ドイツからの手紙

ページ名:ドイツからの手紙

ドイツからの手紙 第1部


フラーテル U∴D∴ 著




 これらの手紙で、私はドイツ オカルティズムの過去と現在の通時的な概観と、それに現在のニュースや、歴史的なこぼれ話を交えて、ドイツ魔術とアングロサクソン世界の魔術との強い関係を描くつもりである(言語学と利便性の理由から、私は一般的なスイスとオーストリアのオカルティズムもここに含めている――帝国主義的意図と取らないで頂きたい!)。時折、魔術の歴史ではドイツは黒魔術、錬金術、占星術、カバラ、薔薇十字主義、イルミナティ主義、秘教的フリーメイソンリー、キリスト教神秘主義、ルーン魔術の城塞と見做されてきた。あなたが西洋のオカルト伝統の何らかのものを挙げたら、そこには少なくとも、ある程度のドイツの影響が背後にあるのを見つけるだろう。黄金の夜明け団は暗号文書で団のドイツ起源を偽造していたが、O.T.O.(東方聖堂騎士団)は正当にドイツ(正確に言うならばオーストリア)起源である。アレイスター クロウリー自身もドイツにしばらくは行き来しており、1926年の有名なテューリンゲン州のワイダの町での会議で、マスターテリオンは失敗したものの、ドイツ汎智(Pansophic)運動の世界救世主であると宣言しようとしていたのは良く知られている。オカルトと国家社会主義(ナチス)との関係の噂は戦後から豊富にあり、ニコラス グッドリック クラークの優れた研究書「ナチズムのオカルト起源」は、トレバー レイブンスクロフトのタブロイド紙風の最悪のスタイルのインチキ本らを葬ったが、にもかかわらず、多くの人々は今でも、ヒトラーは壊れた黒魔術師以外の何物でもないという信念を大切に育んでいる。ともあれ、英語圏でドイツのオカルト思想への興味は決して消える事は無かったのである。


 無論、ドイツ オカルティズムは現在、幅広い国際的なリバイバルとともにある。アメリカでは、 ルーウェリン(Llewellyn)出版社が、ドイツ語圏のルーン伝承のエキスパート、Edred Thorssonの監修の下での「チュートン魔術」シリーズを市場に出版しており、その最新の書、Flowerの「Fire and Ice」では、ドイツを代表する魔術結社、高名で悪名高い、サトゥルヌス友愛団(Fratenitas Saturni)の歴史と現在を初めて英語圏に紹介している。だが、これによって、模倣結社らの勃興と、疑似魔術のラベルを貼られた多くのドイツ物の駄作が生まれる事を予期すべきであろう。だが、サトゥルヌス友愛団は正当なものであり、私自身も会員の栄誉にある。この結社は現在でもあり、1928年の正式な結成から活動は止まっておらず、ナチス独裁制の頃には地下に潜伏していた。結社は宣伝などはせず、する必要も無かった。多くの参加希望者がおり、そこから選ばれるのは稀だったからだ。今日では結社は幾つかのロッジ(支部)をドイツ、スイス、オーストリアに持つ。サトゥルヌス友愛団は性魔術の実践で最も知られており、残念ながら、曲解して見られる事が多い。その位階の1つ全体では、性魔術をカバーしているが、それは多くの面の中の1つにすぎず、確実に最も重要なものですら無いのである。


 ついでに言うと、O.T.O.カリフ領は、今では幾つかの城塞(支部)をドイツに持っているが、最近知られた話では、スイスのO.T.O.は支配していたメッツァー氏が亡くなってから、長い間活動が停止していたが、最近になって数十年の心地よい眠りから再び目覚めて、再活動を始めたとの事である。我々は彼らの活動をすぐに聞く事になるだろうし、これらの2つの勢力の間で、どのような競争の精神が作られるかと誰もが憶測している。




 現在ドイツのオカルティズムの主流は、薔薇十字主義(目立つのがAMORCと、Lectorium Rosicrucianum(選ばれた薔薇十字団)であるが、より小さく知られていない諸集団も含む)から、イレギュラーなフリーメイソンリー、カバラ学者らの奇妙な集団まである。ハードコアの魔術の世界では、タナトエロス啓明の魔術協定(IOT)が、確実に最も活発で最大の集団である(現在、協定の全会員数の中でドイツ語圏が約75%を占める)。この結社では、素早いコミュニケーションのためのインターネットの掲示板や、オンライン儀式などを用いている。そのため混沌魔術は高範囲に広まっており、魔術理論へのその影響と実践は紛れもなく増加している。


 そのため、最近の協定の全面的な改革、完全な民主的な構造のために、その位階や階層の残存物や審理などが捨て去られたのは、ドイツ語圏のイニシアティブの下に進められ、1991年にドイツのエッセンでの協定の全体会議で決められたのは驚く事ではないだろう。


 イスラエル リガルディーの「The Golden Dawn」の本は、最近ドイツ最大のオカルト出版社から翻訳されて出版されており、黄金の夜明け団への興味は確実に増大している。だが私が知る限り、この伝統に専念した集団や組織はまだ無いようである。だが、この結社の魔術のパイオニアの作業や、主に編集的な性質は、ペンネームである兄弟ペレグレギウスが、「Tattwas, Hellsehen, Astralwallen(タットワ、占術、アストラル トラベル)」を出版した1950年代から、強いインパクトを与えている。この本は黄金の夜明け団の内容から集めたもので、リガルディーの初期のアメリカ版から取ったように思われる。


 そして勿論、フランツ バードンを忘れてはならない! バードンは英語圏では知られていない事も無かったが、私の印象では、多くの人々はバードンの事を聞いてはいるものの、少数のみが実際に、10年前から英語でも読めるようになったその書を読む労を取っているように思える。バードンの文章スタイルが実に酷く、誇張した表現であるのを翻訳で既に感じていたとしたら、ドイツの原書も大して変わらないと知る事はそれほど慰めにはならないだろう。にもかかわらず、チェコ系のドイツの手品師だった事もあるバードンは、なおもドイツでは最も良く読まれている魔術師なのである。彼のドグマ的、シンプルなアプローチ、電気と磁気の極性の諸力の操作を含めた「アストラル電磁気」の技術としての記述魔術(この時代にはこの言葉は無かったが)は、素人が信じがちなほどには、近代的なものでは真に無かった。実際には、これらはバードンの師、ラ=オーミル クィンシュアー(Ra-Ohmir Quintscher)が、1920年代に開発したもので、バッテリー魔術や悪名高いテパ(Tepa。時には、間違ってテパフォンと呼ばれる)、ターゲットの人物の写真を含めた、長距離魔術操作のための電気道具だけではなく、後にバードンを有名にしたものを事実上全て生み出していたのである。


 だがバードンは、クィンシュアーにその引用源としての功績を与える事はしなかった。これは残念ながら、魔術書の引用する著者らの間では一般的である。代わりに彼の女秘書のオッティ ヴォタヴォヴァは、彼女のバードンの生涯を扱った小説、フラバト(カルト的崇拝者の駄作の典型的な例である)で、事実はクィンシュアーがバードンの弟子であり、逆ではないと宣言する事で、状況をあべこべにした。彼女はクィンシュアーが生涯の最期の数年を、強制収容所に(バードンの仲間らの1人として)送られたという噂すら立てており、この仄めかしはクィンシュアーの今では亡くなっているご子息から激しい怒りとともに否定されている。私はこの方と数年前にこの事で対話している。事実、この方によると、クィンシュアーは決して強制収容所には行った事が無いとの事である。実際には戦争末期の1945年5月8日のシレジア地方で亡くなり、そこに遺骸は埋められたのである。だがバードンの名誉のために言うと、信頼できる目撃者の話では、バードンが「フラバト」の原稿を見た時に、極めて衝撃を受け、決してこれを出版してはならないと厳しく命じた――残念ながら、守られる事は無かったが。


 クィンシュアーとは対照的に、バードンは死後にではあるが非常に有名な著者として成功した。著書のほとんどは、1958年の冷戦時代のピークにチェコスロヴァキアの秘密警察の地下牢での早死の後に出版されたからである。その極めて洗練された魔術体系にもかかわらず、バードンは本質的には「民衆の魔術師」であり、その真の城塞は労働階級とともにあり、より知的な精神の魔術師らは、1970年代からバードンを避けるよう主張していた。この理由の1つは、アングロサクソンの魔術書の著者らと、ドイツでは以前には無かった、それらのより実践的アプローチの影響からだろう。今日の現代魔術の継続する進歩において、バードンはその全ての影響力を失ったように思えると言うのは不当ではない。バードン自身の特徴には独創性が欠けており、あたかも第2のアグリッパで、生まれるのが遅すぎたのである。だが、戦後のドイツ魔術の歴史は、フランツ バードンについて述べなければ不完全であろう事には疑いが無い。




ドイツからの手紙 第2部




 この第2の手紙では、ドイツ語圏の魔術のより現代の様相について扱っていくつもりである。戦前の魔術集団は活発であった。イレギュラーなフリーメイソンリーから神智学、ヨーガ、占星術(エリック ハウのような研究家らを信じるならば、その知的な質は海外を超える事は無かったようである)、さらにマズダズナン、これは疑似ヨーガ宗教カルトで、19世紀のアメリカのオットマン ハリッシュ(Ottoman Hanish)によって設立され、栄養法と、体操やプラーナーヤーマ(ヨーガ呼吸法)の強調がされ、イランのゾロアスター教からもたらされたと主張し、現在でも西洋世界の片隅で生き残っているという噂がある。また他にも、O.T.O.のセレマ教の諸ロッジや、他のクロウリー系結社、サトゥルヌス友愛団、(ラ=オーミル クィンシュアーの下での)精神の建築師団(THe Order of Mental Buidling Masters)、これは後にサトゥルヌス友愛団と合併している。また、ルーン伝承やアーリア人種神秘主義の「血と大地」の様々な小集団(しばしば極めて小さな組織で、文化的インパクトもそれらに応じていた)、それらの中で最も有名なのは、グイド フォン リストの結社(アルマネン団も含む)と、イェルク ランツ フォン リーベンフェルスのアリオゾフィのOrdo Novi Templi(新テンプル騎士団、ONT)があった。これらに加えて、強い東洋の傾向のある、曖昧に定義される「霊的」や「秘教的」な目的を持った有象無象の連中がいた。これらは、この時代を表していた組織のごく一部である。


 ヒトラーと国家社会主義者の支配の始まりとともに、全ての「秘密結社」は、それが正当に作業を秘密にしている組織から、たんに「秘密」を主張している組織まで全て禁止された。それらは全政党の禁止(例外は勿論ナチスである)とともに行われ、結果として全ての知名度を奪われた。このプロセスは1935年までにほぼ完成したが、例外は占星術協会で、1937年には一時的に労働組合の一部にすら組み込まれた。もっともこの組織も、1941年にルドルフ ヘス(ナチス副総統)が、イングランドへと秘密飛行をして逮捕される事件があり、それが個人的な占星術師の助言によったという噂があると、消滅され弾圧された。この手紙の後半では私はナチス オカルティズムの問題をより全般的に扱うつもりである。ここで充分に言える事は、ドイツとオーストリアの魔術界は1935年から事実上消滅しており、戦後にも廃墟となった国家で人々がより切実に必要な生活物質を満たせるようになるまで、回復できなかったのである。


 グレゴール A. グレゴリウス(Gregor A.Gregorius. 1888年 - 1961年)、その慣用名をオイゲン グロッシェ(Eugen Grosche)というドイツの書店主が、1928年に第1の手紙でも述べたサトゥルヌス友愛団を設立した。彼はある種の共産主義者であり、ナチス政権下で1年間の禁固刑にされたのが、それを示している。彼はスイスへ亡命すらしており、後にはイタリアへ行くが、そこでファシスト党によって逮捕され、ドイツへと送還される。興味深いことに、ゲシュタポの彼への逮捕状には、「国際的に有名なフリーメイソン、アレイスター クロウリーと付き合っていた事」も逮捕の主な理由の一つに含まれていた。


 戦後すぐに彼は、ソ連軍占領地域(後の東ドイツ。ドイツ民主共和国は1948年になって、西側のドイツ連邦共和国とともに建国する)でのドイツ共産党の「文化委員」となったが、後には「ブルジョア的傾向」、スターリン時代の典型的な告発の理由から追放される。


 彼は次に西ベルリンへと移動し、そこで本屋を開いて、国際的な取引で有名となった。そしてサトゥルヌス友愛団の戦前の会員らと連絡を取り合って、1948年には正式な組織として団を再建する。1950年には、月刊誌Blätter für angewandte okkulte Lebenskunst(生活へのオカルト術の応用のための雑誌)を発刊する。この興味深い題名の下にあるのは、西洋の魔術の歴史でも、最も包括的で広範囲で百科事典的な雑誌であった。本屋で大っぴらに売られていたが、これはサトゥルヌス友愛団の公的な機関誌でもあって、(会員のみに配られる)インレットもあり、そこには昇格、会員リスト、シラバスといった内部での内容をカバーしていた。


 この月刊誌は後には隔月刊になり、1963年まで続き、トータルでは164号に3,500ページの文章とイラストとなった。グレゴリウスは編集業を死ぬまで続けており、出版が終わってから僅か2年後には団は内部闘争とともに分裂した。これらは英訳(やドイツ語以外のどの言語にも)される事は無かったが、Stephen Flowersは、彼の優れた著「Fire and Ice」で多く引用している。




 この雑誌がいつか英訳されて出版されたら、英語圏は些か驚く事だろう。実を言うと、この雑誌にある記事の基調は魔術の伝統的なアプローチの方に偏っており、エッセイの多くは、雑誌が一般的にそうであるように、些か平凡だと見做されるだろう。だが再び述べるが、西洋魔術はこれまで(あるいは、これからも)このような知識の宝物庫を出版した事が無く、アレイスター クロウリーの有名な「春秋分点誌」ですら、その範囲、実践性、多様性で劣るのである。読者が魔術の伝統的なモードに興味のあるなら、この雑誌の中には多くの知恵の珠玉が見つけられるだろう。そして私は英国か米国のいずれかの出版社が、いずれかの未来で翻訳と出版のリスクを取る勇気を持つのを願ってやまないのである。


 だが、この雑誌が団の唯一の出版では無かった。戦前には、グレゴリウスは「Saturn Gnosis」という雑誌を編集しており、これもまたサトゥルヌス友愛団の戦後での再建時に再開され、今日に至っても不定期に出版され続けているのである。他の雑誌には、「Vita Gnosis」と、「Der magische Weg」(魔術の小路)が含まれている。だが、これらの定期刊行物は厳格に会員のみに配布されており、部外者が得るのは非常に難しい(また、高価である!)。


 今日では、団の会員数は1950年代と比べたら、やや減少している。だがそれは、こう推測する者がいるかもしれないが、興味の欠如からでは決してなく、正反対なのである。団の全盛期の会員数の増加は驚くべきものがあった(毎年約50%!)が、現在では厳密な秘儀参入のポリシーからほぼゼロに減らされている。O.T.O.とは裏腹に、サトゥルヌス友愛団はその規約によって、望む者(あるいは、そう称する者)を全て受け入れてはおらず、結果として、非常に少数の志願者のみが、団の第8位階へと入れるのである。そして、サトゥルヌス友愛団は今日でもドイツ語圏の伝統魔術の模範として継続していると述べても問題無いだろう。




 だが魔術は多くの面を持つ。特に今日の魔術師の若い世代には、ドグマ的、伝統主義的なアプローチは興味を失っており、あるいは少なくとも、より現代的な技法と信念も組み込みたいと望んでいるのである。これらを行っていたのは、私が「ボン*1 グループ」と名付けた1979年から1981年にかけての、魔術の理論と実践の進歩のための正式な枠組みと、個々の活動による魔術師らの作業である。


 私が1979年に2人のパートナーとともにホルス書店をボンの町で開いた時、この秘教主義のカレントの波はまだ始まってはおらず、オカルトの術への興味が高まりつつあったのは確かだが、ビジネスの低迷は私に他の活動をするだけの充分な時間を与えた。そのため、実践魔術に興味のあった14人ほどの(男女の)グループが書店の奥の部屋で、2週間ごとくらいのペースで集まり、「実験的魔術の作業グループ」と仮に名付けたものを結成した。当時の我々のほとんどはなおも大学生で、(私は別で、書籍ビジネスでの私のキャリアはまだ成功しているとは言えなかった)かなりの者らが後には様々な分野で博士や修士論文を終わらせていた。物理学から比較文学、ドイツ語や英語の文献を通じたインド学から、比較宗教学、薬学、心理学、社会学とだ。我々のプロフェッショナルな者らの中の小さなグループは皆が医学の分野で働いていた。そのため、知的標準はアカデミズムの観点から見ても極めて高く、幅広い読書知識が頼れた。


 少数のメンバーは、実践魔術の10年来のエキスパートだったが、私のような一部の者らは、1、2年前に始めたばかりで、完全な初心者はごく僅かだった。我々のグループは、フランツ バードンの体系から、黄金の夜明け団を経由し、フリーメイソンリーから、カバラからクロウリー主義、チベット密教、ヴードゥー、ウィッカ、ネオペイガン、シャーマンの技法と幅広い分野の様々な伝統での実践作業を主に行っていた。実験には、テレパシー、催眠、アストラル トラベル、カバラのパスワーキング、ルーン魔術、タロット リーディング、シジル魔術、実践魔術のための占星術の使用が含まれていた。そして儀式、儀式、儀式。屋内で儀式をし、野外で儀式をし、洞窟の中や森の地下やリビングルーム(少数のみが自らの神殿(儀式場)を持つ余裕があった。そして、それらは我々全員を入れるには小さすぎた)で儀式をした。愛のための、ヒーリングのための、死のための、敵を叩くための、楽しみのための、利益のための儀式をし、ドラッグを使って儀式をし、使わないで儀式をした。そして儀式の多くは、単に経験を積むためか、純粋な抑制の無い試みのためにした。


 我々の定期的な会合の他にも、より個人ベースの作業や、小さな集団での作業も加えられる事で実践的な研究は強められ、それらは喜んで報告され、黒魔術への新しいアプローチと古いアプローチを議論した。話題は徹底的に議論された。物理学からセレマ教、トランスの技術からシジル魔術、クロウリーやグルジェフ、儀式での幻覚剤の使用の利点と欠点、類似と照応の背後にある心理学的根拠、タロットカードから占星術のホロスコープに至る占術リーディングの背後にあるシンクロニシティ(我々の多くはユング派の強い偏向がこの頃にはあった)、性魔術、その他大量にあり、多すぎてここでリストには出来ない。最も重要なのは我々の信条、「それが働くならば使う。働かないなら、信じない」これは、伝統的な魔術結社によくある、よりドグマ的で窮屈で抑圧的なアプローチとは全く違っており、我々は誰もこのような結社には入っていなかった。


 だが、今日我々が知るドイツ魔術シーンを作ったのは、ボン グループのこのような実践や理論的な作業というよりも、それが造り出した出版の刺激である。定期会合は1982年に終わり、少数のメンバーは去っていき、魔術への興味を失うか、より隠遁生活的な作業へと集中したりしたが、10人ほどのハードコアな面々は違った形でよりカジュアルに共通の作業を続けていた。そして、私の助言によって、ユーグ ウィッチマン(Jörg Wichmann。元ウィッカ教徒)が、新しく、ほとんど伝説的な雑誌「ユニコーン」をこの年に出版し始めた。この雑誌は年4回発行で神話学と実践魔術に焦点を当てていた。


 確かにユニコーンは決して商業的成功はしなかった。だが、これは失敗したヴェンチャーでも無かった。その創刊号で私は、「ドグマ魔術」と対称して名付けた「実践魔術」の基本の信条について形式化させた。ボン グループの他のメンバーと同様に多かれ少なかれ、70年代の米国と英国の著者ら(とりわけリガルディー、クロウリー、バトラー、スキナー、キング、グラント。さらに再発見されたオースティン オスマン スパー)の影響を受け、さらに我々自身のあらゆる種類の信条や技法による様々な実践経験を基盤としていたので、実践の精神について伝えるのはそう難しくは無かった。だがこれは、ドイツ語圏の従来の魔術シーンではこれまで完全に聞いた事の無いものであった(これは恥ずべきことだ。7400万の人々、それからドイツ統一後の約9000万の人々は忘れてならない)。我々が事実上、ドイツの魔術シーンを「造った」と言っても誇張ではない。勿論、この国全体の多くの人々が、おおむね輝かしい孤立のもので働いていたのは確かだが、今初めてリアルシーンを結晶化させるために糸は海水へと垂らされたのである。出版内容の獅子の分け前*2の多くは、編集長のユーグ ウィッチマン、私、ピーター エラート、ハリー アインシュタイン、マハムドラといったボン グループのメンバーで占められていたが、ユニコーンは海外で高名な著者らからも寄稿を得ていた。それらの記事は象徴的にのみ報いられていたとしてもである。さらに、アレックス サンダースや、マイケル ハーナー、ハーレイ スィフトディーアといった多くの魔術やその周辺の指導的人物からも、包括的なインタビュー記事を取れた。それによって、彼らの教えを有名にする方法として、注目すべき影響力を持つようになった。


 この雑誌は幸運な3年の後に、1985年に13号を出してから廃刊した。読者のこの雑誌への期待と忠誠は異常に高く、それらは再び、1985年の終わりに私が作り、編集し、出版し、翌年には別の編集者兼出版者へと渡した後続雑誌「アヌビス」にも伝承した。この雑誌はより散発的な出版形態をとりつつも現在まで残っており、これまで15号が出ている。




 「アヌビス」で連載していたコラム、Golems Gossen Glosse(酔いどれゴーレムの見せかけ)は、英国のオカルト雑誌「トートのランプ」の「ゴーレムの噂話」と同様の線にあり、ドイツの魔術シーンの進歩を特徴づけるものと見做せるだろう。アヌビスの創刊号からこれはあったが、内輪揉めの問題は、そのような噂のための相応しい社会的基盤、すなわち生き生きとしたシーン、多彩にして必要な情報を与え、同様に興味深いものが無い限り、報告すべき何の点も無かったからである。ゴーレムの見せかけは、すぐに雑誌で最も人気のあるコラムとなった。もはや私はウィーンを基盤とする「アヌビス」誌の編集には関わっていないが、定期刊行がなおも続いているのを見る限り、ドイツの魔術シーンは――近頃は遥かに劣って――生き生きとした英国の魔術シーンと比較できる(英国魔術界は80年代には比較のための主要なベンチマークだったのである)ほどに充分に成熟しているのを示している。


 そのため、「ボン グループ」は、80年代の現代ドイツ魔術シーンの扇動者にして核心だったと見る事が出来よう。タナトエロス啓明結社の(IOT)の魔術協定や、混沌魔術は、次のドイツからの手紙で扱われるであろう*3。そのため、私はこの手紙を終える前に、今日のドイツ語圏でのウィッカ教とペイガニズム(異教主義)について短い要約をしたいと思う。


 ウィッカ教は、少なくとも形式化された様相(学院、伝統など)では、その発端から厳密に英国の現象であり、ドイツのウィッカ シーンは、英国諸島のものの模倣にすぎなかったのは驚く事ではない。英国との繋がりは過去も現在においても非常に強いが、ほとんどのドイツ語圏のウィッカ教徒はカードナー派に付いているのかアレクサンドリア学院派かというのは議論が分かれている。私の印象では、これらの違いは激しい議論があるが、これらは70年代から80年代初頭のイングランドのもので、大陸には薄められた内容であり、ここで記すべき価値のある「世代の」シーンはほとんど無い。ドイツのペイガンが「世代」があると装うなら(その主張に価値があろうとも、なかろうとも)、これらはアリオソフィーやルーン伝承によるもので、クラフト(魔女の術)に含まれるようなものでは無いだろう。


 ドイツのウィッカは過去は厳密に閉ざされたグループで、派閥抗争や内紛が絶えなかった。やがてはハンブルグを拠点とする女ジャーナリストのギセラ グライフェンがベストセラーのハードカバー本「Die neuen Hexen. Gespräche mit Hexen」(新しい魔女たち。魔女らとの対話)を1986年に出版した。この本の中で彼女は(誤って導かれたにせよ)ドイツ本国だけで2万人の活動している魔女がいると主張している。200人ほどが、より現実的な数字であろう。


 彼女が見抜けなかったのは、そのインタビューした僅かな人々が、実際にはドイツのウィッカ教の活動して明白に自認している者らの半数を構成していた事である。だが、出版されたものは、真実として扱われるのが常である。他のドイツの出版社も彼女の主張を額面通りに受け取り、この一見して広大で拡張するマーケットに引き寄せられていった(パラドックス的である。特に出版のプロなら、素人には奇妙に聞こえるようなものは、もっと良く知っておくべきだった)。そのため、本屋には突然にこの話題の本が数年は溢れて、魔女術は完全にオカルトには素人や、その辺境で軽く遊んだだけの者らがメインストリームに出てくるブームとなった。


 私自身はウィッカ教徒ではないが、私もまた、このカルトの匿名のペーパーバック本を出す助けをし、この本は1987年にドイツのペーパーバックで大衆市場向けの出版社から出して、ちょっとしたベストセラーとなった。この中では偏狭な単純なウィッカ シーンへちょっと趣向を加えて、強い女神偏向を減らし、よりバランスの取れたアプローチにし、そこには男性要素を「同権」を基盤として加えて、カヴンにコンタクトするために読む雑誌のヒントも加えた。題名は、Das Hexenbuch. Authentische Texte moderner Hexen zu Geschichte, Magie und Mythos des alten Weges(魔女の書。現代の魔女による、その古代の道の歴史、魔術、神話への権威ある文書)であり、現在では絶版である。


 またこの頃はポスト フェミニズムの時代で、魔女、伝統的薬草医療、「賢い女たち」を中心とした特別展が、ドイツ語圏の3国全てで、雨後の筍のように突然現われていった。特に休日のリゾート地では、様々な旅行会社がスポンサーとなった。そしてドイツのウィッカの雑誌「Mescalito」はこのブームに引き寄せられた膨大な新読者を得た。今日では、月のように再びクラフトへの興味は衰えている。だが、どれだけ多くの人々が、彼らの銃を引いて、自らを活動的なウィッカ教徒だと見なすかは、誰の予想も付かない。


 他の国々と同様に、現在のドイツのほとんどのペイガン信者は主にエコロジーと民族問題の解決に関係し、緑の政治のために働く傾向があり、多くの者は確実にガイア仮説やルパート シェルドレイク博士のかつて人気があった、いささか過大評価されている「仮説」の形態形成場にぞっこんである(一方で、博士自身はこの仮説を捨てているようだが)。だが、これらのかなり単純な教義は、このシーンのなかでは既に知的の頂点を表しているようだが、ウィッカ カルトとネオペイガン運動全般は、主要な点は明白に宗教的な性質であり、彼ら自身のオリジナルの魔術理論や実践を開発する傾向は無く、そのため適切な魔術の歴史ではかなり低く見られるであろう。これらへの現代魔術への影響は無視して構わない程度であり、人気のあるアメリカのワークショップの代弁者ら、最も高名なのは、ペルーのドン アドゥアルド カルデロン パロミノや、合衆国からのマイケル ハーナーが与えるような新シャーマニズムの影響とは比較にならないであろう。


混沌魔術
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*1 ボンの町は、ライン川にあるかつての西ドイツの首都。
*2 イソップ寓話の一つで、不当な分け前といった意味。
*3 残念ながら、ドイツからの手紙 No.3はネットのどこにも見つからず。