キタサンブラック

ページ名:キタサンブラック


キタサンブラック


概要

キャリアを通じて優れた成績を収めた競走馬キタサンブラックについて説明します。キタサンブラックは、北海道日高町のヤナガワ牧場で産まれた牡馬で、父は「代替種牡馬」のブラックタイド、母父はサクラバクシンオーです。この馬は、国民的演歌歌手の北島三郎が所有し、栗東トレーニングセンターの清水久詞が調教師を務めました。競走生活では、北村宏司、武豊、後藤浩輝、浜中俊、横山典弘といった騎手たちが主戦を務めました。キタサンブラックは、逃げ先行策で勝利を重ねました。 2015年に3歳になったキタサンブラックは、無傷の3連勝でスプリングステークス(GII)を制しました。しかし、春のクラシックではドゥラメンテに敗れ、二冠を逃しました。しかし、秋の菊花賞(GI)でクラシックのタイトルを獲得しました。翌年の2016年、キタサンブラックは天皇賞(春)(GI)、ジャパンカップ(GI)を逃げ切り優勝しました。また、有馬記念(GI)では2位、宝塚記念(GI)では3位となり、この年のJRA賞年度代表馬および最優秀4歳以上牡馬に選ばれました。 2017年には、GI昇格初年度の大阪杯(GI)を制し、天皇賞(春)では前年のレコードを上回るタイムで連勝しました。しかし、宝塚記念では9位という結果に終わりました。その後、秋の天皇賞(秋)(GI)では逆境に立たされながらも優勝し、春秋連覇を果たしました。さらに、引退レースである有馬記念でも逃げ切り優勝し、JRAGI7勝という最多タイの記録を達成しました。 競走馬引退後は、キタサンブラックは種牡馬として活躍し、重賞を勝った産駒を輩出しました。その中には、イクイノックス(母父:キングヘイロー)が2022年の天皇賞(秋)や有馬記念、2023年のドバイシーマクラシック(G1)や宝塚記念を制し、ソールオリエンス(母父:モティヴェーター)が2023年の皐月賞(GI)を制するなど、キタサンブラックの父として知られるようになりました。

誕生までの経緯

北島三郎

北島三郎(きたじまさぶろう)は、北海道出身の演歌歌手である。彼は、農耕馬がいる土地で育ち、上京してからは、芸能事務所・新栄プロダクションに所属し、『なみだ船』などのヒット曲を生み出して有名歌手となった。彼を所属させていた新栄プロダクションには、社長の西川幸男や先輩歌手の春日八郎、村田英雄がいて、彼らはいずれも馬主でもあった。西川や春日からの勧めで、北島自身も馬主活動を始めた。 最初の所有馬は「リュウ」や「マコト」といった名前の馬だった。最初は、自身にゆかりのある家族の名前を競走馬の名前に使っていたが、次第に別れが寂しくなり、冠名を使うようになった。また、父から息子の馬であることを一目でわかるようにとの要請もあり、北島自身の芸名から「北」と「三」を取り出し、「キタサン」という冠名を使用するようになった。馬主活動は長期にわたり、2010年代に入ると馬主歴は半世紀に達した。所有した馬は150頭以上に上り、なかなかの成績を収めたが、最高のGIタイトル獲得にはなかなか恵まれなかった。 一番著名な所有馬は、1992年に平和賞と全日本3歳優駿を制したキタサンテイオーであり、他にも2001年にニュージーランドトロフィー(GII)を勝ったキタサンチャンネルや、2001年にファンタジーステークス(GIII)を制したキタサンヒボタンなど、重賞を獲得した馬がいた。これらの馬は、函館西高校ラグビー部のジャージーを模した白地の勝負服で活躍していた。しかし、その後の所有馬の成績は低迷し、GIタイトルからは遠ざかっていた。このような状況の中、娘から勝負服の変更を提案された。北島は、縁起の良い色について研究し、「黒、茶三本輪」という勝負服の色へと変更した。これが新たな勝負服となった。

北西牧場

ヤナガワ牧場は、競走馬の生産を行っている農場であり、北海道平取町で創業されました。創業者の梁川正雄は、日高軽種馬農業協同組合で獣医師として活動し、馬産地で直腸検査の導入に貢献しました。彼は農協の退職金を利用して1967年に牧場を設立しました。彼の長男である梁川正克は、麻布大学獣医科の学生で就職活動中でしたが、父を助けるために実家に戻りました。 同じ時期に、芸能事務所である新栄プロダクションの創業者で、冠名「ウエスタン」を使用する馬主である西川幸男が、自身の牧場経営にも乗り出し、オーナーブリーダーを目指していました。西川は、新米馬主の北島三郎に協力を求めていました。そして、彼らの名字から「北」「西」を取り、つなげて「北西牧場」と名付けました。 西川と正雄は深い関係を築いており、北西牧場の牧場長になるよう正雄にオファーしました。しかし、正雄はすでに自身の牧場を持っており、応じることができませんでした。そこで、実家に戻ってきたはずの長男の正克が派遣されることになりました。若かった正克は、西川の強力なサポートを受けながら、牧場長として活躍しました。彼は1975年の天皇賞(秋)や1976年の宝塚記念などで優勝したフジノパーシアや、1979年の天皇賞(秋)を制したスリージャイアンツなどを生み出しました。 一方、正克の実家であるヤナガワ牧場は、長男が去った後は創業者の正雄と次男が経営を担当していました。しかし、送り出してから10年ほど経った後、次男が27歳で急死してしまいました。この出来事により、牧場の経営は難しくなり、正克は北西牧場の牧場長を退任し、実家を救うために戻りました。

新生ヤナガワ牧場

ヤナガワ牧場は、北島の牧場と比べると規模が小さく、馬の品質も劣っていました。しかし、正克は元上司である西川から繁殖牝馬を一頭寄贈されたり、北西牧場時代の人脈を活かすなどして経営を成功させました。創業者である正雄が14頭の繁殖牝馬を持ち、正克が経営を拡大させ、二場制度を導入していました。繁殖牝馬も頻繁に入れ替え、血統も更新されていました。 正克の代になると、約50頭の繁殖牝馬を繋養するようになりました。新たな生産馬も次々と成功し、1988年にはガクエンツービートが菊花賞で武豊が騎乗するスーパークリークに次ぐ2着となりました。2007年には、サンライズバッカスがフェブラリーステークス(GI)を制し、JRAGI初の勝利を収めました。 梁川正晋は、1970年に生まれ、二代目正克の長男で創業者正雄の孫です。彼は麻布大学を卒業後、日本国内や海外で修業を積んだ後、ヤナガワ牧場に戻り、牧場経営に参加しました。彼は2012年に三代目となりましたが、彼自身は代替わりによって特に変わったことはなかったと述べています。 ヤナガワ牧場は、「夜間放牧」という新しい方法を取り入れ始めました。この方法は、馬を夜間に放牧するもので、コパノリチャードやコパノリッキーといった馬が最初の世代に含まれていました。コパノリチャードは2014年の高松宮記念(GI)で優勝し、コパノリッキーは2014年から連覇したフェブラリーステークスなどで活躍し、JRAGIでのタイトル獲得を果たしました。この時期、約45頭の繁殖牝馬とその仔を管理するために10人の従業員が雇われていました。 ヤナガワ牧場は三代目となりましたが、北島との関係は続いていました。正晋は北西牧場で育ち、北島とも度々会っていました。この関係は、2010年代に入って半世紀以上にわたって続いていました。

清水久詞

清水久詞は、中央競馬の栗東トレーニングセンターに所属する調教師です。彼の父は、2004年にスプリンターズステークスを制したカルストンライトオの清水貞光であり、清水久詞は幼い頃から競馬に親しんでいました。彼は騎手になる夢を抱いていましたが、その夢は実現しませんでした。代わりに、調教師を目指すことに決め、育成牧場で働きながら競馬学校に通いました。その後、浜田光正厩舎で厩務員と調教助手を務めるようになりました。彼の主な担当馬には、1998年の牝馬二冠や2000年のエリザベス女王杯を制したファレノプシスがありました。 2000年代に入り、清水久詞は30歳で調教師試験を受けるようになりました。何度かの不合格を経験しましたが、最終的に36歳の時に合格し、調教師免許を取得しました。免許取得後の間は、厩舎を持たずに技術調教師として活動することが一般的ですが、彼はその準備の一環として外国での研修を考えていました。しかし、彼の師である安田伊佐夫調教師が突然亡くなり、その厩舎が解散したため、急遽清水久詞の厩舎開業が決定しました。厩舎の空きを待っていた他の調教師候補者との抽選により、彼は厩舎を授かることができました。 開業当初の管理馬の中には、旧安田厩舎から引き継いだ馬も含まれていました。その中でも注目すべき馬は、キタサンダーリンであり、これをきっかけに彼と北島三郎との関係が築かれました。キタサンダーリンは活躍できずに引退しましたが、清水久詞はその後も北島からの頼みを受け、キタサンパイロットなどを管理するようになりました。 清水厩舎は開業5年目の2013年に、トウケイヘイローという馬で重賞初勝利を挙げました。トウケイヘイローはスピードがありながらも頻繁にトラブルを起こす馬で、短距離やマイルのレースが適していました。その後、清水久詞はマイルGIの安田記念に参戦させることを考えていましたが、参加には困難が伴うことが分かりました。そこで彼は自己条件のレースか、あるいは除外される可能性もあるマイルの1600万円以下のレースに出走することを検討しました。しかし、トウケイヘイローの状態は良く、彼は重賞の挑戦を選択しました。彼は鳴尾記念というレースに参戦し、その週に行われる安田記念と同じ距離の2000メートルを走りました。偶然にも騎手不足であったため、武豊を起用することができました。初めてコンビを組んだ武豊は、トウケイヘイローのスピードをコントロールし、優勝に導きました。 以来、トウケイヘイローは武豊と共に中距離戦を勝ち進み、函館記念や札幌記念で連勝し、サマー2000シリーズのチャンピオンとなりました。さらに、天皇賞(秋)や香港カップ、ドバイデューティフリーなどにも参戦しました。しかし、GI級競走では天皇賞(秋)で10着に終わったり、香港カップで2着となったりしました。清水久詞の厩舎は、GIタイトルは手にできませんでしたが、トウケイヘイローの活躍により知名度が高まりました。

デビュー前

キタサンブラックは、2012年3月10日に北海道沙流郡日高町・ヤナガワ牧場で誕生しました。ヤナガワ牧場の代表である梁川正普は、キタサンブラックが幼少期から優れた体つきと軽快な走りをしていたことを述べています。ただし、1歳頃に脚が急激に伸びたため、バランスを心配していたそうです。しかし、実際には大きな問題にはならず、キタサンブラックは牧場の期待を集める存在になりました。梁川正普自身も、GIレースに勝てる馬とは思っていなかったと述べています。 ヤナガワ牧場とは、北島自身が約50年の付き合いがある関係で、北島はキタサンブラックを購買しました。北島は、「顔が二枚目で、自分に似ている」という理由でキタサンブラックに惹かれたそうです。キタサンブラックは、1歳時の11月12日に新冠町の日高軽種馬共同育成公社に移籍し、1年間の育成が始まりました。幼駒時代は細身でしたが、育成公社に到着した時には体重が480kgに成長し、体高も164cmから170cmに、胸囲も183cmから190cmに成長しました。2歳時の11月16日には、栗東トレーニングセンターに所属する清水久詞厩舎に入厩しました。清水は、「調教は疲れないことに意味がある」という考えのもと、キタサンブラックを育てました。その結果、デビュー時の馬体重は510kgまで成長しました。

3歳(2015年)

条件馬時代

デビューレースは2015年1月31日、東京競馬場の芝1800メートルの新馬戦で行われた。馬主の北島三郎は東京在住であり、関西の栗東所属馬であるが、彼を慮って東京でのデビューが決定した。後藤浩輝騎手が騎乗し、3番人気として出走した。レースでは1番人気のミッキージョイが出遅れ、後方の外側で待機してスローペースを追走した。直線では外側からスパートして追い込み、内側で2頭を差し切り、大外から迫ってくるミッキージョイを抑え、1馬身4分の1差をつけて先頭でゴールした。また、この勝利は繁殖牝馬シュガーハートの初勝利でもあった。 その後、2月22日には再び東京競馬場で行われた芝2000メートルの条件戦に参戦した。騎手は前回に引き続き北村宏司が騎乗し、大逃げを打つマイネルポルトゥスの2番手につける位置取りをしていた。直線に入るとスパートし、後続を差し置いて早めに先頭に立った。最終的にサトノラーゼンに3馬身差をつけて優勝し、連勝を飾った。このレースでもディープインパクト産駒を下し、2連勝を果たした。

スプリングステークス

陣営は2連勝を達成した後、次の目標として重賞に挑戦することに決めました。重賞初参戦の舞台には、阪神競馬場で行われる毎日杯や中山競馬場で行われるクラシック初戦の皐月賞のトライアル競走であるスプリングステークスなどの選択肢がありました。その中で、3月22日に行われるスプリングステークス(GII)を選び、3着以内に入ることで皐月賞の優先出走権を獲得することを目指しました。 スプリングステークスは12頭が出走し、そのうち4頭が重賞優勝の経験がありました。特に前年の朝日杯フューチュリティステークス優勝馬で最優秀2歳牡馬であるダノンプラチナや無敗で共同通信杯を制したリアルスティールなどは、ディープインパクトの子供でした。一方、キタサンブラックは重賞初挑戦であり、他の競走でも劣る部類に入る評価でした。しかし、競走では先行策を取り、途中まではトップに立っていました。直線では他の馬に追い上げられましたが、僅かな差で勝利を収めることができました。 この勝利により、キタサンブラックは史上4頭目となる中央競馬キャリア3戦目でのスプリングステークス優勝を果たし、さらに14年ぶりの無敗での優勝も達成しました。これまでの無敗優勝馬の多くはGIや八大競走で成功を収めており、キタサンブラックもその活躍を期待されました。また、キタサンブラックの父も2004年に同じレースを制しており、父子での優勝も特筆される成果でした。 しかしながら、キタサンブラックは出走登録していなかったため、クラシック戴冠は初めは予定されていませんでした。陣営は彼が大柄で時間のかかる馬であると考えており、クラシックに出走する予定は立てていませんでした。しかし、彼の成績が順調で重賞優勝や優先出走権獲得まで果たしていたため、追加登録制度を利用してクラシックに参戦することが決定しました。北島オーナーが追加登録料200万円を負担し、キタサンブラックのクラシック出走権を確保しました。これにより、彼はクラシックへの参戦を果たすこととなったのです。

クラシック

2016年4月19日、中山競馬場で行われた皐月賞(芝2000m)では、キタサンブラックは主戦の騎手である北村友一が出場停止のため、浜中俊に乗り代わりとなった。レースでは道中で2番手を追走し、直線では一度は先頭に立ったものの、最終的にドゥラメンテとリアルスティールにかわされ、3着に終わりました。その後、5月31日の東京優駿(日本ダービー、芝2400m)に出走し、皐月賞と同様に2番手を追走しましたが、直線で失速し、14着に敗れました。 同年の秋、キタサンブラックは夏の休養を経て、9月21日に中山競馬場で行われた菊花賞トライアル・セントライト記念(芝2200m)に出走しました。レース当日までの調整はゆっくりと進みましたが、本番では直線でミュゼエイリアンを退け、見事1着となり、菊花賞への出走権を獲得しました。10月25日の菊花賞では、二冠馬であるドゥラメンテが故障のため不在でした。キタサンブラックは5番人気と評価は低かったものの、ミュゼエイリアンやリアルスティール、リアファルなどの強豪との争いの中、リアルスティールの追撃をクビ差で抑え、GI競走で初めて優勝しました。この勝利により、馬主である大野商事(北島)は初めて中央競馬のGI制覇の栄誉を手にしました。また、キタサンブラックの菊花賞優勝時の馬体重は530kgであり、これは過去の菊花賞優勝馬の中で最も重い記録となりました。

有馬記念

2015年12月27日、有馬記念(GI)というレースにゴールドシップは古馬として初挑戦しました。通常の主戦騎手である北村は怪我で欠場し、横山典弘が代わりに騎乗しました。横山はこの時期、ゴールドシップの主戦騎手であり、宝塚記念や天皇賞(春)で優勝していました。ゴールドシップは6歳で、有馬記念が引退レースとされていました。しかし、陣営はゴールドシップの前の主戦騎手である内田博幸を再度起用し、敢えて横山を選ばなかった。 当日、上位人気はゴールドシップと古馬の天皇賞(秋)優勝馬であるラブリーデイでした。3歳馬の筆頭は、菊花賞優勝馬のキタサンブラックではなくリアファルで、3番人気となりました。キタサンブラックは4番人気でした。 ゴールドシップは6枠11番からスタートし、先行を狙っていましたが、周囲の馬たちが早く出ていたため、先頭に立つまで時間がかかりました。内側にいた8番人気のゴールドアクターと、外側にいたリアファルとの競り合いを制し、逃げる形になりました。横山は前半の1000メートルを遅いペースで走らせ、先行するキタサンブラックに有利な展開を作りました。しかし、リアファルからのプレッシャーや他の困難にも打ち勝ちながら追走していきました。向かい風に向かってペースを上げ、最終コーナーを通過しました。 直線でスパートし、追いかけてきたマリアライトと一緒に競り合いましたが、先頭を死守しました。しかし、残り100メートルで8番人気のゴールドアクターと、後方から追い込んできた5番人気のサウンズオブアースに差され、先頭を明け渡しました。結果的にゴールドアクターが優勝し、サウンズオブアースが2着でした。ただし、マリアライトとは激しい競り合いを演じ、僅かに差し返して3着を守りました。

4歳春(2016年)

武豊

この年、北村がリハビリに取り組んでいたが、始動戦の産経大阪杯には間に合わなかった。その結果、キタサンブラックの主戦騎手を務めることができなかった。北村は残念だったが、関係者に迷惑をかけるわけにはいかないと判断し、お断りした。その後、北村は再び怪我をして休養に入ることになった。新たな主戦騎手を探す中で、騎乗馬を持っていない武豊が起用されることになった。この起用には、「タケユタカ」という牝馬に縁があったことが関係していた。北島は以前から「武豊」を自分の所有馬に騎乗させたいと考えており、この機会を待っていたのだった。武豊は騎手デビューから30年目になっており、活躍を果たしていた。彼はキタサンブラックを重要な相棒としていた。

産経大阪杯

産経大阪杯(GII)は、武とのコンビの初戦となった。このレースは4月3日に行われ、古馬として挑戦し、年上の競走馬と同じ負担重量を課された。11頭が出走し、その中にはGI優勝馬が5頭も揃っていた。最も注目を集めたのは5歳のラブリーデイで、前年の最優秀4歳牡馬でもあった。同じく注目されたのは同期の中距離巧者アンビシャスで、前走の中山記念では後方待機から追い込み、ドゥラメンテにクビ差で迫る2着となっていた。アンビシャスはGI優勝馬ではないため、キタサンブラックよりも2キログラム軽い負担重量が与えられた。そのため、単勝オッズではキタサンブラックよりも低かった。 レースでは、キタサンブラックがスタートからハナを奪い、前半の1000メートルを61.1秒まで落としてスローペースに持ち込む作戦を立てた。しかし、後ろからの追い込みが得意なアンビシャスにマークされ、思うように逃げることができなかった。横山騎手はアンビシャスを突然先行させる奇策に出たが、馬を上手に抑えることに成功し、順調に追走していた。 キタサンブラックは先頭を守ったまま直線に入り、中団から追い上げてきたラブリーデイやショウナンパンドラからも逃げ切ることに成功していた。しかし、好位から末脚を発揮したアンビシャスに迫られ、ゴール寸前で差されて2着に終わった。それでも武は「思い通りのレース」ができたと振り返り、アンビシャスのマーク戦法と負担重量の2キログラムの違いに注目していた。

天皇賞(春)

5月1日に行われた天皇賞(春)(GI)では、前回の有馬記念で敗れたゴールドアクターとの再戦が行われました。ゴールドアクターは前哨戦の日経賞を制し、人気1番の3.8倍で参戦しました。一方、キタサンブラックは2番人気の4.5倍でした。その他にもシュヴァルグラン、フェイムゲーム、サウンズオブアース、アルバートなど、オッズ一桁台の頭数が18頭出走しました。 レースでは、キタサンブラックが1枠1番の最内枠から好スタートを切り、先頭に立ちました。コントロールしたペースでレースを進め、1000メートルを61秒8で通過し、続く中盤の1000メートルを61秒7で通過しました。キタサンブラックと騎手の武は、絶妙なペース配分でレースを進め、最終局面には余力を持っていました。 残り800メートルからはペースを上げてスパートし、直線に向いて先頭を守りました。しかし直線半ばで伏兵のカレンミロティックに追い詰められ、先頭を奪われました。しかしキタサンブラックは粘り強く、追い上げてきたカレンミロティックに対抗しました。2頭の競り合いは写真判定となり、キタサンブラックが僅か4センチメートル差で優勝しました。この結果、キタサンブラックは菊花賞以来の2勝目を挙げ、4歳での天皇賞(春)優勝も達成しました。騎手の武も逃げ切り優勝を果たし、天皇賞(春)7勝目を挙げました。

宝塚記念

宝塚記念(GI)には、前年のクラシックで敗れたドゥラメンテと再戦するために出場しました。ファン投票では、キタサンブラックが最多の得票数を獲得しましたが、レース当日の人気はドゥラメンテがトップでした。キタサンブラックは2番人気となり、アンビシャス、ラブリーデイ、シュヴァルグランなどと共に17頭立ての競走となりました。ただし、前日まで雨が降っていたため、馬場は道悪状態でした。当日は晴れていましたが、馬場の回復は遅く、稍重馬場での開催となりました。この馬場ではスタミナやパワーが重要とされ、先行勢が逃げ粘る結果が多く見られました。 キタサンブラックは2枠3番からスタートし、先頭に立ちました。一方のドゥラメンテは後方待機策を取らず、逃げる戦術を選びました。しかしキタサンブラックはペースをコントロールできず、自身のペースでレースを進めることができませんでした。道悪の影響で先行したい馬が多く、最初のコーナーでは6、7頭が密集している中での逃げを余儀なくされました。馬場の状態にもかかわらず、キタサンブラックは最初の1000メートルを59秒1で通過するハイペースで先頭を独占し、先行勢にとって不利な展開となりました。 牝馬のマリアライトは、史上3例目となる牝馬の宝塚記念優勝を果たしました。キタサンブラックは先行勢を下して単独で最終コーナーを通過しました。直線では後方待機勢が追い込んできますが、キタサンブラックは彼らよりも早くスパートして逃げ切りを図りました。ラブリーデイやステファノスなどの追い込む馬も中団から詰め寄りましたが、キタサンブラックは彼らを下して先頭を守りました。ただし、後方待機から追い込むドゥラメンテと8番人気のマリアライトには勝つことができませんでした。キタサンブラックは粘りましたが、ゴール直前でドゥラメンテとマリアライトに追いつかれ、3着となりました。このレースでは、先行勢が軒並み敗れる結果となりましたが、キタサンブラックだけは逃げ粘って3着に入りました。 なお、2着となったドゥラメンテは競走中に左前肢の跛行を発症しました。騎手のミルコ・デムーロはすぐに下馬しました。その後の検査で、ドゥラメンテの左前脚の靭帯腱に損傷が見つかり、競走能力を喪失し、引退となりました。つまり、このレースがドゥラメンテとの対決の最後となりました。

京都大賞典

2021年の京都大賞典(GII)は、夏休みを終えて10月10日に開催されました。このレースでは、ラブリーデイやサウンズオブアースなどと再戦し、またヤマカツライデンやラストインパクトなども出走しました。10頭立ての競走でしたが、GI2勝の実績を持つキタサンブラックが単勝オッズ1.8倍となり、初めて1番人気に支持されました。キタサンブラックの馬主である北島は80歳の誕生日を迎えたばかりでしたが、8月に自宅で転倒しケガをしていたため、療養中で不在でした。 レースでは、キタサンブラックが最内枠からスタートし、ヤマカツライデンに先手を譲り2番手で追走しました。ヤマカツライデンがスローペースでレースを進め、1000メートルを62秒で通過しました。キタサンブラックは第3コーナーで進出し、ヤマカツライデンの背後を取りました。そして直線に向かって先頭に立ち、勝利を手にしました。 キタサンブラックには、アドマイヤデウスという強敵もいました。アドマイヤデウスは2015年の日経新春杯(GII)や日経賞(GII)で優勝しており、2017年にはオーストラリアへ移籍する予定でしたが、その前に亡くなってしまいました。レースでは、アドマイヤデウスとラブリーデイがキタサンブラックに接近しましたが、キタサンブラックは粘り強く先頭を守りました。最後はわずかにアドマイヤデウスに追いつかれましたが、ゴールが近づく前に入線しました。キタサンブラックはクビ差で逃げ切り、素晴らしい始動戦となりました。 この勝利により、キタサンブラックは15年ぶりの天皇賞(春)優勝馬による京都大賞典の優勝馬となりました。また、騎手の武豊は北島に誕生日プレゼントを届けることができました。武豊は、2005年のリンカーン以来、11年ぶりの京都大賞典8勝を達成しました。キタサンブラックは天皇賞(秋)の優先出走権を獲得しましたが、その後はジャパンカップから有馬記念までのレースに出走する予定でしたが、予定通りに参戦することはありませんでした。

背景

11月27日、ジャパンカップ(GI)に参戦しました。前回の大敗である東京優駿(日本ダービー)と同じ舞台で、約1年半ぶりに競馬場に帰ってきました。今回はGI2勝の実績を持って挑みました。17頭が出走し、日本調教馬14頭と外国調教馬3頭が参加しました。再び1番人気となり、単勝オッズ3.8倍でした。主なライバルはリアルスティール、ゴールドアクター、ディーマジェスティ、サウンズオブアース、シュヴァルグランなどでした。 私は内枠の1番を与えられました。開催3日前には東京地方で54年ぶりの11月の降雪がありました。そのため、馬場の状態は悪く、スピードが出にくくなっていました。また、前座レースでは内側を空けて走る傾向がありましたので、逃げ先行タイプの馬としては試練でした。

展開

キタサンブラックは最も内側の枠からスタートし、すんなりと先頭に立ちました。内側の悪い馬場を避けながら進路を調整し、荒れていないコースを確保して逃げることができました。最初のコーナーから第2コーナーまで単独の先頭をキープし、自分のペースでレースを進めました。向こう正面に入ってからは、他の競走馬との差を広げて独走しました。 レース中は、一定のペースでハロンタイム12秒台を連発し、全くペースが乱れることなく馬を進めました。前半の1000メートルを61秒7で通過しました。第3コーナーに入るとペースを上げ、単独の先頭を守ったまま最終コーナーを通過しました。直線に入る際には、後続を引き離しながら、残り300メートルからスパートをかけました。後方には追い上げてくる競走馬もいましたが、すでにキタサンブラックはリードを広げており、先頭を脅かされることはありませんでした。最終的にはサウンズオブアースやシュヴァルグランが追い込んできましたが、キタサンブラックは2馬身半差をつけて逃げ切ることができました。

記録

東京競馬場で開催されたジャパンカップで、キタサンブラックは優勝し、GI競走で3回目の勝利を挙げました。これは、1984年のカツラギエースと2003年のタップダンスシチーに続いて、史上3例目の逃げ切り優勝となりました。1986年にはキタサンブラックの母父であるサクラユタカオーが1番人気の立場で逃げたものの、捕まり6着に終わってから30年後、キタサンブラックの子孫が史上初めて1番人気の逃げ切りを果たしました。騎手の武豊は、スペシャルウィーク(1999年)、ディープインパクト(2006年)、ローズキングダム(2010年)に次いで、ジャパンカップで4勝目を挙げ、最多勝記録を更新しました。また、北島三郎は、第36回のジャパンカップで優勝しています。 キタサンブラックが接戦ではなく引き離して勝利したことについて、武豊は「ボクにとっても嬉しい驚き」と述べています。彼はジャパンカップについて、「これまで乗った競走馬の中で最も強いパフォーマンスだった」とし、「一戦ごとにどんどん良くなっている」と感じています。彼はまた、春に比べて走りが力強く、競走馬としての充実期に入ったと感じていました。

有馬記念

サトノダイヤモンド

有馬記念には、12月25日に参戦する予定である。このレースでは、現役の古馬たちに加えて、3歳馬の1頭が挑戦することになった。この3歳馬は、前年の菊花賞で優勝したサトノダイヤモンドという馬であり、キタサンブラックのライバルとして注目されていた。サトノダイヤモンドは、ブラックタイドの兄弟であるディープインパクトの子であり、非常に高い評価を受けていた。この2頭は菊花賞優勝馬という共通点があるが、その生い立ちや背景は異なっていた。石田敏徳は、彼らの関係を『巨人の星』のキャラクターである星飛雄馬と花形満になぞらえて表現していた。

展開

映像外部リンク - 2016年有馬記念(GI)レース映像:JRA公式YouTubeチャンネルで公開されている動画 レースの進行: - マルターズアポジーはスタートから大逃げを試み、先頭を走っていた。 - キタサンブラックは1枠1番からのスタートで、2番手をキープし、マルターズアポジーを追いかけた。 - ゴールドアクターとサトノダイヤモンドもキタサンブラックの背後に位置し、競り合っていた。 - キタサンブラックはマイペースを保ちながら、周囲の馬を引きつける戦略をとっていた。 - しかし、残り1000メートルの第3コーナーで、サトノノブレスが急に外から追い上げを開始した。 サトノノブレスによる影響: - サトノノブレスはキタサンブラックにズームアップし、キタサンブラックは接触される形になった。 - キタサンブラックは2番手の位置を譲らず、ペースを上げざるを得なくなり、プランが乱れた。 - サトノノブレスはサトノダイヤモンドの進路を妨害しないように追い上げており、結果的にサトノダイヤモンドに有利な展開を作っていた。 サトノノブレスの実績: - サトノノブレスは2014年菊花賞で2着に入り、2015年には日経新春杯、小倉記念、中日新聞杯、鳴尾記念で優勝した。 キタサンブラックの反撃: - サトノノブレスにペースを上げさせられたキタサンブラックは最終コーナー手前でマルターズアポジーを捉え、先頭に立った。 - ゴールドアクターやサトノダイヤモンドを引き連れながらスパートをかけ、横一線の競り合いを引き起こした。 - 最後の1000メートルではペースが加速し、争い続けた3頭は力を使い果たし、終いは失速していた(12秒1)。 - それでもキタサンブラックは粘り強く走り、ゴールドアクターを振り切って先頭を保った。 - しかし、ゴール寸前にサトノダイヤモンドが外から末脚を伸ばし、キタサンブラックを差し切った。 - ゴールドアクターには半馬身先着するものの、サトノダイヤモンドにクビ差で2着に敗れた。 - キタサンブラックはサトノノブレスの影響を受け、サトノダイヤモンドの差し切りにより逆転された。武豊騎手は「突っつかれたのが痛かった。あのワンプレーがね」と話しており、池江里見厩舎のフランス人騎手2人による連携プレーにやられたと振り返っている。

5歳春(2017年)

大阪杯

参戦の背景

2012年から中央競馬では、古馬中長距離のレース体系を改革し、新たに「大阪杯」を設けました。以前は、春には天皇賞(春)と宝塚記念の2つのGIレースしかなく、この時期に中距離のレースが不足していました。そのため、中距離の馬や4月の出走を目指す馬は、海外のレースに出走することが増えていました。そこで、4月に行われていたGII競走の「産経大阪杯」をGIに昇格させ、中距離馬の国内での出走機会を増やすことにしました。これにより、春の古馬中長距離競走は3つとなり、既に整備されている秋の競走と合わせて「春の古馬三冠競走」と呼ばれるようになりました。また、この三冠を達成した馬には、内国産馬は2億円、外国産馬は1億円の褒賞金も用意されています。 中長距離の活躍馬キタサンブラックの陣営も、当初は4月に外国遠征を考えていましたが、前年の産経大阪杯と宝塚記念での惜敗があったため、国内での復讐を狙い、春の古馬三冠競走に挑むことにしました。調教師の清水師は、「有馬記念はもちろんですが、去年負けたレースを今年は全部勝ちたいし、出場するレースは全部勝ちたい」という意気込みで臨んでいます。春の古馬三冠を目指すために、春季4戦を避け、一冠目の大阪杯に直行する戦略を立てました。

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マカヒキ(父:ディープインパクト)は、2016年に東京優駿(GI)とニエル賞(G2)で優勝しました。さらに、2021年の京都大賞典(GII)でも優勝しています。 4月2日、マカヒキは昇格初年度の大阪杯(GI)に参戦しました。このレースには、東京優駿の優勝馬であるマカヒキ、香港ヴァーズと京都記念を連勝中のサトノクラウン、金鯱賞の連覇を果たしているヤマカツエースなど、優れた競走馬が集まりました。さらに、前年の優勝馬であるアンビシャスとの再戦も実現しました。このレースはGIであったため、競走馬のメンバーも優れたものでした。中距離馬の逃げを得意とするマルターズアポジーやロードヴァンドールなども参戦していました。キタサンブラックは長距離で逃げる競走馬でしたが、今回は中距離馬の逃げ馬との対決が初めてでした。どのように異なるタイプの逃げ馬と競うかが注目されていました。マカヒキは単勝オッズで1番人気となりました。 レースでは、マルターズアポジーやロードヴァンドールが先頭を走る中、キタサンブラックは穏やかに3番手をキープしました。マルターズアポジーは一時は他の競走馬を引き離すほどの大逃げを見せましたが、1000メートル地点でペースが落ち着き、平均的なペースとなりました。このペースの変化により、マカヒキやアンビシャスなどの後方で走る競走馬は折り合いに苦労しました。 一方、キタサンブラックは好位で折り合いをつけながら順調に追走しました。最終コーナー手前で進出し、ロードヴァンドールを追い抜いて2番手に浮上しました。直線に入ると、マルターズアポジーやヤマカツエースに迫りました。しかし、キタサンブラックはスパートをかけてマルターズアポジーの先頭を奪いました。ステファノスやヤマカツエースもキタサンブラックに迫りましたが、キタサンブラックは持続的なスパートを見せて彼らに接近させませんでした。最終的には、キタサンブラックは4分の3馬身差をつけて先頭でゴールし、大阪杯の初代優勝馬となりました。

サトノダイヤモンドとの再戦

サトノダイヤモンドという競走馬が連覇を目指し、4月30日に開催される天皇賞(春)に参戦します。前年の有馬記念で敗れたサトノダイヤモンドがライバルとなります。サトノダイヤモンドは、始動戦の阪神大賞典でシュヴァルグランを破ってからの参戦となります。京都競馬場で行われるこのレースは、新旧の菊花賞優勝馬が対決するため、サトノダイヤモンドとサトノダイヤモンドは「二強」として注目されています。 両馬とも前哨戦を制し、好調な状態で臨んでおり、「世紀の対決」とも称される出来事となります。過去には1992年の天皇賞(春)でトウカイテイオーやメジロマックイーンが対戦する「二強」の対決がありました。その時以来の出来事となります。このレースには他にもゴールドアクターやシュヴァルグラン、シャケトラなどが参加し、合計17頭が出場しますが、注目は「二強」に集中しています。キタサンブラックが僅かに上回り、1番人気となりましたが、サトノダイヤモンドは2番人気でした。ただし、1番人気はディープインパクトの優勝以来、10連敗中であり、縁起が悪いとされています。

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映像外部リンク 2017年の天皇賞(春)(GI)のレース映像は、JRA公式YouTubeチャンネルで視聴できます。このレースでは、2枠3番からスタートしたヤマカツライデンが先行し、外から飛ばして大逃げを成功させました。ヤマカツライデンは序盤の1000メートルを58秒3、中盤の2000メートルを1分59秒7という超ハイペースで大逃げを敢行しました。そのペースに他の馬もつられ、2番手以下もハイペースで進んでいきました。レース中はペースが極端に緩むことなく進行しました。 2周目の第3コーナーからはヤマカツライデンが失速し、その後は2番手のキタサンブラック以下による争いとなりました。キタサンブラックは第3コーナーの坂の下りを利用してスパートし、最終コーナー手前の600メートル地点でヤマカツライデンを捉え、先頭に立ちました。 各馬がハイペースのために終いで失速してしまい、消耗戦の様相を呈していました。しかし、キタサンブラックは他の馬の追い上げを待つことなく自ら進んでスパートし、リードを築きました。ただし、終いでは失速しました。直線では、後ろからシュヴァルグランと外からサトノダイヤモンドが先頭を目指して追い込んでいました。しかし、キタサンブラックは粘ってそれらを寄せ付けず、他の馬も失速していきながらリードを守り切りました。シュヴァルグランらには1馬身4分の1差をつけて先頭でゴールインしました。そして、サトノダイヤモンドに雪辱を果たしました。

記録

キタサンブラックは、1991年92年のメジロマックイーン、2000年01年のテイエムオペラオー、2013年14年のフェノーメノに次ぐ史上4頭目の快挙として、天皇賞(春)を連覇し、GI競走での通算5勝目を達成しました。彼は2006年のディープインパクト以来、11年ぶりとなる1番人気による天皇賞(春)の勝利を収め、ジンクスを打ち破りました。さらに騎手の武豊氏も連覇を果たし、天皇賞(春)での勝利数を8に伸ばし、保田隆芳氏の天皇賞(秋)での7勝を上回る、同一GI競走での最多優勝記録を樹立しました。また、48歳1か月での勝利により、彼は天皇賞(春)での最年長騎手優勝記録も更新しました。レース自体では、キタサンブラックは前年の記録を2.8秒も上回る3分12秒5のタイムでゴールインしました。さらに、2006年のディープインパクトのタイムである3分13秒4を0.9秒も上回り、中央競馬のレコードを大幅に更新しました。この日の京都競馬場は、速い決着の傾向がありましたが、競馬評論家の有吉正徳氏は、「それでも、キタサンブラックが達成した新記録は驚異的だ」と評価しています。北島氏は「私の仕事はレコードを打ち立てることだ」と述べ、自信を示しました。

三冠逃す

キタサンブラックは、設置初年度の「春の古馬三冠」を目指し、宝塚記念に参戦することが決定した。陣営は、凱旋門賞への挑戦も検討していたが、ライバルのサトノダイヤモンドが海外遠征を選んだため、宝塚記念に集中することになった。 宝塚記念当日は稍重馬場で行われ、11頭が出走した。キタサンブラックは1番人気であり、逃げ馬がいないことから思い通りの展開を得られると予想されていた。しかし、スタート直後にシュヴァルグランに先頭を奪われ、3番手でレースを進めることになった。レースは序盤は落ち着いたペースだったが、中盤でペースが上がり始めた。さらに、外からサトノクラウンが進出してきたため、キタサンブラックは進路を外に取らざるを得なかった。進出に応じたシュヴァルグランとシャケトラも加わり、レースは消耗戦の様相を呈した。 キタサンブラックは2番手に浮上し、最終コーナーでも先頭を走っていたが、直線では伸びを欠き、後退してしまった。代わりに進出したサトノクラウンが勝利を収めた。キタサンブラックは9着に終わり、「春の古馬三冠」の夢を断たれた。陣営は、敗因を明確に挙げることができず、馬場や展開、前回レースの疲労など複数の要素が影響した可能性を指摘した。この敗戦により、凱旋門賞への参戦計画は中止され、秋季は国内での競馬に専念することが決まった。

5歳秋(2017年)

天皇賞(秋)

背景

夏休みの後、秋には天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の競走が開催され、「秋の古馬三冠競走」と呼ばれるレースに参戦することが決まった。このレースを最後に引退し、翌年から種牡馬としての活動を始めることも予告された。 最初のレースは10月29日の天皇賞(秋)だったが、台風22号による大雨のため、馬場は悪い状態だった。メジロマックイーンが1位でゴールしたものの、降着となり、代わりにプレクラスニーが優勝した。これは、1991年以来26年ぶりの天皇賞(秋)であり、さらに不良馬場のレースとなった。馬場は非常に悪く、まさに「未曽有の悪コンディション」と言われるほどだった。レース前は、この極悪馬場にどう対応するかが注目されていた。キタサンブラックは初めての不良馬場での出走だったため、大敗後の再起が心配され、注目を集めることはできなかった。 18頭が出走する中、注目馬は宝塚記念を制したサトノクラウンだった。サトノクラウンは重い馬場でも実績を持っており、信頼を集めていた。一方、キタサンブラックは単勝オッズ3.1倍で1番人気となり、サトノクラウンは4.0倍の2番人気だった。他にもリアルスティール、ソウルスターリング、グレーターロンドン、ヤマカツエース、ネオリアリズム、マカヒキなどが出走していた。レースは雨の中で行われ、馬場は水浸しの状態だった。結果的に、メジロタイヨウが優勝し、1969年以来48年ぶりの雨中の不良馬場での天皇賞(秋)となった。

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【映像外部リンク】 - 2017年 天皇賞(秋)(GI)レース映像:JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 - 2017年 天皇賞(秋)(GI)レース映像:関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画 【第156回天皇賞(秋)(GI)】 - 着順: 1着:キタサンブラック 2着:サトノクラウン 3着:レインボーライン - 馬名と性齢: 1着:キタサンブラック(牡5) 2着:サトノクラウン(牡5) 3着:レインボーライン(牡4) - タイム:2分8.3秒 - 着差:クビ - コーナー通過:2-3-1 - 上り:38.5 - 騎手: 1着:武豊 2着:M.デムーロ 3着:岩田康誠 - 斤量:58kg - 人気順: 1着:7番人気 2着:1番人気 3着:3番人気 【レース詳細】 キタサンブラックはスタートで出遅れ、後方追走を強いられました。しかし、内側の不良馬場を選択し、巧みに進路を捉えて中団に位置しました。最終コーナーで2番手に浮上し、直線ではサトノクラウンとの競り合いを制し、先頭でゴールを駆け抜けました。リードはわずかクビ差でしたが、キタサンブラックが見事に優勝しました。

記録

キタサンブラックは、日本競馬界で優れた成績を残した競走馬であり、多くの偉業を達成しました。彼は天皇賞春秋連覇を果たし、2000年春秋と2001年春の天皇賞を制しました。これにより、テイエムオペラオーに続いて史上2頭目となる天皇賞3勝を果たしました。 さらに、彼の騎手である武豊も天皇賞で素晴らしい成績を収めました。彼は天皇賞(秋)6勝目、天皇賞14勝目を達成しました。彼の勝利は、1989年から2008年までの期間にわたっています。 キタサンブラックは、2000メートルの芝レースで2分8秒3というタイムを出しました。これは、天皇賞(秋)が2000メートル戦になった1984年以降で最も遅いタイムでした。このタイムは、1991年にメジロマックイーンが2分2秒9のタイムで降着し、プレクラスニーが2分3秒9で優勝した時から4.4秒遅かったです。春をレコードで、秋を逆レコードで天皇賞を連覇した特異なパフォーマンスを披露しました。 キタサンブラックの成績は、日本競馬界で非常に稀なものであり、特筆すべきものです。彼は芝の不良馬場で行われたGIレースでレコードを樹立した初めての競走馬となりました。

ジャパンカップ

11月26日に行われたジャパンカップに出走しました。その前に11月8日に落馬し、右膝内側側副靱帯を負傷していましたが、リハビリを行い復帰することができました。エアスピネルに騎乗する予定でしたが、代わりにジョーストリクトリで出走しました。レースでは逃げる形で先頭を走りましたが、最後の直線でシュヴァルグランとレイデオロに追い抜かれ、3着となりました。敗因は、レース中に蹄鉄が緩んで脚元が不安定になったためだと考えられます。しかし、落鉄した直後に敗戦したので、明確な因果関係は不明です。武は力負けではないと回顧しています。

有馬記念

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スワーヴリチャードは、12月24日に引退レースであるクリスマスイヴの有馬記念に挑みました。このレースでは、ジャパンカップの後に初めて使用した回復用の筋肉注射を二回受け、最終戦に万全の状態で臨んでいました。対戦相手はシュヴァルグラン、サトノクラウン、ミッキークイーン、シャケトラ、サウンズオブアースなどの常連古馬であり、またスワーヴリチャード、サトノクロニクル、ブレスジャーニーという3歳馬とも初めて対決しました。特にスワーヴリチャードは注目の対抗馬であり、東京優駿ではレイデオロに次ぐ2着を記録し、古馬相手にアルゼンチン共和国杯で優勝していた実績がありました。レースでは、キタサンブラックが1番人気となり、その次に人気が高かったのはスワーヴリチャード、シュヴァルグラン、サトノクラウンの順でした。また、抽選会で内枠の1枠2番を引き当て、有利なスタートを切ることができました。レースでは好スタートを切り、先行してハナを奪い、逃げる形となりました。道中は自分のペースで進み、スローペースでレースが進行しました。最後の直線に向かう際に他の馬を突き放し、1馬身半差で逃げ切り勝利しました。

有終の美

有馬記念は競馬界で非常に重要なレースであり、このレースで逃げ切って優勝することは非常に難しいこととされています。しかし、1974年のタニノチカラ、1992年のメジロパーマー、1995年のマヤノトップガン、2008年のダイワスカーレットに続き、今回の馬も逃げ切って有馬記念を制することに成功しました。これは史上5頭目の快挙です。 さらに、今回の有馬記念はこの馬の引退レースでもあり、三度目の挑戦でついにグランプリを手に入れることができました。さらに、この馬は2004年のゼンノロブロイ以来の史上13頭目となる天皇賞(秋)優勝馬でもあり、同年の有馬記念も制しました。これにより、史上2頭目となる同一年の天皇賞春秋連覇と有馬記念優勝を達成しました。 また、この勝利により、この馬はシンボリルドルフ、テイエムオペラオー、ディープインパクト、ウオッカと並び、史上最多のJRAGI7勝目を達成しました。さらに、テイエムオペラオーよりも多いJRAの最多獲得賞金記録も樹立しました。これは非常に偉業です。

供用

キタサンブラックは競走馬引退後、北海道安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬となりました。吉田勝己氏は、社台グループ・ノーザンファームのオーナーであり、2017年の天皇賞(春)で日本レコードを樹立した直後から、キタサンブラックの種牡馬入りと社台スタリオンステーション入りを交渉していました。キタサンブラックの所有者である北島三郎氏は、2018年も現役を続けることを考えていましたが、吉田氏の説得に成功し、2017年末での引退と社台スタリオンステーション入りを決めることになりました。 キタサンブラックの家族には、社台グループの牝馬であるティズリーやオトメゴコロがおり、またサクラバクシンオーやブラックタイドも社台スタリオンステーションで繋養されていました。キタサンブラックはヤナガワ牧場を経由して社台グループに戻ってきた存在です。所有権は大野商事が保持していますが、種牡馬としての運営管理はシンジケートの形式が取られました。吉田氏を代表に大野商事、大手牧場、有力馬主、ヤナガワ牧場などが参加し、全60株、総額13億5000万円のシンジケートが形成されました。引退と繋養先が発表されると、社台スタリオンステーションの電話は忙しくなり、非常に人気があったそうです。 初年度は130頭と交配し、2年目には110頭、3年目には92頭と数が減少しました。しかし、初年度産駒が2021年から活躍を見せると、再評価されるようになり、2022年には178頭に増加しました。種付け料も500万円が最高だったものが、2023年に供用6年目で1000万円という大台に達しました。この値上げにも関わらず、ますます多くの繁殖牝馬が集まり、6年目には242頭に増加しています。

産駒の活躍

産駒は2021年夏から競馬場でデビューし、初年度産駒から活躍馬を輩出し、重賞タイトルを多数獲得しています。 イクイノックスは初年度産駒であり、2021年の秋に東京スポーツ杯2歳ステークス(GII)で産駒初の重賞優勝を果たし、翌年のクラシック戦線で有力な存在となりました。しかし、春の三冠戦である皐月賞と東京優駿では、ジオグリフとドウデュースに阻まれて2着に終わりました。しかし、秋には3歳馬ながら天皇賞(秋)で優勝し、史上4頭目となる天皇賞(秋)の親仔制覇を達成しました。さらに有馬記念でも優勝し、年度代表馬に選ばれました。これにより、史上5例目となる親仔年度代表馬受賞と、31年ぶりの父仔受賞を果たしました。 翌年の2023年、イクイノックスは父の実現しなかった外国遠征であるドバイミーティングに参戦し、ドバイシーマクラシック(G1)で優勝しました。そして、宝塚記念でも優勝しました。この時点で8戦6勝2着2回、GI級競走4勝を挙げています。 それに対して、初年度産駒ではクラシックのタイトルを獲得できませんでした。イクイノックスは皐月賞と東京優駿ともに2着に終わりました。そして、ガイアフォースは、2022年のセントライト記念で優勝し、父仔制覇を果たしましたが、菊花賞ではアスクビクターモアというディープインパクト産駒に敗れて8着に終わりました。しかし、2年目産駒であるソールオリエンスは、皐月賞で優勝し、父が果たせなかった無敗の皐月賞優勝を達成しました。 2023年時点では、ソールオリエンスを含む2年目産駒による日本ダービーのタイトル獲得はまだありませんでした。ソールオリエンスは日本ダービーでは2着に終わり、青葉賞(GII)優勝のスキルヴィングも5秒以上遅れてタスティエーラに敗れました。

所縁

キタサンブラックは、父ブラックタイドがクラシック競走での優勝を果たせなかった夢を叶えました。さらに、彼はディープインパクトという優れた種牡馬の産駒に対しても勝利し、ディープインパクトのGI勝利数を並び、獲得賞金でも上回る活躍を見せました。例えば、大阪杯では、ディープインパクトの産駒が3連覇していましたが、キタサンブラックという異なる種牡馬の産駒が優勝し、ディープインパクトの勢力を凌駕しました。キャリアの後半は、武豊という騎手がメインのジョッキーとして騎乗しました。彼はディープインパクトの引退レースとなる2006年の有馬記念で優勝し、さらに1990年のオグリキャップと合わせて有馬記念を3回制覇しました。 キタサンブラックは、天皇賞(春)でも日本レコードを打ち立てる優勝を果たし、ディープインパクトの2006年の記録を上回りました。また、彼の母方の父であるサクラバクシンオーやその父であるサクラユタカオーも、過去に日本レコードを樹立した戦績を持っていました。さらに、キタサンブラックはジャパンカップや大阪杯でも、彼の祖先が果たせなかった優勝を成し遂げました。ジャパンカップではサクラユタカオーの半弟であるサクラシンゲキの敗れた姿から「日の丸特攻隊」と評された逃げ切り優勝を果たし、大阪杯ではサクラユタカオーの産経大阪杯に続く優勝であり、唯一歴代優勝馬の血を継ぐ存在として新しい大阪杯の初代王者となりました。 さらに、キタサンブラックは有馬記念でも素晴らしい成績を収めました。初挑戦は3着、2年目は2着と敗れましたが、3年目となる引退レースで優勝しました。彼の母方の祖先であるサクラハゴロモの兄であるアンバーシャダイ以来、史上2頭目となる有馬記念での1着、2着、3着の経験を持っています。キタサンブラックは着順を改善しながら成績を伸ばしましたが、アンバーシャダイは初挑戦の1981年に優勝し、翌1982年は2着、翌々1983年には3着という逆の着順をたどりました。

手向けの勝利

キタサンブラックに関わった人々の中で、複数の訃報がありました。まず、騎手の後藤浩輝は新馬戦に騎乗した後、2015年2月末に自殺しました。もう一人の騎手であり、後期の主戦騎手であった武邦彦は、初めて天皇賞(春)を優勝し宝塚記念で3着となった後の2016年夏に病死しました。 武豊は、2016年天皇賞(春)を優勝した直後、体調を崩して入院中の父邦彦を見舞っていました。邦彦は息子の訪問を待ち、対面した後に手を取っておめでとうと言いました。武豊によれば、邦彦がこうした行動を取ったのは初めてだったとのことです。武豊は2017年末の有馬記念を優勝した後、キタサンブラックに跨りながら天を指差していました。彼はこの瞬間を利用して、天国にいる後藤と武邦彦に有馬記念優勝の報告をしていたのです。 また、キタサンブラックの育成に携わった日高軽種馬共同育成公社の場長であった加納雅己も闘病中に亡くなりました。彼はデビュー前の2014年12月2日に53歳で亡くなり、最後に調教馬と接していたのがキタサンブラックでした。 さらに、キタサンブラックの生産者であり、2001年のファンタジーステークス(GIII)を優勝したキタサンヒボタンを所有していた片岡禹雄も病死しました。彼は北島との長い関係にあり、天皇賞(春)連覇直前の2017年4月25日に亡くなっていました。そして、告別式の翌日である4月30日に、キタサンブラックは天皇賞(春)で連覇を果たしました。北島は、自身の宝物とも言えるこの成功に感謝し、神様とご先祖様の導きに思いをはせていました。

 

 

 

 

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