シジル サーヴァタール ゴッドフォーム Part 1

ページ名:シジル サーヴァタール ゴッドフォーム Part 1

シジル、サーヴァタール、ゴッドフォーム Part 1


マリク(マーク デフラテス)著



 シジル、サーヴァタール、ゴッドフォームは混沌魔術師が魔術の意図を現実化させるのに用いる3つの魔術技法である。シジルは特別な、良く定義され、しばしば制限された目的のために作られ活性化される魔術の呪文である。サーヴァタールは魔術師によって作られ、特定の機能を授けられる存在である。ゴッドフォームは複雑な信念構造で、しばしば何人かの人々によって作られ、広範囲の魔術の意図を行わせるために、魔術師は彼らとかかわっていく。これらの3つの技法は、その定義が示唆するほどには、はっきりと区別されるものではなく、境界線は曖昧である。このエッセイの目的は、これらの魔術の道具を説明し、様々な魔術の意図にどれが適しているのかを示し、さらにこれらの道具が、どのように混沌魔術とゾクチェン(チベット密教の行法)の、一般的な理論と関連しているのかを示す事にある。


第一部 シジル




1. 宇宙は人のものでも神のものでも無い


 混沌魔術師が用いる技法の前提となるスタンス、あるいは態度はオカルトの歴史では比較的新しいものである。このスタンスは、なかなか良い言葉が見つからないが、ポストモダニズムとして現わされよう。これらは伝統的でも近代的でも無いからである。この伝統的、近代的、ポスモダン的の3つの魔術へのアプローチは、宇宙の性質の3つの概念として説明出来よう。伝統的アプローチは、ユダヤ・キリスト教の形而上学、世界観を基にしている。ここでは宇宙はキリスト教の神として擬人化され、稀に他の擬人化の形を取る。伝統魔術師は、宇宙は人間の意識によって理解できると信じる。なぜなら、人間は神の像として造られたからである。近代の観点は、本質的にはこれと人文主義への極端な反動である。ここでは宇宙はニュートン力学により機械として知覚され、究極的には人間の意識によって理解可能とされる。もっとも、人間がそれを可能とするには、今よりも強力な形に進化しなくてはならないが。ケイオイストのポストモダニズムの観点では、宇宙は人間の精神では決して理解できないとする。現代物理学、特に量子力学とカオス理論の影響から、混沌魔術師は宇宙を人間に対してはわずかな行いしかしない事象の連なりと考える傾向がある。言い方を変えると、伝統魔術は神中心と言え、近代魔術は人間中心であり、一方でポストモダン魔術は中心の概念を大いに避ける。儀式魔術への伝統的と近代的なアプローチへの寸評は、フリースタイル ケイオイストのポストモダンのスタンスを理解する助けとなるだろう。


 儀式魔術師は、通常の手段では効果的には行えないと考える事柄を自分自身や宇宙にもたらすために、儀式魔術を用いる。全ての魔術師は魔術は変化をもたらせる事には同意するが、その変化が必然であり、魔術師により完全に予測可能である、あるいは完全に知り得るというのは、少数のみが主張するだろう。全ての魔術師は多かれ少なかれ、進行中のダイナミズムと関わっており、そこでは個人的な欲望、個人的な制御、個人的な信念は、普遍的な同意の信念体系、宇宙的な力としての意志の概念、宿命という考え、カルマに対して、突き刺さっている。この対決の本質は、宇宙の性質への疑問である。この疑問は、宇宙は人間のために、神力によりデザインされ、創られ、保持されているのか、それとも近代科学が示しているように思われるように、ただそこにあるのか?


 ごく最近まで、魔術師らは色で自らを区別し、魔術師の色(白、灰色、黒)は、このダイナミズム、魔術の個人的な望みと、倫理や法として立つ宇宙との対決を正確に表していた。白魔術師や、ある程度の灰色魔術師らは、奉仕と自己認識の至高の動機、これらは無論、聖守護天使として知られる至高の諸力の意志のみに彼らの魔術を用いる事で、自らをこの議論から取り除こうとした。自己中心や世俗の目的のために魔術を用いる者は地獄に墜ちるべし、と彼らは言った。灰色魔術師らは、世俗の目的のために魔術の諸力を用いるのは、時には正当化されると主張したが、それは稀な事だとした。自己中心的な理由は、いずれにせよ常に問題となるからである。ドナルド マイケル クレイグは「Modern Magick」の中で、伝統主義魔術師の迷信的な言葉とともに、白魔術を自らの聖守護天使との知遇と対話を目的とするための魔術と定義した。そして灰色魔術は自らや他者の物理的や精神的な幸福のために使われる魔術とし、黒魔術を自己や他者に物理的や非物理的な損害を与えるために使われる魔術とした。クレイグはアレイスター クロウリーや現代ウィッカ教、あるいはガードナー派魔女術の影響を受けていた。ウィッカ教徒は自らの白魔術が無意識の願望の囁きを通じて、灰色を通って黒になるのではと常に心配していたので、クロウリーの格言「汝の意志するところをなせ、それが法の全てである」を修正し、「誰も傷つけないならば」を付け加えた。クレイグは自らの読者が黒魔術師らの奸計に陥るのを心配し、新入り魔術師らに、白魔術のみを実践するのを勧めた。幸運にも、クライグの本の3分の2では、彼は楽しそうに護符タリズマン、グリモア、手強い悪魔らを動かす正しい方法を議論していた。闇の魔術の誘惑に対して、自らが無垢であると主張しつつも、少数の魔術師のみが実際には抵抗できた。これはウィッカ教の影響を受けた魔術師すらも、ウィッカ教徒のように宗教の信者では無かったからである。そのため、魔術師は個人的な意志と(クロウリーが名付けた)真の意志との間のダイナミズムに興味を持つ中、ウィッカ教徒はこの問題を既に解決していたのだった。たまに葛藤が起きつつも、ウィッカ教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラーム教徒のように、自らの神々の意志と解釈したものへ自らの意志を服従させるのに同意するのを理解していたからだ。一方で魔術師らは、そこまで確信は無かった。これが、宗教者らによる魔術を実践している者らへの弾圧の何よりも主な理由であった。


 黒魔術師のレッテルは、魔術師が他の魔術師を中傷する時に、今でも使いがちな言葉である。アレイスター クロウリーは、疑い無く20世紀で魔術の進歩に最大の影響のあった人物で、このエッセイの目的から、私は彼を伝統的魔術師と定義するが、この言葉をそのように用いていた。例えば、「魔術 理論と実践」の中で、クロウリーは自己放棄以外の全ての意志を黒魔術に属すると述べた。つまり、自分の使っているような方法以外の魔術は全て黒魔術なのである。他にもクロウリーは本書のあちこちで、黒いロッジ、黒い兄弟団、生命の樹の最初の3つのセフィロトと残りの間にある「深淵」に留まる事にした魔術師らの存在を呟いていた。この黒色の魔術師について、クロウリーは宇宙から隔離するように、秘密裏にエレメンツをエゴの周囲に取り巻いて、魔術の真の目的、クロウリーがいう聖守護天使との知遇と対話の達成から背を向けた者と述べていた。この達成は完全な人間の垂直の上昇であり、この線から逸れると、黒魔術となりがちだとされた。他の全ての作業は黒魔術である。神秘主義の研究家は、この目的が自己と神との結合の神秘的達成と同じ事に気づくだろう。勿論クロウリーも、堅固な確信とともにユダヤ・キリスト教のパラダイムでそれらを書いている。そこでは宇宙はアダム カドモン、大いなる人として視覚化され、そのため完全に擬人化されるのである。


 1969年、アントン ラヴェイは、「サタンの聖書」の中で、現代黒魔術師の定義をしている。彼は世界の誰も、オカルト学習、形而上学、ヨーガ、その他の白い光の教えを、エゴを満たしたり、個人的な力を目的とせずにする者はいないと力説している。さらにラヴェイは白魔術師自身の独りよがりの偽善、罪の意識、自己欺瞞を除いて、白魔術と黒魔術の間には違いはないと主張する。そのため黒魔術師という言葉を、利己心と自己認識との間の違いを認めない魔術のスタイルを持つ者に当てはめようとした。ラヴェイは彼の組織のサタン教会と、後には分派したマイケル アキノはセトの神殿で、個々の魔術師の意志は最も重要であると主張していた。両者とも、宇宙意志の存在すら拒絶していた。ラヴェイは、サタン主義者は人と宇宙の行動と反応が全てにおいて責任があると悟っており、誰かがそれを気にすると自らを考えるように誤ったりはしないと主張した。さらにマイケル アキノは黒魔術師は宇宙との合一を望む事や、その幻想を作るために自己欺瞞をするのを拒絶すると主張していた。


 不幸にも、現代黒魔術師の、人が宇宙の中心では無かったり、単に独立した事象の巨大な集まりである可能性と向き合う事の拒絶は、過ちへと導いていた。見たところ、しぶしぶと宇宙の完全な物質的、機械的な世界観を受け入れつつも、ラヴェイとアキノは機械の中の幽霊と抱擁し、個々のエゴは死後も継続できると主張していた。ラヴェイは人が地上での生涯を終える時になって、エゴの家である肉体が死んだ後も、彼のエゴが死を拒否するだろうと主張していた。勿論、それらが起きたり、起きる証拠はどこにも無い。だが全ての色の魔術師らは、世界のほとんどの宗教とともに、超越した自己、個々の神の火花、生と死と腐敗の通常のプロセスを免除されたもの、ある種の永遠のホムンクルスの存在を盲目的に主張し続けた。見たところ、宇宙は実際には人間が中心ではないという可能性は、サタン主義者と現代黒魔術師らには耐えられないようである。そして魂の古き陳腐な概念は、ユダヤ・キリスト教の泥沼から取り出され、洗い直され、現代の不死のサタン主義者の万能のエゴとして与えられているのである。


 ポストモダン魔術の最先端に乗っかりつつ、混沌魔術の現代の最初の普及者であるピーター キャロルは、「無の書と精神遊泳者」で、宇宙の力は人間とはそれほど関係していない力であるという考えを受け入れていた。彼は、宇宙を作り動かした力、意識の中心に横たわる力は、気まぐれで任意的なものであり、自らを楽しませる以外に何の理由も無く創造と破壊をすると述べている。混沌とキア(後述)には、精神的や倫理的なものは何も無い。我々は真実は何も無い宇宙に住んでいる。キャロルはエゴの真の性質に気づいており、エゴの開発はリアリティーに対抗する城を築くようなものだと述べていた。さらに彼は、真の聖守護天使とは、単に意識、魔術、精神自身の力であり、それ以外の何物でもないと認めていた。これは虚無の中に発現したりできない。常に何らかの形を取って現れるが、その表現はそれ自身では無い。この文の中でキャロルは、宇宙の量子力学的観点と同意し、二元論を基にした事象の区別を拒否し、エネルギーの性質のような波を主張していた。これはまた、洗練された仏教の観点でもある。仏教形而上学の発展上で重要な経典である「般若経」では、色(形)は空であり空は色であると主張する。


 だがキャロルも、サタン主義者と同様に、魂や霊の心地よいパラダイムから離れるのを渋っていた。量子の潮流の宇宙のリップサービスとは裏腹に、彼は達人の魔術師は魔術によって自らの霊を強める事で、新しい体へと霊全体を運べると述べていた。ちなみに、これはキャロルの魔術のアプローチの大きな欠陥であって、階層的魔術の効能への彼の信念を強化させるもので、混沌魔術の本質的原理と矛盾し、宇宙で事象の予測できない流れを複製するのだった。エゴとは結局のところ、方向つけられた構造体であり、変化の不可避性と同じくらいにこのような考えには容赦しないのである。キャロルの主張の中にある問題は、物理的プロセスのみでは、宇宙の存在について完全に説明できない事である。この主張は結局は、ニュートン力学的世界観とアリストテレス的西洋哲学の二元論に落ち着くのである。おそらく、これは死の恐怖から来るのだろう。


 だがこの西洋オカルティズムの区別的、黒と白、二元論的アプローチと同時に、常に別の系統、シャーマン的、饗宴的アプローチもあった。ここでは、これらの定義は意図的に曖昧にされ、宇宙を動的で、非人間的なプロセスとして向き合おうとしていた。だがこのアプローチは通常は芸術の領域であり、オカルティストというより芸術家のものだった。マシュー アーノルドの「ドーバー海岸」以来の近代英国詩は、詩的イマジネーションと硬直した非人間的宇宙とを和解させようと務めてきた。アーノルドは1867年の詩でこのように宇宙を認識していた。


「真に喜びも愛も光も無く、
 確実さも平和も痛みへの助けも無く、
 我らはこの闇の平野にいる。
 闘争と敗走の混乱する警報に押し流され、
 無知の軍勢が夜にぶつかり合うこの地にて。」


 1922年にT.S.エリオットが「荒野」を書いた時、彼は宇宙を壊れた鏡の固まり、人間の顔を反射する宇宙の砕かれた様相への適切なメタファーと見た。その前年のW.B.イェイツの「再生」も同様だった。


「物事は崩壊し、その中心は保てない。
 ただの無秩序が、世界で緩められる。
 血の霞んだ流れが緩められ、いずこにも
 無垢の儀礼は溺れている。」


 だが宇宙を流れるエネルギーは絶対的で、浸透し、特に人間的でも人間を気にもしない事への認識は、1934年のディラン トマスの詩で完全に表現されている。


「緑の導火線を通じて花を動かす力は、
 我が緑の年月も動かす。木々の根を吹くのは我が破壊者。
 そして私は曲がった薔薇を語るほど愚か。
 我が若さは、同じ冬の熱により曲げられる。」


 この意識の目覚めは、全ての芸術に染み込んでいった。近代芸術運動から、ダダイズムとキュビズムから、抽象表現主義を通じて現代音楽へ、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」の不協和音からジョン ケージ、ミニマリズム、さらにインダストリアルへと。この150年の芸術家らは、混沌の宇宙の貌と、人は宇宙の中心から遥かに遠い現実を表現しようと苦闘を続けていた。実際問題、オカルトは宇宙のこの知覚を追求する人類の知的努力の最も少ない領域の一つなのである。混沌魔術の発展があるまで、魔術は近代芸術と近代科学のこの洞察に向き合ったとは真に言えなかったのである。


 混沌魔術はアレイスター クロウリーの同時代人のオースティン オスマン スパーにより紡がれた魔術の体系から導かれたものである。スパーのヴィジョン自身は、ウィリアム ブレイクの影響を受けているが、「快楽の書」の中で簡潔に表現されている。スパーの魔術と宇宙へのアプローチは、新物理学の諸発見、量子力学、カオス数学によって確証されている。スパーの魔術の形而上学的基盤は、チベット仏教のゾクチェンの形態と似たものであり、事実、仏教、アート、科学、混沌魔術の間の引用と逆引用は夥しく継続的なものである。スパーは快楽の書を1909年から1913年の間に書いたが、スパーの書はキャロルが引用するまでは無視され続けた。これには幾つかの理由がある。スパーの書は小数のみが出版され、彼は名声を求めたりはしなかった。彼の文章スタイルは含みが多くて曖昧だった。彼の豊富な絵の欠けたこの書は、理解するのが難しかった。そして絵は呪文であり、より正確に言うならば、シジルであり、それらは精神の深層レベルへと影響し、読者を彼の本の内容から逸らしがちだったのである。彼の文章スタイルは宣言的、傲慢で、さらに特別なボキャブラリーを用いるもので、それらの定義を知るために文章を読みこむ必要があった。だが、おそらく最も重要な事は、スパーの世界観は非人間的で、結果として魔術の神中心や人間中心の概念が欠けていた。現代の形而上学思想が、非人間宇宙を認めるまでは、スパーは受け入れられなかったのである。今日においてすら、スパーはケネス グラントと並んで、現代魔術書の著者らの間で最も読まれずに理解されていないのである。


 スパーはキアの概念から始め、これについて老子道徳経の残響だと述べている。キアについて表現されたものは全ての信念を燃やす永遠なるキアそのものではない。そのため彼は後の混沌魔術師らが混沌と呼ぶだろう名によって示そうとはせず、この形無きものの即座の発現に集中する。彼はこれを自己の概念として記していた。これはゾクチェンと正確に同じ観点である。ゾクチェンとは、仏教の妖術的な形態で、8世紀にパドマサンバヴァによって開かれたものである。この派では、自己の概念が生まれたら即座に発現した宇宙が創造されると説いていた。スパーはキアは天と地の創造の前からあり、その様相は超越的ではあるが知的なものではないと述べていた。これは原初の性的原理、自己愛での快楽の概念と見做されよう。ゾクチェンでは、最初の衝動により、空と色とが、ニルヴァーナとサムサーラが分離され、二元論の思考が始まっている。この分離から無数の宇宙が溢れてくるのである。


 ゾクチェンの中心的な諸象徴の一つは、ドルジェ(金剛杵)、魔術の杖の形をしたもので、2つの様式化された男根を中心の小さな球で結び付けた形をしている。ドルジェはゾクチェンではテルマ(埋蔵経)、隠された教えである。この教えはパドマサンバヴァによって隠された宝だとされている。ドルジェの全体は、宇宙の無限の潜在性を表しており、現代の用語にしたら、識別的思考の前にあり超えており、分離不能で、不変の混沌の像、あるいは宇宙の量子の流れである。ドルジェの両端はそれぞれが色と空、サムサーラとスーンヤターを表している。この二つの両側性の対称的な物を結び付けている中央の小さな豆は空になっており、色と空が接する場所の知り得ない潜在性、あるいは混沌の潮流への帰還を表している。よってドルジェは統一から、二元を通じて、完全にして豊富な複雑性へと宇宙が自らを発現させた道の、三次元の象徴である。スパーが言うように、統一は二元性を懐妊し、三位一体を生み、四文字テトラグラマトンを生むのである。このフラクタル宇宙が本質的にはシンプルな形の連なりの複雑な繰り返しと増殖であるという現代の理解を予兆される文章の中で、スパーはこう述べている。


 二元性の原理は全ての経験の精髄であり、どの経験の支流も、その初期の単純性を拡大させず、その繰り返し、修正、複雑性をなすのみであり、決してその進化は完成しない。それは自己の経験以上には先には進まない。そのため、帰還と統一を何度も繰り返し、常に竜頭蛇尾である。無限の複雑性によって、その起源の単純性へと常に戻ろうとするのが、その進化だからである。それがなぜ働くのか誰も理解できない。全ての経験から知る幻なのである。


 宇宙、すなわちキアを通じてのエネルギー、あるいは意識の再帰的な動きを認識するのは、スパーが開発した魔術を理解するのには不可欠である。なぜなら、それは混沌魔術の呪文、シジル、魔術技法の構造を示すからだ。このエネルギーの流れは二元的思考によって理解可能であるという考えを絶対的に論駁する中で、全ての事象に浸透する宇宙の魔術のエネルギーは非人間的であるとスパーは明解に述べている。さらにスパーは、魔術師にこの力を用いるためには、自らの人間の信念体系、その二元的思考を放棄し、可能な限り原初の状態を模倣するように要求している。どのようにそうするかは、このエッセイの次の主題である。


シジル サーヴァタール ゴッドフォーム Part 1 後編
↑ 混沌魔術