物】
○浅見俊之介
石高百石足らずの下級藩士。現在は勘定組に勤める。父親を元服の翌年に失っており、現在は嫁の満江、母の満尾と三人暮らし。
たしなみとして一刀流の剣を習っていたものの、才がなくモノにならなかったため離れており、剣術方面の話題には疎い。かと言ってその他に秀でたものがあるわけでもなく至って普通の平藩士。
当時評判の美人であった千鶴の妹との縁談が持ち上がり、さぞ美人であろうとの勘違いから一も二も無く飛びつく。その後結局祝言の少し前まで本人に会うことが無かったため、本人にあってその不器量具合に落胆する事となる。とはいえ祝言を目前に婚約を解消する訳にもいかず、不満を隠したまま邦江との婚姻を上げ、内に篭った不満から邦江に冷ややかな態度をとるようになった。
嫁への不満から松葉屋への茶屋通いに精を出すようになり、その噂を聞いた筒井から前述の密偵の依頼を受ける。その茶屋通いの最中で幼馴染みのおもんと再会し、おもんが芸妓となったことを知って贔屓にするようになる。
なんだかんだで密偵の仕事はこなしており、彼の活躍で本堂派は壊滅するのであるが、その結果本堂派のとある人物の恨みを買う事となる。
○満江
浅見の妻女。元は畑中家の次女であり、城下でも有名な美人である千鶴の妹。
しかし、その外見は姉に似ず醜婦。浅黒い肌に、ふくれた頬と尖った口の狸に似た顔。瞳はびっくりしたように丸い。
もっとも、不器量なのは外見のみであり、それ以外は正に理想の嫁。控えめで慎み深く、よく働き、常に夫を立てる。そして(言い方は悪いが)その容姿から不倫の心配も無い。
当然ながら自分の器量がよくなく、そしてそれ故に夫に好かれていない事にも気付いているが、それでも健気に毎夜帰りが遅い旦那の事を寝ずに待ち、夫が酒の気を漂わせながら帰っても文句の一つもない。
半ば八つ当たり気味に俊之介に随分とひどい仕打ちを受けているものの、俊之介の事は愛しているらしく、夫に好かれようと努力もしている。その努力も(俊之介のせいで)身を結ばず、夫婦間の仲は冷め切っていると言っていい程。
女ながらに剣を遣い、猪狩流と呼ばれる剣術の遣い手でる西野鉄心に師事している。その剣は凄まじく道場では高足を勤め、彼女に打ち込めるものは居ないと言われている。
もっとも、そんな点もまた、一刀流をモノに出来なかった俊之介はコンプレックスに感じており、満江に冷たい態度を取る理由の一端となっている。
○おもん
松葉屋に出入りする芸妓。
祖父の彦葱が浅見家に仕える下男であったため、その縁で幼い頃の俊之介と顔見知りであった。しかし、俊之介が元服する二年前、彦葱が病死したため浅見家との縁が切れ以降俊之介とは疎遠になっていた。その何年か後に父親も死亡し、親の残した借金を返済するため芸妓小屋での勤めを始める。
俊之介が密命を帯び、松葉屋に足繁く通うようになった矢先、実に十年ぶりに俊之介と再会し、以降俊之介と不義の関係を続けている。
俊之介が密命を下された事も承知しており、俊之介に積極的に協力している。
○遠山左門
近習組の藩士。本堂派の人間。
江戸で梶派一刀流を修行した剣客であり、その実力はかつて邦江が門下に居た芳賀道場の高足を容易く倒す程。
本堂派が倒れた後、その原因が俊之介にある事を突き止め、俊之介との果し合いを望む。
以下ネタバレ注意
その攻撃は執拗を極めた。
小さな波が岩を洗い、長い年月の間に、そこに穴を穿つのに似ていた
本堂派は倒れた。
俊之介の証言を下に進められた調査によって本堂修理の不正が暴かれ、修理自身は閉門、その他主だった人物には逼塞の沙汰が下されたのだ。
俊之介はその褒賞として小金を得た。本来なら加増ものであるが、表に出来ない活躍であったためとの筒井の判断からである。
だが、俊之介の胸には不快感が残っていた。かりにも藩のためを思って行った密偵の真似事であったが、全てが終わってみれば、筒井の権力欲の手先として働かされたに過ぎないことに気付いてしまったためである。
その為か俊之介は筒井から貰った金を、共に本堂を倒す手伝いをしていたおもんに手渡す。その金から俊之介との別れを感じ取ったおもんであったが、俊之介はそれを「今度は自分の金で来る」と否定する。
その後、連れ立って松葉屋を後にしようとした二人はその矢先、遠山左門に遭遇する。
本堂修理を倒す手伝いをしていた俊之介に恨みを抱いていた遠山はおもんをその場で殺害。更に俊之介に果し合いを申し込み、逃げられないと悟った俊之介はこれを受ける。
そして帰宅した俊之介は邦江に対し、今まで隠してきた全てを吐露する。筒井からの密命の事、おもんとの関係の事、そしてたった今、果し合いを受けた事。
俊之介は遠山について知らなかったが、その太刀から自分では勝てぬであろう剣の達人であることは悟っていた。勝てぬまでもせめて一太刀は斬り付けて自分は果てるといい、邦江にもまた、腹を決めるよう言い残し俊之介は眠りにつく。
俊之介が眠り、一人になった邦江は考えていた。
邦江は遠山という男を知っていた。梶派一刀流の達人であり、俊之介程度では一太刀ですら入れられぬ剣客である、という事も。
考えを纏めた邦江は家を出る。向かう先は無論、遠山の屋敷である。だが、邦江は何も旦那の助命を嘆願しに遠山に会う訳ではない。剣が出来ない旦那の代わりに自らが果し合いたいと提案すべく遠山の屋敷へと向かったのだ。
当然ながら遠山は邦江の申出を蹴る。だが次の邦江の言葉を聞いて、遠山の表情が変わる。
「遠山様は西野鉄心をご存知でございますか」
「無論知っておる。一度試合してもらって負けた。稀に見る達人だな」
「では西野が編んださざ波の秘剣のことは、耳にしておられますか」
「聞いておる。だが誰も目にした者はいない」
「私が、その秘剣を伝えられました」
そう、邦江は単に趣味程度の剣を修めた女ではない。猪狩流の達人、西野鉄心に師事し、数多くの門弟の中からただひとり、西野の編んだ秘剣、さざ波を継承した女剣士であるのだ。
ひとりの剣術家として、強い剣士と果たし合うという欲を優先した遠山は、邦江の言葉を聞き、旦那の代わりに邦江と果たし合う事を認めるのであった。
次の日。
遠山と邦江の果し合いは、双方満身創痍になるまで続く、正に死闘であった。
遠山はさざ波の秘剣による籠手の傷が骨にまで届く有様であり、邦江の方はそこまで深い傷は負わぬものの、身体に多くの傷が刻まれた風体であった。
さざ波とは至ってシンプル、寄せては返す波のように、小さな手傷を相手の一点にひたすら重ね続けるというものだった。これだけ聞けばそれが秘剣?と思えるが、一度や二度ならいざ知らず、三度四度、五度六度と同じ位置への攻撃を成功させるというのは困難を極める。反面、それを成す技量や速度があるのなら、非力な者でも修めることが出来る、まさに女人のためにあるような秘剣だったのだ。
だがそんな死闘にも遂に決着の時が訪れる。勝負を決めようと上段に構えようとした遠山の右腕が、執拗な攻撃による傷跡で思うように動かなかったのだ。
当然、そんな隙を見逃す邦江ではない。一瞬の好機を逃さず攻めに転じた邦江の剣が、遂に遠山に致命傷を与える。邦江は勝利したのだ。
だが、最期の刹那、邦江の攻撃を受けながらも遠山は左手一本で剣を振り、邦江に大きな傷を与えていた。遠山は倒したものの、邦江もまた致命傷に近い傷を負っていた。
俊之介が邦江を見つけた時、果し合いは既に終わりを告げていた。生死の間際にある邦江を背負い、邦江を死なせぬため俊之介は歩き出す。その背中に邦江が声をかける。
「家へ帰りましたら…」
「うむ」
「去り状をいただきます」
邦江は俊之介のこれからを想い、俊之介と離婚しようと言ったのだ。だが、俊之介に最早、邦江に対するわだかまりは無かった。
「これまでのことは許せ。俺の間違いだった」
俊之介はこれまでの邦江に対する仕打ちを詫び、そして改めて夫婦として生きていく事を誓ったのだ。
邦江の心地よい重みを感じながら、俊之介は家路についたのであった。
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