ディーの日記 1583年4月20日

ページ名:ディーの日記 1583年4月20日

第五の神秘の書 付録


1583年4月20日 土曜日


 この土曜日には、余とエドワード ケリーの間で大きく激しいやり取りがあった。彼は我々の活動のプロセス全体を、彼の破滅を求める悪しき欺きの霊らによって行われたとして、完全に信用していなかった。そして彼はここでしばしば正しい事を語られていたが、それは欺きの悪魔らによるものだと言った。そして今、これまで彼が書いていたのとは違って、角のある黒い雲が示されているのは、彼を嘲る以外の何の意味があろうかと非難し、さらに、彼らは良き行いをすべき時に、余らから消え去っている事もである。このような事に時間を費やすよりも、彼がそれで生活できる(錬金術の)研究をし、知識を幾らか得る方が良く、それが彼が余の家に来て、囚人のようにここに住んでいる目的であると。そのためには彼がコッツウォルズ平原の近くに居る方が良く、そこでは外を歩いても、昨日の彼がウェストミンスターで黒いカラスが住む場所にいた小人のネッドのように、暴力的な連中に危険や防がれたり困らせられる事も無かろう。そこで彼は、ネッド(あるいはエドワード)と、今では貧しくなった正直な男の外科医のルッシュとが値段交渉をしているのを見たために、口汚く罵られたのだ。さらに問題なのは、この活動を達成するために良く忍耐強く自らを用いる事に、彼はメランコリックとなり道を外したのである。余は彼に答えて言った。余らは次の木曜日には、神が喜ばれるならばこれらを明白にするのを、自ら見つけ出すであろうし、また余らは神の神秘とそこにある慈悲を行う時を、神が述べるよりも短くするよう定める立場にはない。そして疑い無くこの黒い雲の占拠は余らの不完全さによるもので、それらを改めたら、全てはより慰められる事になろう。そして(余らが対処する)生き物らの善意への彼の疑いについては、これらの生き物が余らへの対処の始まりから最後の時まで、良き果実をもたらした事への、こう述べたり疑ったりするのは非難されるべきだと述べた。



 余らは(これらの生き物の)神への賛美と、謙虚さ、忍耐、粘り強さ、信仰の教授と奨励など以外は何も聞かなかった。彼らが約束した事は、神は行うだろうというものや、彼に仕え栄光を帰するために行うというものだった。それらは以前にも人に与えられたものであり、それゆえ人が再びそれらを楽しむのが不可能ではなく、余らが望むのも不適切ではない。ケリーのトラブルのある心は疑いを持ったが、神がその憐れみを通じて喜びを与えた、余の静まった心にはそれらは無く、また何らかの野心、偽善、無法から余の行動が告発される事も無く、主の助けの御手が余が仕えるために賢くするのを待ち跪いているのみなのである(余の主への日々の祈りが長い間伝えているように)。そして、余は主の御手による知恵を求め続け、信頼を神に置いているゆえ、神はかくも困惑するように余を苦しめたりはせず、その子供らがパンを求める時に石を与えたりもしまい*1。加えて、神は自らを畏れる者の望みは全て満たす。そして(神の恵みにより)余は神を同様に畏れており、神への懇願を行うのを慎重にしており、この世界での(世俗的な)所有を神の恩寵、その慈悲、恵みを楽しむ以上には求めたりはしないのである。そしてケリーが望む事への不満を言うと、余の望みは彼よりも大きなものだと述べた。余はほとんど300ポンドの借金があり、彼よりも大きなものだからだ。それでいて、余の40年間の研究では何百ポンドも費やしており、何百マイルも旅してまわり、研究のために良きものを学ぶのに我が意志を強制したり、多くの骨折りがあったのだ。それでいてこれら全てのために、余は(1年以上の)貧困生活、毛布をかぶり、イングランドのあちこちを旅し、我がパンを乞うのにとても良く満足していた。このため、最後には神の知恵を得て、それにより神にその栄光のために仕えられると確信できよう。そして平明な生活にするよう余は解決し、世俗の喜びを全て捨てて、全ての知恵の終わりなき泉を心から楽しみ、また神の恩寵のために余の地上の日々を用いて、ここで神の憐れみと力ある祝福を楽しむよう確信し、神の神秘を理解し、神の栄光を高めるための真の活動を行うようにしたので、このような事は主の右手の御業であるのは証明され、告白されよう。また、彼の批判や疑いに対して、余は多くの議論と返答もなした。その後に(正午ごろに)余は近々示されている困難と苦しみについて話し始め、この問題について少し考えに入った時、天使が現れて、自らをElあるいはIlと答えて述べた。


イル「今がこの問題だ」
ディー「何の問題か?」
イル「汝と我の機知を運ぶ財布を我は持たねばならない」
ディー「祝福は主の名によりて来る者」
イル「ならば、我は祝福があると認めなくてはならぬ。祝福は患者に死の苦痛が来る前に癒す医者だ」
ディー「この雲のような七芒星について汝はどう考えるか?」
イル「我はこれについて述べるのを汝は望むのか? 我が行った事全ては教授であると汝に述べている。我はこの上に安定して立つことが出来ないので(それ自体は1つであり、完全なものだ)、我が口からは告げられず、さらに語れない。これが何であるかは、我が向かう場所であると汝は理解しよう」
ケリー「彼は回転する輪*2の頂点へ行くように、七芒星へと行きました」
イル「我は汝らが話していた事全てを知る。だが、そのような心、そのような悪しき感化、そのような悪しき感化、そのような腐敗には、治癒できる薬が必要である。だが汝はどう行うか? 我は背後にある全ての我がくずを忘れていたが、汝らのうちには充分な軟膏を良く備えているのを知るので、それらの助けにより汝らの片方を見ようかと思う。全ての我が箱は空だと汝らは見るか?」
ケリー「彼は空の薬屋の使うような箱らの多くの束を見せました。そして、それらはカラカラ鳴っているように聞こえます」
ディー「汝は余らを楽しませるために好意ある神力から来たと装っているが、汝の箱は空だ。どのようにして、それを行うのか?」
イル「汝が今話している時ですら、ユーピテルは全てを満たす。汝の空の箱が有徳だとしたら、我が空でないものを持ってきたら、どれだけより多いであろう?」
ディー「では、余は汝の空の箱に何の徳があるのかを言うように祈ります。なぜなら余らは汝の満たすものにより良く確信が持てるだろうからです」
イル「汝は我が証書を持ちたいか?」
ディー「余らは汝の証書とともに薬屋へ行かなくてはならないか?」
イル「我はそれを示そう。汝が求める場所で仕えよう。
 Indra galgol astel」
ディー「余らはそれを理解しないのを汝は知っていよう。これがどう仕えられるのか?」
イル「汝には解説者が必要となろう。汝は医学書を近くに持っているか?」


 余の傍の机の上のには、マルクス ヘレミタの「霊的な法について」のギリシア語とラテン語版があったが、ラテン語訳が前に開かれていた。その左側のページは、「さらに、この知識は何らかの作業における不注意により曖昧となるのは珍しくも無い。」という文で始まっていた。そして右側のページは、「心無き肉体は、何も到達出来ない。」などという文で始まっていた。


イル「ここでの多くは確かに良き医学である。汝は後の日に我が名前を見出すであろう。我が名前へと行け」
 そのため、余は第2の書を開き、シギッルム エメトも持ってきた。そしてそこから、Ilemeseの言葉を選んだ。するとイルは余に尋ねた。
イル「この名前のどの文字を最も好むのか?」
ディー「Lである。なぜなら、神を表す御名、ELなどに含まれるからである」
 するとイルはこれらの文字について、さらに述べたが、余はそれをここには書かない。
イル「第2の大文字のMへと行け。これは神の調和に仕えられるからだ。これが神に仕えられなかったとしたら、神は馬も我慢出来ないような薬を持たねばならないだろう。これを用いよ。それにより、汝(ケリー)の盲目さは消え去ると我は保障しよう」


 ここで大いに記すべき事は、余はマルクスの書をさらにページを捲り、27枚の見開きを先に進んだ。そして、余は4つ組のMのある場所へと到達し、その2番目にはこの文に気づいた(余は線を引いて、花模様のある部分に注記もした)。罪を悔いる心無くば、悪意と粗悪から完全に逃れるのは不可能である。また心は眠り、食べ物、肉体の放埓の3つの誘惑を打ち砕くと余は言おう。過剰で膨大なこれらは、他の生き物らを喜ばせるが、快楽は思考を歪め、事実、祈りと適切な思考を防ぐのである。
 この文について余らはよく考えて、心が落ち着き、この事について神にその慈悲を感謝した。この懇願により神は余らに幾らかの義を理解させるようにし、一方で雲は今では輝くようになった。


 神のみに全ての誉れ、称賛、栄光があらん事を。アーメン。


ディーの日記 1583年4月23日
↑ ディーの日記


*1 マタイによる福音書 第7章9節。
*2 ディー注。ゲオルク アグリーコラの鉱業の本にある、馬が車輪を回すために用いられるようにである。