カバラとヘルメース主義伝統の歴史

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カバラとヘルメース主義伝統の歴史


マーク スタヴィッシュ修士著


 カバラの歴史には、何世紀にもわたるカバラ自身の発展だけではなく、ヘルメース主義哲学も同様に形作ってきた多くの人物と出来事に満ちている。しばしば忘れ去られたり、特定の学派の信奉者らによってのみ記憶されていたりするが、我々がヨーロッパの霊性発展の歴史のより深く完全な概観を得るためには、これらの著名で影響のあった人物らと、秘教思想への彼らの貢献についてを知るのは重要である。


 カバラという言葉は、ほとんどの読者は既に知っているだろうが、ヘブライ語から来ており、「伝統」あるいは「口承により受け取ったもの」と一般的に訳される。これは書かれざるユダヤ教の神秘的、魔術的な様相であり、外的なユダヤ教の思考や哲学の、書かれている規則、律法、儀礼と並行して存在してきた。


 だが一般に知られていないのは、カバラはそれ以前から存在していたものの、「カバラ」という言葉そのものは、12、13世紀までユダヤ哲学の秘教的、神秘的思索と実践を意味するものとしては使われてこなかった事である。この時代になって初めて、我々が今カバラとして知る、生命の樹やセフィロトなど全てが造られたのである。このカバラという言葉と同様に、生命の樹もまた、その起源はより古い伝統と実践にある。かつては多くの、そして今でも一部のカバラ学派は排他的にユダヤ教志向ではあるが、時代が進むとともに、多くがキリスト教世界に適合し、さらに他の神秘的、秘教的な学派の影響をカバラは受けてきた。


 盲者イサクは、13世紀初期のカバラ哲学と儀式の研究の中心的人物で、ユダヤ教のみならず、古代ギリシアや、キリスト教グノーシスの文書、バスラのスーフィの宗派「誠実なる兄弟団」の書すらも研究していた。盲者イサクはこの時代のプロヴァンス地方の影響のある学派の指導者だった。初期のカバラの発展の別の重要人物は、14世紀のスペインのサラゴサの学者アブラハム アブラフィアである。メシア的な大望があったと言われるアブラフィアは中東や北アフリカを旅してまわり、スペインへと帰った時にはヨーガに似た姿勢、呼吸法、リズミカルな祈りの技法を伝え、弟子らに新たなカバラの構造としてこれらを教えた。


 ヨーロッパが暗黒時代でのたうち回っていたこの時代に、人間意識の最も深遠な跳躍の幾つかが起きていた事に気づくのは重要である。ピレネー山脈の北のヨーロッパでは、無知と不寛容が存在していたとはいえ、スペインではアラブ人の宗教寛容の時代の下で神秘的なリバイバルが始まろうとしていた。キリスト教徒とイスラーム教徒が中東とスペインの政治的、霊的な支配権をめぐって戦争を続けている中、ユダヤ人の知識人らはアラブ帝国内で力と影響力を高めていった。


 アラブ人支配のスペインでは、この中世ユダヤ教の「黄金時代」の頂点となり、旧約聖書の預言者らの時代以来の最も深遠なユダヤ人神秘哲学者らの貢献があった。ユダヤ教の古典への卓越した注釈者であるモーシェ ベン マイモーン(ラテン語でマイモニデス)や、セフェル ハ=ゾーハルの著者、というより編集者であるソロモン イブン ガビーロールとコルドバのモーシェはこの時代に活躍している。ゾーハル、光輝の書は、セフェル イェツィラー(形成の書)と並んで、全てのカバラの思索、瞑想、儀式の基礎を形成している。その聖書の言い伝えへの注釈は、西洋神秘主義の学徒らには終わり無き知恵の宝庫である。スペイン、特にカタロニア地方と、南フランスのプロヴァンス地方の彼らの活動によって、カバラは西洋史で最も強力で影響のある神秘哲学の1つへと成長していった。


 また神秘学徒に重要なのは、アラブ人支配のスペインからは、西洋は錬金術と儀式魔術、カバラの姉妹らの知識をも受け取った事である。これら3つの学派は共に、初期の薔薇十字団文書、「友愛団の名声」、「友愛団の信条」、「クリスティアン ローゼンクロイツの化学の結婚」で述べられているように、ヘルメース哲学と実践の基礎を形成している。神秘主義の多くの学徒らのこれらの学院への巡礼の旅は、その先達らがエジプトやペルシアの諸神殿に行っていたのと同じくらいに大きなもので危険でもあった。ライムンドゥス ルルス、アルナルドゥス デ ビラ・ノバ、さらに有名なフランスの神秘家、錬金術師、薔薇十字団員、書店主から大聖堂のパトロンとなったニコラス フラメルに至るまで、全員がカバラをその部分とするヘルメース学への秘儀参入をスペインで受けて、それをヨーロッパの残りへともたらしたのである。


 ゆえに、カバラの思索と教えの純粋で変化しない流れが、アダムから今日まで伝えられてきたという一部のユダヤ教やヘルメース学派によって常に唱えられている考えは、神話あるいは愚かさである。一部の学者らは、カバラはその基盤を初期のユダヤ教の神秘主義実践、特にメルカヴァー、チャリオット神秘主義にまで遡れるものの、その概念は完全に12、13世紀の新しいものだったとすら主張している。万物は本質的に変化と適応していくものであり、カバラはそれらの変化し進化してきた創造物の1つである。


 この変化の完全な例は、初期のユダヤ教の書らが異端審問によって滅ぼされる危機にあった時に、それらを保存しようとしていた神秘家らによってカバラの概念をキリスト教化し、同様にその中に含まれていたものの実践的な使用を探す試みにある。この理由から、キリスト教カバラ(しばしば、KabbalahではなくCabalaと書かれる)の類が15世紀に発展していった。その目的はカバラとキリスト教教義の調和化であり、カバラの最初の3つのセフィロト「聖なる上位の3つ組」と、キリスト教の三位一体説のうってつけの正当化を見つけようとする試みであった。


 この「キリスト教カバラ」の2つの主な源は、スペインの「改宗(conversio)」ユダヤ人(時には「隠れユダヤ人(crypto-jews)」と呼ばれる)、カトリックに改宗したユダヤ人の書いたものと、フィレンツェでメディチ家によって支援されていたプラトン学院であった。


 スペインでの改宗ユダヤ人が書き、カバラの発展に最も影響したものは、13世紀より始まり、1492年のスペイン王の追放令によるユダヤ人のヨーロッパの他の地域への「離散」で終わった。この時代、ブルゴスのアブナーや、パウレス ド ヘロディアといった著者らは、秘密裏にキリスト教カバラの書を、イェフーダー ハン=ナーシーや他の有名な神秘主義の著者らの名前を借りて書いていた。それらの中でも最も有名な2冊は、「イゲレト ハ=ソドト」と、「ガレイ ラザヤ」である。他の書らも15世紀の終わりまでユダヤ人改宗者らによりスペインから出ており、しばしばそれらはゾーハルのように他の良く知られ、高名な書の文体を真似ていた。だが、そのような模倣はこの時代には一般的であって、それ自体は著者が本物であるかどうかを疑うには充分では無かったのである。


 フィレンツェにあった諸学院は、スペインのユダヤ人著者らの書いたものよりも、より大きな影響があった。スペイン文書はしばしば翻訳され、ヨーロッパ中で概ね得られたが、これらはユダヤ教からキリスト教へや、逆にキリスト教からカバラの有効性への改宗には僅かしか貢献しなかった。フィレンツェ学院は、カバラはキリスト教を確証する明白な情報源であり、新プラトン主義、ピュタゴラス哲学、オルペウス密儀はこの中で発見されたという信念を発展させていった。またカバラはカトリックの長く失われていた秘密であり、おそらくはキリスト教の原初の信仰であるものが再発見されたと彼らは信じた。このキリスト教カバラ派の主な創設者は、ジョヴァンニ ピコ デッラ ミランドラ(1463年 - 1494年)である。この若き天才は、1466年に23歳でカバラの研究を始め、自らが改宗カトリックであったサムエル ベン ニッシムがラテン語へと翻訳した膨大なカバラの文書の書庫を持っていた。ピコは後に、フラウィウス ミトリダテスとして知られるレイモンド モンカーダとも知遇を得て、この人物も彼のために翻訳をした。ピコがローマでの議論のために公に示した900の論題の中には、「我々がイエス キリストの神性について確信させるのに、魔術とカバラ以上に良い学は無い」というものも含まれていた。これによって、初めてキリスト教世界の多くの者らにカバラの知識がもたらされた。


 ピコが作ったこれや他の提案への教会の反応は、激しい反対と拒絶であった。だがピコが望んだ公開討論は許され、カバラは今ではキリスト教世界の知識人らの間での主な議論の的となった。そうでなかったならば、これまでのように、このユダヤ教の秘教教義は見過ごされていたか、完全に失われていたであろう。ドイツ、イタリア、フランスのキリスト教プラトン主義者らは、速やかにピコの学派に魅了された。またピコの行動は、有名なキリスト教ヘブライ学者のヨハネス ロイヒリンにカバラの研究をさせる原因となり、その結果として2冊の書――「De Verbo Mirfico(奇跡の働きをする御名について。1494年)」と「De Arte Cabalistica(カバラの術について。1517年)」が出版された。


 ロイヒリンがこの2冊の書を出版する間には、パオロ リッチオのペンから幾つかの書が出版されている。リッチオ自身もカトリックへの改宗者で、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの侍医でもあり、学識ある評判があった。リッチオはピコとロイヒリンの考えを受け取り、さらにカバラとキリスト教の情報源を基盤とした自分の結論も加え、「神名」とその世界史との関連についての教義を造った。


 リッチオによると、世界史全ては聖書に記された神の御名を基にした3つの段階に分けられるという。第1の時代は自然の時代で、この時には神は自らをシャダイ(強き者)の3文字の御名により明かしている。第2の時代はトーラーの時代で、神はモーセに4文字の神名、テトラグラマトン、YHVHとして明かしている。最後の時代は恵みと贖罪の時代で、神はテトラグラマトンの中心にシン(ש)、ロゴス(キリスト)の文字を加えた、イェホシュア、カバラ流のイエスの名前で自らを明かした。これにより、イエスの御名、神秘の御名として、先には発音不可能だったYHVHが発音可能な名前となる。さらにこの説を補強するため、リッチオはイエスがJHSの略語で述べられている中世の文書を引用しつつ、ユダヤ教カバラの3つの時代(混沌の時代、トーラーの時代、メシアの時代)と対応させたり、フィオーレのヨアキムが主張していた父と子と聖霊の時代の似たような説を取り上げたりしていた。これらの概念、特に神名の中に置いたシンの字の意味合いや、聖霊の時代についての説は、19世紀から20世紀初期のフランスのオカルト学派(エリファス レヴィとその後継者ら)とその哲学の発展に重要な役割を演じた。


 ピコとロイヒリンの書が重要なのは、これらはカバラを初めて、キリスト教(特にカトリック)ヨーロッパとその知識人らの幅広い文化的、神学的なコンテキストに置いた事である。これらの「神名」への焦点や、実践的、魔術的カバラ、カバラ哲学と思弁とキリスト教教義との総合は、この時代の時代精神となった。


 この時期に新たに形成されたキリスト教中心のカバラ伝統から来た、全ての魔術・神秘主義カバラ文書の中でも最も影響のあったものは、ネッテスヘイムのコルネリウス アグリッパの「オカルト哲学」4部作(1531年)である。この実践カバラに関する諸書は、この時代の全てのオカルトと魔術の言い伝えを集めた百科事典であった。これらの書によってキリスト教世界は、カバラに関連する魔術、数秘学の多くの情報を受け取ったのである。


 16世紀にカバラの主要な資料が欠けているのを補おうとしていた他のキリスト教思想家らは、ヘブライやラテン語の原典へと戻っていった。当初の目的は、キリスト教と神秘的ユダヤ教との接点があるのをさらに証明しようとしたものだが、結果としてはヘブライ研究の幅広い知的理解をもたらす事となった。このムーブメントの最も重要人物であった2人は、ヴィテルボのギルス枢機卿(1465年 - 1532年)と、ヴェネツィアのフランシスコ ジョルジョ(1460年 - 1541年)である。前者の著書「Scechina」と「ヘブライ文字について」には、ゾーハルとセフェル ハ=テムナーの影響が濃厚である。そして後者はフランシスコ会修道士で、この時代に幅広く読まれたカバラの大著「De Harmonia Mundi(世界調和について。1525年)」と「Problemata(1536年)」の著者である。この2冊ではカバラは中心のテーマとなり、ゾーハルは歴史上初めてキリスト教起源の書と一緒に用いられた。ジョルジョの書はまた、ピコの論題を幅広く述べてもいた。


 これらの学者らの間でも、最も影響があり、記憶されていて、オリジナルのヘブライ語の情報源に近かったのは、ギョーム ポステル(1510年 - 1581年)である。フランス人神秘家のポステルは、ゾーハルとセフェル イェツィラーを、それらがヘブライ語で公に出版される前にラテン語に翻訳していた。ポステルの翻訳書には、カバラの応用としての自らの神智哲学の神秘的な注釈も含まれていた。その出版物には、メノラー(7枝の燭台)の神秘的象徴主義に関するラテン語の注釈書(1548年)も含まれており、それは後にヘブライ語版も出版された。


 16世紀全体でキリスト教カバラは、自らの内的な神智学の発展に焦点を当てており、ヨーロッパのユダヤ人への布教には用いられていなかった。だが、この大義名分は他の場合では(教会に)逮捕されたり殺されたりしたであろう研究の正当化には役に立った。これらのキリスト教中心の神智的思索が発展するにつれ、徐々にオリジナルのヘブライ文書やそのラテン語訳は顧みられなくなっていった。その数少ない例外の1人は、ヨハン アルプレヒト ヴィドマンシュテッター(1506年 - 1557年)で、自らの研究のためにカバラの膨大な蔵書を所有していた。


 17世紀ドイツのヤコブ ベーメとクロル フォン ローゼンロートの書とともに、キリスト教カバラは決定的にヘブライの情報源から離れ、以後今日まで再び接近する事は無い。ローゼンロートの「カバラ デヌダタ」(1677年 - 1684年)はゾーハルの多くを歴史上初めてキリスト教読者が読めるようにしていたが、彼のアダム カドモンとキリスト教神学の「最初の人間イエス」との関連についてのエッセイでは、多くの面でゾーハルを押しのけているように思える。「デヌダタ」の最後にオランダ人神智思想家フランシス ファン ヘルモントにより加えられたエッセイは、特にこの点が強かった。このエッセイは「キリスト教カバラの概観」という題名で匿名で出されていた。


 この時代、イングランドではヘンリー モアとラルフ カッドワースに率いられていた「ケンブリッジのプラトン学派」が、自らの思索のためにカバラを用いており、カバラ哲学のさらなるキリスト教化のためにファン ヘルモントのエッセイの中にそのリンクを見つけていた。ドイツでは、後には他の地域でも、カバラは強い「ボヘミア」気質があると考えられた。ヤコブ ベーメの書いたものと、カバラの様々な学派のものとの強い類似性からである。ベーメの書いたもの(とその幻視)とカバラとの間には何の歴史的な繋がりも無かったが、この決定的な類似性は、キリスト教カバラとユダヤ教カバラとのもともと弱い繋がりを、さらに取り除く事となった。ベーメのインパクトは、フランス革命直前のルイ クロード ド サンマルタンの書に拡張され、大陸の神秘主義と後の「フランス オカルト リバイバル」の様相を変える助けとなった。


 キリスト教カバラは、ほとんどその始まりより、今では我々が、良い用語が無いので便宜的に、ヘルメース的あるいは錬金術的カバラと呼ぶものへと発展し、ルネッサンス時代のヘルメース学派の間で育っていった。ヘルメース哲学の目的は、過去にあった全ての人間の学問、特に古代人の知恵、ソフィアを総合し、単独の普遍哲学(パンソフィア)にする事にあった。


 この哲学は、キリスト教神秘主義を中心とした主に4つの思索と実践の学派の総合だった。これら4つの学派は、ユダヤ教カバラ、ヘルメース文献、新プラトン主義(ピュタゴラス主義)哲学、グノーシス主義である。事実、錬金術の象徴やモチーフは、既に16世紀初期にはキリスト教カバラに加えられている。エリザベス朝イングランドでのこのムーブメントの主要な代表者は、フランシス ベーコン卿、イライアス アシュモール、トーマス ヴォーン(1622年 - 1666年)、薔薇十字団の擁護者ロバート フラッド(1574年 - 1637年)がいる。一方大陸では、ブレーズ ド ヴィジュネルの「Traite de Feu」(1617年)や、ハインリヒ クンラートの「Ampitheatrum Sapientiae Aeternae」(1609年)は、伝統的なユダヤ文献からの離脱と、神智学の完全に分離した体系の形成の典型である。18世紀半ばには、F.C. エティンガーの書や、ゲオルク ボン ウェリングの 「Opus Mago-Cabbalisticum(魔術カバラの作業。1735年)」と、メイソンリーや疑似メイソンリーの位階、儀礼、結社の爆発的な発展とともに、この分離は完了した。


 フリーメイソンリーとメイソンスタイルの体系の形成が、18世紀のフランスほど毒々しく流行った事は無かった。ここでは、ドイツに似て、貴族らは神秘的なものや、魔術・神秘的なものへの、ほとんど飽く事も知らない欲望と騙されやすさを示していた。一方で多くの儀礼は、ヘルメース主義の真にして本物の諸密儀を永続化させるのを目的として、自らで造るか、既存のフリーメイソンリーに「高位階」の体系を追加する事で行われたものの、また多くの場合は単に自称「密儀の祭司」や「グランドマスター」の金稼ぎのために造られていた。これらの体系のほとんどは、この時代を超えて生き残る事は無く、中にはそれらの「秘儀参入」や「秘密集会」が行われていた部屋を超える事も無かった。だが、これらの体系の1つ、マルティネス ド パスカーリが作ったものは違っていた。そして、この西洋神秘主義へのインパクトは、何世紀と続くであろう。


 マルティネス ド パスカーリのフランス「秘儀参入」シーンの外見は、この時代の多くの同業者のものと似ていた。神秘的で、未知の起源であり、超自然的な霊とのコンタクトの主張に満ちていて、さらにカバラの印と象徴にも満ちていた。だが多くの同業者らと違っていたのは、パスカーリの影響は長く続き、彼の魔術、復興、天使との対話の体系はユニークなものだった。ディー博士とエドワード ケリーの書以来、この種のものが世界に明らかにされた事は無く、また決定的にキリスト教カバラの性質があるものの、以来、同等のものが現れる事も無かったのである。これは他の体系全てが、パスカーリ(あるいはディーすらも)より劣っていると言うのでは無く、このようなユニークな思考と形態が現れるのは稀であると言いたいのみである。


 グルノーブルにスペイン系の子孫として生まれたマルティネス パスカーリは、チャールズ エドワード ステュアート自称「スコットランド、アイルランド、イングランド王」からメイソン憲章を受け取っていた父から、1738年5月20日に古代の教えを伝える権威を授けられた。この憲章の力と権威は保有者の死によって継承可能だった。結果として、マルティネスは紛れも無いメイソンの性質のあるムーブメントを作り出し、唯一マスターメイソン(親方)のみが加入する事ができ、その名をメイソン騎士団、宇宙の選ばれた祭司達(Order of Knight Mason, Elect Priests of the Universe)、あるいは単にElus Cohen(選ばれた祭司達)と名付けた。


 パスカーリの公式な「霊的ミッション」は1758年から始まったとされているが、4年前に既に彼はフランス南部のモンペリエの町にメイソンの支部を造っている。翌年の1755年には選ばれた祭司達がボルドーの町で公的に設立された。そしてパリには1766年に中央執行機関が設立され、そこにはこの時代の主要なメイソンらが何人か参加していた。そして選ばれた祭司団のさらなるロッジ(支部)が、アヴィニョン、モンペリエ、メッツ、ラ・ロシェル、ヴェルサイユ、リヨンにも設立されていった。


 選ばれた祭司達が、他のメイソンリー結社と違って、そしてそれらの結社から会員を引き寄せていったのは、この組織では人類の「再統合」のための儀式魔術、テウルギーの強調にあった。パスカーリのマルティニスト会の教義は、「人の没落」とその修正を中心としたものであった。その基本的な信条は以下のものであった。


 1. 原型的な人間、アダム カドモンは神から流出し、元は高い霊的な界に住んでいた。
 2. 自らの「自由意志」の悪用を通じて、アダム カドモンは「没落した」。
 3. この元は統合されていた存在は、無数の個人的な魂の破片へと砕けて、それが今の存在である。
 4. 人類の目的は自らを元の原型と再統合させ、統一に到達する事である。


 選ばれた祭司達の位階は3つの主な部分に分かれており、「薔薇十字」の秘密の位階によって完成していた。第1のグループは、石工メイソンリーの最初の3つの位階を通っていた者らで構成され、その後に補足的な位階も続いていた。第2のグループは、「徒弟の祭司」「仲間の祭司」「親方の祭司」の「入り口の位階」で構成されていた。第3のグループは「選ばれた祭司のグランドマスター」「東方の騎士の大建築家」「ゼルバベルのグランドエル」の神殿の位階によるものだった。


 しばしば6時間以上にも及ぶ個人やグループでの儀式によって、この団の会員は天使の存在との対話、宇宙の悪魔的諸力を超える作業、神力の発現、「原初のアダムと自らを統合する」機会が与えられていた。各会員は霊的存在の階梯にそれぞれ接触する必要があり、さらに欠乏の小者(世俗的な人間)、和解した小者(霊的な道を進み始めた者)の秘儀参入者となり、それからは選ばれた小者への転換期があり、さらに次には上位にして大いなる天の階級の霊らが続き、最終的には神に至る。


 選ばれた祭司達の儀式と儀礼は200年前と同様に現在でも行われている(パリのロッジはなおも活動中である)が、パスカーリの遺産を永続化させるために、彼の2人の弟子は大きく違った道を取った。それら2人はルイ クロード ド サンマルタンと、ジャン バプティスト ウィレルモッツである。


 サンマルタンは、1768年にボルドーの町のフランス軍守備隊の士官として仕えている傍ら、選ばれた祭司達への秘儀参入を受けた。その時サンマルタンは25歳で、後に「高次の真理へ私が導入されたのは、マルティネス パスカーリのおかげである」と書いている。彼の初期の師への評価は良いものだった。霊的誕生を与えた伝統から離れていった多くの者らとは違い、サンマルタンは後に哲学的不同意となったにも関わらず、パスカーリに生涯感謝の念を持っていた。


 1770年に秘教の探求に専念するために軍を除隊した後のサンマルタンは、パスカーリの個人秘書となった。だが1777年、師パスカーリの死後3年に、サンマルタンは選ばれた祭司達のテウルギアの実践から離れ、自分には作業のための「才能」が欠けていると述べ、より純粋で抽象的な神秘主義の領域へと入っていった。


 そのすぐ後にサンマルタンは「未知の哲学者達の団」と繋がり、速やかにその教育者の立場へと登っていき、学習グループを組織し、秘儀参入を授けるために、ヨーロッパ中を旅してまわった。この団は1643年まで遡る「薔薇十字の性質を持つ」古代の結社との繋がりがあり、その会員にはハインリヒ クンラート、アレクサンダー セトン、センディヴォギウス、ヤコブ ベーメが含まれていたと主張していた。また未知の哲学者達の団は1090年にコンスタンティノープルで設立された「Les Freres d’Orient(東方兄弟団)」との繋がりも示唆していた。この結社の教えは師から弟子へと伝えられ、その統一された形の原理は「秘儀参入」を受ける事で得られ、それにより彼らはS.I.と略称された「Superieus Inconnus(未知なる上位者)」と認められる権利を得た。「未知の哲学者」のペンネームで書いていたサンマルタンの書は、彼をヨーロッパ中の貴族達から引っ張りだこにした。自らも貴族の血が流れていたサンマルタンが、フランス革命の「恐怖政治」で処刑される事無く、それどころか比較的安泰に自らの活動を続けられた事は、しばしば奇跡と見做されている。


 一方でジャン バプティスト ウィレルモッツは、選ばれた祭司達の教えを守り続けて、この組織をテンプル騎士団の直系の子孫と主張する、厳格に遵奉したメイソン結社に変えてすらいる。この2つの主要な勢力、厳格遵奉団を通じたウィレルモッツの教えと、「フリーの秘儀参入」を通じたサンマルタンの教えとが、部分的にはフランス秘教主義に、そして全体的にはヨーロッパの秘教主義で、後の「ヨーロッパ オカルト リバイバル」として知られる時代まで続くのである。


 「ヨーロッパ オカルト リバイバル」は、フランスでエリファス レヴィの書により始まったものの、1880年代になってから完全に独り立ちした社会的な勢力となった。これは今日の「ニューエイジ ムーブメント」に似て、セレブ、芸術家たち、全ての種類の神秘主義の混合物、通常のエゴによるもの、個人的フィーリング、その他単に平凡な古い噂話で成り立っていた。


 これら全ての中でも重要人物は、ジェラルド アンコースという名の若い医学生、より良く知られているのは、そのペンネーム「パピュ」、古代エジプトの治癒術の精霊から取った名前であった。彼とオーギュスタン シャボズウ、スタニスラス ド ガイタ、セディル(イヴォン ラ ルー)、チャールズ バートレット、ジョゼファン ペラダン、さらに事実上全てのフランス オカルティズムの活動家らによって、マルティニスト会が設立された。この組織はパピュによって、サンマルタンとマルティネス パスカーリの理想と教えの新しいカバラの枠組みの下での永続化を目的とし、当初は7つの位階が存在したが、後には3つへと減らされた。だがそのすぐ後に、「薔薇十字のカバラ団」が設立され、さらに数年後には創設メンバーらの間の分裂によって、十数個の分派が誕生した。これらのほとんどは、現在でもある程度は活動している。


 そして1914年、つまらないライバル意識、エゴイズム、人より先んじようとする考えにより、ヨーロッパの神秘主義と魔術ムーブメントが失敗させてきた事を、世界大戦は達成させた。この時代に世界規模の秘儀参入者とロッジのネットワークが、似たようなムーブメントのあったイングランド(特に黄金の夜明けヘルメース団、英国薔薇十字協会)、ロシア、ドイツ、アメリカの間で造られたものの、第二次世界大戦と1920年代と30年代にヨーロッパのほとんどを支配していた全体主義政府により事実上絶滅させられた。


 残念ながら、20世紀初頭の全ての「ヘルメース的、カバラ的、オカルト」ムーブメントが、人道主義的な果実を与えるとは限らなかった。ドイツとオーストリアでのアリゾフィー(アーリア民族の知恵)ムーブメントは、後に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)、すなわちナチス ムーブメントとなるものに、「霊的な」啓明を与えるのみならず、人員と物理的なサポートもしていた。ゲルマネン団、トゥール結社、その他のより知られていない組織らは、ドイツ右翼に人種差別、暴力主義、国家主義的信念のイデオロギー的正当化を与えた。1934年、ヒトラーは「我々は純粋な血の聖杯を巡るテンプル騎士団の兄弟団を設立せねばならない」と宣言している。この団のグランドマスターは親衛隊長官ハインリヒ ヒムラーであり、その騎士たちはナチス親衛隊の士官軍団であり、円卓もあったヴェーヴェルスブルク城が、その霊的な中心地であった。


 オカルトの狂気の自らの形態を宣伝しつつ、ナチスは全てのオカルトと秘教活動を組織的に弾圧していった。霊能者、占星術師、信仰治療家、著者、出版社、その他に単純にこの分野で良く知られている人物らは、1934年のベルリンの「魔女術禁止法」の下で、1夜にして全て逮捕されていった。出版社は活動停止させられ、オカルト書は燃やされるか、アーネンエルベ(人種先祖局)の研究書庫へと送られ、人々は投獄されるか、「社会からの追放」を強いられた。そしてこれは始まりにすぎなかった。戦時中に何度もの逮捕の波があり、特にドイツの勝利が遠のくにつれて強まっていった。


 ナチスは「ユダヤの陰謀」の一部と見たので、フリーメイソンリー、薔薇十字主義、マルティニスト会、その他のカバラ的、ヘルメース的、秘教的な組織は、「全国指導者ローゼンベルク特捜隊」とアーネンエルベに率いられた、これらの弾圧の特別なターゲットだった。異端審問官らの時代よりこのかた、西洋秘教主義、秘儀参入主義、特にカバラ的、ヘルメース的集団が、このような単独の目的により、これほどまでに暴力的に弾圧された事は無かった。その殉教者らのリストには、この時代の最も主要な魔術と神秘主義ムーブメントの指導者らの多くが含まれていた。彼らを分裂させ、光の統一を防いでいたエゴイスティックなライバル意識は、闇によって巧みにして暴力的に彼ら自身に対して用いられた。ヨーロッパで再び(魔女狩りの十字架刑の)薪が燃やされた。だがこの時には、(強制収容所にあった)煙突によってである。


 その敵対者らや、その最も熱心な支持者らの一部にもかかわらず、西洋秘教主義の生き血であるカバラとヘルメース哲学は生き残り、繁栄している。これほど多くの書、出版物、組織、学徒が公に自由に存在した事はこれまで無かった。我々は2000年期に入り、「聖霊の時代」のために祈る前に、歴史を振り返り、その教訓を学ぼうではないか。ヨーロッパとアジアの状況は1994年よりも1914年に近くなっている昨今、世界を光の源へと向けるべく、祈りと瞑想に我らの心を一つにしようではないか。我らが(主の祈りで)「御国が来ますように」と祈る時に、かくも熱心に求めた光にである。結局のところ、それこそがカバラの全てなのである。


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マーク スタヴィッシュ
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