古今の秘密の教え イスラームの信仰

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イスラームの信仰


 キリスト教世界のイスラーム教への印象は、少なくともごく最近まで、フランス訳出版されたアル=クルアーン(コーラン)の、1649年の英訳でのアレクサンダー ロスの以下の追伸で表されてきた。


「良き読者らよ、大いなるアラビアのペテン師は、1000年を費やしてついに今、フランスを経由してイングランドへ到着した。そして、彼のアル=クルアーン、あるいは過ちのごた混ぜ(両親が屑ならガキも屑であるように、さらにその熱っぽい頭が卑しいなら異端に満ちているように)は、英語を喋るのを学んだ。(略)汝がアル=クルアーンを軽く読むだけでも、1. 矛盾、2. 冒涜、 3. 馬鹿げた作り話、 4.嘘、これらの悪しき成分で作られた、ごた混ぜであるのを見出すであろう。」


 この冒涜というロスの告発は、預言者ムハンマドに対して強調されていた。なぜなら、結婚しない神は、御子を持つのは不可能だとムハンマドは断言してきたからである! だが、この告発が偽りであるのは、アル=クルアーンの第2スーラ(章)にある神の性質への預言者自身の観点から明らかである。


「東も西も、アッラーフ(神)の有であり、あなたがたがどこに向いても、アッラーフの御前にある。本当にアッラーフは広大無辺にして全知であられる。また彼ら(キリスト教徒)は、「アッラーフは御子をもうけられる。」と言う。何と恐れ多いことよ。凡そ,天にあり地にある凡てのものは、かれの有であり、かれに崇敬の誠を尽くします。(かれこそは)天と地の創造者である。かれが一事を決められ、それに「有れ。」と仰せになれば、即ち有るのである。」言い方を変えれば、イスラームの神は望むだけで、望んだものは瞬時に存在するようになる。一方で、アレクサンダー ロスの神は、人間の出生の法に従って行わなくてはならない!


 イスラームの預言者、「全ての国々の望み」ムハンマドは、西暦570年頃にマッカ(メッカ)に生まれ、632年、あるいはヒジュラ暦11年にマディーナ(メディナ)で亡くなった。ワシントン アーヴィングは預言者が生まれた時に起きた徴と奇跡について以下の様に記している。


「ムハンマドの母は、何の陣痛も無かった。そして預言者がこの世界に来た時、天の光がその地域一体を照らし、この新たに生まれた赤子は目を天へと向けて、「アッラーフは偉大なり! アッラーフの他に神は無し。我はその預言者なり!」と宣言した。天と地はこの到来を祝福した。サワ湖は、その秘密の源泉へと退き、その周囲を乾いたままにした。一方でティグリス川は溢れだし、周辺の土地に洪水を起こした。ペルシア王ホスロー1世の宮殿は、その基から震え、その幾つかの塔は大地へと倒れた。(略)その同じ夜、マギ僧らに守られていたゾロアスター教の聖なる火は、それまで1000年の間絶え間なく燃え続けていたのに、突然に燃え尽き、世界にある全ての偶像が倒れた。」(「ムハンマドとその後継者たち」を参照)


 預言者がまだよちよち歩きの赤子であった頃に、70枚の翼を持つ天使ジブリール(ガブリエル)がムハンマドの下へと来て、赤子の胸を開いて、その心臓を取った。そしてジブリールはアダムの罪以来、全ての人間の心臓が持つ原罪の黒い液を洗い清めて、この心臓を預言者の体の適切な場所へと戻したという(英訳版アル=クルアーンのE.H.パルマーの注釈を参照)。


 青年期になるとムハンマドは、マッカのキャラバンとともに旅をしていたが、ある時、叔父のために武器を運ぶ従者として働いた際に、遊牧民のベドウィン族の間でかなりの間暮らし、彼らから古代アラビアの宗教、哲学の伝統の多くを学んだ。この叔父アブー ターリブと旅をしている間、ムハンマドはある夜、ネストリウス派キリスト教徒の修道院の近くでキャンプした時に、この教徒らと出会った。そこで若い未来の預言者はキリスト教信仰の起源と教義に関する多くの情報を得た。


 その後の期間にムハンマドは商売で大きな成功をおさめ、26歳頃に雇い主の1人である、15歳ほど年上の豊かな資産を持つ未亡人と結婚した。名前はハディージャというこの未亡人は、どこか報酬目当てな所があり、この若いビジネス マネージャーが有能であるのを知ると、結婚によってこの能力のある彼を一生保つようにしたからである!*1 ハディージャは賢婦人であり、彼女の誠実さと献身は、イスラーム教の初期の成功の多くに帰している。この結婚によってムハンマドは、比較的貧乏な地位から、この地域の最も豊かな富と力を持つ者へとのし上がり、また預言者の行いは模範的だったので、マッカ全体で「信仰深く真実の人」として知られるようになった。


 ラマダーンの月にヒラー山の洞窟で瞑想している時に神アッラーフの声を聞いた事により、神に仕えるためにその富と社会地位を躊躇わずに捨ててなければ、ムハンマドはマッカ人から名誉と尊敬ある人物として生涯を終えていたであろう。それから年々、ムハンマドはヒラー山の岩と荒れ果てた斜面を登って(そのため、この山はジャバル アル=ヌール、「光の山」と呼ばれる)、その孤独の中で、神にアダムの純粋な宗教、その後の歴史の諸宗教の争いの中で、人類から失われた霊的教義を新たに明かすようにと懇願した。ハディージャは、健康を損なうような夫の苦行を心配して、時々は同行して夜の番もし、女の勘によって、夫の魂が辛苦するのを感じた。そしてムハンマドが40歳になり、山の洞窟の床に横たわっていたある夜、巨大な光が預言者を包み込んだ。完全な平和と、天の臨在の祝福を感じて圧倒され、ムハンマドは意識を失った。再び意識を取り戻した時、大天使ジブリール(ガブリエル)が前に立っており、天使はそこに神秘的な文字が描かれたシルクのショールをムハンマドに示した。これらの文字から、ムハンマドは後にアル=クルアーンに記される基本の教義を得た。ジブリールは清らかで驚くような声により話しかけ、ムハンマドを生ける神の預言者であると宣言した。


 畏れと震えとともにムハンマドはハディージャの下へと走っていき、この幻視は彼が嫌っている多神教の魔術師らに仕える悪霊らによるものではないかと恐れた。ハディージャはムハンマドに、夫の有徳な生活はその守護になるだろうから、恐れる必要は無いと保証した。これにより不安を取り除いた預言者は、ジブリールのさらなる訪問を待った。だが天使は来ずに、ムハンマドの魂は絶望に満たされ、自殺しようとするまでだった。そして崖から飛び降りようとする直前に、ジブリールが突然に再び現れ、預言者に啓示を必要とする民は、あなたも必要とするだろうと述べた。


ムハンマドの天国への夜の旅

ドーソンの「オスマン帝国の諸図」より


 アル=クルアーンの第17スーラ(章)には、ある夜にムハンマドがマッカ(メッカ)の神殿からエルサレムの神殿へと瞬時に移動させられたと書かれている。だが、この奇妙な旅についての詳細は与えられていない。(後の注釈書の)「ミシュカート アル=マサビー」では、ムハンマドは7つの天を上昇し、ヴェールをかぶった神の冷たい御前へと赴き、それから自らの寝床へと元の道を戻っていった事が記されている。これら全ては1夜の間に起きたとされる。ある夜、天使ジブリールが預言者の心臓を取り出し、ザムザムの水*2でその空洞を洗い、心臓自身には信仰と知で満たしてから戻し、ムハンマドは起こされた。それからアル=ブラーク、稲妻と呼ばれる奇妙な生き物が、預言者を乗せるためにもたらされた。アル=ブラークはラバの大きさと姿をして、その頭が人間の女のもので、尻尾が孔雀の白い動物である。言い伝えのある版では、ムハンマドはアル=ブラークに乗ってエルサレムへと向かい、モリヤ山で降りると、天から降りてきた黄金の梯子の低位の格に足を乗せ、ジブリールの助けを借りつつ、大地を離れて7つの天の圏を上昇していったという。それぞれの圏の門には、聖書の父祖らが立っており、ムハンマドは様々な界に入るたびに、彼らに挨拶をした。第1天の門にはアダムが立ち、第2天の門には洗礼者ヨハネとイエス(2人は母方の従兄弟だった)が、第3天にはヨセフが、第4天にはエノクが、第5天にはアロンが、第6天にはモーセが、第7天にはアブラハムがいた。別の言い伝えでは父祖と預言者らの順番が違い、イエスが第7天の門にいる場所で、ムハンマドはイエスに神の御座の前へと取りなしを頼んだと言われる。


 その瞑想の孤独な期間の影響で、ムハンマドはエクスタシーの気絶をした可能性がある。アル=クルアーンの様々なスーラでは、この時に預言者は無意識へと落ち、周囲の寒気にも関わらず、玉のような汗を流したと記されている。しばしばこれらは、警告なしに起きて、別の時には寒気を避けるべく毛布にくるまれて座り、膨大な汗を流しつつ、一見しての無意識状態の中で、信用する友人らに対して様々な口述をなし、それらは記憶されるか、書き残された。後にアブー バクルが預言者の髭の白さについて述べると、ムハンマドは自らの髭の末端を持ち上げて見て、この白さは啓示を得ようと努めていた時の肉体の苦悩によるものだと述べた。


 キリスト教徒の中傷家らが、ムハンマドの書いたものは、単に病的な幻覚から来たものだ――その理由から、見下すべき――と考えるならば、預言者の教義をこのように貶めるならば、それはまた彼ら自身の多くの教えも貶めている事に気づかなくてはならない。初期教会の多くの弟子、使徒、聖人らは、神経障害に罹っていたことで知られているからである。ムハンマドの最初の信者は妻のハディージャであり、近親らがそれに続いた。この状況について、ウィリアム ミュア卿は以下の様に書いている。


「初期のイスラームへの改宗は、ムハンマドの誠実さによって大いに強められていた。改宗者らはその高潔な人格のみならず、預言者自身の親友や一族によるもので、その個人生活も良く知っており、偽善的な詐称者らが内外に概ね持っている矛盾を見つけられない事は無いだろうからである。」(「ムハンマドの生涯」を参照)


 イスラーム信仰に最初に加わった者らの1人は、アブー バクルで、ムハンマドの密接で最も信頼できる友人となり、事実、預言者の最大の親友となった。アブー バクルは輝ける才能のある人物で、預言者の教勢拡大の成功に実質的に貢献し、預言者自身の遺言によって、ムハンマドの死後にはイスラーム信仰の指導者、初代正統カリフとなっている。アブー バクルの娘アーイシャは後にムハンマドの妻の1人となり、この2人の絆をさらに強めた。静かに、しかし確実に、ムハンマドは自らの教えを友人らの小さな集団の間に広げていった。信者らの熱狂ぶりが最終的に預言者に、自らの任務について公的に宣言させるようにさせたが、その時には既にムハンマドは、強く良く組織化された勢力の指導者だった。ムハンマドの拡大する名声を恐れたマッカの人々は、この聖都で血を流してはならないという古くからの伝統に従って、預言者を暗殺する事でイスラームを根絶させる事に決めた。様々な勢力全てがこの陰謀に加担して、この犯罪への罪は均等に分けられるようにした。危険が迫っているのに気づいたムハンマドは、友人のアリを自分のベッドへと残して身代わりとし、アブー バクルとともにマッカから逃れた。そして、マッカ人の追跡を巧みに逃れると、信者らの本体と合流し、後にマディーナ(メディナ)と改名するヤスリブの町へと落ち着いた。この事件はヒジュラ、あるいは「聖遷」という名でイスラーム暦の起源となっている。


 このヒジュラの時から日々、預言者の勢力は堅固に成長していき、やがて8年後には、ムハンマドは事実上の無血勝利によってマッカへと入場し、自らの信仰の霊的な中心地として確立させた。自らのもと木をマッカの北面へと植えてから、預言者は町へと馬を乗り入れて、カアバ神殿の周囲を7回まわってから、その中にあった360体の多神教の神像を打ち壊すように命じた。それから自らもカアバ神殿へと入り、その偶像崇拝の関連物を浄化した後に、この建物をイスラームの唯一神アッラーフへと改めて捧げた。次にムハンマドは彼を殺そうとした全ての敵への恩赦を宣言した。ムハンマドの保護下に、マッカはその力と栄光を強め、毎年の大巡礼の中心地となり、今日においてすら、巡礼者らが数ヶ月も砂漠を横切り、その軌跡は6万を超える数がある。


 ヒジュラから10年が過ぎ、ムハンマドは告別の巡礼を率いた。信仰の頭として、最後のマッカとカアバ神殿の黒石への聖なる道を通じての騎乗をなしたからである。預言者の体には既に死の兆候は強いものがあり、ムハンマドは後の無数の信者ら全ての模範となるような完全な巡礼をしたいと望んだからである。


 ワシントン アーヴィングはこう記している。「既に余命いくばくも無いのに気づいていたムハンマドは、自らの信仰の聖なる町への最後の巡礼へと赴く中で、信者らの精神と心に深く自らの教義を植え付けようとした。そのために預言者は、カアバ神殿の説教壇の上や、野外で自らのラクダの背に乗って、しばしば説教をした。彼はこう述べたであろう。『我が言葉を聞け。わしは来年にはお前らと再び会えるかわからないからだ。我が聴衆よ、わしはお前らと変わらない人間だ。死の天使は、いつでも現れ、わしはその召喚に応じざるを得ないだろう。』この説教の間、高き天は開いて、神の声が『この日、我は汝の宗教を完成させ、我が恵みを汝の中に達成させた』と述べたと言われる。これらの言葉が述べられると、群衆は崇拝のために跪いて、ムハンマドの乗っていたラクダすらも膝を屈したという。」(「ムハンマドとその後継者たち」参照」)この告別の巡礼を終えると、ムハンマドはマディーナへと帰った。


 ヒジュラから7年経った時(ヒジュラ暦7年)、ハイバルにて預言者を毒殺する陰謀がなされた。ムハンマドが毒入りの食事を最初に唇に触れさせた時、その肉の味わいから、あるいは信者が信じるには神の取り成しによって、この陰謀は発覚した。だがムハンマドは既に食事を少し飲み込んでおり、残りの生涯の間、預言者はほとんど常に毒の効果に苦しめられていた。ヒジュラ暦11年、その最後の病状が現れた時、ムハンマドは毒の微細な効果が、自らの最期の間接的な原因であると主張した。病状が悪化していた時に、ムハンマドはある夜に起き上がり、マディーナの郊外にある墓場を訪れた。すぐに自らも死者の列に加わるだろうと明らかに信じたからである。この時にムハンマドは付き添いの者に、肉体の生に留まるか、主の御許へ赴くかの(神からの)選択が与えられ、わしは創造主の御許へと赴く方を選んだと述べた。


 ムハンマドはその頭と側面に大いに苦痛があり、さらに熱もあった。だが、6月8日は回復していたように見えた。預言者は信者らの祈りに加わり、中庭にて座り、信者らに明徴で力強い声で講義を与えた。だが明らかに預言者は自らの力を使いすぎていて、モスクの中のアーイシャの部屋へ行くのに支えが必要だった。その床に荒い藁布団が敷かれて、そこがイスラームの預言者が地上での最後の2時間を費やす場所となった。年老いた夫が激しい痛みに苦しんでいるのを見ると、アイーシャ――当時はわずか20歳の娘にすぎない――は、赤子の頃から知っており、夫というより父のようなこの老人の白髪の頭を持ち上げ、彼女の腕で最期まで支えていた。死が近づいているのを感じたムハンマドは、祈った。「主よ、わしは懇願いたします。死の苦しみから、わしを支えたまえ」それから、ほとんど囁き声で3回繰り返した。「ジブリール、わしのそばに来てくれ」と(詳細については、ウィリアム ミュア卿の「ムハンマドの生涯」を参照)。トーマス カーライルは「預言者としての英雄」の中で、ムハンマドの死をこう書いている。「彼の最期の言葉は祈りだった。創造主へ向けての震える望みの中、苦闘する心臓は破れ放たれた。」


 ムハンマドは亡くなった部屋の床の下に埋められた。この墓の現在の状態はこう記されている。


「霊廟の上には緑のドームがあり、巨大な輝く三日月がその上にあり、球の連なりからの噴水がある。建物の中には、ムハンマド、アブー バクル、ウマルの墓があり、さらに我らが主イエス キリストの墓の予約のスペースもある。ムスリムらによると、キリストはやがて再び地上を訪れて、アル=マディーナにて死ぬ事になっているという。預言者の娘ファーティマの墓は、建物の離れた場所にあるという。もっとも一部の者らは、彼女はバキーゥルで埋められたと述べている。預言者の体は右側で最大限に引き伸ばされ、その右手のひらは、右の留め具を支え、その顔はマッカの方角へと向いていると言われる。そのすぐ後ろには、アブー バクルの墓があり、その顔はムハンマドの肩へと向いている。そしてウマルも前任者への敬意から同じ姿勢をしている。キリスト教徒の史家らの間では、イスラーム教徒は空中に浮かぶ預言者の棺があると信じているという人気のある話があるが、ムスリムの文献にはそれらは何の基盤も無く、ニーバーはこの話は異邦人に売られた粗雑な絵から起こったものだろうと考えている。」(「イスラーム百科事典」を参照)


 ムハンマドの人格について、これまで大きな誤解があった。残虐行為への命令を支持する何の証拠も無く、性的放縦についてもである。反対に、冷静な研究家がムハンマドの生涯をより詳細に調べるほど、その性格の高潔さが明らかになる。カーライルは以下の様に述べている。


「ムハンマド自身については、知る限りにおいては快楽主義的な人物では無かった。この人物を、一般的な酒色にふけ、粗雑な欲望を主に意図する者と考えるならば、我々は大きく間違えるであろう。それどころか、あらゆる種類の欲望から無縁であった。預言者の住居は最も質素なものであり、その通常の食事はパンと水にすぎなかった。時には、ひとたび健康のために灯した火が、数ヶ月は点けられない事もあった。貧しく、勤労し、物質が欠け、世俗の人間が望む事には無頓着であった。(略)彼らはムハンマドを預言者と呼ぶが、あなたは何故と問うかもしれない。それは、彼が彼らとともに面と面を向き合って立つからだ。ここにはどの秘められた神秘も無い。その外套を自らで修繕し、その靴を直し、彼らの中で戦い、助言し、命令を出す。ムハンマドがどのような種類の人間であるかを彼らは知っている。あなたが好きなふうに彼を呼ぶが良い! 帝冠をかぶるどの皇帝も、自らで修繕をする外套を着る、この人物ほどに人々を服従させたことは無い。」


 預言者の生涯について、長い間権威と信じられてきた馬鹿げた主張らと和解させるという一見して不可能な作業に苦しむ中で、ワシントン アーヴィングは、公正な見解に自らを置いている。


「ムハンマドの軍事的勝利は、それが自己中心的な目的で行われたならば起きるであろう、どのようなプライドや虚栄に関連する事も引き起こさなかった。覇権を確立した時にも、ムハンマドは迫害されていた頃のシンプルな生活や服装のままだった。(略)その完全な自己否定は心からの敬虔さと共に、ムハンマドの様々な境遇でも一貫しており、預言者の性格を形成するものだった。(略)その赤子だった息子イブラヒムを死の床で失った時すらも、ムハンマドは神の意志から離れる事は無く、すぐに彼の子が楽園で喜びとともにあろうとの望みが、彼の結論であった。」(「ムハンマドとその後継者たち」を参照)


 アイーシャは、預言者の死後に、その習慣について尋ねられた時に、ムハンマドは自らの衣を修繕し、その靴を直し、彼女の家事を助けたりもしていたと答えた。ムハンマドの残忍な性格に関する西洋の概念が、預言者が最も愛した女性であるアイーシャの単純な答えと、どれだけ離れていることか! ムハンマドは奴隷の招きにも答え、従者らの間で食事をし、自らも従者であると述べた。全ての悪徳の中でもムハンマドは嘘を最も嫌った。ムハンマドは死ぬ前に、自らの奴隷全てを自由にした。ムハンマドは家族に対して、民が与えた献金を個人的な目的で用いる事を決して許さなかった。さらに豪華な食事を避け、雨水を飲むために用いていた。ムハンマドは、自らの時間を3つに分けて、その1つを神のため、その1つを家族のため、最後の1つを自分のために用いていたが、後にはこれも民に仕えるために犠牲にした。ムハンマドは主に白い衣を、さらに赤、黄色、緑の衣も着ていた。ムハンマドがマッカに入る際には黒いターバンを着て、さらに黒いもと木を植えた。ムハンマドはシンプルな衣服のみを着て、豊かで目立つ衣服を好む者は敬虔深くはならないと宣言し、祈りの時にその靴を取らなかった。ムハンマドは特に歯を綺麗にしておくのを気にして、死の床においてすら、喋るには弱くなりすぎると、身振りによって歯ブラシを望むのを示した。何か忘れるのではと恐れた時には、預言者は自らの指輪に糸を結んでいた。ムハンマドはかつては金の美しい指輪を身に着けていたが、信者らが真似をして似たような指輪を身に着けているのに気づいたら、自らの指輪を取って捨て、信者らが悪癖を持たないようにした。(「ムハンマドの生涯」参照)


 ムハンマドに対して、最も多く、そして思うに最もダメージを与える告発は、一夫多妻に関するものだった。ハーレムは霊性とは一致しないと真摯に信じる者は、ダビデ王の詩篇やソロモン王の雅歌を啓明を与える書籍から取り除くよう動くべきであろう。イスラームの預言者のハーレムは、イスラエルの最も賢き王と、いと高き神から最も寵愛されたとされる王のものと比べたら、ほとんど取りに足りないからである! 女には魂が無く、結婚によってのみ天国へ行けるとムハンマドが教えていたという人気のある説は、預言者の生涯を通じての言葉や行いによる何の根拠も無い。シカゴで1893年に開かれた国際宗教会議で読まれた「社会条件へのイスラームの影響」という題名の論文で、モハメッド ウェブは、この告発とその返答について以下の様に述べている。


「ムハンマドとアル=クルアーンでは、女性の魂を否定し、動物と同等と見做していると言われてきた。だがアル=クルアーンでは女性は男性と完全に同等に扱われており、預言者の教えの中には、女性を男性よりも上位に置いている箇所もある。」ウェブ氏は例として、アル=クルアーンの第33スーラ(章)35節から引用する。


「真にムスリムの男と女、信仰する男と女、献身的な男と女、正直な男と女、堅忍な男と女、謙虚な男と女、施しをする男と女、斎戒(断食)する男と女、貞節な男と女、アッラーフを多く唱念する男と女、これらの者のために、アッラーフは罪を赦し、偉大な報奨を準備なされる。」ここでは天へと到達するのは、いずれの性にせよ個人の資質によるものだと明らかに述べてある。


 ムハンマドは死の床にあった時、愛する娘ファーティマと叔母のサフィヤに「神がそなたを受け入れるように働け。わしはどのようにしても、お前らを救う何の力も無いからだ」と述べた。預言者は女に夫の美徳に頼るべきだと勧めたり、女の救いはその夫の人間的な絆に拠るものだと示したりはしなかった。


 だが、ムハンマドはアル=クルアーンにある矛盾する全ての箇所について、その矛盾と不一致への責任は無かった。この書はムハンマドの時代に編纂されたものではなく、その死から20年経つまで、現在の形にはなって無かったからである。アル=クルアーンの現在の形は、その多くの部分は風聞のごた混ぜで、その中で時には真の啓明の例が輝いている。ムハンマドという人物の知る限りにおいて、これらの高貴で公正な部分は、預言者の実際の教えだと推測するのは道理にかなっていよう。残りの部分は、明らかに後世の改竄であり、一部は誤解から起きたもので、他の部分はイスラームの征服の世俗的な野望を満たすべく後に造られた贋作である*3。この問題に関して、ゴッドフリー ヒギンズは、そのいつもの洞察力とともに以下の様に述べている。


「ここでは、ムハンマドとその最初の4人の誠実で敬虔な父祖(カリフ)らのアル=クルアーンがあり、またサラセン人――プライドと虚栄でのぼせ上った――の征服と雄大さのアル=クルアーンがある。折衷学派の哲学者のアル=クルアーンは、アジアの征服者らには適していない。自らの非道を正当化させるべく、新たなものは古いものに継ぎ当てられてきた。」(「アナカリプシス」を参照)


 洞察力のある少数の者にとっては、あらゆる偉大な哲学的、宗教的、倫理的組織のコアを構成するのに必要な秘密教義の知識をムハンマドが持っていたのは明らかである。以下の4つの可能な場所のいずれかで、ムハンマドは古代の密儀の教えに接触したのであろう。(1)不可視の世界の大いなる学院と直接に接触する事によって。(2)キリスト教ネストリウス派の修道士らから。(3)アル=クルアーンの諸スーラの啓示があった時期に何度も現れては消えていた、神秘的な聖人から。(4)アラビアに既に存在していた退廃期の学院より。この学院は偶像崇拝へと退化しつつも、なおも古代の知恵のカルトの諸秘密を保持していた。イスラームの奥義は、預言者の誕生の数世紀前からカアバ神殿で行われていた古代多神教の密儀が直接的な基盤であると示されるであろう。事実、現在イスラームの密儀に含まれている多くの儀礼は、アラビアの多神教のものの残存物であるのは一般的に認められている。


 イスラームの象徴主義には、女性原理が繰り返し強調されている。例えば、ヴィーナス、金星へ捧げられた金曜日は、ムスリムの聖なる日である。預言者の色である緑は、草木の象徴であり、必然的に世界母と関連づけられよう。また、イスラームの三日月や、曲刀シミターの両方とも、月あるいは金星の三日月を意味すると解釈できる。


 ジェニングスはこのように述べている。「信仰深き者(ムハンマド)にかくも敬虔に接吻された、マッカのカアバ神殿の有名な『カアバの石』は、タリズマンである。この石に三日月が刻まれた日には、ウェヌス(ヴィーナス)女神の姿が見られたと言われる。このカアバ神殿自身も、最初は偶像崇拝の神殿であり、ここでアラビア人らはアル=ウッザを崇拝していたが、これはウェヌス女神の事なのである。」(ケネアリーの「エノク、神の第2の使者」を参照)


 ウィリアム ジョーンズ卿は、このように書いている。「イスラーム教徒は既に異端のキリスト教徒である。彼らは哲学者ロックの思索を受け入れるならば、キリスト教徒である。なぜなら、彼らはメシア(イエス)の処女懐胎、神の性質、奇跡を堅固に信じているからである。だが彼らは同時に異端者である。なぜなら、イエスの御子としての性質、父なる神との同一性、これらの統一と属性を激しく否定し、彼らの最も酷い考えを楽しみ、表現しているからである。一方で彼らは我々の教義を完全な冒涜と考え、我々の聖書はユダヤ人とキリスト教徒によって腐敗させられたと主張している。」


 以下の文は、キリスト教の福音書からは取り除かれたと預言者の信者らが宣言するものである。「そしてマリアの息子イエスは言った。イスラエルの子らよ、確かに私は汝らのもとへ遣わされた神の使徒であり、我が前に汝らに送られた律法を堅固にし、私の後に来る使徒、その名はアフメドに対する良き便りをもたらすために来た。」現在の聖書の文では、イエスが自らの後に来る慰める者、聖霊への預言が含まれているが、彼らはこの慰める者という言葉は、輝かしい者と訳されるべきで、それはムハンマドを直接指しており、五旬節(ペンテコステ)の日に炎の舌が使徒らのもとへと降りてきた話も、約束された聖霊と解釈すべきではないという。だが、元の福音書から、いわゆるムハンマドへの削られた引用があったという決定的な証拠を示せと言われると、ムスリムらは逆にキリスト教が基盤とする元の文書を示せと要求する。そのような文書が発見されない限り、この論争は永遠に続くであろう。


 イスラームから受け取った文化の遺産を無視するのは、許されない見落としであろう。三日月(イスラーム)が十字架(キリスト教)に勝利した南欧では、イスラームはそれまで無かった文明の先駆者だったからである。スタンリー レーン・プールは「モスクの研究」で以下の様に述べている。


「ほぼ8世紀に渡ってイスラームの支配下にあったスペインは、全ヨーロッパの文明化されて啓明された地域の輝かしい例であり続けた。(略)芸術、文学、科学はヨーロッパのどこよりも繁栄していた。ムーア人の諸都市にのみ流れていた知識の泉を飲むために、フランス、ドイツ、イングランドから学生らが来ていた。アンダルシアの外科医と博士らは、後の科学時代の先駆者だった。女性らは真剣な研究へと自らを捧げるのを推奨されており、女博士らはコルドヴァの人々の間では珍しくは無かった。数学、天文学、植物学、歴史、哲学、法理学はスペインで熟達しており、(ヨーロッパでは)スペインのみであった。」


 「起源の図書館」では、イスラームの文明への影響についてこのように要約している。


「イスラーム教徒がなした結果は、大いに過小評価されている。ムハンマドの死から1世紀のうちに、キリスト教徒から小アジア、アフリカ、スペイン、文明世界の半数以上を取り、暗黒時代の間、世界で最高峰の文明を確立した。イスラームはアラビア人を最高の進歩へともたらし、一夫多妻制を保持しつつも東洋の女性の地位を向上させ、徹底した一神教であり、トルコ人がそのほとんどを征服するまで、文明の進歩を推奨してきた。」


 さらに同書の中で記されている、人間の知識の進歩に貢献してきた偉大なイスラームの科学者と哲学者らのリストの間でも、近代化学の基盤を確立した9世紀のジャービル ブン ハイヤーン、代数学の理論を導入した10世紀のフワーリズミー、光学の深遠な研究をし、凸面レンズの優れた力を発見した11世紀のイブン アル=ハイサム、同じく11世紀にはその医学百科事典が(ヨーロッパでも)時代の標準となったアヴィケンナことイブン スィーナー、また偉大なカバラ学者のソロモン イブン ガビーロールもいる。


 先の書の引用を再開しよう。「イスラーム教徒の科学を振り返ると、彼らは化学の最初の基盤を確立させ、数学と光学にも重要な進歩をもたらした。彼らの発見は、本来あるべきヨーロッパ文明の流れには影響しなかったが、それはヨーロッパ自身が、これらを掴んで用いるまでには啓明されていなかったからである。酸化した鉄は、その前よりも重くなるというジャービルの発見は、(ヨーロッパで)繰り返される必要があった。光学の彼らの発見の一部や、地理学上の多くの発見も同様であった。彼らはヴァスコ ダ ガマの遥か以前にアフリカ大陸を周航していた。火薬の調合法は、彼らから北欧へと伝わっていった。キリスト教のヨーロッパの暗黒時代は、イスラーム世界では輝かしい時代であったことを決して忘れてはならない。哲学の領域では、アラブ人はヨーロッパで見つけた新プラトン主義を当てはめる事から始め、徐々にアリストテレスへと作業を戻していった。」


 不死鳥フェニックスが600年ごとに再生するという捕えがたい神秘は何を意味するのか? 世界の密儀の聖域の中から、微かに答えが囁かれる。キリストが生まれる600年前に、知恵の不死鳥(ピュタゴラス?)はその翼を広げ、人類の祭壇で死に、聖なる火により燃え尽された。ナザレの地にて、この鳥は再び自らの灰より再生するも、アダムの頭蓋骨にその根がある樹にて死んだ。西暦600年にアフマド(ムハンマド)が現れた。再び、不死鳥は苦しみを受け、この時にはハイバルでの毒からであり、その焦げた灰から、モンゴルの面を通じて翼を広げるべく、再び起き上がった。この12世紀、チンギス カンは知恵の統治を確立した。大いなるゴビ砂漠を周回し、不死鳥は再びその形を捨て、今や密儀の神聖な図と関連するピラミッドの下にあるガラスの棺の中に埋められた。そしてチンギス カンの死から600年が過ぎ、ナポレオン ボナパルト――自らを運命の人と信じていた――は放浪する中で、この知恵の周期的な再生の奇妙な伝説と接触したのだろうか? ナポレオンは自らの中で不死鳥の翼が広げられるのを感じ、世界の希望は自らとして受肉したと信じたのだろうか? ナポレオンの軍旗にある鷲は、実際には不死鳥であったのであろう。これは、なぜナポレオンが自らを地上でのキリストの王国を確立するために選ばれたと信じるようになったかを説明し、そしておそらくは、彼のあまり知られていないイスラーム教徒への親密さの手がかりともなろう。


カアバ神殿、イスラームの聖地

ドーソンの「オスマン帝国の諸図」のマッカのパノラマより


 カアバ神殿、マッカのモスクの中庭にある立方体の形をした建物は、イスラーム世界で最も聖なる地である。預言者に従う者は、1日に5回、特定の祈りの時期にカアバ神殿に向かなくてはならない。ほとんど全ての他の宗教の信奉者と同様に、イスラーム教徒は当初は祈りの時は東を向いていた。だが、後にマッカの方角へと向くようにと決められた。


 イスラームのモスクへと改修される前のカアバ神殿の歴史については、この建物が多神教の神殿だった事以外にはほとんど知られていない。預言者がマッカを占領した時、カアバ神殿とその周辺の庭には360の偶像が立っており、ムハンマドが実際に神殿自身の中に入る前に彼の手で破壊された。カアバは「古代の家」と呼ばれ、その長さは38フィート、高さは35フィート、幅は30フィートの不均等な立方体である。各面の壁の長さは僅かに違いがあり、末端壁は1フィートほどある。この壁の南東の角には、床から5フィートほどの高さに、聖なる神秘的な黒石、アブラハムの石質隕石が埋め込まれている。伝説によれば、父祖アブラハムに天使ジブリールが最初に与えた時には、この石は世界のどこからも見えるほどに白く輝いていたという。だが後には、人の罪のせいで黒くなったという。この黒石は楕円形をしていて、直径は約7インチであり、7世紀に壊されてしまい、今では銀の台によって結び付けられている。


 言い伝えに拠れば、世界が創造される2000年前に、カアバ神殿は天で最初に建てられて、そこではモデルはなおも残っているという。アダムがオリジナルが天にある場所の真下の大地にカアバ神殿を建てて、シナイ山、アル=ジャーディ山、ヒラー山、オリーブ山、レバノン山の5つの聖山からその建てる石を選び、10,000の天使らが、この建物を守護するように任命された。大洪水の時にはこの建物は破壊されたが、その後にアブラハムとその息子イシュマエルによって再建されたという(詳細については、「イスラームの辞典」を参照)。カアバ神殿の場所は元はストーンヘンジにあるものと似た、大昔の切られない自然石による輪が置かれていた可能性がある。エルサレム神殿に似て、カアバ神殿は多くの変遷を辿り、現在の建物は西暦17世紀以前のものではない。930年にマッカがシーア派のカラーミタ教団の軍に略奪された時、高名な黒石は20年に渡って彼らのものとなった。膨大な身代金とともに最終的に返されたこの石が、実際にオリジナルのものか贋作なのかは、現在でも議論の的である。


 カアバ神殿の側面には、(旧約聖書の)ハガルとイシュマエルの墓があるとされる。そして、地面から約7フィートの高さの扉の近くには、アブラハムがカアバ神殿を建設する最中にその上に立っていたとされる石がある。そしてカアバの立方体の建物には、常に様々な覆いが被せられてきた。毎年取り換えられる現在の覆いは、金で刺繍される黒錦である。古い覆いの小片は、巡礼者らによって聖遺物として大切にされている。


 カアバ神殿の入り口は移動可能な階段により繋がっている。その内装は色とりどりの大理石、銀、金により満たされている。この建物は窓が無いと一般的に考えられているが、この点は議論の余地がある。天井へは銀の板の扉を通じて向かう。聖典の他に、カアバ神殿には13個のランプが置いてあり、建物の周辺の大中庭には幾つもの聖物が置かれ、この中庭は元は360の柱で構成されていた柱廊と面している。この中庭には19の門によって通じており、この数は月のメトン周期の聖なる重要な数であり、またストーンヘンジの内側の石の輪の数でもある。カアバ神殿を取り巻くのは、7つの大きなミナレットの尖塔であり、カアバ神殿の聖なる儀礼の1つでは、この神殿を中心として7つの周行がなされるが、それは明らかに天の諸惑星の動きを真似ようとするものである。


古今の秘密の教え アメリカインディアンの象徴主義
↑ 古今の秘密の教え


*1 実際にはハディージャとムハンマドは純粋に恋愛結婚だったようである。
*2 マッカのマスジド ハラームにある泉。イスラーム世界では聖なる泉とされる。
*3 このホールの説は、全くの根拠が無い。アル=クルアーンの生成は複雑なプロセスを辿っているが、いずれにせよムハンマドの影響は明らかである。